第17回 大中部の光彩



――言論問題を越えて(下)

 中部の学会員は「言論問題」の雪辱を果たす。

 池田会長とともに進む庶民の情熱に労組幹部も驚嘆した。

◆マスコミの風向きを変えた会長講演。

▼第三十三回本部総会

 東京・両国の日大講堂。二階に報道記者、演壇下にカメラマンが並んでいた。

 一九七〇年(昭和四十五年)五月三日、第三十三回本部総会。「言論問題」に関して、池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長の公式な釈明があると伝わっていた。

 大新聞の記者すらも強硬に反対した。

「池田会長は、言論問題については一切関わりがない。詳しい事情も知らない。会長が謝る必要はない」

 しかし、一部の公明党議員らの言動、社会への影響に責任を痛感していた。

「子どもが迷惑をかけたとき、親が謝るのは当然だ」

「真面目な学会員を守るんだ」

 一時間半の講演。「妨害の意図はなかったが、あまりにも配慮が足りなかった点を猛省する」と率直に語った。

 目頭を押さえて聞く会員もいた。なかでも中部の参加者は愕然たる思いだった。


              *

 評論家の戸川猪佐武。来賓席で会長の講演を聞いた。

「すべての疑問について明解に答えたといっていい。逃げ道やごまかしのない、真剣さが一語一語、措辞のなかにみなぎっていて、まことに聞きごたえのあるスピーチだった」

「注目したことは、言論・出版問題以来約半年、さんざんに叩かれてきながらも、いっこうに動じない寛容さと自信とである。詫びるべきことはきちんと詫び、あきらかにすべき疑問ははっきりとさせ、攻撃・批判を加えてきた共産党、マスコミに対して、反駁やいいわけをしていないのである。実に寛容である」(『週刊実話』七〇年五月十八日号)

 翌日の新聞各紙も会長講演を歓迎した。

「今後の創価学会公明党の進むべき道をはっきり示した点で意義は大きい」(読売新聞)

「世論の批判に、一応正面からこたえようというもので、相当思い切った体質改善策もふくんでいる」(朝日新聞

 この日を境に、学会への批判、中傷は収束に向かっていく。

 報道陣も会長が招いた。

 もし総会に報道陣の参加がなければ、マスコミの反応は大きく違っていたはずである。


民社党・西村委員長

「策はダメだ。策は一時は良いように見えて、必ず行きづまる」。「策」という文字すらも忌む。対話主義である。トップ同士の腹を割った話し合いを望む。

 事態の渦中、当時の民社党委員長・西村栄一との会談も模索している。その経緯は『西村栄一伝』(中村菊男、高橋正則編著)などに詳しい。

 会長は言論問題を受け、ただちに会談を提案した。人を介して意見も交換した。はじめ西村は慎重だった。

「日誌」に書いている。

「私は従来池田大作氏が本物か偽物かを確かめるため、会見日を種々口実を設けて延ばしてきた」

 数ヵ月間、会長の言動を注視。西村は信頼するにいたった。

 会談の日も決まった。一九七〇年七月十八日。しかし今度は池田会長の体調が優れず、延期せざるを得なかった。そうこうしているうちに翌年四月、西村が他界。会談は、ついに実現しなかった。

