第二総東京を讃う



晴れ晴れと

  第二東京

    勝利あれ

  広布の行進

    世界の模範と

私には

どこよりも愛する

教育と文化の新天地がある。

それこそ

わが第二総東京の宝城だ!

私には

誰よりも信頼する

真剣と誠実の同志がいる。

それこそ

わが第二総東京の宝友だ!

私には

何よりも誇りとする

勝利と栄光の歴史がある。

それこそ

我ら第二総東京の大発展だ!

ああ 第二総東京!

それは

大法戦の春秋に

日蓮大聖人も歩まれた

仏法有縁の大地なり。

文永八年(一二七一年)の十月

大聖人は鎌倉街道

法難の佐渡へ向かわれた。

町田(まちだ)へ 府中(ふちゅう)へ

そして久米川(くめがわ)(村山)へ

一歩また一歩と──。

さらにまた

文永十一年(一二七四年)の三月

身命に及ぶ四年越しの大難を

厳然と勝ち越えられ

この麗しき武蔵野に凱旋なされ

そして鎌倉へ打ち入られた。

広大なる武蔵野は

蓮祖の仏眼に

いかばかり鮮烈に

映(えい)じ刻まれたことか。

御聖訓には

「仏・虚空に立ち給いて

 四百万億那由佗(なゆた)の世界に

 武蔵野のすすきのごとく

 富士山の木のごとく

 ぞくぞくと」と

仰せになられている。

これは

法華経の嘱累品(ぞくるいほん)第二十二に

説き明かされた

付嘱の儀式の姿である。

すなわち

師匠から弟子への

最も厳粛にして壮大なる

後継の大舞台をば

大聖人は

武蔵野と富士に譬えて

記し留められたのだ。

この妙(たえ)なる仏縁の国土の

尊き因縁を

創価の初代も二代も

そして三代も深く拝しっつ

広々と開かれた

ここ第二総東京で

広宣の開拓に挑み始めた。

若き日より

私は心に思い定めていた。

大好きな武蔵野に

法華経の会座(えざ)さながらに

平和の香風(こうふう)がそよぎ

文化の妙音が響き

教育の大光(たいこう)が輝く城を

断じて築きゆくのだ。

そして

大聖人の御心に適った

地涌の人材の流れを

万年まで尽きることなく

この第二総東京から

起こしゆくのだ──と。

 久遠より

  家族の如き

    不思議なる

  命のスクラム

    東京第二は

それは

昭和三十一年の夏八月──。

あの超激戦区の

「大阪の戦い」を

まさかの大勝利で飾り

日本中が驚いた

一カ月後のことであった。

師に お仕えし

師を お護りする

一日の仕事を終えた私は

新宿から

中央線の急行に飛び乗った。

この夜 行われる

文京支部の八王子地区の

座談会に出席するために!

吉祥寺(きちじょうじ)から先は

多摩地域である。

作家の国木田独歩が讃えた

「武蔵野」は

少年時代から憧れの天地だ。

三鷹(みたか) 武蔵境(むさしさかい)

小金井(こがねい) 国分寺(こくぶんじ)

国立(くにたち) 立川(たちかわ)

日野(ひの) 豊田(とよだ)......

車窓に映る夕暮れの

街並みや雑木林を

私は見つめた。

そこには

希望があった。

未来があった。

輝く未来があった。

この多摩地域

必ず大発展する。

東京の新天地となり

広布の大拠点となる。

いな絶対に

新たな大本陣として

栄えさせてみせると決意した。

八王子駅の北口に

出迎えてくださった

実直な紳士が運転される

ダットサンセダン」に乗って

上野町の会場に向かった。

現在の八王子市民会館の

すぐ近くである。

暑いなか

集い来られた

求道の友は七十人。

戸外にあふれるほどの

大盛況であった。

一人ひとりから

質問を聞きながら

楽しく有意義な座談を進めた。

不思議なくらい

人柄の良い まじめな

信頼できる方々が

集われていた。

大哲学者デカルトは言った。

「『高慢』は、常に

 はなはだ邪悪なものである」

「最も高邁な人々は、通常、

 最も謙虚な人々である」

この日 この時

私は八王子で

愛すべき同志に

関西の勝利の息吹を伝え

法華経の兵法を語った。

そして

東京の次なる雪辱戦への

新たな前進を開始したのだ。

私は何としても

この未来性に溢れた天地に

常勝不敗の師弟城を

大建設することを

固く誓願していた。

 偉大なる

  第二東京

    ここにあり

  世界の原点

    誇りも嬉しく

昭和三十五年の春四月

第三代会長に就任が決まって

私と妻が

いち早く足を運んだのは

創価学園の建設予定地となる

小平であった。

富士が見え

渓流が清らかな

この不思議なる地こそ

若き英才たちの

希望の学舎にふさわしい!

