128 桜花の「4・2」に恩師を思う(上)
学会は師弟不二の団結の城
邪悪と戦え
追撃の手を緩めるな!
私が青春時代から愛読してきたフランスの作家サン=テグジュペりは断言した。
「生とは一種の真剣勝負であり、その刃を感じることが重要なのだ」
これが、正しき人生の道だ。
その真髄を凝結した哲理が、「仏法と申すは勝負をさきとし」(御書一一六五頁)の御聖訓なのである。
アメリカの哲人エマソンも「その生涯が、絶え間なき勝利である人を尊べ」と叫んだ。
人生は、一生涯、勝って、勝って、勝ちまくることだ。
この人間としての究極の力を、青年に教え示してくださったのが、わが師・戸田城聖先生であられる。
◇
我も立つ
君よ立ちゆけ
広布かな
諸天は護らむ
功徳は不滅と
改めて、このたびの能登半島地震の甚大な被害に際し、心からのお見舞いを申し上げたい。
石川県は、戸田先生の生誕の天地である。
ゆえに、不二の弟子である私にとっても、かけがえのない故郷である。
大聖人は、厳然と仰せになられた。
「災来るとも変じて幸と為らん」(同九七九頁)
日本列島の地勢を見つめれば、それは、能登半島を鷲の頭として翼を大きく広げた姿であると、ある智者は謳った。一日も早く余震が収まり、空飛ぶ者の王たる大鷲の如く力強く復興されゆくことを、私たちは真剣に祈り続けていきたい。
◇
生き抜いた
咲き抜いた
桜の王者は
勝利の大王だ
思えば、昭和三十三年の四月二日、戸田先生が逝去なされたその日──。
都内の桜は、五分咲きとなっていた。
先生は桜がお好きで、前年の秋、ご自身の死期を「桜の咲く頃」と呟いておられた。
桜の花は、七十五万世帯の大法私通の大願を成就され、万代の広宣流布の礎を築かれた恩師の凱歌の笑みとも、私には見えた。
なぜ、師が「桜の咲く頃」と望まれたのか。
それは後世の弟子たちへの慈しみの心境であられたと、私には思えてならなかった。
すなわち、決して感傷に囚われず、桜花の季節に師を偲び、希望に満ちた一歩を踏み.出してゆけ! との熱き慈愛の境涯の響きを、私は受け止めた。
私は、この師の心を深く知るゆえに、折にふれ、創価の城に桜を植樹し、荘厳してきた。
使命の花よ咲け
御聖訓には、「仏というものは私たちの心の中におられます。たとえば、桜の花は趣のあるものですが、木の中から咲き出でるようなものです」(同一四九一頁、趣意)と仰せである。
ここには、ありがたき深い深い生命哲学が、爛漫の桜に香風が吹きわたるように、説き明かされている。
桜の生命と同じように、我々も力の限り、生きて生きて生き抜いて、己の使命の花を咲き薫らせていくことだ。これが本然の法則だ。
日本中、いな世界中の尊き同志たちが、師弟不二の心を心として、偉大なる広宣流布へと、晴れ晴れと大行進しゆくなか、我らにとって光線が輝きわたるような四月二日を迎えようとしている。
我らに春が来た!
勝利の春が来た!
創価の同志の春が来た!