 西村は綴っている。

「会見が彼の病気の都合で延期になっても、国家の行末と政党の在り方について考えている彼の至誠に対して、私は疑いをもたない。私はあくまで彼を信ずる」


▼中部の雪辱戦

 名古屋市中村区の都ホテル(当時)二階ホールは、ものものしい気配に包まれていた。

 一九六六年(昭和四十一年)一月十九日。新宗連新日本宗教団体連合会)中部支部の結成式である。

 一三の教団から三〇〇人が集まっている。東京、近畿支部を凌ぎ、国内最大の勢力となった。

 和やかに歓談しているが、腹の底を探るような目つきの者もいる。

 立正佼成会の会長・庭野日敬がマイクの前に立った。

「日本には、創価学会という虎がいる。これを何とかしなくてはならない。何とか退治しなければ、或いは、その牙をもぎ取らなければならない」

 反創価学会の包囲網である。

「それには新宗連のみならず、日本の宗教界が一丸となって、この排他独善の宗教を、こらしめなければならない」

 重々しい拍手が鳴った。

 共通の敵ほど、結束を強めるものもない。

 どの教団も、創価学会の躍進を警戒していた。しかも次の総選挙では、公明党衆議院に初進出する。

 どこよりも脅威を感じていたから手を結んだ。他教団にとって中部こそは“学会阻止”の砦だった。

 翌六七年一月の総選挙。愛知で公明党候補が初当選した。だが、続く六九年十二月の総選挙。公明候補は愛知、三重、岐阜の七選挙区で、ことごとく敗れる。

 その背景に、学会に反発を強める宗教票、労組票があったことは、いうまでもない。

「言論問題」が起こったのは、この選挙の直後である。

 反学会の勢力が、これを社会問題化しようと躍起になったのは当然であろう。

 ここでダメ押しをし、学会にトドメを刺す。絶好のチャンスであったはずである。

 愛知選出の民社党(当時)議員・春日一幸塚本三郎らが、ここぞとばかりに攻め立てた。

 選挙に勝ち負けはつきものである。勝敗の責任は党が負うべきである。支援者に咎はない。

 それでも真剣に支援した分だけ、負けた悔しさは倍加する。中部の学会員は辛かった。さらに言論問題では、池田会長が社会に釈明する結果になった。

「負けたからだ。会長を苦しませてしまった」。臍をかんだ。

 次こそ勝つしかない。

 雪辱を果たさなければ「言論問題」を乗り越えたことにならない。何よりも、世間がそう見ている。世間が納得しない。中部の会員の偽らざる真情だった。

 迎えた七二年の総選挙。愛知では六区が主戦場になった。

「いいこと考えたんだ、私」

「なになに?」

 ごそごそとポケットから取り出した。石ころである。

「?」

 候補者は石田幸四郎

「そう、石だよ。これなら石田さんの名前、忘れないでしょ」。とたんに大爆笑。

 庶民が必死に絞った知恵だった。

 名古屋駅では、駅員が首をかしげていた。ロック、ロックと地図を広げた乗降客がつぶやいている。ロックなんて駅、あったかなあ。

 石川や富山からも応援に来た。学会員宅を一軒一軒回り、じっくりと信心指導をした。

「へぇー、北陸からですか。そりゃ、ご苦労さまです」

「あんたが初めて家庭訪問に来てくれた」と喜ぶ人までいた。

 公明党の地方議員も奮闘した。頼みやすい人、反応のいい人ばかりに会っていても、局面は打開できない。

 敵陣から味方に引き入れれば、形勢は逆転する。党に対して、むしろ批判的な識者、労働組合の幹部に会った。

 少人数で何度も議論。言いたい放題、意見を言わせる。徹底して本音で語り合った。

「支持団体の創価学会を、この目で見てみたい」と言い出す人が出てきた。


▼雨に濡れたポスター

 創価学会の名古屋文化会館(当時、西区)に集まる人波を見て、労組の幹部が学会幹部に聞いた。

「いやあ、すごい。こんなに集めて。いくら日当を払うのかな」

「そんなもの、ありませんよ」

「本当かい。組合の集会なら行動費を払わんと来ないよ。メーデーだって一日五〇〇円だよ」

 ある日曜日の朝である。

 学会主催の「労働講座」で講演を頼まれ、労働三権について話すことになった。

 場内には主婦層が多い。働き盛りの男性は、わずかである。

