第16回 大中部の光彩



――言論問題を越えて(上)

 一九七〇年、学会を襲った「言論問題」。なぜ愛知選出の議員が

 国会で取り上げたのか。嵐の中で池田会長は何を見据えていたのか。

◆中部が受けた「言論問題」の波紋。

中日新聞インタビュー

 中日新聞社の社会部長(当時)・吉田昭夫が東京・渋谷で車を降りたのは、一九八六年(昭和六十一年)のよく晴れた初秋の昼下がりである。

 インタビューのため、名古屋から編集局長と上京した。姉妹紙である東京新聞の編集局長、政治部長も合流している。

 国際友好会館。池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長が待っている。

 吉田は事件記者からたたき上げた男である。シンガポール、米国にも赴任した。創価大学の初代学生部長・篠原誠と親しい。彼が慕う池田会長とは、一体どんな人物か――秘かに楽しみでもあった。

       *

「ようこそ、お越しくださいました」。ロビーに入ると池田会長の方から足早に歩み寄り、手をさしのべてきた。

 勿体ぶったところがない。宗教団体のカリスマというより、大企業トップの印象を受けた。

 インタビューは約一時間半。話していて気持ちがいい。どの質問にも即答してくれる。

「今の時代を、どう見ますか」

「人間が人間らしく生きるのが困難となりつつある時代といえるかもしれません」

 まず結論がある。本質を突く。その上で解題する。同行の記者一人一人への細かな気配りも忘れない。

 こりゃ想像を超えた人物だな……。

 心中、吉田は唸った。

 時代は転機を迎えていた。

 米ソ首脳が歩み寄り、東西の対立は融和に向かっている。日本はバブル経済の入口で、新聞に 「財テク」「地上げ」「地価急騰」などの文字が躍り、雑誌はこぞってグルメ特集を組んでいた。

 既存の体制や価値観が崩れていく向こうに何があるのか。会長の時代認識を聞くのが取材の眼目だった。

 インタビューは横内恭(当時、中日新聞編集局長)にとっても印象深い仕事だった。

 洞察力に定評がある。整理記者時代の七六年(昭和五十一年)二月五日の未明。わずか一五行の外電が降版間際に飛び込んできた。それを一瞬の判断で一面に差し込んだ。

「児玉氏に数百万ドル ロッキード社が贈賄 米上院委公表」

 ロッキード事件の第一報を一面で扱ったのは中日だけだった。

 各界リーダーのインタビューでも場数を踏んでいる。

 その横内をしても、池田会長の存在感は際立っていた。

「ともすると政治家に多い、自分の業績を誇示したり、考えを一方的に押しつける話しぶりとは対極だった。ただ謙虚なだけでなく、容量の大きさを感じる」

 記事は十月二日付の中日・東京両紙の一・二面を飾った。

 インタビューから二〇年。横内を訪ねた。

「いま振り返れば、あの日、池田会長が言った通りになった」

「当時、日本は地価狂乱の時代。ズバリ先を見通して『二十一世紀は精神文明の時代』『文化立国を百年の大計にすべきだ』と警鐘を鳴らした。すごい先見性です」

 当時の紙面を指でなぞりながら続けた。

「それにしても、池田会長は今も全く印象が変わらない。僕は、こんなに変わっちゃったけど」

 快活に笑う。最後に力を込めて語った。

創価学会は、三代の会長が信念を貫き、牢に入った。幾多の辛い時期を乗り越えて発展してきた。そんな不屈のエネルギーが学会員一人一人の心にある。これが学会の強さだと思います」

