各部代表研修会(3)
師と共に叫び、走り、勝て!
朗々たる唱題を! 友に喜びを!
広宣流布は正義の声で進む
マータイ博士「何かを変えたいなら 自身が先頭に」
一、今年の夏は、例年にもまして暑い日が続く。これだけ暑さが厳しいと、何の話を聞いても、すぐに忘れてしまうかもしれないが(笑い)、次の勝利のために、広宣流布の未来のために、少々、お話ししておきたい。
東京牧口記念会館の顕彰室には、初代会長の牧口先生が生前に使っておられた御書が、大切に保管されている。
牧口先生の御書には、たくさんの書き込みがある。
有名な「声仏事を為す」(御書708ページ)の一節にも、傍線が引かれていた。この一節のままに言論戦を貫いた、尊いご生涯であられた。
私たちも大いに「声」を使い、「声」を惜しまず進んでいきたい。
「声を出すこと」は、健康にもよい影響を与える。
声を出して話す時、空気の使用量は、ふだんの3〜5倍になるそうだ。
そして、取り込まれた多くの酸素が、体内の細胞呼吸を、より活性化させる。
活発に声を出し、人々を励ます。手を使い、足を使い、心をくだいて、広布を進める。「仏の仕事」を行う私たちは、自他ともに「生命の健康」を増し、威光勢力をいよいよ増していくのだ。
恩師の魂魄を永遠に留めよ
一、戸田先生は、昭和28年(1953年)、学会本部が信濃町に移転した折、会長室よりも立派な一室を「牧口先生のための部屋」と定め、そこに、牧口先生のお写真を大切に置かれた。
戸田先生は言われた。
「ここには、牧口先生の生命が、おられる」
「ここで私は、常に牧口先生とご一緒に、指揮をとっているんだよ」
「『法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し』である。
学会の創始者であられる牧口先生の精神を、学会本部にとどめ、讃嘆し、宣揚し、敬愛していくのは、当然ではないか。
広宣流布の団体として発展していくための、基本中の基本である」
そして戸田先生は厳命なされた。
「将来、日本は当然のこと、全世界にも多くの会館をつくるであろう。
その際に、『師とともに』という学会精神を根幹としゆく『恩師記念室』を設け、創始者である牧口先生を偲び、顕彰していくべきだ」
これが、各地の会館に設置されている「恩師記念室」の淵源である。
「恩師記念室」は、創価三代の師弟の魂魄を留める、学会永遠の記念室である。代々の会長は、この恩師記念室を大切にし、責任をもって厳護することだ。
特別の会合の時には、恩師記念室に代表が集い、師弟の精神を受け継ぐ信心を厳粛に確認し、勤行をする。「広宣流布」と「死身弘法」を誓い合う、深き魂の儀式の場である。
あらためて、こうした意義を確認しておきたい。
「島国根性」の嫉妬を打ち破れ
一、イギリスの劇作家シェークスピアは綴った。
「最大の逆境によって、真に精神が試されるのだ」(「コリオレーナス」)
戦後の混乱期、戸田先生のもとで、襲いかかる苦難を乗り切っていった私の実感も、まさに、そうであった。
先生は、学会の本格的な復興に取り組んでおられた。敗戦を経て、「いよいよ日本の宿命転換の時だ」という思いであられた。
私の一生は、戸田先生のため、広宣流布のために捧げてきた。
陰に陽に、重要な仕事を成し遂げてきた。20代、30代のころから、民衆の城である創価学会を守るために、全身全霊を傾けてきた。私の妻が、すべて知っている。
フランスの女性作家ジョルジュ・サンドは「あらゆる中傷は迫害」であり、「あらゆる侮蔑的な言葉は侵害」であると述べている(加藤節子訳『我が生涯の記』水声社)。
その通りだ。
哲学者の内村鑑三は、ある女性記者を励まして、手紙を送っている。
"滅亡に瀕している日本の社会では、何か他人の悪いところはないかとつけねらっており、ささいなことも、すぐに大げさに吹聴されます。
お互いに、このような腐敗極まる社会で生きていくためには、十分な注意が必要です"と。
もちろん、今とは時代が違う。しかし、日本の「島国根性」は相変わらずであると指摘する声は多い。
正しいものを正しいと評価できない。優れたものに嫉妬する。そうした心の狭さは、海外から見ると、よくわかる。
また、焼きもちを焼かれた当人が、どれだけひどい実情か、一番、よくわかっている。
学会の前進も、一面から見れば、嫉妬との戦いであった。
私は、大変な時も、苦しい顔など一切、見せなかった。難こそ仏法者の誉れであるからだ。
