首都圏代表協議会



大聖人 私は“民衆の子”と高らかに宣言
広布に戦う人が尊い
晴れ晴れと師弟不二の道を
一、首都圏代表協議会の開催、ご苦労さまです。
 はじめに世界広布の偉大なる前進を祈り、一句を贈りたい。
 師弟不二
  晴れ晴れ勝ちゆけ
    広布かな
 ご存じの通り、戸田先生の時代から、ともに広宣流布に生き抜いてきた、森田一哉元理事長が本日、安詳として霊山に旅立たれた。
 先ほども、私は、妻とともに、懇ろに追善の勤行をさせていただいた。
 広布に戦った生命は、「生も歓喜、死も歓喜」である。
 今ごろは、霊鷲山で懐かしき恩師に笑顔で迎えられているであろう。
 尊き広宣流布の闘士のご冥福を心からお祈り申し上げたい。
 世界広布は 今、花盛り! 
 一、「広宣流布」の和合僧の集いほど、楽しく充実したものはない。「異体同心」の同志の語らいほど、朗らかで清々しいものはない。
 ここにこそ、久遠の家族の結合があるからだ。きょうも、大いに語り合いたい。
 日本だけではない。
 アメリカ、ブラジルをはじめ、南北アメリカ大陸でも、ヨーロッパ、ロシア、そして、アジアを擁するユーラシア大陸でも、アフリカ大陸でも、そしてオセアニアでも、広宣流布のリーダーたちは、私と同じ心で、見事なる大発展の指揮を執ってくれている。
 皆さま方の輝く信念と、聡明にして尊き行動に私は心から感謝申し上げたい。
 日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(御書816ページ)と仰せになられた。
 まさしく今、この仰せ通りに、日本の広宣流布の晴れ姿とともに、「世界広布は花盛り」の時を迎えた。
 ともどもに、ますます希望に燃えて、新たな決意と力を漲らせながら、尊き使命の坂に挑み、広布第2幕の勝利と栄光の頂上へ向かって、愉快に登り切ってまいりたい(大拍手)。
 「ただの島の長ではないか!」 
 一、日蓮大聖人の御在世に退転した弟子に三位房がいる。
 これまでも、折々に語ってきたが、大事な教訓であるので、きょうは、そのポイントを確認し合いたい。
 三位房は、大聖人の御慈悲で、比叡山に遊学し、京に上った。
 そのとき、三位房は、“ある公家の持仏堂に呼んでいただき、説法をして、面目をほどこしました”などと、得意げに大聖人に報告してきた。
 それに対して、大聖人は厳しく戒められた。
 ──日本の権力者など、ただの「島の長」ではないか。その長に仕える者たちに「呼んでいただいた」などとは、なにごとか。「面目をほどこした」とは、いったい、どういうつもりか。おまえは、師匠の日蓮を卑しんで、このようなことを書いてきたのか──と(同1268ページ、趣意)。
 三位坊の報告には、世界第一の仏法を行じる大聖人門下の誇りなど、いささかも感じられなかった。
 それどころか、表向きは師匠を尊敬しているようであっても、内心は権威の世界におもねり、自分が偉くなったと思いこんで、師匠をあなどる心があった。
 増上慢である。
 それを大聖人は鋭く見抜かれた。
 一番、師匠にお世話になり、一番、師匠に仏法を教わったにもかかわらず──。
 結局は、「師匠が中心」ではなく、「自分が中心」であった。「自分本位」であった。
 増上慢は、恩知らずである。恩知らずということは、道理が分からないということだ。道理が分からないということは、仏法が分からないということだ。
 三位房の本質──それは、傲慢であり、臆病であり、ずる賢さであった。
 「京なめり」への厳しき戒め 
 一、さらに大聖人は厳しく言われている。
 「総じて日蓮の弟子は、京に上ると、はじめは忘れないようであるが、後には天魔がついて正気を失ってしまう」
 「京に上って、いくらも経っていないのに、実名を(貴族風に)変えたということであるが、狂っている」(同ページ通解)
 貴族社会と交わり、初心を忘れ、名前を飾り立て、言葉づかいまで変わってしまった。なんと哀れな弟子か。
 大聖人は、重ねて仰せになっている。
 「きっと言葉つきや発音なども、京なめり(なまり)になったことであろう。
 ねずみがこうもりになったように、鳥でもなくねずみでもなく、田舎法師でもなく京法師にも似ていず、(退転した)少輔房のようになってしまったと思われる。
 言葉は、ただ田舎言葉でいるがよい。(どっちつかずなのは)かえって見苦しいものである」(同ページ、通解)
 「京なめり」──華美に流され、魔性に生命を食い破られた三位房の姿を、大聖人は一言のもとに暴いていかれたのである。
 三位房が後に、大聖人の教えに背いて、退転し、惨めに死んでいったことは、ご存じの通りである。
 大聖人は、大慈大悲の御境涯から、もっともっと厳しく叱っていたならば、助けることもできたかもしれないと言われている(同1191ページ)。
 ゆえに、増上慢の人間を厳しく戒めていくことは、大聖人の御精神に最も適った、正義と厳愛の戦いなのである。
 民衆と共に! 民衆の中へ! 