「幾多の辛い時期」――。

 奇しくも中部は、いわゆる 「言論問題」の波紋を最も大きく受けた地だった。


塚本三郎の質問

「次に塚本三郎君」

 衆議院予算委員会の議場で、委員長・中野四郎が質問者を指名したのは、一九七〇年(昭和四十五年)二月二十八日午後二時過ぎのことである。

 民社党(愛知六区)の塚本は、その四角ばった体躯を質問席まで運んだ。

 口をへの字に結んだまま、正面に頭を下げる。内閣総理大臣佐藤栄作と視線が絡まった。

「私はただいまから……言論出版の自由妨害の真相につきまして……」

 粘りを帯びた独特の声である。

 やる気だな……。腕組みをして、底光りのする目を塚本に向ける議員もいる。

 それは異様な内容だった。

 私は創価学会員から選挙妨害の嫌がらせを受けた。日本の凶悪犯罪の多くは学会員の犯行だ。精神異常者には学会員が多い。

 裏付けも証拠も示さない。ただ一方的な中傷発言が延々と続く。

 答弁に立った佐藤栄作

「いきなりの論理の飛躍がありはしないか」「そういうように断定するわけにはいかないのじゃないか」

 塚本発言に与するわけではないが、否定もしない。

 自民党は、前年十二月に行われた総選挙で大勝していた。野党が、同じ野党の支持団体を攻撃している。与党にとっては痛くもかゆくもない。高みの見物である。

 最後方の議員傍聴席には、橋本龍太郎ら若手議員もいる。

 塚本が声を張りあげた。池田会長の名前をあげ「証人として喚問することを委員長に要求いたします!」。

 持ち時間を全て学会の批判に使って自席に戻っていく。

 赤松勇(社会党)、不破哲三共産党)らの盛んな拍手を浴びて、心もち口の端をゆがめた。

 なぜ政党が宗教団体を標的にしたのか。一民間人の証人喚問を要求したのか。なぜ旗振り役が愛知選出の民社党議員だったのか。

 真相に迫ってみたい。


新宗連の対決姿勢

 一九六〇年代、池田会長は国際社会に次々と提言した。

 ベトナム戦争の即時停戦(六六年)。沖縄返還(六七年)。核問題(六八年)。日中国交正常化 (同年)。

折伏の団体」だけではなかったのか。

 社会的にも本格的な発言を始めた学会に対し、宗教界と政界は警戒を強めた。

 さらに追い打ちをかけたのは、六四年五月、衆院への進出を発表した公明党の躍進である。

             *

 六五年九月四日、大阪・富田林市のPL教団大本庁錬成会館。

 新宗連新日本宗教団体連合会)の理事会が開かれた。もっぱら議題は一点に集中した。

創価学会対策は立正佼成会さんだけに任せてきたが、もはや総がかりでやるべきだ」――宗教界あげての全面対決を求める声が大勢を占めた。

 機関紙「新宗教新聞」が一面で報じている。

新宗連理事会で決議 創価学会公明党と断固対決 傘下七百万の組織をあげて」

 政治団体新宗連政治連合」が結成された。既成各政党への支援に一段と力を入れることで、学会の政治進出に歯止めをかけようという思惑である。

 迎えた六七年一月の衆院選

 同連合は、自民党一五六人、民社党二八人などを推薦した。

 スローガンは「ストップ公明党」。

 しかし、その包囲網を破って公明党は一気に二五議席を獲得する。次期衆院選では、倍増の可能性まで噂された。

 公明党の進出で選挙区事情も一変した。

 当時は中選挙区制。それぞれの選挙区に複数の政党が共存している。

 大衆が基盤の公明党。保守票に食い込む心配は少ない。むしろ民社党などの野党陣営が危機感をつのらせた。

 たとえば愛知六区。定数は三。塚本三郎は二度の落選にめげず、ようやく当選したが、公明党も初議席を奪っている。いつ弾き飛ばされるか分からない。

 打倒公明――。その焦点は、次期衆院選に絞られた。


藤原弘達の本

 一九六九年(昭和四十四年)八月二十九日。大阪万博の会場を視察していた首相・佐藤栄作は「衆議院の解散は、十一月の訪米後、いつでも可能性はある」と発言した。

「すわ、総選挙!」

 各党は一斉に動き出した。

 その二日後。全国の国鉄、私鉄各線に新刊本の中吊り広告が下がった。

創価学会を斬る』

 著者は藤原弘達。売り出し中のタレント教授である。テレビ受けする毒舌が売りものだった。

 版元は設立から二年という出版社。中小企業を相手に、いわゆる“お買い上げ雑誌?を発行しており、単行本を出すのは初めてだった。

 しかも後日明らかになったところによれば、この広告が出た時点で藤原は「まだ原稿は一枚も書いていなかった」(当時の同社編集長)という。