 まあ、この人たちに労働組合の話は関心ないだろう。内心思って話し始めた。

 驚くほど反応がよかった。一斉にノートやメモ帳を広げる。細かく書き留める人もいる。ころころとよく笑う。温かい拍手。初めての経験だった。

 筋金入りの組合運動の闘士は、浮き立つような気持ちで会館を後にした。

 それだけではない。

 労組の幹部は次々と驚くべき場面を目撃した。

 街角で公明党のポスターを見回る人がいた。

 前日、雨が降っている。当時は印刷技術が低く、雨でインクが流れてしまう。

 どこから用意したのか、上からビニールをかぶせる人もいた。

 近づいて声をかけた。

「そんなことまでして、ご苦労さんだね。お金はちゃんと出るのかね」

「そんなもの」

 笑って言った。

「一銭だってもらいませんよ」

 名古屋市内の商店街。

 馴染みの乾物屋の前で、思わず足を止めた。公明党のポスターが張ってある。店のオヤジは根っからの自民党支持者のはずだ。

 店の中に声をかけた。

「あんた、いつから公明党の支持者になったんだ」

「オレは今でも自民党の支持者だよ」

「じゃあ、あのポスターは、どうしたの」

「それがさ。この前、お客さんが『これを張らしてもらえませんか』と頼むんだ。あんまり一生懸命だったから『あっちの隅の倉庫だったら、いいよ』って張らしてあげたんだ」

「へぇー」

「その後、別のお客さんが来てさ。

『もう少し目立つところに、張ってもらえませんか』って頭を下げられてね。三人か四人目で、とうとう真ん中に来ちゃったんだ」

 四半世紀の間、組合という組織で生きてきた。選挙に立候補もした。労組と選挙。表も裏も知りぬいている。

 終戦直後は誰もが生きるのに必死だった。組合員と幹部は一心同体だった。ストライキに入ると、共に歌い、叫び、要求が通ると肩を叩き合って喜んだ。


▼労組幹部が驚いた庶民の信心と情熱。

 しかし組織が大きくなるにつれ、幹部は官僚化した。組合の運営はあっても運動の実体、実質がなくなっていった。

 せっかく獲得した余暇の権利をパチンコに費やし、無気力なまま職場に戻る労働者も多い。

 いつしか社会を諦観していた。

「こんな世知辛い世の中に『真心』なんてない。まして政治の世界には、あり得ない」

 しかし学会員と触れ合うなかで、いや、待てよと思い返した。

「あのころの組合のような真心がある。情熱がある。

 しかも僕たちは自分の生活のために戦った。学会の人は社会のために戦っている。これは、すごい組織かもしれない」

 大衆運動を引っ張っていく困難は骨身にしみている。トップに立つ池田会長とは、どんなリーダーシップの持ち主なのか……。


▼写真家・富山治夫の目

 この当時の会長を知る写真家がいる。

 富山治夫。同行撮影の了解を得た。カメラで追い続けたのは、一九七二年(昭和四十七年)である。あまりにも取材がオープンなので、かえって戸惑った。

 会合はもちろん、プライベートな一面も撮らせてくれた。自宅での食事。男子部員と風呂につかって裸の付き合い……。どんな無理難題にも答えてくれた。

 丸一年間で、撮影フィルムは二万枚に達した。

 まだ同行取材を始めて間もないころである。日大講堂での大集会。最後に会長が扇子を片手に立つ。学会歌の指揮である。

 レンズを会場に向ける。どの目にも力がある。光がある。一瞬、たじろいでしまう。

 幾万の視線が一点に集まっている。それは、ものすごいエネルギーだった。思わず向きを変え、会長にピントを合わせた。

 この人は、一年三六五日、いつも、こんな視線を浴びているのか。それだけでも常人の神経に耐えられるものではない。

 こんな被写体は初めてだ。ひときわ意欲をかきたてられた。会長一人の動きをズームアップする枚数が増えていった。

 富山はファインダー越しに素顔を見つめ続けた印象を語っている。

「子どもを遊ばせるうまさ、老人をねぎらうこまやかさには何度も舌を巻いた。

 どんなときにも、たちまち相手の立場になりきれる心の広さ、やわらかさはとても真似のできるものではない」(『微笑』七三年九月二十二日号)


