129 桜花の「4・2」に恩師を思う(中)


偉大なる

  恩師と共に

   学会は

  三障乗り越え

    三類勝ちたり

 落花芬々の愛する学会本部の周辺を車で走ると、青山墓地の並木道にも、満開の桜が王者の如く悠然と咲き誇っていた。

 半世紀前の四月、わが永遠の師・戸田城聖先生の学会葬を行った場所である。

 ここに来ると、今も、戸田先生の思い出が無量に湧きあふれる。

     ◇

 来る日も来る日も、戸田先生は苦しんでおられた。苦難の連続であった。

 二年間の獄中生活を終えると、時代は大きく変わり、自身の事業も火の車であった。

 私は十九歳の時に先生にお会いし、そして、その事業をご一緒に戦い抜いた。

 学会の激戦の前途も、嵐で先が見えない。事業もまた、多くの借財で全く先が見えない。ほとんどの社員は、「戸田に騙された」と言って去っていった。

 痩せ衰えた先生は振り絞るように、若い私一人を信頼して、「阿修羅の如く戦ってくれ!道を開いてくれ給え!」と、万感の思いをもって叫ばれた。

 私は即座に答えた。

 「わかっております。命を捨てて、先生をお守りします。学会も、先生の事業も、必ず挽回させます」

 先生の目には、涙が光っていた。荘厳な人間絵巻であった。

 総仕上げの4年間 

 「人生の幸不幸」は、途中ではわからない。最後がどうかで決まる。特に、総仕上げの四年間が大事だ」

 よく先生は、強調されていた。

 年配になった私も、全く先生の洞察に同感である。

 先生は、仏教の大家であった。

 明晰なる哲学者であった。

 数学の天才であった。

 万般にわたる大博士であられた。

 私は、一年三百六十五日、いな全青春を、この峻厳にして偉大なる師匠のもとで勉強し、生き抜くことができた。それだけでも、私は勝ったと、大満足の胸中であった。

     ◇

 確かに、日蓮大聖人の晩年の四年間も、総仕上げの「出世の本懐」を果たされ、令法久住のために、最重要の大法門と御事績を残された年代であられる。

 日興上人を二祖として決定なされたのも、その一つであった。

 すなわち、「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」の日興上人に、全同志は続け、との断固たる命令も、この年代であられた。

 それとともに、あの有名な熱原の三烈士が、大法難にも屈せず、日蓮門下の偉大な歴史を示し切ったのも、この年代である。

     ◇

 わが戸田先生も、最終期の四年間、「立正安国」の大道を開かれ、戦い、生き抜いてこられた。そして全生涯の願業である七十五万世帯の達成も、見事、成就なされた。

 それは、私が昭和二十九年の三月、先生から直々に青年部の実質的な最高指導者としての任命をいただいてより、全青年部を、いな、全学会を牽引して、勝ちまくってきた四年間でもある。