 一、大聖人は、御自身のことを「遠い田舎の地の者であり、民の子どもである」(同1332ページ、通解)と、堂々と宣言されている。
 自分は、特別な生まれ、家系ではない。
 「民の子」である。それを、少しも恥じることなく、むしろ、誇りとされた。
 民衆の子であるからこそ、民衆の心が分かる。また、もしも高い地位にあれば、権力に守られて、あれほどの大難に遭われることもなかったであろう。
 御本仏は、どこまでも、民衆の子として、民衆のなかに分け入り、民衆の苦しみをわが苦しみとしながら、民衆救済の大仏法を弘めていかれた。
 そのように、わが身をもって、真実の広宣流布の道を教え残していかれたと拝察されるのである。
 学歴ではない 
 一、戸田先生は、「信心に学歴は関係ない」と断言された。
 当然、学問は大事にされた。しかし、学歴などを鼻にかける人間が幹部になれば、会員はだれもついていかないぞ、皆がかわいそうだ、と厳しく言われた。
 御書の教えは厳正であり、公平である。
 「法妙なるが故に人貴し」(同1578ページ)と仰せである。
 「持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」(同465ページ)と仰せである。
 大事なのは、広宣流布のために働く人である。
 大変ななかで、歯を食いしばって、妙法のために戦う人が一番尊いのである。
 有名な学校を出たとか、社会的な地位があるとか、そんなことは、信心には、まったく関係ない。
 なかんずく、学会の庶民の力で偉くしてもらいながら、大恩を忘れ、傲慢になり、最後は裏切って、反逆していく──そんな畜生以下の人間が出たならば、断じて許すな、その大罪を未来永劫に糾弾し抜いていけ、と恩師は厳命されたのである。
 「私がいなくなった後が怖いぞ」「増上慢に勝手きままにやられるぞ」「それをさせないために、私は厳しく言うのだ」と。
 学会を見下したり、学会利用に走る人間への先生の怒りは、すさまじかった。それこそ、命がけで叱ってくださった。皆が震え上がった。
 学校を出ていても出ていなくても、偉大な人は偉大であり、愚かな人は愚かである。
 このように「人間そのもの」を見ていくことが、仏法の眼である。
 師弟の真実 を叫び抜け! 
 一、「師弟の道」を貫いていくことが、一番賢明な、一番正しい道であり、永遠の勝利の道である。
 私は、牧口先生、戸田先生の真実を叫び抜いて、その通りにやってきた。
 「先生!」「先生!」と叫んで、三障四魔、三類の強敵と戦いながら、一人、立ち上がって、師弟不二の学会を築いてきたのである。
 師弟という車軸があってこそ、異体同心の団結が生まれる。
 中心の幹部が、師弟を忘れ、師弟を軽んじ、その心が、ぶれてしまえば、団結することはできない。
 信心は心である。「心こそ大切なれ」(同1192ページ)である。
 だからこそ、幹部は、師弟不二を心の底から叫んでいくことだ。
 虚偽や見栄、増上慢は、敗北の道、滅亡の道である。そうならないために、断固、責め抜いていくことだ。
 破邪顕正といっても、破邪がなければ、顕正はない。
 邪悪を暴き、邪悪と戦い、邪悪を打ち破ってこそ、顕正がある。
 生涯、誉れの師弟の大道を晴れ晴れと歩み抜いていただきたい(大拍手)。
人生は闘いだ!