▼「E2」からの逆転

 選挙ハガキの校正刷りをチェックしていた常松克安の目が、推薦団体の欄で止まった。

三重県医師連盟」

 まじまじと見つめる。たった七文字。しかし、この推薦を取るのに、どれだけ遠い道のりがあったことか。

 常松は公明陣営の選対責任者である。日本鋼管津造船所労組の推薦ももらった。

 前回選挙のハガキでは、推薦してくれる団体など、ほとんどなかった。前進も前進、大前進ではないか。

 一九七二年。第三十三回総選挙が近づいていた。三重一区の候補者は青年医師。支持者すらも不安を覚えた。

「えらいそっぽこ谷(辺鄙なところ)から、全然知らん人が出てきたもんや。大丈夫かいな」

 市街地から二〇?も山奥に入った白山町に住む医師だという。

 情勢は厳しい。

 ランク付けは「E2」。当選見込みを「A1」から「E3」まで十五段階に分けた十四番目である。

 三重は前回、二区で敗れたが、事態はさらに深刻である。完全に当選圏外だった。


              *

 候補者の青年医師の人脈から支持を広げ、ついに医師連盟の推薦にこぎつけた。前代未聞のケースである。街の医院に次々とポスターが張られていく。最後には百カ所を超えた。

 津市内の木造民家を借りた公明党県本部で、青年たちは知恵を絞った。

 素人劇団を発足して、候補者の半生を熱演した。脚本・演出の細部までこだわり、無医村地域の医療に携わったドラマが聴衆の心を掴んだ。

 ポスターにもひと工夫。白地に黒の筆文字が主流だった時代に、思い切って黄色の下地に紺の文字をレタリングした。

 少しでもインパクトがあるように。一斉に選挙区内全域に張り出した。

 投票日の一週間前。

 NHK中部支局のディレクターが公明党三重県本部に駆け込んできた。

 開口一番、常松に言い放った。

「絶対に落選です」

 予測では、四万七〇〇〇票が精いっぱい。やはりランク「E2」の壁は厚いのか。


             *

 三浦としい(三重総県婦人部主事)は松阪会館(当時、松阪市)を見るたびに三年前を思い返した。

 六九年(昭和四十四年)十二月二十三日。粉雪がクルクルと輪を描きながら舞っていた。池田会長を松阪市に迎えた日である。

 松阪会館で会長と懇談する場があった。話が一段落した。ポケットから、当時たしなんでいたタバコを取り出したが、逆さまにくわえたあと、机に置いた。もう一度、同じ仕草を繰り返した。

「反対から火もつけずに……。いったい、どうされたのだろう」

 三浦は、後に会長が最低最悪の体調だったことを知る。あの日、会長はタバコ一本すら鉛のように重かったのだろう。

 今度こそ勝ちたい。


             *

 開票日。公明は六万九八六三票を獲得した。まさかの当選だった。

 後日、若いNHK職員が常松に語っている。

「あの先輩は後悔していました。『公明党の方に失礼なことを言った。申し訳なかった』と」

 同選挙で公明は、愛知・三重で雪辱を果たした。

 続く総選挙(七六年十二月)では、岐阜も悲願の初議席を獲得した。

 大中部ここにあり。日本の心臓部に、鮮やかな存在感を光らせた。


▼三つの謝罪

「言論問題」では組織上、機構上の対策ばかり気にする幹部がいた。

 会長は戒めた。

「そうじゃない。会員が根本なんだ。学会員を励ますことが幹部の役目だ」

 とくに心にかけたのは中部の会員である。

「可哀想だ。何とかしてあげたい」

 積年の思いもあった。

 牧口・戸田両会長との接点が少なかった中部である。東京と関西の間に埋没してはいけない。


             *

 大野和郎(副理事長)が、会長の真情を改めて思い知らされたのは、一九八六年(昭和六十一年)五月のことである。

 中部池田記念講堂(名古屋市昭和区)の会合でスピーチしていた会長は、三点にわたって謝罪の言葉を述べはじめた。


◆報道問係者も予想しなかった勝利。

 極めて異例である。「あんな会長の姿を見たのは、最初で最後だ」(同行カメラマン)

 第一に、伊勢湾台風である。

 五九年九月二十六日に紀伊半島に上陸し、東海地方に甚大な被害を及ぼした台風。死者・行方不明者は五〇〇〇人を超えている。

 中部に駆けつけ、できうるかぎり激励したが、十分に支援できなかった、と詫びるのである。

 年配の参加者は、はっと胸をつかれた。そんなことはない。会長は台風の直後に到着し、膝まで泥に没しながら被災地を回ってくれた。愛知からの交通網が遮断されていたため、関西を迂回までして、三重に入った。その二年後にも、復興状況を見るため、三重に足を運んでいる。

