129 桜花の「4・2」に恩師を思う(下)
偉くなれ 弟子が偉くなれ!
社会に「真実」と「力」の実証を
三世に薫る
桜花
それは、さながら光り輝く「桜の城」であった──。
春爛漫の八王子。花また花の丹木の丘の上に、わが創価の学舎はそびえ立っている。
今年も、日本全国はもとより、世界中から、多くの若き英才たちが勇み集ってくれた。
これこそ、牧口常三郎先生と戸田城聖先生が夢に描かれた「創価教育の大城」である。
創価大学、そして創価女子短期大学の入学式が行われた四月二日。
はるばる、ご来学くださったブラジル哲学アカデミーのモデルノ総裁より、私は「名誉博士号」を拝受した。
五十回目の「4・2」──深遠な哲学者であられた師・戸田先生に、私は、この栄誉を捧げることができたのである。
◇
「お前が、わしの葬式をするのだ」──ご生前、先生から託された厳命である。
私は、葬儀会場の決定をはじめ、一切の運営の責任を担った。
昭和三十三年の四月八日。薄曇りのこの日は、戸田先生の告別式の日であった。
恩師の遺言に従って、ご遺体を七日間お護りしての葬儀となったのである。
先生をお乗せした車は、ご自宅を出発した。
青山墓地の桜並木の通りは、満開となっていた。
その落花芬々(ふんぷん)の雪の如く舞いゆく桜の花に包まれて、広宣流布の師であられる王者の荘厳なる葬列が進んだ。
辛くとも
嘆くな友よと
歌いたる
恩師の心を
いだきていざ征け
◇
桜の木々が葉桜に変わっていた、その四月の二十日──。
青山葬儀所で、厳粛に、そして盛大に学会葬が執り行われた。全国から、多くの多くの先生の弟子が集った。
各界からも、多数の参列者が見えた。
「3・16」には来られなかった岸信介首相も、文部大臣らと焼香に訪れてくださった。
後に私は、岸首相の自宅へご挨拶に行った。
その折、首相は、「あなたのことは、戸田会長から、生前、よく伺っております。次の会長は、あなたであることも伺っておりました」と旧知の如く言われた。
師の打ってくださっていた一つ一つの布石は、なんとありがたいことであろうか。
◇
大聖人は「悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り姶はん事・歓喜の感涙押え難し」(御書一三三七頁)と仰せであられる。
師の薫陶を受けた多くの弟子たちの報恩感謝の題目が、無量無数に先生を包んだ。
私の胸は、師の志を継いで、新たなる千万の力を出す勢いで、追善の法要をさせていただいた。涙よりも、未来の広宣流布の壮大なる光が走っていった。
「弟子が偉くなることが、師匠を偉くすることだ」
これは、ある有名な哲学者の言葉である。
素晴らしき師匠を持った弟子は、素晴らしき弟子を持ったことを自負する師匠と、生命の奥底で冥合していたにちがいない。
◇
戸田先生は、よく青年を励ましてくださっていた。
「全世界にあって、いかなる指導者も、成功者も、みな、悪口を言われ、叩かれてきたのだ。言うに言われぬ苦しみを味わいながら、それを乗り越えていった。その人こそが真の勝利者である」
戸田会長の死を契機に、世間では「必ず学会は空中分解する」など、多くの悪口罵詈や誹謗中傷が吹き荒れた。
当然のことである。一つも驚かなかった。
虚偽を打ち破れ!
「公正さに背く愚かな者どもが、無駄口を弄しては、優れた人々のいさおし(功労)を覆い隠そうとする」
偉大な人物を見抜けぬ、愚かな人間の心は、浅ましいものだ。
チェコの哲人指導者マサリクが喝破した通り、常に嘘は「暴力者の武器」である。
だからこそ、邪義と虚偽の言論の暴力を、はるかに圧倒しゆく「正義」と「真実」の大音声をあげねばならぬ。
章安大師の説く、「声仏事を為す」の真髄とは、このことなのである。
アメリカの人権の指導者キング博士は達観していた。
「すべての偏見は邪悪なものである」と。
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現実の人間と社会を離れて、真の宗教があるわけがない。
トインビー博士も明快に、「宗教は、個人的活動であると同時に、社会的活動です」と論じておられた。
人間を善くし、社会を善くし、「幸福」と「平和」を創りゆく力のなき宗教であれば、それは観念論である。真実の宗教ではない。
私が尊敬する、核兵器廃絶を目指す科学者の連帯「パグウォッシュ会議」の会長であるスワミナサン博士の言葉を、綴っておきたい。