 学会さん、出しますよ。

 不気味に囁くような広告だった。

             *

 藤原は以前から学会員を繰り返し批判していた。雑誌『新評』(六七年四月号)の誌上でも偏見、侮蔑の感情を隠そうともしない。

「組織に対する盲目的服従しかみられない」

「政策のイロハもわからずに、コマメに熱心にバカ正直に選挙運動をしている」

 さらに公明党創価学会は 「日本政治の民主化に百害あって一利なきもの」とまで極言している。

 その人物が本を出す。学会幹部らが藤原に会いに行った。

「極端な決めつけではなく、きちんと取材もして、事実に基づいて書いてほしい」「資料も提供するし、どこでも案内する」

 それでも一度も取材をしてこない。困った男だ。本の発売は総選挙直前。十分に反論する時間もない。騒げば騒ぐほど、相手の思うつぼになる。


◆学問的な基礎も背景もない“批判本”。

▼「恐喝の一歩手前」

 売り手の良識に訴えることが良策と思えた。書店や取次とは日ごろから付き合いがある。

 見本刷りがあがった。

「確かに、ひどいですなー」

 取次会社の社員が頷く。

「肝心な部分は全部『〜だろう』『だそうだ』じゃないですか。『というようにも理解することができよう』なんていうのまである」

 さんざん手前勝手な推測、憶測、噂ばなしを並べておいて、文章の末尾は小狡く逃げる。事実誤認も多い。池田会長の青年部時代の役職はおろか、会員数さえ間違っていた。

 版元は無名に近い出版社である。しぜん取次各社は慎重になった。

 だが、こういった働きかけが、後に「言論の抑圧」「出版妨害」と喧伝された。

 共産党や一部の政治家らが、学会、公明党を激しく責め立てた。これが「言論問題」である。

 この問題については、すでに多くの人物、団体が、それぞれの立場から論じている。

 ここでは、問題の渦中では見えなかったこと、後になって明確になった事実と疑惑について、いくつか触れたい。

             *

 まず火種となった本が出るまでの奇怪なプロセスである。藤原本人が内幕を語っている。

「私が書くんじゃない、学生のアルバイト使って、整理して、それをテープで私の味を出すために読みあげるんだ」(『週刊現代』一九七〇年一月二十二日号)

 酷評を浴びた。

 評論家の大熊信行。

「あの文章からは研究のあとがなにひとつ見出せない。学問的な基礎もなければ、背景もない」(『現代』同年五月号)

 読売新聞のコラムニスト高木健夫。

「池田会長に会っていないというのもいけない。他のノンフィクションの連中は、みんな会長に会ってから書いている。彼はそれをせず、頭の中の観念だけでやった」(『週刊現代』同年四月九日号)

 評論家の大宅壮一

「安易なプロセスによって書き上げられている。きわめてぞんざいな方法である。これではキワモノ出版といわざるを得ない」(『現代』同年三月号、以下同じ)

駅弁大学」「一億総白痴化」などの造語で知られたマスコミ界の大御所の評価にして「キワモノ出版」である。

 さらに、出版の時期について。

衆議院選挙まであと一カ月と十八日、選挙戦における秘密兵器の効果を狙ったと思われてもいたしかたのない時点で刊行」

「選挙のドサクサを利用し、お買い上げ的な効果を狙って出したという風に、第三者が解釈しても仕方のない一面を持っている」

「場合によっては恐喝の一歩手前」

 毎日新聞の記者・大森実。

 藤原と自民党幹事長(当時)・田中角栄の会談に苦言を呈している。

「赤坂に出かけるのはジャーナリストではない、取り引きであって、あれはジャーナリストとして落第です。筆者が筆者以上のことをしてはいけません」(『週刊サンケイ』同年三月九日号)


大宅壮一の後悔

 ここで挿話を一つ。

 一九七〇年(昭和四十五年)十月下旬、大宅壮一は息苦しさを訴え、新宿区の東京女子医大に担ぎ込まれた。

 弊誌『潮』の編集者が病床を見舞った。

 ベッドの上で大宅は、封印していた過去を静かに振り返りはじめた。

「私は『潮』との付き合いを通して、創価学会を知った。今になって思えば、大変にすまないことをしたと思うことがある」

 天井を見上げながら、苦い記憶を絞り出すように言葉を継いだ。

「昭和三十年代半ばのことです。全日仏(全日本仏教会)の幹部が泣きついてきた。

『最近、創価学会という宗教が勢いを増して、我々の信徒がゴボウ抜きのように取られている。このままじゃ、たまったもんじゃない。創価学会は、こんな嫌らしい宗教だ、と言えるような話はないだろうか』と。