 それでも満足のいく救援ができなかったというのである。

 第二に、中部創価学園の件。

「皆さまから多くの要望がありながら開校できなかった。現在でも残念でならない」

 大野は胸をつかれた。東京、関西に続いて中部にも創価学園を建設する予定があった。土地の検討段階まで入ったが、様々な事情から断念せざるをえなかった。

 中部に学園を。最後の最後まで望んでいたのは池田会長だった。

 第三に中部文化会館(当時、名古屋市西区)の自由勤行会。

 八〇年五月。満員の同会館で勤行会を行い、長時間、待たせてしまったことを申し訳なく思うと頭を下げた。

 大野は、まざまざと覚えている。約一年前に勇退した会長を求め、会館前の名城公園に長蛇の列ができた。もし待たせたとしたら、それは運営側である地元幹部の責任である。

 会長に非などない。

 全魂の激励をしてくれた。下駄箱、玄関ロビー、階段の踊り場。めまぐるしく場所を変え、記念撮影が続いた。最後の一枚を撮ったとき、同行カメラマンの機材が完全にバッテリー切れし、使い物にならなくなったほどである。

「私は、これまで、このことが申し訳なく、苦しい思いをしてきた。中部を訪れるたびに、思い起こさざるをえなかった」

 大野は己を恥じた。

“知らなかった。これほどまでに中部のことを。知らなかった。ずっとずっと昔のことを今でも……”