 一、フランスの行動する文表口マン・ロランは叫んだ。
 「生命、それは絶えざる更新であり、闘いである」(宮本正清訳「民衆劇論」、『ロマン・ロラン全集11』所収、みすず書房)。その通りだ。
 この生命の最高無上の更新と闘いの軌道こそ、皆様方の「人間革命」の自転であり、我らの「妙法広布」の公転なのである。
 さらにロランは断言した。
 「人生は仮借なき不断の闘いである。『人間』の名に値する人間であろうとする者は、目に見えぬ敵の大軍と絶えず闘わなければならぬ」(高田博厚訳「ジャン・クリストフ1」、『世界文学全集41』所収、筑摩書房
 いわんや、広宣流布は、「仏」と「魔」との間断なき大闘争である。一瞬たりとも手をゆるめるわけにはいかない。
 また.ロランは記した。
 「陰謀は容赦なく打つべし!」(宮本正清訳「ロベスピエール」、『ロマン・ロラン全集11』所収、みすず書房)と。
 そしてまた、ロランは、苦楽の大英雄ベートーベンを讃えて言った。
 「人生というものは、苦悩の中においてこそ最も偉大で実り多くかつまた最も幸福でもある」(片山敏彦訳『ベートーヴェンの生涯岩波文庫)と。
 一流の魂の次元は、仏法に一致している。
 たとえ、どんなことがあっても、師子のごとく悠然と進みゆくことだ。断じて負けてはならない。
 いかなることがあろうとも、必ず「変毒為薬」していけるのが、この妙法である。ゆえに何も恐れることはないのだ。
 一、創価大学には、「中央アジアゲーテ」と讃えられるウズベキスタンの大詩人ナワイーの像がある。
 退転した三位房の教訓を忘れるな
 恩知らずの増上慢は滅びる
 〈このナワイーゆかりのナワイー市から、名誉会長に「名誉市民」の称号授与が決定。同市のパフチヨル・ハムダモフ市長から決定通知書が届けられている〉
 大詩人ナワイーは高らかに語っている。
 「自分の中に傲慢さが巣くう余地を打ち壊した者には、永遠の富が与えられる」
 指導者は、永遠に自分自身の人間革命に挑み、傲慢を排し、謙虚に誠実に成長していかなければならない。
 増上慢は、破壊であり、破和合僧であるからだ。
 ゆえに、厳重に戒め合っていく以外にない。
 「法華弘通の はたじるし」
 一、きょう5月の19日は、創価学会の常住御本尊が認められた記念の日である。
 それは昭和26年(1951年)の5月19日。今年で、56周年となる。
 あの晴れわたる5月の3日に、第2代会長に就任した戸田城聖先生が、真っ先に請願なされ、そのお心に即座に応えられて、日昇上人が認められた。
 なお、私のお守り御本尊は、この昭和26年の「5月3日」のお認めである。
 戸田先生の会長就任の、その日の日付であり、先生も、しみじみと「不思議だな」と喜んでおられた。
 昭和52年の4月、中部に新文化会館が開館した際には、創価学会常住の御本尊を御遷座申し上げ、約1年間、同会館に御安置した歴史がある。
 大事な大事な中部の大天地の、広宣流布の進展を、深く強く願ってのことであった。
 その通りに、けなげな中部の友は戦ってこられた。
 今や、堂々たる世界広宣流布の大堅塁として、そびえ立っている。
 一、この常住御本尊の向かって右には、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」、左には「創価学会常住」と認められている。
 まことに甚深の脇書であられる。
 日蓮大聖人は仰せになられた。
 「爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼陀羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘達のはたじるしとして顕し奉るなり」(御書1243ページ)
 「法華弘通のはたじるし」──この究極の深義が、そのまま脇書に厳粛に刻まれた御本尊が、創価学会の常住御本尊であられる。
 御本仏・日蓮大聖人の大誓願である「大法弘通慈折広宣流布」を、仏意仏勅の創価学会が必ず必ず成就していくことが、峻厳に刻印されているのである。