今年の四月二日は、戸田先生の五十回忌である。
◇
今、私が対談を進めている、アメリカ実践哲学協会のマリノフ会長は明快に語られた。
「人生に何かを成し遂げた師匠と一緒にいるだけで、自分を高めていけるのです。
人間の触れ合いの力の素晴らしさが、そこにあります」
師弟こそ、人間を向上せしめゆく最極の魂の結合であるというのだ。
それは、昭和三十三年の三月十六日、富士の裾野で、盛大な儀式を終えた夜であった。
戸田先生から私は、「学会本部の方が大事だ。大作は、私より一足早く東京に帰って、本部に行ってくれ給え」との、ご指示を受けて帰京した。
山積していた仕事を整理して、電光石火で再び本山へ舞い戻ると、衰弱を増しておられた先生は、お顔に深い安堵の微笑みを浮かべられた。
それからの一日また一日、布団に横たわられた先生は、幾たびとなく、私を呼ばれた。
夜は、いつも必ず、私は、戸田先生の下座の方に布団を敷き、そこで寝るように命ぜられた。
「今日は、何の本を読んだか」と尋ねられたこともある。
先生は「私は『十八史略』(※巻末参照)を読んだよ」と言われながら、漢の劉邦が天下を取った時、「第一の功臣」と賞讃した、蕭何(しょうか)の話をしてくださった。
この蕭何は、食糧や武器の確保などに努め、最前線が力の限り戦えるように、手を打ち続けた人物である。
そうした陰の功労者を、学会は最大に大事に護り、感謝し、真心から讃えていくのだ。そうすれば、永遠に栄えていける。
この重大な将軍学を、先生は繰り返し教えてくださったのである。
君の舞台は世界だ
「大作、昨日はメキシコへ行った夢を見たよ」と言われた朝もあった。
「此の一念の心・法界に偏満する」(同三八三頁)とは、一生成仏抄の一節である。
先生の心は、壮大な地球を駆けめぐり、日本から一番、離れたラテンアメリカにまで思いを馳せておられたのだ。
「待っていた、みんな待っていたよ......。大作の本当の舞台は、世界だよ」
先生は布団から手を出して、私の手を握られながら、「一閻浮提広宣流布」への遠大な平和旅を託されたのである。
今回の五十回忌に当たり、私はラテンアメリカを代表する二つの名門大学から名誉博士の称号を拝受した。
私は師弟の語らいを思い起こしながら、この栄誉を謹んで戸田先生に捧げた。
ベネズエラ共和国の教育の大指導者は、創価大学の講堂で厳かに語ってくださった。
「恩師であられる戸田城聖先生は、愛弟子の偉大な事業を、どれほど誇りに感じておられることでしょうか!」
◇
「悪事をなした者は必ず罰し、善事をなした者は必ず顕彰」する──これは、希代の名将・諸葛孔明の厳格な鉄則であった。
諸葛孔明のことが大好きであった戸田先生もまた、厳正なる「信賞必罰」の指導者であられた。
三月の二十二日──。
先生は、本山で最高首脳を招集なされた。青年部も同席させた。
重要な会議には、必ず青年の代表を入れる。
これが、先生の一貫した意思であられた。
布団から身を起こされた先生を囲み、緊急の連合会議となった。
師は厳しく言われた。
「学会の組織は、この戸田の命だ。
どこまでも広宣流布のための、清らかな信心の組織でなければならない。
不純な心によって、尊い学会が汚されてなるものか!」
「組織を乱しゆく者、信心利用の者は叩き出せ!」
「形式的な役職、戦わぬ幹部はいらない。皆が一兵卒となって戦え!」
烈々たる綱紀粛正の叫びであった。
「師子身中の虫の師子を食」(御書九五七頁)。この悪を戒めよとは、釈尊そして大聖人の御心であられる。
内部を腐らせるな
内部からの汚濁と撹乱──それは、宗教史の宿命的な流転であった。しかし、学会だけは、その轍を絶対に踏んではならぬ。先生は渾身の力を振り絞って、悪の芽を摘み取ってくださったのだ。
皆の緊張した姿は、今もって私の心から離れない。
その後、何人かの幹部は、師匠を裏切り、立ち去った。狡い人間、恩知らずの人間は必ず、どこにもいるものだ。
「初めは誰もよけれども、終り遂げたる者少なし」とは、戸田大学で学んだ『春秋左氏伝』(※巻末参照)の一節である。
◇
南米アルゼンチンの思想家、インヘニエロス博士は叫んだ。
「善のために人間を訓練する効果的な方法は、不正と戦うことだ」
それは、三月の二十九日であった。
師の枕元に伺った私は、青年部で、ある坊主の横暴を呵責した件について、詳細にご報告した。
先生の眼が鋭く光った。
「それは小さなことのようだが、宗門の腐敗、堕落という、実に大きな問題をはらんでいる。坊主が、広宣流布という至上の目的に生きることを忘れ去っているからだ」
そして憤激の色を浮かべ、宗門に苦しめ抜かれてきた痛恨の歴史を語り始めた。
──戦時中、宗門は大聖人の御遺誡を破り、軍部政府に屈服した。学会が矢面に立って弾圧されると、冷酷無惨に切り捨てたのである......。
この時、正法正義の命脈を厳然と護り抜いたのは、獄死された牧口常三郎先生と戸田先生の師弟だけであった。
戦後も、頑迷と保身の宗門は、悪逆の謗法を呵責された戸田先生を大講頭から罷免して、辱めようとした。
私の胸に、ふつふつと怒りが込み上げた。
なんと陰険にして、なんと邪道な輩か! どれほど如説修行の先生を嫉妬し、どれほど誠心誠意の学会の真心を踏みにじってきたことか!