「もし生命の真実を知りたいと願うならば、宗教を理解し、宗教の説く原理を求めていく必要があります。宗教は、生命とは何か、人間とは何かについて、多くの洞察をもたらしてくれるからです」
この博士の論調を読んだ、若き優秀な科学者は語っていた。「全く、その通りだ。信仰もしない、われわれ若造が偉そうなことを言ってきたが、全く恥ずかしくなった」
ともあれ、戸田先生亡き後、我らの五月三日を目前にして、私は一人、誓いも深く、日記に書き記した。
「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。......本門の青春に入る」
私は生まれ変わって、師子の如く、全国を走りに走った。戦い続けた。阿修羅の如く、勝利の若き王者となって、奮い立った。
マハトマ・ガンジーは、「逆境を乗り越えることは人間の特権である」と結論している。
私は、いつ倒れるかもしれないほど、ありとあらゆる三障四魔と戦い抜いた。三類の強敵と戦い切った。
「大誓願を以て師子吼せよ」との法華経の経文を胸に、師の正義を叫び抜いた。
「広宣流布の指導者は、『スピード』をモットーとせよ!」とは、師の遺訓である。
先生の逝去後、私は百日の間に、関西を起点に、ほぼ全方面の同志を激励した。
師の魂は不死なリ
ガンジーの直系の著名な哲学者ラダクリシュナン博士は、断言された。
「真の師匠に『死』というものはありません。師の魂を受け継いだ、真正の弟子の行動の中に生き続けるからです」
彼は、私の最も親しい友人の一人である。二年越しの対談の連載も、有意義に終えることができた。
◇
世界の知性と対談集を残して、理解と友情を広げていくことも、戸田先生の指針である。本当に、先生の慧眼の通りとなった。
先般、四度目の語らいをしたモンゴルのエンフバヤル大統領も、お会いするたびに、トインビー博士と私との対談集への感銘を語ってくださる。「道に迷った時には、この対談集を開き、前進の糧としてきました」とも言われていた。
特に、対談の一つの焦点となった仏法の「業(カルマ)」の思想への共鳴は深い。
エンフバヤル大統領は、オランダのラジオ局の取材に対しても、語っておられた。
「仏教の哲学は、大統領であれ、市民であれ、常に、心に留めておくべきものです。
たとえば『業(カルマ)』は、自分の今の行動が、未来の自分の人生に影響を与えるという考え方です。
こういう思想があれば、人は、今の行動に、より責任を感じるようになります。これは、仏教が世界に発信する重要なメッセージです」と。
四十八歳の楓爽たる哲人大統領は、繰り返しモンゴルへ招聘してくださっている。
「日蓮大聖人の教えは、困っている人びとを助け、国家間の争いを無くし、相互に理解させる力であると教えていただきました」
「モンゴルには、池田先生の哲学が必要です」
「池田先生が作っておられる『大いなる道』に、私たちの道も合流します」等々──。
思えば、戸田先生がモンゴルヘ寄せる心情も、格別に深かった。
「大作、二人で、モンゴルの大草原を走ってみたいな」と言われたことも、懐かしい。
私は、不思議な縁で結ばれたモンゴルの無窮の繁栄を真剣に祈り続けている。
◇
大聖人の御聖訓にいわく、
「いかなる大善をつく(作)り法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せ(責)めざれば得道ありがたし」(同一四九四頁)と。
つまり、法華経の敵と戦わなければ、真実の仏にはなれない。成仏できない。法華経の行者ではない。
いくら御書を読み、経を唱え、格好だけ立派そうに信心をしても、そこには全く法華経の精神は通じていないのだ。
法華経の敵と戦うことだ。この一点が仏法の真髄である。大聖人の御精神の究極であり、我ら学会の根本である。
それを知らぬ大聖人の弟子は違背した。
それを知らぬ牧口先生の弟子も、退転していった。
戸田先生の弟子もまた、同じ方程式であった。
私は、この一点を最重要視して、心に留めてきた。
毎年、めぐり来る四月の二日は、私たちにとって、一段と厳しく、勝利への闘争を誓い合う日となっている。
かの高杉晋作は、二十五歳の時に、師である吉田松陰の墓前で決意の詩を残した。
「自ら愧(は)ず 未だ能(よ)く 舊寃(きうえん)を雪(そそ)ぐ能(あた)わざるを」
──師の仇を討たぬ限り、弟子としての本懐を遂げることはできない。
この姿が弟子の道である。
この決意でなければ、真の弟子とはいえないのだ。
未来へ全世界へ!