 そこで、うちの若い衆に聞いてみたのです」

 若い衆。大宅グループと呼ばれた「ノンフィクション・クラブ」の若手ジャーナリストたちである。

「『創価学会は葬式で香典を持って行く』『位牌や仏壇を壊す』というのはどうか、となりましてね。根拠は何もなかったんだが……。

 これが全日仏を通して、一斉に全国に広がってしまったのです。言論人として、本当に申し訳なかった」

 大宅さん、今ごろ詫びても遅いじゃないか。編集者には思い当たることがあった。

 学会は池田第三代会長が就任し、破竹の勢いだった。やがて、どこからともなく「香典泥棒」などのデマが流れてきた。長年、不思議でならなかったが、その謎が解けた。

「火のない所に煙を立てる」

 大宅に傾倒した若手が、その煙の出どころだった。

 巧みなキャッチフレーズを駆使して、戦後ジャーナリズムを牽引してきた大宅グループ。贖罪の告白を終えた大宅の顔には、無念さが重くのしかかっているように見えた。

 入院から一カ月後、大宅は息を引き取っている。


▼愛知六区の怒り

 佐藤栄作は一九六九年(昭和四十四年)の師走に伝家の宝刀を抜いた。第三十二回総選挙が十二月二十七日に行われる。

 遊説隊の藤野和子(現在、中部婦人部長)は白手袋でマイクを握りしめた。「よろしくお願いします!」

 町工場と木造平屋が建ち並ぶ名古屋の路地を選挙カーが行く。

 初めての選挙で遊説隊になった。愛知六区は激戦区である。有力四候補が三議席を争う。

 遠くから湿った声が聞こえてくる。遊説コースが民社党塚本三郎の街頭演説所にさしかかっていた。公明を目の敵にする塚本。絶叫が響き渡った。

「私は、創価学会を叩き潰すまで戦います!」

 藤野は耳を疑った。

「これが選挙なのか。これが政治家なのか」

 塚本は、新宗連の中軸・立正佼成会の古くからの会員である。同会の幹部も経験した。

「宗教票がなければ当選できない」と言われた。

 塚本の選挙公報を読んだ学会員は驚愕した。一回り大きい太文字で強調された箇所がある。

「独善によって他の宗教を邪教ときめつけ、手段をえらばず政治を牛耳ろうとする公明党と対決し、敬虔な信仰の自由を守らなければなりません」

 体育館などでの立会演説会でも政策や実績は二の次三の次。学会への罵詈雑言ばかりを浴びせかけた。

「皆さん。公明党が天下を取ると、皆さんも南無妙法蓮華経と唱えさせられますよ」

創価学会は香典泥棒をする宗教ですよ。ロクな子どもがいないじゃないか」

 もう許せない。思わずイスから腰を浮かす。抗議の声をあげようとすると、一層マイクを響かせた。

「ご覧ください、皆さん、彼らはこうやって選挙を妨害する。独善だ。これが正体です」

             *

 特に塚本陣営の金城湯池だったのは、名古屋市南区である。

 塚本三郎が事務所を構える拠点だった。商店街、町内会、PTA……。街中が民社党一色だった。

 商店主が今も苦々しく振り返る。

「選挙になれば、事務所に一日、何回も行かされた。そうしないと除け者にされるんでね」

 逆らえない。まるで民社党の“城下町”である。

 陰湿な嫌がらせもあった。

 生活保護を受けるために、民生委員の判子が必要だった。しかし、ここにも民社党の息がかかっている。

 公明党の支持者に冷たい。捺印に難色を示す。子どものミルク代が欲しければ、こっちに寝返れ、と言わんばかりである。

 民生委員は弱者の味方ではないのか。なぜ政治信条を曲げなければならないのか。

 何かが狂っていた。


民社党の地盤・愛知

 学会員の家の戸を荒々しく叩く音がする。開けてみると、勤務先の労働組合幹部が「お邪魔するよ」。

 用件は選挙の投票確認である。

「どうか組合の指示に従ってもらいたい」

「…………」

 口を濁していると 「会社を取るのか宗教を取るのか。いったい、どっちなんだ」。

 同盟系の労組は塚本の票田である。職場でも不当な圧力を感じる会員が多かった。

 すみずみまで監視の目が光っている。会社でも、塚本の演説は「全員参加」である。出欠は、一人残らず名簿でチェックされた。

 それだけではない。選挙の翌日には、投票所で渡される 「投票済みのしおり」を持って出勤させられた。

「愛知民社」と呼ばれたほど、愛知県は民社党が強い。

 全盛期には、愛知一県で衆参六議席を確保していた。一九八三年(昭和五十八年)十二月の総選挙では、得票率が一八・八?(全国では七・二?)に達している。

 六九年十二月の第三十二回総選挙で、自民は圧勝した。

 敗北を喫した野党にあって、公明党は一気に党勢を拡大した。

 新聞の見出し。「公明躍進 第三党」「一挙に倍増、47議席

 二五議席から四七議席。わずか二度目の衆院選で、自民、社会に次ぐ第三の勢力になった。

 民社党は全般的に低調だったが、気を吐いたのは、やはり愛知だった。塚本も新宗連と労組の票をまとめて当選した。県内で二議席を獲得。対する公明党は全敗だった。

 だが、全国的には公明に追い抜かれ「野党第三党」に転落した民社党の衝撃は深刻だった。

 全国一二三選挙区。公明党の有力候補が立つ選挙区は「実質、定数一減」と言われたほどである。

 これは、やるしかないな。

「七〇年代の選択」と言われた総選挙だった。日米安保沖縄返還、大学問題……。年明けの国会は重要議題が山積みだった。

 ところが国会審議は、国民の思っても見なかった局面を見せる。

 七〇年二月中旬から、国会で社会、民社、共産の野党が「言論問題」を徹底して取り上げた。連係プレーで繋ぐ“役者”は誰かと見れば、いずれも選挙区で公明党候補と競合した議員だった。