 広布を推し進める人が尊貴
 「この常住御本尊とともに、広宣流布の大師匠であられる戸田先生のもと、学会は大前進を開始した。
 翌月には、「慈折」──「慈悲」と「折伏」の最大の推進力である「婦人部」が結成。
 〈6月10日に第1回本部婦人部委員会が開催された〉
 さらに「大法弘達」の原動力たる「男子青年部」、「広宣流布」の永遠の門を開く「女子青年部」が結成され、「大願成就」への新たな布石が、具体的に一つ一つ打たれていった。
 「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(御書856ページ)である。
 いかに偉大な御本尊があっても、黙って座していては、広宣流布は一歩も進まない。現実に広宣流布を推し進める人が尊貴なのだ。
 その人の生命に、御本尊の大功力が脈々と流れ通うのである。
 昭和26年の5月19日から、65日目に当たる7月22日に、御本尊の表装も整い、常住御本尊の奉戴式が、晴れ晴れと盛大に執り行われた。
 この昭和26年は、戸田先生の会長就任の5月3日を起点として、次のようなリズムで勝ち進んでいった。
 5月19日(土曜日)=創価学会常住御本尊が認められる。
 6月10日(日曜日)婦人部の結成。
 7月11日(水曜日)=男子青年部の結成。
 7月19日(木曜日)=女子青年部の結成。
 そして、7月22日(日曜日)=常住御本尊の奉戴式。
 私は、戸田先生の不二の弟子として、その先頭に立った。
 まさに、この65日間は、今日の創価学会の勝利の基盤を築き上げた、1日また1日であったといってよい。
 今、56年の歳月を経て、不思議な勝ち戦のリズムで、きょう5月19日を迎えた。
 万年の未来を開くため、勝利そして完勝の大前進を開始してまいりたい(大拍手)。

御本尊の力用は勇気ある信心に
 「大聖人は、真剣に仏法を信じ、行ずる日女御前に、こう仰せである。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(御書1244ページ)
 広宣流布に生き抜く、皆様方の生命それ自体が、尊極の御本尊の当体なのである。
 この一点を深く自覚するならば、わが生命に「歓喜の中の大歓喜」がわき起こらないわけがない。「随縁真如の智」が流れ通わないわけがない。「三世十万の仏菩薩」が護りに護らないわけがない。
 「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1244ページ)である。勇気ある「信心」があれば、汲めども尽きない御本尊の力用が満ちあふれてくる。
 日寛上人の文段にも、「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と、断言なされている通りである(「観心本尊抄文段」)。
 偉大なる信力・行力で、偉大なる仏力・法力を、わき立たせていきたい。
 一、ここで、御本尊の絶対の功徳の力を教えられた、戸田先生のご指導を、いくつか確認しておきたい。
 「御本尊は、大宇宙の生命を最も強く結集された当体である。その御本尊と感応するから、こちらの生命力も最も強くなるのだ」
 「いずこであれ、御本尊ましますところこそ、最高の聖地である。広宣流布への信心があるところが、仏の国土なのだ。そこにこそ、大聖人の魂は、おわします」
 「我々の五体そのものが、本来、御本尊と同じなのである。南無妙法蓮華経と認められた両側に、さまざまな菩薩の名が記されている。
 それは、我々の生命のなかに、その菩薩の力があるということなのだ」
 「御本尊を中心とした団結ほど、この世で強く、固く美しい団結はありません」
  攻め抜け!逆境こそチャンス
  10倍の敵を破った「桶狭間の戦い」の将軍学
 吉川英治氏                                                    人生は波瀾があるほどおもしろい
   どんな波でもこい!