昭和三十九年の七回忌には、師の遺言である広布三百万世帯を遥かに超える拡大をもって、私は恩師に報告申し上げた。嬉しかった。本当に満足した。
そして私は新しい実行を始める用意をした。
それは、小説『人間革命』の連載である。戸田先生を中心として、世界平和、広宣流布、人類の未来を決する哲学論、宗教論を展開する原稿の執筆である。
その年の十二月の二日から、私は断固たる決意をもって、この『人間革命』の原稿を沖縄の地で書き始めた。
沖縄の方々の悲惨なる戦争の苦悩と涙と口惜しさを身に深く感じながら、私は全精魂を打ち込んで綴った。
「戦争ほど、
残酷なものはない。
戦争ほど、
悲惨なものはない」
広宣流布への私の壮大な指揮は、恩師・戸田先生の心から造る指揮と同一していることを確信していた。
まず「教育革命」を成しゆく創価学園の建設であった。その創立の日を、私は初代・牧口先生の殉教の日「11・18」とした。
さらに創価大学の開学を、牧口先生の生誕百周年の年として、その開学の日は、二代・戸田先生の祥月命日である「4・2」と定めた。
これが、師弟の心である。
これが、三代の心であった。
一九七四年、アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に招聘をいただいた私は、日本が四月二日の朝を迎えた時刻に、記念講演の第一声を発した。
「戸田大学」の講義の折々に、先生は語られた。
「勉強だよ。勉強だ。妙法の智慧者とならなければ、今後の大使命は果たせない。
社会万般のことは無論だが、全世界の運命のなかに、自分というものを置いて、そこからすべての発想をすることが、必要な時になっている」
「戸田大学」の卒業生として、世界的な名門学府や学術機関で行った講演は、ハーバード大学、モスクワ大学、北京大学、ボローニャ大学等々、三十二回を数える。
すべて、ちっぽけな島国根性の日本で迫害されてきた、偉大なる師の思想を、広々と全世界に宣言し、流通しゆく知性の戦であった。
フランスの作家サン=テグジュペリの言葉を、私は思い出す。
「きみという人間はきみの行為自体のなかに宿っている。きみの行為こそきみなのだ。もうそれ以外のところにきみはない!」
◇
勇み立て
広宣流布の
法戦に
勝利の歴史を
大きく飾れや
戸田先生は、先師・牧口先生の三回忌法要の折に、語られた。
「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。
そのおかげで、『在在諸仏士・常与師倶生(ざいざいしょぶつど・じょうよしぐしょう)』と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができました。
なんたるしあわせでございましょうか」
なんと崇高な、報恩感謝の深き心であられることか。
ここにこそ、仏法の師弟の極意の姿がある。
青年時代より、私は、この先生の厳然たる言葉を生命に刻みつけてきた。
「在在の諸仏の土に常に師と供に生ず」──法華経の化城喩品には、真実の仏法の師弟というものは、あらゆる仏国土にあって、いつも共に生まれ、いつも共に菩薩の実践をすると説かれている。その通りの創価の師弟である。
私は、仏法の師弟に生き抜けば、永遠不滅の妙法に則り、永遠に常楽我浄の生命を謳歌することも確信した。そして永遠に、人間にとって最も尊厳なる尊き大使命を果たしゆく行動ができることを知った。
ああ、師弟の道こそ、最尊無上なる自分自身の勝利への遣なのだ。
戸田先生は、言われた。
「私を知った人間は幸せだ。みな覚悟して、ついて来なさい!」
十九歳で先生にお会いして六十年。先生が逝去されて五十年......。
私は師匠・戸田先生と苦楽を共にし、師弟の大道に生き抜いてきた。徹し抜いてきた。悔いなく全うした。
◇
戸田先生は、私たち夫婦の結婚のためにも、慈悲深く指導し、労をとってくださった。慈父の心は、あまりにも深かった。
昭和二十六年十二月には、まず、お一人で白木家へ赴かれた。妻は銀行へ勤めに出ていたため、同席はしておらず、白木の両親に話をしてくださった。
その数日後には、私の実家の池田家へも、お一人でご来訪くださり、当然、結婚の話を父母にしてくださったのである。
深い深い、弟子を思われる先生のご行動に、両家とも、それはそれは驚き、恐縮し、感謝申し上げた。
さらに結婚式も、学会の伝統の一番大事な五月の三日に決めてくださったのである。
私たち夫婦は、いかなる時も、胸中で先生と深く楽しく対話をしながら、猶多怨嫉の大難を乗り越えた。
そして、卑劣極まる僧聖増上慢らと戦い、すべてを勝ち越えてきた。
薪火相伝の原理
大鵬は
世界を巡りて
恩師から
誉れの弟子よと
見つめむ嬉しさ
この四月二日、大中国の「史学大師」として名高い章開?先生と再会を果たした。
章先生は、『荘子』に記された「薪火相伝(薪が自らを燃やすことによって火を伝えていくこと)」の原理を通して、語ってくださっている。
「牧口先生から戸田先生へ、戸田先生から池田先生へと、三代の会長に平和の信念が厳然と受け継がれてきたことは、まさに『薪火相伝』と呼ぶにふさわしい壮挙であります。
その偉大なる炎は、これからも、池田先生から若き後継の青年たちへと綿々(めんめん)と受け継がれていくことでしょう」
正義の師弟に徹してきたからこそ、世界の良識は、創価を絶対に信頼してくださるのだ。
◇
仏法は
勝負の戦(いくさ)と
経文に
説きたる通りの
我らは道征く
「この世から悲惨の二字をなくしたい」と、戸田先生は念願なされた。
その通りに、私たちは、「一閻浮提広宣流布」という人類の平和と幸福の夜明けを勝ち開いていくのだ。
ああ、私たちの「師弟誓願の原点」四月の二日よ!
ああ、私たちの「師弟勝利の元旦」五月の三日よ!
師と、運命を共に!
師と、苦楽を共に!
師と、目的を共に!
そして永遠に
師と、勝利を共に!
天の時
遂に来たれり
勝ち抜けや
広布の魂
胸に燃やして