あらゆる嵐を乗り越えて、今、学会は立派な広布の基盤ができた。しかし、それに甘えて、幹部が愚かになってはならない。一生懸命戦った人が損をしてしまう。恐ろしいことだ。
「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(御書1337ページ)と仰せである。
最高幹部でありながら、口ばかりで、現実に難と戦わない。難と戦う師匠を、さも当たり前のように傍観し、自分は安楽に生きる──そうした人間もいた。これほど卑怯なものはない。
戸田先生が事実無根の中傷を受けたなら、私は、すべて抗議に行った。
医者から“30歳までしか生きられない”と言われた体であった。命がけで戦った。裸一貫で、口先でなく、学会のために戦ってきた。わが師と会員に仕えてきた。
この心がなくなると、師弟を忘れた、情けない学会になってしまう。ゆえに、私は何度も言っておくのである。
先んじて動け人民を労(いたわ)れ
一、『論語』に、政治の要諦に触れた一節がある。
弟子の子路(しろ)が、政治の道について問う。
孔子は「之に先んじ之を労(ろう)す」と答えた。
──まずなさねばならぬことを、人民に先立ってせよ。そして人民を愛情を以ていたわれ。これが政治の根本だ──こういう意味である(吉田賢抗著、明治書院)。
ポルトガルの大詩人カモンイスは綴った。
「およそ手にする権力を利用して/人によしなき侮辱を加えるものは/勝者ではない、なぜなら真の勝利は/正義の実行を知ることだからだ」(小林英夫・池上岑夫・岡村多希子訳『ウズ・ルジアダス』岩波書店)
権力は、自分のためや強者のためにあるのではない。人のため、弱い立場の人のためにある。この一点に徹してこそ、政治における「正義」は実現する。
指導者がこの原理を忘れた時、国は滅びる。そうならないために、賢明な庶民の監視が必要なのだ。
戸田先生は語られた。
「さまざまな世情に、学会幹部は一喜一憂して紛動されては断じてならない。そんな心弱い、惰弱なことでは、広宣流布の大業を遂行することは、決してできない」
大事なのは、この巌の信念である。
広宣流布の大道は、いささかも世情に左右されない。また、左右されてはならない。
イギリスの劇作家シェークスピア
「最大の逆境によって真に精神が試されるのだ」
リーダーは必ず「信義」を貫け
一、日蓮大聖人は、題目の力用を讃えて、「太陽が東方の空に昇ったならば、南閻浮提(=世界)の空は皆、明るくなる。太陽が大光を備えておられるからである」と仰せである(御書883ページ、通解)。
題目は、無限の力を引き出す。どんな戦いであれ、真剣に題目をあげることだ。
誰にでも、自分にしか果たせない使命がある。その使命を堂々と果たすための舞台を、御本尊からいただくのである。そして、断固勝つのだ。
会合等で人が集まったら、幹部は皆を「喜ばす」のが使命である。決して「動かす」のではない。
また、同志に対して、師弟の心を伝えようとせず、自分本位の意見を押しつけようとする。そんな話は駄目だ。真剣勝負で、人の心を打つ。その努力がなければ、新鮮味もなくなってしまう。
討議では、頭を使い、知恵を出し尽くさねばならない。そして、決めたことは絶対に守るのだ。それが「信義」である。それを、他人にやらせて自分がやらなくなると、組織は潰れる。
この点、戸田先生は実に厳しかった。
その戸田先生に、私は仕え抜いた。先生の苦境を救うために奮闘した。「おれは大作という弟子をもった。それだけで満足だ」──そう言っていただけたことが、私の無上の誇りである。
一、ノーベル平和賞の受賞者である、ケニアのマ一夕イ博士と語り合った際、博士は仰しゃった。
「これから"何かを変えたい"と思うのであれば、まず"自分自身から"変えなければならない。そして、自分自身が先頭に立って変えなければいけない」
「行動の人」の一言は重い。私も、博士の言葉に完全に同意する。
学会の幹部は、心が遊んではいけない。陰日向があってはいけない。
だれが見ていなくても、御本尊は厳しく御覧になっている。
最高幹部は、皆が「あんなに働いてくれて、申し訳ない」と思うくらいに、飛び回って、いろいろな戦いをやるのだ。
そうすれば、皆もうれしい。そして、勝てば皆が喜んでくれる。
まだまだ暑さが続く。熱中症などにくれぐれも気をつけて、体を頑健にして、戦ってまいりたい(大拍手)。
(2007・8・15)