 二月二十八日には、前述の通り塚本が予算委員会で質問に立った。

 池田会長の証人喚問を要求したのである。愛知で公明を制した塚本は、反公明連合の要だった。

 翌月十九日には、同じ民社党春日一幸(愛知一区)が政府に質問主意書を提出している。創価学会公明党は、憲法政教分離の原則に反していると主張した。


◆戦時下に生まれた会長夫人と岐阜の絆。

▼「あの白木さんが……」

 国会だけではない。「学会を書けば売れる」。一部の雑誌は競ってバッシング記事を増やした。

「また学会の悪口。どうしているかしら。かわいそうに……」

 堀秀子は目にするたびに心を痛めた。

 一九四五年(昭和二十年)春。

 岐阜市立高等女学校(現・県立岐阜北高等学校)に転入生が来た。戦争末期。疎開のためである。

 教師が紹介した。

「東京から来た白木さんだ」

 お下げ髪の少女が、きちんとした仕草で新しい級友にあいさつした。

「よろしくお願いします」

 白木さんか……。きれいな人だな。笑顔がいい。堀は、すぐに名前を覚えた。

 すでに女学生も労働に駆り出されていた。滅多に学校に行けず、軍需工場で働いた。

 毎朝、路面電車で岐阜駅に集合。四列縦隊で軍歌を歌いながら工場に向かう。セーラー服の上衣に、もんぺ姿。防空頭巾と救急箱を左右の肩から、たすきがけしていた。

 工場ではミシンを踏む女子工員を手伝い、パラシュートを作った。

 いつも堀は遠巻きに白木さんを見ていた。色白で物静か。少しカールした髪がフワフワと揺れる。あこがれの存在だった。

 同年七月九日、B29の焼夷弾を受け、岐阜市街地は一面焦土に。そのまま終戦を迎えた。

 ある年の同窓会。堀は思いがけず

「白木さん」の消息を知った。

創価学会の池田会長と結婚したそうよ」

 学会に関する記事を注意深く見るようになった。心ない中傷があまりにも多い。戦時下に咲いた一輪の花を傷つけられたようで胸が痛んだ。

 その後、堀に学会員の友人ができた。池田会長の人柄や、夫人が海外に随行し“ファーストレディー” の役を果たしていることを知った。

 あの微笑みは健在だった。

「苦労ばかりじゃなかった。白木さんは池田会長と共に生きて、世界一幸せだったんだ」

 会長夫人に短歌を贈った。

「お下髪 揺れし面影 残りいて友は微笑み 世のため尽くす」

 その事実を知ったとき、岐阜高女の卒業生・藤居操は興奮で夜も眠れなかった。

「まさか! あの白木さんが」

 一九六七年(昭和四十二年)、学会に入会。だが池田会長の夫人が同級生だったとは。

 思い切って学会本部に手紙を出してみた。さっそく丁重な返事が届いた。

 本当だった。あの白木さんだった。

 文面には、自分が忘れていた出来事まで綴られていた。

 ――東京から来て運動靴を履いていた私に、みんなと同じ、わら草履をくださいましたね。

 その後も、文通が続く。

 愛知・春日井市の藤居宅を訪ねると、仏壇の横に置いた箱から手紙の束を大事そうに取り出した。

 「全部、大切に持っています」

 人目につかず、つつましく。岐阜には会長夫妻との深い絆があった。


▼「どこにでも出るぞ」

 しんしんと雪が降る日だった。午後九時過ぎ、箱根研修所(神奈川県)の電話が鳴り、池田会長が受話器を握った。

 一九七〇年二月二十八日。塚本が証人喚問を要求した日である。

 学会本部から幹部が事態の推移を伝えてくる。

「そうか。私は逃げも隠れもしないよ」

 電話の向こうでは「先生、そんなことをなさらないでください。私たちが対応します」と必死の口調である。

 何度か同様のやりとりが続いた。

 会長は電話を置くと振り返った。

「これから東京に帰ろう」

        *

 午後九時半、箱根を発った車が学会本部(東京・信濃町)に着いたのは、深夜十一時十五分。会長の自宅に首脳が集まった。すでに各所からの情報も揃っている。証人喚問の要求をめぐって議論が続いた。

 実は日本の政界は「宗教家の国会召喚」にかけて“実績”があった。一九五六年(昭和三十一年)四月と六月の二回にわたって、衆議院法務委員会で当時の立正佼成会会長・庭野日敬参考人招致された。