 中部に学園はできなかったが、その分だけ、未来部員や青年の育成に力を注いだ。

 ある日、会長が地元幹部と名城公園を散策していた。

 偶然、一人の青年と出会った。どこか思い詰めた表情である。

 歯学部に通う学生部員。学業に行き詰まり、大学を辞めることを考えていた。父母ともそりが合わず、何かと強く当たっていた。

 若き日に苦学した会長である。学ぶ機会を放棄しては、あまりにも勿体ない。

「学生は根本が大事だ。根本が腐ったら、草木も枯れるんだ」

 本分である学業の重要性を説いてから、口元を指さした。

「いま、ちょっと歯が悪いんだ。将来、診てもらおうかな」

 青年は、人生の道を自分で閉じかけていたことに気がついた。会長に感謝と決意の一文を認めると、後日、返事が届いた。

「『両親に優しく 自己に厳しく』

 未来の医師の君に」

 青年は現在、開業医として信望を集めている。


▼三重研修道場

「花が一夜に 散るごとく……」

 近鉄伊勢中川駅に特急列車が見えると、ホームから威勢のいい「学会の歌」がわき起こった。

 同駅は、近鉄大阪線名古屋線の乗換駅である。

 関西指導を終えた戸田城聖第二代会長が名古屋に移動することを知り、十数人の会員が駆けつけた。

 一九五六年(昭和三十一年)七月二日の昼である。

 戸田会長は白い長袖のワイシャツ姿で降りてきた。

 名古屋線のホームに移動する会長の側に、会員が駆け寄る。

 列車で走り抜けてきた西の方角に顔を向けた。濃い緑に包まれた鈴鹿布引山脈の風景を思い浮かべているようだった。

「三重は、いいな。あの辺りは、きれいな眺めだった」

 それから二〇年後の七六年七月三日。布引の山々に囲まれた地に三重研修道場(津市白山町)が誕生した。

 池田会長は、これまで同研修道場に計一一回、のべ四四日間、滞在している。

 日課のように道場内の「三重広宣流布の碑」に向かった。静かに手を合わせる。碑には三重県の会員約七万人の氏名が刻まれている。

 道が凍てつく日。足元が悪いので無理をしないように周囲はすすめた。

「いや、それはできない。本当は三重県中の会員に握手をして、ご苦労さまと言ってあげたい。でも、それはできないから、私は碑の前で題目を送ることにしている」

 牧口常三郎初代会長の胸像が除幕された日があった。

 夜になって地元の会員と懇談していると天候が急変してきた。

 ガラス戸を叩きつける激しい雨が降ってきた。

 池田会長は小声で呟いた。

「牧口先生、寒くないかな。傘を差しに行ってあげたいな」

 人を遠ざけ、道場内の一室で筆を走らせた日もあった。

「道」――。中部の指針となる揮毫を残している。


▼南区の婦人部総会

 名古屋で「第六回婦人部総会」が開かれたのは、一九七六年(昭和五十一年)一月十六日だった。

 市内の会場は約三〇〇。

 きれいに磨かれた机、色鮮やかな花を用意した拠点もある。ここに池田会長を迎える思いで会場を整えていた。

 この日、関西から名古屋入りした池田会長は、名古屋文化会館に到着した。

 児玉泰子(中部婦人部主事)は随行してきた幹部に呼び止められた。

「ビックリしないでくださいよ」

「……?」

「先生が、これから婦人部の総会に出席されます。どこでやっていますか」

 仰天して、会館周辺の総会をいくつか報告した。会長は行き先を決めていた。

「南区に行こう」

 夕方の時間帯である。帰宅ラッシュの市内を縦断することになる。まだ高速道路もない。四、五〇分はかかる。関西から移動して、休んでもいない。疲労が案じられた。

 それでも意志は固い。

「遠くてもいい。南区に行きたい」


             *

 プラスチック工場の電話が鳴った。

「今日の総会に、先生が来られるそうよ。尾関さんも、早く、早く」

 まさか……。尾関節子は半信半疑のまま、名古屋南会館(現・名古屋南平和会館)に急いだ。

 夫婦だけの町工場。朝から晩まで働いてきた。「毎日、毎日、仕事ばっかり……」。つい愚痴もこぼれたが、負けるわけにいかない。

 地元・南区は民社・塚本の地盤。仕事で敗れては名がすたる。

 尾関が会館の近くまで来ると、道の反対側を歩く一団があった。

 あっ!

 先生、と声をあげかけた瞬間、手招きされた。

「婦人部の方ですね。ご苦労さま。一緒に歩きましょう。食事はされましたか」

「いえ、まだです」

「そうですか。会館に着いたら、記念に写真を撮りましょう」

 小躍りしながら歩いた。

「やあ!」

 会長が勢いよく入ってきた。

 森田君枝は、会場の最前方に座っていた。夫が頚椎椎間板ヘルニアで倒れたのは四年前。スポーツ用品店を始めたが、所詮は素人商売。借金は増えるばかりだった。

 もう死んでしまいたい。前年末、自殺を図ったが、死にきれなかった。

 今、人生のどん底で会長と会っている。小さな机が間にひとつだけある。息づかいまで聞こえてくる。

 ある財界人と会談したときの話をしてくれた。

 財界人は「この世界で一番尊く偉いのは誰ですか」と聞いてきた。釈尊などの名前を挙げると思っていたようだが、返答は予期せぬものだった。

「私は、こう答えた。一番尊くて、一番偉いのは、庶民のお母さんです」

 森田は身じろぎもせず、会長の顔を凝視した。

「雨の日も風の日も、雪が降っても、嵐になっても、太陽のように変わることなく、天空で輝いている。お母さんが一番偉い」

 死ぬことばかり考えていた彼女の喉元に、ひたひたと温かな感情が満ちてきた。

 そうか、自分は太陽なのか。襲ってきた雲に惑わされてはいけない。

「名古屋は全国で一番太陽が昇っていくところになります」


▼岐阜の学識者

 言論問題の最中に創立された創価大学。本部棟の一七階バルコニーで、堀幹夫は目を見張った。

「ここか! ここが、池田会長が陣頭指揮で決めた土地か」

 中秋の夕暮れ前である。二十数万坪のキャンパスが眼下にあった。広々としている。緑がある。

 ――想像以上だ。この大学は、まだまだ発展するな。

 堀は、岐阜薬科大学、岐阜女子大学の学長を四半世紀にわたって歴任してきた。大学を預かる責務は骨身にこたえている。

 いつの日か、尊敬する会長が創立した大学を見たい……。二〇〇六年(平成十八年)十月、長年の願望が実現した。

 廊下ですれ違う学生が、みな笑顔で挨拶してくれる。何気ない振る舞いに、教育の真価が現れる。

「これが見たかった」

「さすがだ。こんな大学はないな」

 創立されたのは、大学紛争の時代。寮があるだけで危険この上ない。よほどの勇気と覚悟が必要だったに違いない。

 開学以前から執拗な中傷を浴びてきたことを知っている。

「池田会長ほど、卑劣なデマの標的になった人はいないでしょう。だが超然としていた。『真実は一つである』と。偉大です」

 大学を見れば、その創立者のスケールが分かる。

「わずか三五年で、ここまで発展させるとは。キャンパスのそこここに、文化薫る銅像がある。近くに立派な美術館まである。日本の尺度で評価できない。世界屈指の大学になる」