先生の話は続いた。
──強欲な宗門が金を貯めたならば、必ず大恩ある学会を厭い、裏切る。ひいては、権力と結託して圧迫しようとする天魔の坊主も、僭聖増上慢として現れるぞ......。
先生は、その本性を知り尽くしておられたのだ。
最後に、師は叫ばれた。
「宗門に巣食う邪悪とは、断固、戦え! いいか、一歩も退いてはならんぞ!
迫撃の手を緩めるな!」
これが、青年部への最後の指針となり、峻厳なる創価の師弟の相伝となった。
ドイツの思想家リヒテンベルクは痛切に語った。
「無感覚はなにをされても復讐せず、その代りに最大の侮辱と最大の圧制とを身にうける」
善良な庶民が、狂った宗教の権威の奴隷とされることも、傲った政治の権力の家来とされることも、絶対に許してはならない。
これが、仏法である。
これが、正邪を決し、勝負を決しゆくために、人間が立ち上がる法則である。
この魔性との戦いの先頭に立つのが、青年である。
インドのネルー初代首相は、学生たちに訴えた。
「邪悪こそ、まさに粉砕すべきであり、邪悪と闘うべきである」
◇
君よ勝て
君よ負けるな
人生は
厳しき勝負の
闘争なりせば
先生はよく、維新回天の原動力となった、吉田松陰と高杉晋作の師弟の話をされた。
この松陰と晋作の師弟の覚悟は、「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」であった。
先生と私も同じであった。
先生のお体は、戦時中の二年間の過酷な投獄で極限まで痛めつけられていた。
その先生のお心のままに、私は純粋に、確固たる誠心を捧げ抜いて、お仕え申し上げた。
当時、私自身も、結核を患っていた。結核は、昭和十年から二十五年まで、ほぼ連続して日本人の死因の一位を占め、毎年数万人もの生命を奪ってきた。
私は医者から三十歳まで生きられないと言われ、微熱や咳に苦心み、時に血痰を吐きながら、ただ一人、苦境の先生を支え抜いた。
お前は生き抜け!
私は、自分自身の寿命も、先生に差し上げて、その分、長生きしていただきたい、そして、先生に広宣流布の雄渾の指揮を執っていただきたいと、ひたぶるに祈り抜いていたのである。
先生は、その私の心を見抜かれて言われた。
「お前は死のうとしている。俺に命をくれようとしている。それは困る。お前は生き抜け。断じて生き抜け!
俺の命と交換するんだ」
これが、先生と私であった。
後に先生は、最高幹部との語らいの席上、こう言われたという。私の義父母も同席していた。
「大作は、体が弱いのに、学会のため、私のために、命を削り、奮迅の努力をしてくれた。
苦労をかけすぎて、三十まで生きられるか、どうか。
大作がいなければ、私の後継ぎはどうなるか。学会の将来はない。自分の命を代わりにあげて、なんとか長生きさせたい」
そう言われながら、慟哭され、落涙される師であられた。
昭和三十三年の年頭、私は、「生きられない」と言われた三十歳になっていた。
恩師のおかげで、宿命を乗り越え、まさしく「更賜寿命」させていただいたのである。
一日また一日、私は、妙法流布のために先生から頂戴した命と思い、師の生命と一体融合して、「臨終只今」の決心で生き切ってきた。戦い切ってきた。
師弟不二の偉大な法則を、護り抜き、語り抜いてきた。
師弟不二の究極の人生を、一点の曇りもなく、悔いもなく、戦い抜いてきた。そして、勝ち抜いてきた。
「勝利は団結をもたらすが、敗北は分裂をもたらす」、
これは、フランスの作家サン=テグジュぺりの透徹した洞察であった。
戸田先生のご指導の通りに、広宣流布の完壁なる「勝利の団結」を築き上げてきた私の人生には、後悔など何もない。
広宣流布へ晴れ晴れと大行進
咲きにけり
創価桜は
勝ちにけり
学会は師弟不二の団結の城
邪悪と戦え
追撃の手を緩めるな!