 会の財政、布教の仕方、教義などをめぐっての招致であったが、狙いは保守党による同会の取り込みにあったというのが定説である。

 事実、立正佼成会は保守党の「無二の支持基盤」となる。日本の政界にあって証人喚問や参考人招致は、宗教団体への脅し、弾圧の手段であったといってよい。

             *

 周囲は狼狽した。会長は、泰然としていた。

「私は、どこにでも行く。何でも話す」

「国会に来いと言うなら、行こうじゃないか」

「堂々と論陣を張る」

 同席の幹部は、会員の動揺を強調した。会長が国会に出れば、事の当否はどうあれ、多くの会員が悲しむ。学会のイメージダウンは避けられない。

 特に中部の会員の悲しみ、悔しさは、計り知れないだろう。

「どうか、もうしばらく推移を見守ってください」

 最後は、首脳の懇願を会長が受け入れた。話し合いが終わったのは、明け方の四時半だった。

 証人喚問。

 言論人たちは、どのように見ていたのか。

 作家・有馬頼義

「『言論の自由』の本質的課題が忘れられ、党利党略の、政争の具と化しているきらいがある」

 毎日新聞論説主幹・枝松茂之。

「筋としては裁判所においてその黒白をつけるべきものではないか。国会が余り深く立入るべき問題ではない」

 中国文学者・評論家の竹内好

「マス・コミは政府や広告スポンサー、つまり自分より力の強いものには弱いが、悪をなし能わぬ弱者に対しては強い。

 そのため言論の自由問題ではしばしばスリカエ論法が行使される。政党もほぼ同様である。国会や新聞で言論による言論問題が展開されていると思ったら大まちがいだ」



▼朝日記者の目

 不思議なことに学会の中傷を繰り返す顔ぶれは決まっている。

 当時で言えば、毎日新聞の記者だった内藤国夫

 学会幹部がたまりかねて抗議した。

「何を根拠に書いているのか」

「そういう手紙があるんだ」

「それだけで信じるのか」

「私が本当だと思えば、本当だ。これが根拠だ」

 オレがルールブックだ。神でなければ精神的破綻者の発言であろう。



◆「私は逃げも晴れもしない。何でも話す」

 マスコミの集中砲火を浴びて、こそこそ隠れる人は多い。池田会長は逆に積極的だった。

 取材を受けよう。どんどん書いてもらおうじゃないか。

 幹部に語っている。

「徹底的に取材に応じる」

「資料は何でも出すように」

 朝日新聞の記者が、静岡県にいた池田会長を訪ねたのは、一九七〇年(昭和四十五年)一月二十日の午後六時過ぎだった。富士の山容も、すでに夕闇の中にとけこんでいる。

「二人だけで」との約束である。顔を見た瞬間、はっとした。いつもの輝きがない。


「どうも非常に身体の具合が悪いので、大変失礼ですが、横にならしていただきたい」

 ソファに横になった。

 前年末、高熱の身体を押して強行スケジュールで地方指導に回った無理がたたった。

 会長を取材して、かれこれ七年になるが、これほど病んだ姿は初めてだった。それでも四時間近い取材に応じた。

 記者は印象を綴っている。

「はっきりしていることは、人事のすりかえなどで事態を乗りきるというような考え方を、池田は持っていないということだった」



草柳大蔵への詩