 私たちは永遠に御本尊中心の団結である。これが、あらゆる広布の戦いの、勝利の鉄則である。
 だれもが等しく仏子であり宝塔 
 一、さらに、戸田先生の叫びを、心に刻んでおきたい。
 「私たちには金剛不壊の御本尊がある。ゆえに、何を恐れることがあろうか。『魔の挑戦には、身命を賭して戦う』。ここに創価学会の使命があることを知らなくてはならない」
 「われ自ら南無妙法蓮華経なりと決めきって、広宣流布することだ」
 「御本尊を信じ、人生を生ききっていけ! これが一切だ。いくら愚痴をこぼしていても、つまらぬ事でくよくよしても、どうしようもないではないか。
 御本尊に題目をあげて、自分の境遇で、自分の立場で生ききっていけ!」
 まさに、このとおりの大確信で、先生は生き抜かれた。ゆえに、広布の基盤が、厳然と築かれたのである。
 また先生は、次のようにも言われていた。
 「将来のためにも、はっきり断言しておく。学会の信心以外に、大聖人の御心に適う信心はない。大御本尊の本当の功力もない」
 「御本尊に裁かれることほど、この世で恐ろしいことはありません」
 「誰もが等しく仏子である。また、宝塔である。これが、日蓮大聖人の大精神である。
 それゆえに、万人を救うことのできる、真の世界宗教といえる。そして大聖人は、全人類を救済するために、大慈大悲をもって大御本尊を御図顕あそばされたのだ。
 目的は、民衆の幸福だ。
 この一点を見失えば、権威のための宗教になってしまう」
 時を逃すな 陣頭に立て 
 一、きょう5月19日は、永禄3年(1560年)、戦国時代の乱世から天下統一への転機となった、「桶狭間の戦い」の日である。
 この日、尾張(現在の愛知)の若き織田信長(27歳)の軍勢は、宿敵・今川義元を討ち取り、その大軍を打ち破って逆転大勝利した。これを契機に、信長は自らの勢力を大きく飛躍させていったのである。
 まことに有名な歴史だ。
 この時、駿河から尾張に進攻してきた今川義元の軍勢は、2万余といわれている。
 一方、織田信長の軍勢は、わずか2000。信長側は、敵側の、じつに10分の1程度であった。完全な劣勢である。
 では、なぜ、信長は勝つことができたのか。
 さまざまな角度から研究され、論及されているが、そのいくつかを「将軍学」「人間学」として
確認しておきたい。
 まず信長は、龍城などの「守りの態勢」ではなかった。あくまでも自ら打って出て、断固、陣頭に立って戦う「攻めの姿勢」で臨んだ。
 信長は、前線からの情報や自分自身の目によって、敵の動きを冷静に確認していった。
 そして、迅速に行動し、ついに桶狭間(現在の名古屋市緑区豊明市辺りで、今川義元のいる本隊を直接、攻める機会を得たのである。
 信長が大変にお好きであった戸田先生は、「信長の兵法は時をつかんだものである」と言われていた。
 「攻め」の行動が、時をつかむ。「勝利のチャンス」を開く。
 そもそも信長は、天下統一への30年にわたる戦いで、受け身の「龍城戦」は1度もしなかった。
 むしろ、信長は、敵の領域まで打って出て戦うのが、常であったという。
 三障四魔に 賢者は喜ぶ   
 一、御聖訓には、「権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ」(御書502ページ)と仰せである。
 この、徹底した広宣流布の攻撃精神こそ、学会精神である。
 一、吉川英治氏は小説『新書太閤記』で、迫り来る今川の大軍との戦いを前に、気概に燃える信長の心境を、こう描いている。
 「按じるに信長には、今が逆境の谷底と見えた。おもしろや逆境。しかも相手は大きい。この大濤こそ、運命が信長に与えてくれた生涯の天機やも知れぬ」(講談社
 さらにまた」主君・信長とともに「桶狭間」を戦った若き秀吉についても、こう描いている。
 「どんな濤でものりこえて見せようという覚悟が、強いて覚悟と意識しないでも肚にすわっている。そこに洋々たる楽しさが前途に眺められた。波瀾があればあるほど、この世はおもしろく観じられるのであった」(同)
 青春には、そして人生には、大なり小なり、試練の決戦の時がある。それは、それぞれの「桶狭間の戦い」といってよい。
 大聖人は、「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く」(御書1091ページ)と仰せである。
 いざという時に、いかなる「一念」で戦いに臨むのか。これが、決定的に重要なのである。
 すっきりした一念でなければ、戦いは勝てない。
 特に最高幹部は、皆がからっと晴れ上がった青空のような、さっばりとした気持ちで戦い抜けるように、常に心を尽くしていくのだ。
 清々しい自分を築いていただきたい。       ((下)に続く)