私が青春時代から愛読してきたフランスの作家サン=テグジュペりは断言した。
「生とは一種の真剣勝負であり、その刃を感じることが重要なのだ」
これが、正しき人生の道だ。
その真髄を凝結した哲理が、「仏法と申すは勝負をさきとし」(御書一一六五頁)の御聖訓なのである。
アメリカの哲人エマソンも「その生涯が、絶え間なき勝利である人を尊べ」と叫んだ。
人生は、一生涯、勝って、勝って、勝ちまくることだ。
この人間としての究極の力を、青年に教え示してくださったのが、わが師・戸田城聖先生であられる。
◇
我も立つ
君よ立ちゆけ
広布かな
諸天は護らむ
功徳は不滅と
改めて、このたびの能登半島地震の甚大な被害に際し、心からのお見舞いを申し上げたい。
石川県は、戸田先生の生誕の天地である。
ゆえに、不二の弟子である私にとっても、かけがえのない故郷である。
大聖人は、厳然と仰せになられた。
「災来るとも変じて幸と為らん」(同九七九頁)
日本列島の地勢を見つめれば、それは、能登半島を鷲の頭として翼を大きく広げた姿であると、ある智者は謳った。一日も早く余震が収まり、空飛ぶ者の王たる大鷲の如く力強く復興されゆくことを、私たちは真剣に祈り続けていきたい。
◇
生き抜いた
咲き抜いた
桜の王者は
勝利の大王だ
思えば、昭和三十三年の四月二日、戸田先生が逝去なされたその日──。
都内の桜は、五分咲きとなっていた。
先生は桜がお好きで、前年の秋、ご自身の死期を「桜の咲く頃」と呟いておられた。
桜の花は、七十五万世帯の大法私通の大願を成就され、万代の広宣流布の礎を築かれた恩師の凱歌の笑みとも、私には見えた。
なぜ、師が「桜の咲く頃」と望まれたのか。
それは後世の弟子たちへの慈しみの心境であられたと、私には思えてならなかった。
すなわち、決して感傷に囚われず、桜花の季節に師を偲び、希望に満ちた一歩を踏み.出してゆけ! との熱き慈愛の境涯の響きを、私は受け止めた。
私は、この師の心を深く知るゆえに、折にふれ、創価の城に桜を植樹し、荘厳してきた。
使命の花よ咲け
御聖訓には、「仏というものは私たちの心の中におられます。たとえば、桜の花は趣のあるものですが、木の中から咲き出でるようなものです」(同一四九一頁、趣意)と仰せである。
ここには、ありがたき深い深い生命哲学が、爛漫の桜に香風が吹きわたるように、説き明かされている。
桜の生命と同じように、我々も力の限り、生きて生きて生き抜いて、己の使命の花を咲き薫らせていくことだ。これが本然の法則だ。
日本中、いな世界中の尊き同志たちが、師弟不二の心を心として、偉大なる広宣流布へと、晴れ晴れと大行進しゆくなか、我らにとって光線が輝きわたるような四月二日を迎えようとしている。
我らに春が来た!
勝利の春が来た!
創価の同志の春が来た!