 あの大阪事件の昭和三十二年の七月──。私は大阪拘置所に拘束される。

 私は、戸田先生には指一本たりとも触れさせぬ金剛の決心で戦い抜いた。学会の崩壊を防いで、護り抜いた。国家権力は恐ろしいものだ。

 先生が、あの横浜市神奈川区三ッ沢の競技場で、数万の青年たちを前に、「原水爆禁止宜宮」を青年部への遺訓とされたのは、この年の九月のことであった。

 十一月には、広島行きを決定しておられた。平和原点の都の戦友を、深く激励されたかったのである。

 だが、その計画は叶わなかった。先生は無理を重ねた激闘のゆえに、それはそれは疲労困憊(ひろうこんぱい)しておられた。

 私も、先生の体を心配し、広島行きを延期するように懇願した。

 「大作、何とか行かせてくれないか。お前も一緒に行ってくれ!」

 痛切な叫びであられた。

 しかし、足は動かない状態であられた。

 医師からも、出発は厳重に止められた。診察の結果、先生は、黄疸(おうだん)や腹水(ふくすい)もあらわれ、重篤の肝硬変症を起こされていたのである。

 これ以後、先生は、ある時は医師の治療を受けられながら、そしてまた家で静養されながら、八十日間にも及んだ闘病によって、敢然と病魔に打ち勝たれた。

 年を越した二月十一日は、五十八回目の誕生日である。私は、お元気になられた先生をお迎えして、快気祝いをさせていただいたのである。

 そして、先生は、桜の満開になりゆく前の三月いっぱい、ありとあらゆる後継者たちに、指導、薫陶を重ねておられた。

 いつも私は側にいた。いな、本部におられる時も、ご自宅に帰られた時も、病院においても、陰に陽に、私は、常にお仕えするただ一人の弟子であった。

 先生は、悠々と療養され、休まれながら指揮を執って、指導してくださった。

    ◇

 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは(障)りをなすべきや」(御書一一二四頁)  「色心の留難(るなん)」を勝ち越えられた先生の軌跡は、治療に尽力された医師団をも驚嘆させた。

 御義口伝には、「我らが生老病死に際して、南無妙法蓮華経と唱え奉ることは、そのまま常楽我浄の四つの徳の香りを吹き薫らせることになるのである」(同七四〇頁、通解)との甚深の大聖人の仰せがある。

 妙法の極理に通達された大哲人であられる先生は、「常楽我浄」という、永遠なる生命の光り輝く法則を、私たちに開き示してくださったといってよいだろう。

 この「生も歓喜、死も歓喜」の生死観を、私は世界の知性に語り伝えてきた。

 「第3代と進め!」 

 「自分が死んだら、大宇宙の他の星に行って、その星の広宣流布のために働かなければならない。地球の広宣流布は、わが弟子に任す」

 常々こう言われていた先生は、逝去の約一週間前、居合わせた青年たちに語られた。

 「戸田亡き後は、第三代会長になられる方が、広宣流布のすべての指揮を執り、世界広布の理念と方法のレールをちゃんと敷いてくださる。

 四代から先は公平な方であれば、誰が会長になっても困らぬように、第三代が仕上げてくれます。

 第三代の教え通りに実行していけば、世界の広宣流布は必ず必ず実現できるのです」

 その場にいた幾人かの友が、咄嗟に大事なお話と思って、メモに書き留めた遺言である。

 一切は弟子で決まる。

 御聖訓には厳然と仰せだ。

 「よき弟子をもっときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟。地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(同九〇〇頁)

 昭和三十三年の三月三十日、私は東京に行き、ご家族と相談して入院の手配を万端整え、翌日、師のおられる総本山へ戻った。

 四月一日の午前二時過ぎ、先生は、布団に身を横たえたまま、車で理境坊の宿舎を出発された。私は、一睡もせず、お供をした。

 沼津駅を午前四時二十分発の急行に乗り、午前七時前、東京駅に到事した。そして、そのまま駿河台の日大病院に入院されたのである。

 私は、最善の治療をお顔いして朝九時過ぎ、病院を後にした。

「鳴呼(ああ)4月2日」 

 翌四月二日。東京は、曇り空で肌寒かった。

 私は、心急く思いで、朝、青年部の緊急の幹部会議を招集した。

 席上、先生のご回復を祈って、明朝から一週間、代表が学会本部で勤行を行うことを提案したのである。

 先生のため、命を投げ出しても、今、できることは何でもさせていただきたい。平癒(へいゆ)を祈った。ただただ祈った。

 朝方は先生のご容体が落ち着かれていたと聞き、私たち弟子は歓喜した。いよいよ祈りを強くしていったことを、今でも鮮明に覚えている。

 夕方の五時には、学会本部に、理事室、青年部の首脳が集まり、翌日に予定されていた本部幹部会、四日後の教学部の任用試験などの協議を始めていた。皆、先生のご回復を確信しながら......。