 ノンフィクション作家の草柳大蔵も、一九六〇年代後半に会長をマークしている。

 最後の取材場所は、神奈川の箱根だった。研修所に入ると、背の高い、真っ白なススキが迎えてくれた。

 会長を追い続けた日々が思い起こされる。仙台、広島、山口。静岡に一週間も滞在し、連日、三時間、四時間と取材したこともあった。

 生い立ち。青春時代。戸田城聖第二代会長の訓練。会長としての責任感……。

 すべてに忌憚なく答えてくれた。

 会長が白い浴衣姿で現れた。手に数枚の原稿用紙を持っている。

「草柳先生、こんなものを書きました」

 手渡され、目を走らせた。独特の右肩上がりの文字。即興の詩だった。

「爽やかな日 別れの日から

 よしや相見ることの叶わなくとも

 わたしはよもや忘れまい

 呼び合う心と心の実在を

 刹那の永遠にかけて信じよう」

 行間からあふれる真情に打たれた。

 草柳は『池田大作論』を出版する予定だった。書きためた長細いメモ帳は一〇〇冊にもなっただろう。それが月刊誌に二、三度、寄稿しただけで終わった。

 なぜか――。すでに草柳が故人となった今、知る由もない。ただ取材すればするほど、会長の人格に圧倒されたという。

「彼のように、ひとつの言葉が社会の巨大なエネルギーに転化するものは類例をみない」(『文藝春秋』六九年九月号)

 会長との「信義」を残して筆を擱いた。大宅壮一門下の俊秀であり、日本の週刊誌の文章スタイルを一人で確立したとまでいわれる草柳の結論であった。

 かたや、会長に直接取材する機会も拒否し、中吊り広告を打つ段階ですら「内容は全く白紙だった」と言い放つ者がいたにもかかわらず。



▼「二十一世紀を見てください」

 仏法には「変毒為薬」のたとえがある。言論問題という試練を、いかに飛躍の糧にするか。会長は一つの答えを出した。

 以前に増して青年と語った。

 入社数年の学会職員と懇談。学会本部、聖教新聞社の食堂でも席を並べて食事した。

 自分が話すより、青年の声を聞いた。言論問題についても率直な意見を求め、じっと耳を傾けた。

 懇談の折、一人の編集スタッフが尋ねた。

「言論問題について論陣を張ったほうがいいでしょうか」

 予期せぬ答えが返ってきた。

「自由にやりなさい。場合によっては、私のことを批判しても構わない」

 未来に布石を打った。十代の少年少女を直接、薫陶する人材グループ「未来会」の結成に踏み切った。

 学会本部の一室は数十人の記者団で、ごった返した。一斉にフラッシュがたかれる。池田会長が入室した。

 一九七〇年(昭和四十五年)五月十六日の午後である。

 記者の質問は、学会と公明党の関係に集中した。会長は二週間前の本部総会で宣言した、いわゆる“政教分離”の断行を改めて明言した。

 一人の記者が手を挙げた。

「さすがに学会も、お先真っ暗じゃないですか」

 さぞや困っているだろう。困っている相手の傷に塩を塗ってみたい。そんなヌメッとした底意地の悪さが顔を覗かせていた。

 言下に答えた。

「学会がどうなるか、二十一世紀を見てください。社会に大きく貢献する人材が必ず陸続と育つでしょう。その時が、私の勝負です」

 二十一世紀。思ってもみなかった言葉に、記者は呆気にとられた。

   (文中敬称略、〈下〉に続く)