今年の四月二日は、戸田先生の五十回忌である。
◇
今、私が対談を進めている、アメリカ実践哲学協会のマリノフ会長は明快に語られた。
「人生に何かを成し遂げた師匠と一緒にいるだけで、自分を高めていけるのです。
人間の触れ合いの力の素晴らしさが、そこにあります」
師弟こそ、人間を向上せしめゆく最極の魂の結合であるというのだ。
それは、昭和三十三年の三月十六日、富士の裾野で、盛大な儀式を終えた夜であった。
戸田先生から私は、「学会本部の方が大事だ。大作は、私より一足早く東京に帰って、本部に行ってくれ給え」との、ご指示を受けて帰京した。
山積していた仕事を整理して、電光石火で再び本山へ舞い戻ると、衰弱を増しておられた先生は、お顔に深い安堵の微笑みを浮かべられた。
それからの一日また一日、布団に横たわられた先生は、幾たびとなく、私を呼ばれた。
夜は、いつも必ず、私は、戸田先生の下座の方に布団を敷き、そこで寝るように命ぜられた。
「今日は、何の本を読んだか」と尋ねられたこともある。
先生は「私は『十八史略』(※巻末参照)を読んだよ」と言われながら、漢の劉邦が天下を取った時、「第一の功臣」と賞讃した、蕭何(しょうか)の話をしてくださった。
この蕭何は、食糧や武器の確保などに努め、最前線が力の限り戦えるように、手を打ち続けた人物である。
そうした陰の功労者を、学会は最大に大事に護り、感謝し、真心から讃えていくのだ。そうすれば、永遠に栄えていける。
この重大な将軍学を、先生は繰り返し教えてくださったのである。
君の舞台は世界だ
「大作、昨日はメキシコへ行った夢を見たよ」と言われた朝もあった。
「此の一念の心・法界に偏満する」(同三八三頁)とは、一生成仏抄の一節である。
先生の心は、壮大な地球を駆けめぐり、日本から一番、離れたラテンアメリカにまで思いを馳せておられたのだ。
「待っていた、みんな待っていたよ......。大作の本当の舞台は、世界だよ」
先生は布団から手を出して、私の手を握られながら、「一閻浮提広宣流布」への遠大な平和旅を託されたのである。
今回の五十回忌に当たり、私はラテンアメリカを代表する二つの名門大学から名誉博士の称号を拝受した。
私は師弟の語らいを思い起こしながら、この栄誉を謹んで戸田先生に捧げた。
ベネズエラ共和国の教育の大指導者は、創価大学の講堂で厳かに語ってくださった。
「恩師であられる戸田城聖先生は、愛弟子の偉大な事業を、どれほど誇りに感じておられることでしょうか!」
◇
「悪事をなした者は必ず罰し、善事をなした者は必ず顕彰」する──これは、希代の名将・諸葛孔明の厳格な鉄則であった。
諸葛孔明のことが大好きであった戸田先生もまた、厳正なる「信賞必罰」の指導者であられた。
三月の二十二日──。
先生は、本山で最高首脳を招集なされた。青年部も同席させた。
重要な会議には、必ず青年の代表を入れる。
これが、先生の一貫した意思であられた。
布団から身を起こされた先生を囲み、緊急の連合会議となった。
師は厳しく言われた。
「学会の組織は、この戸田の命だ。
どこまでも広宣流布のための、清らかな信心の組織でなければならない。
不純な心によって、尊い学会が汚されてなるものか!」
「組織を乱しゆく者、信心利用の者は叩き出せ!」
「形式的な役職、戦わぬ幹部はいらない。皆が一兵卒となって戦え!」
烈々たる綱紀粛正の叫びであった。
「師子身中の虫の師子を食」(御書九五七頁)。この悪を戒めよとは、釈尊そして大聖人の御心であられる。
内部を腐らせるな
内部からの汚濁と撹乱──それは、宗教史の宿命的な流転であった。しかし、学会だけは、その轍を絶対に踏んではならぬ。先生は渾身の力を振り絞って、悪の芽を摘み取ってくださったのだ。
皆の緊張した姿は、今もって私の心から離れない。
その後、何人かの幹部は、師匠を裏切り、立ち去った。狡い人間、恩知らずの人間は必ず、どこにもいるものだ。
「初めは誰もよけれども、終り遂げたる者少なし」とは、戸田大学で学んだ『春秋左氏伝』(※巻末参照)の一節である。
◇
南米アルゼンチンの思想家、インヘニエロス博士は叫んだ。
「善のために人間を訓練する効果的な方法は、不正と戦うことだ」
それは、三月の二十九日であった。
師の枕元に伺った私は、青年部で、ある坊主の横暴を呵責した件について、詳細にご報告した。
先生の眼が鋭く光った。
「それは小さなことのようだが、宗門の腐敗、堕落という、実に大きな問題をはらんでいる。坊主が、広宣流布という至上の目的に生きることを忘れ去っているからだ」
そして憤激の色を浮かべ、宗門に苦しめ抜かれてきた痛恨の歴史を語り始めた。
──戦時中、宗門は大聖人の御遺誡を破り、軍部政府に屈服した。学会が矢面に立って弾圧されると、冷酷無惨に切り捨てたのである......。
この時、正法正義の命脈を厳然と護り抜いたのは、獄死された牧口常三郎先生と戸田先生の師弟だけであった。
戦後も、頑迷と保身の宗門は、悪逆の謗法を呵責された戸田先生を大講頭から罷免して、辱めようとした。
私の胸に、ふつふつと怒りが込み上げた。
なんと陰険にして、なんと邪道な輩か! どれほど如説修行の先生を嫉妬し、どれほど誠心誠意の学会の真心を踏みにじってきたことか!