私の心は高鳴った。

汗まみれになり

敷地の整備に

当たってくださった

尊き縁の学園総区をはじめ

神々しき同志の労苦を

私も妻も絶対に忘れない。

今や日本を代表する

世界的な名門校となった

創価学園

そして創価大学

第二総東京の皆様方は

陰に陽に

愛し支えてくださった。

学園生 創大生 短大生

さらに留学生たちも

わが子の和く

慈しみ護ってくだざる

ありがたき真心に

感謝し合掌しゆく日々である。

 人材の

  大城 厳たり

      不滅なり

    連戦連勝

     東京第二は

晴れわたる

昭和三十五年の五月三日

私の第三代就任と同時に

三多摩地域で初めてとなる

武蔵野支部が誕生した。

私は

幾重にも宿縁深き

この第二総東京の

初代の本部長であり

永遠の本部長の決心で

人知れず

ありとあらゆる手を

打ち続けてきた。

ゆえに

第二総東京の支部長も

そして婦人部長も

私に直結する

誉れの指導者なのである。

第二総東京を大切にする

私の心を知る人は

あまりに少なかった。

いな皆無に等しかった。

学園や大学の建設も

「なぜ あんな田舎に」と

多くの人が笑った。

しかし──

「狸が出るような場所」と

軽んじられた八王子が

今日では わが創価大学

創価女子短大をはじめ

中央大学 首都大学東京など

二十三もの大学。短大等の

キャンパスが広がる

日本有数の学園都市となった。

 師子王の

  如く立ちゆけ

    吼えあがれ

  東京第二は

    日本一かと

昭和五十二年師走の二十三日

美事に完成した立川文化会館で

記念の勤行会に出席した。

この新法城で

私は第一声として

「信心で勝ちゆけ!」と叫んだ。

それ以来

私は この会館を

新たな本部と心定めて

全国・全世界の指揮を執った。

誰も気づかぬ魔の暗躍から

純真なる第二総東京の友を

厳然と護り抜くため

師子奮迅の力で祈り戦った。

わが真情を

今は みな知らない。

しかし十年先 二十年先

この立川の牙城で刻んだ

破邪顕正の歴史を

仰ぎ見る時が来るであろう。

御聖訓には

「悪知識と申すは

 甘くかたらひ詐(いつわ)り媚(こ)び

 言(ことば)を巧(たくみ)にして

 愚痴の人の心を取って

 善心を破る」と

喝破されている。

その通りに

この地の邪僧どもが

蠢勤し始めていた。

提婆達多の如き反逆者と

結託した一派の

陰謀があったのだ。

ダンテが師と敬愛した

大詩人ウェルギリウスは叫んだ。

「傲れる者を

 撃破すべきことを忘るなよ」

一切の背信の謀略は

ことごとく撃破した。

そして三十星霜──

わが第二総東京は

功徳黄金の小金井をはじめ

誰人も予想さえしなかった

難攻不落の正義の砦となった。

世界が喝采しゆく

勇猛精進の人材群の

源流となった。

「法妙なるが故に

 人貴し

 人貴きが故に

 所尊し」

妙法流布の進展と

軌を一にして

第二総東京の国土世間も

隆々たる大発展を遂げてきた。

三十年前

第二総東京地域の人口は

三百十万人であった。

今では四百万人と増加した。

創価大学関学時から

比べるならば

学都・八王子も

躍進する特区・町田も

人口は実に二倍も増加である。

二十一世紀にあって

最も人が集まり

最も発展しゆく地域──

それこそ

第二総東京であった。

 美しき

  富士の如くに

    悠然と

  幸福光れや

    東京第二は

梵天・帝釈の勇み来るが如く

全世界の指導者も知性も

富士を見つめる

東京牧口記念会館を

陸続と来訪する時代が到来した。

幾多の国家元首をはじめ

千客万来の賑わいである。

衰亡する侘しき邪宗門

仏法勝負の実証は

歴然としていった。

おお 誇り高き

「世界の第二総東京」は

また麗しき

「地域友好の第二総東京」だ。

最前線の尊貴な同志の

勇敢にして誠実な

聡明にして忍耐強い行動が

どれほど大きく

どれほど美しい

友情と信頼の花を

咲かせてこられたことか。

国木田独歩は謳った。

「要は、誠実に働くのみ。

 其のうちに

 意味あり、希望あり、

 幸福あり」

十二の黄金の総区が輝き光り

四十五の和楽と広布の分区に

創価の大陣列は整った。

いずこにも

広宣流布の優勝の三色旗が

凛然と翻っている。

いずこも またいずこも

私の胸の奥に

深い深い親愛の心で

光り輝く第二の故郷だ。

昭和二十八年

大切な会員の厳護のため

戸田先生の命を受けて

奔走した秋川の天地よ!