 打ち合わせが、ほぼ終了した頃、本部の管理者がドアを叩いた。病院のご家族から、私あての電話であった。

 管理者室に走って受話器を取ると、驚く悲報が入った。

 「ただ今父が亡くなりました」1

 この一瞬の衝撃は、今なお筆舌に尽くせぬ。わが内奥に永遠に留めるほかはない。

 わが師匠・戸田城聖先生は、午後六時三十分、急性心衰弱のため、崇高なる「方便現涅槃」のお姿を示されたのである。

 前日、病院までお供をするなかで拝見した、安心されきった師の温顔......。

 それが、今生のお別れとなってしまった。

 私は、万感の思いで、皆にその速報を伝えた。すぐに、重大会議となった。そして、急ぎ病院に飛んだ。

     ◇

 その夜、私は、日記に記した。

 「鳴呼、四月二日。

 四月二日は、学会にとって、私の生涯にとって、弟子一同にとって、永遠の歴史の日になった」

 「妙法の大英堆、広布の偉人たる先生の人生は、これで幕となる......」

 だが、仏法は深い。仏法の法則は正しい。

 亡き先生は、未来永遠にわが胸奥の「九識心王真如の都」に生きておられるのだ。

 戦う弟子を叱咤し、励まし続けてくださるのだ。

 広宣流布へ、ただただ広宣流布へ──。

 我は一人立つ! 

 不惜身命の師であった。 

 死身弘法の師であった。

 勇猛精進の師であった。

 師子奮迅の師であった。

 忍難弘通の師であった。

 破邪顕正の師であった。

 その常勝の闘魂を、師は真実の弟子に遺された。

 ゆえに一瞬たりとも、学会の前進を止めるわけにはいかなかった。私は、新たな旭日が昇りゆくが如く誓った。

 ──増上慢な弟子はやがて去っていくだろう。狡賢い邪知の弟子は、学会の悪口を言い始めるであろう。

 恐ろしいのは人の心だ。

 恐ろしいのは師の恩を忘れることだ。

 今こそ、広宣流布の決戦の第二幕を、常勝の金の幕を開くのだ!

 我は立つ! 我は勝つ!

     ◇

 「わたしにとってただ一つの生きる道は、信じそして戦うことであった」

 フランスの詩人エリュアールの叫びである。

 翌四月三日は、本部幹部会の日であった。

 悲しみを胸に秘めながら、豊島公会堂に集い合った同志を、私は全精魂を込めて励ました。

 「先生の御命は、わが創価学会、われわれ弟子と共に、永遠に生きていらっしゃると信ずるものです」

 「いかなる天魔どもの圧迫があろうが、先生から訓練を受けたわが青年部ある限り、何ものにも絶対に負けないと確信する!」

 そして、海よりも深く、山よりも高い、先生の大恩に報いる、我ら弟子の大闘争を訴えたのである。

 続く四日には、品川公会堂で幹部会を行った健気な女子部に、万感の伝言を贈った。

 ──堂々と進め! 勇敢に進め!

     ◇

 戸田先生が、私たち弟子のため、そして、人類のために残された最高の宝は何か。

 それは、この「創価学会」という、地球上で唯一つ、広宣流布の聖業を成しゆく、地涌の菩薩の教団であり、崩れぬ師弟の魂の結合体であるのだ。

 常住此説法の心で 

 日蓮大聖人は、御本尊を顕され、末法衆生のために、妙法の当体たる御本仏の大生命を留め置かれた。

 それは、法華経如来寿量品に「我常在此婆婆世界、説法教化」(我れは常に此の婆婆世界に在って、説法教化す)と記されている通り、仏が常にこの現実世界で、民衆を幸福と平和へ導いていく力用であられる。

 この大聖人の生命の真髄に直結なされた先生は、獄中の悟達において、地涌の菩薩として、大法を私めゆく大使命を自覚されていったのだ。

 そして、広宣流布という永遠不滅の仏意仏勅を実現しゆく、金剛の師弟の組織を隆々と築き上げられた。広布の太陽は昇り、赫々と世界を照らし始めた。

 この創価師弟不二の大城がある限り、仏の「常住此説法」の大精神そのままに、妙法の命脈は断じて途絶えることはない。

 それゆえに、戸田先生は、学会の存在は、未来の経典に、必ず「創価学会仏」と記されるであろうと、深く洞察され、強く断言なされたのである。

 創価学会を厳護することが、正法を厳護することである。

 創価の生き生きとした対話の拡大が、平和の拡大である。

 創価の師弟の勝利こそが、広宣流布の勝利なのである。

 イタリア統一の英雄マッツィーニは展望した。

 「さらに深く、さらに幅広く、人々と連帯することによって、我々の力は何倍にも大きなものとなる。

 さらに、その連帯は、我々が果たすべき使命の舞台を広げる」

 仏法は

   勝負なりせば

 大聖人

   広布の勇者を

     断固と護らむ