◆「名古屋に一番、太陽が昇っていく」

▼喚問要求から三〇年

 春日一幸の元秘書が指を折って数えた。

立正佼成会世界救世教、PL教団……。多い時は一〇以上の宗教に入っていた」

 有名な逸話である。

 春日は一九六〇年(昭和三十五年)の民社党結党当時から、同党の屋台骨を支えてきた。

 書記長、委員長などの要職を歴任している。労働組合、宗教団体などの票をバックにして、地元・愛知に「民社王国」を築き上げた。

 党勢のピークは、八三年だった。凋落していく支持率に歯止めをかけられず、春日は八九年四月、病気を理由に政界を引退した。

 その一〇日後のことである。

 後継者と頼んだ娘婿の名古屋市議が公選法違反(買収)容疑で逮捕された(後に有罪判決)。

 翌月、春日は失意の中で死去した。

「お願いします! どうか、もう一度、私を国会に送り出してください!」

 冷たい秋雨に、ずぶ濡れになりながら叫ぶ候補者。土下座せんばかりに身体を折った。

 胸のたすきに 「自民党」の文字。塚本三郎の絶叫だった。

 転落の第一歩は、八八年だった。

 リクルート事件で巨額の献金を受けた疑惑が発覚した。当初は 「秘書がやった」と弁明したが、世論の批判は厳しい。翌八九年、民社党委員長を引責辞任した。

 九二年には、参院選に担ぎ出したタレント議員に「学歴詐称事件」が発覚した。愛知の県連委員長だった塚本も責任を追及される。この職も辞することになった。

 袋小路にはまっていく。九三年の総選挙では、当の本人まで落選した。翌年末には、民社党そのものが消滅した。

 九六年の総選挙、自民党に鞍替えして返り咲きを狙う。中日ドラゴンズの元投手だった対抗馬の前に、あえなく敗れ去った。

 選挙区がダメなら比例がある。二〇〇〇年の総選挙。自民党の比例ブロックから出馬しようとした。同党から「当選圏内の名簿登録はできない」と宣告され、政界への道は絶たれた。

 かつての同僚議員、支持者の声も冷ややかだった。

春日一幸の恩で民社の委員長にまで上り詰めたのに、自民に行ったのは裏切り行為だ」

「あの人とは、もう縁が切れた。今さら何も言うことはない」

 政界から、ひっそりと姿を消した。一九七〇年に塚本が「証人喚問」を求めてから、ちょうど三〇年後のことだった。


橋本龍太郎の回想

 塚本が質問に立った衆議院予算委員会を傍聴していた議員は多い。

 橋本龍太郎。一九七〇年(昭和四十五年)当時は三十二歳。厚生族議員としてのキャリアを積み始めたところだった。


              *

 自民党の総裁に就任(九五年九月)した当時から、親しい学会幹部を通して、池田会長に関連する書籍を読んできた。

 家族思いの人である。首相在職中も病床の義母を毎週、見舞った人らしく、こんな発言もしている。

 二〇〇五年二月二十日、地元・岡山の集会。

 会長夫人へのインタビュー等から編集した『香峯子抄』(主婦の友社)の内容を引いている。

「学校の先生が会長の家を訪問され、三人のお子さんに『大きくなったら何になりたい?』。みんな『パパのような人になりたい』。

 そう言わしめた会長も大変なものですけれども、それを子どもたちに分からせた奥様も本当に素晴らしい」

 剣道教士六段。全日本学生剣道連盟の会長でもあった。

 創価大学・剣道部の「隻腕の剣士」中山彰(現・関西創価高校教諭)に注目していた。

 池田会長が彼を励ましたエピソードも知る。失った右腕の袖に手をさしのべ、力強く握った。

 橋本は母校・慶應義塾大学の同窓会などで語った。

「私自身、障害をもつ子どもを預かって稽古した時期がある。しかし“無い手”と握手をする。なかなかできません」


             *

 晩年は病に倒れた。

 直前、手にした小説『新・人間革命』第十四巻には、言論問題当時の時代が描かれていた。

 二〇〇六年三月、最後の一行を読み終え、そっと本を閉じた。

「こういうことだったのか……」

 親しかった学会幹部に伝えている。

「第十四巻、読み終わりました。

 衆議院予算委員会で質問を聞いたことを思い起こしています。率直に言うと、おもしろ半分で、傍聴していました。

 やはり学会の皆さんには耐え難い思いがおありのことと、今、気づきました。あらためて、当時の非礼をお詫びします」

 橋本から学会に届いた、最後の言葉となった。   (文中敬称略)