あのわが学会の創立の年に

初代の牧口先生が訪れた

そして

水瀞会の歴史も燦たる

忘れ得ぬ

我らの青梅の山河よ!

会長就任を前に

私が戸田先生の御家族を

案内した村山には

いつも

最強の常勝軍が勢揃いして

待ってくれていた。

嬉しかった。

朗らかであった。

いよいよ待望の

堂々たる東村山文化会館が

完成する。

おお 懐かしき

多摩池田総区の

桜ケ丘文化会館を訪問して

早くも三十周年──。

さらに

府中池田平和会館を訪れ

思い出深き

「郷土の森・納涼の夕べ」に

友と参加してから

二十周年──。

そして多摩川のほとりに

王者赫々とそびえ立つ

調布総区の

調布文化会館への訪問より

十五周年──。

頼もしいことに

正義の人材の清流は

一段と生き生きと

水かさを増しながら

厳として賑やかである。

 偉大なる

  東京第二の

    婦人部は

  勝利の団結

     日本一かな

希望の言論・聖教新聞

たゆみない推進も!

コスモス平和大学校での

朗らかな人材育成も!

晴天グループ

太陽グループの皆様方の

崇高な祈りも!

女性広報部の方々の

洗練された渉外も!

ヤング・ミセスの

溌剌たる行動も!

本当に頼れる

第二総東京の太陽の婦人部は

素晴らしき

勝利の原動力となって

動き戦ってくださっている。

すべてにおいて

モデルと光っている。

仏天の加護が

一段と いやまして

その方々を必ずや

護りゆくであろう。

「此の経を持つ女人は

 一切の女人に・すぎたる

 のみならず

 一切の男子に・こえたり」

この御聖訓通りの

尊極なる実証を

打ち立ててこられたのが

第二総東京婦人部である。

私も妻も

その健気な創価の母たちの

御健康と御長寿を

御一家の御繁栄を

ある時は

車でそっと回りながら

ある時は

会館から見つめながら

そして朝な夕な

端座して

深く強く祈り続けている。

 十方の

  諸仏諸天も

     万歳と

  東京第二の

    皆様讃えむ

御聖訓には

「よき弟子をもつときんば

 師弟・仏果にいたり

 あしき弟子をたくはひぬれば

 師弟・地獄にをつといへり、

 師弟相違せば

 なに事も成べからず」と。

第二総東京は

忘恩の「あしき弟子」を

断じて許さない。

いな未来永遠に

寄せつけない。

戸田先生は師子吼された。

「師のおかげで

 偉くしてもらいながら

 畜生の如く師恩を仇で返し

 踏みにじっていく

 悪逆な連中は

 断じて許すな!」

師弟の直結においては

大関西にも決して負けぬ──

これが

わが第二総東京の

誇りであり喜びである。

法華経の嘱累品で

師匠に向かって

弟子たちは

三度 誓いを繰り返した。

「世尊の勅の如く、

 当に具さに奉行すべし。

 唯だ然なり。

 世尊よ。願わくは

 慮いしたまうこと有らざれ」

──師の心のままに

弟子は断固として

広宣流布を成し遂げます。

師よ ご安心ください。

心配なさらないでくださいと。

この師弟の金剛の魂が

どこよりも強く美しく漲るのが

第二総東京の

誉れの後継の大行進だ。

この広布完勝の都に

師弟の太陽が輝く限り

創価の世紀は

どこまでも

希望が躍動する。

どこまでも

勝利の道が続いている。

戸田先生は叫ばれた。

「善悪に対し曖昧な態度は

 敗北だ!

 悪を放置してはならぬ。

 前へ前へ攻めて出よ!」

広宣流布を破壊せんとする

 人悪人と戦い

 権力の魔性と戦い

 そして勝てば

 成仏することができる。

 生命の永遠の勝利である。

 ゆえに大聖人は

 味方よりも強敵が

 人をよくすると

 言われているのだ」

正義の中の正義たる

第二総東京の友よ!

どこよりもー段と強くあれ!

輝く広布のスクラム

賑やかな異体同心の隊列!

確信に燃える前途が

あまりにも明るい

尊き人間と人間のスクラム

第二総東京の前進が

そして

第二総東京の勝利こそが

創価の師弟の大勝利を

決しゆくからだ。

 不二の城

  東京第二よ

    勝ちまくれ

      二〇〇七年五月十二日午後五時

         創価学会本部・師弟会館にて

                 桂冠詩人

                   池田 大作