先生の話は続いた。
──強欲な宗門が金を貯めたならば、必ず大恩ある学会を厭い、裏切る。ひいては、権力と結託して圧迫しようとする天魔の坊主も、僭聖増上慢として現れるぞ......。
先生は、その本性を知り尽くしておられたのだ。
最後に、師は叫ばれた。
「宗門に巣食う邪悪とは、断固、戦え! いいか、一歩も退いてはならんぞ!
迫撃の手を緩めるな!」
これが、青年部への最後の指針となり、峻厳なる創価の師弟の相伝となった。
ドイツの思想家リヒテンベルクは痛切に語った。
「無感覚はなにをされても復讐せず、その代りに最大の侮辱と最大の圧制とを身にうける」
善良な庶民が、狂った宗教の権威の奴隷とされることも、傲った政治の権力の家来とされることも、絶対に許してはならない。
これが、仏法である。
これが、正邪を決し、勝負を決しゆくために、人間が立ち上がる法則である。
この魔性との戦いの先頭に立つのが、青年である。
インドのネルー初代首相は、学生たちに訴えた。
「邪悪こそ、まさに粉砕すべきであり、邪悪と闘うべきである」
◇
君よ勝て
君よ負けるな
人生は
厳しき勝負の
闘争なりせば
先生はよく、維新回天の原動力となった、吉田松陰と高杉晋作の師弟の話をされた。
この松陰と晋作の師弟の覚悟は、「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」であった。
先生と私も同じであった。
先生のお体は、戦時中の二年間の過酷な投獄で極限まで痛めつけられていた。
その先生のお心のままに、私は純粋に、確固たる誠心を捧げ抜いて、お仕え申し上げた。
当時、私自身も、結核を患っていた。結核は、昭和十年から二十五年まで、ほぼ連続して日本人の死因の一位を占め、毎年数万人もの生命を奪ってきた。
私は医者から三十歳まで生きられないと言われ、微熱や咳に苦心み、時に血痰を吐きながら、ただ一人、苦境の先生を支え抜いた。
お前は生き抜け!
私は、自分自身の寿命も、先生に差し上げて、その分、長生きしていただきたい、そして、先生に広宣流布の雄渾の指揮を執っていただきたいと、ひたぶるに祈り抜いていたのである。
先生は、その私の心を見抜かれて言われた。
「お前は死のうとしている。俺に命をくれようとしている。それは困る。お前は生き抜け。断じて生き抜け!
俺の命と交換するんだ」
これが、先生と私であった。
後に先生は、最高幹部との語らいの席上、こう言われたという。私の義父母も同席していた。
「大作は、体が弱いのに、学会のため、私のために、命を削り、奮迅の努力をしてくれた。
苦労をかけすぎて、三十まで生きられるか、どうか。
大作がいなければ、私の後継ぎはどうなるか。学会の将来はない。自分の命を代わりにあげて、なんとか長生きさせたい」
そう言われながら、慟哭され、落涙される師であられた。
昭和三十三年の年頭、私は、「生きられない」と言われた三十歳になっていた。
恩師のおかげで、宿命を乗り越え、まさしく「更賜寿命」させていただいたのである。
一日また一日、私は、妙法流布のために先生から頂戴した命と思い、師の生命と一体融合して、「臨終只今」の決心で生き切ってきた。戦い切ってきた。
師弟不二の偉大な法則を、護り抜き、語り抜いてきた。
師弟不二の究極の人生を、一点の曇りもなく、悔いもなく、戦い抜いてきた。そして、勝ち抜いてきた。
「勝利は団結をもたらすが、敗北は分裂をもたらす」、
これは、フランスの作家サン=テグジュぺりの透徹した洞察であった。
戸田先生のご指導の通りに、広宣流布の完壁なる「勝利の団結」を築き上げてきた私の人生には、後悔など何もない。
広宣流布へ晴れ晴れと大行進
咲きにけり
創価桜は
勝ちにけり