北海道・東北・中部北陸・信越合同研修会(上)


勝利の道! 対話の道! 報恩の道!
行動せよ道を開け
大難と戦った三代の師弟 「難難汝を玉にす」

 北海道・東北・中部・北陸・信越の合同研修会が23日行われ、池田名誉会長がスピーチした。

    ◇
 一、遠く北海道、東北、中部、北陸、そして信越の尊き広宣流布の指導者が勇み来っての合同研修会、本当にご苦労さま!(大拍手)
 広布の指揮は、生き生きと執っていくのだ。
 中心者が自分で「拡大の先陣」を切っていく。
 外に向かって、友好の対話を広げる。大切な同志に尽くし抜く。
 そのリーダーの汗まみれの必死の姿のなかに、仏法の真髄がある。広布に挑む学会の心がある。
 その心に触れ、同志は「やろう」「頑張ろう」と立ち上がるのだ。
 皆に「やらせよう」というのは慢心だ。そこからは、皆が一丸となっての組織の勢いは生まれない。
 「口先ばかりで人を諭そうとしても人は心服しない。自ら実践して人を先導して行けば、人はこれにならって従って行く」(川上正光訳『言志四録』講談社
 こう喝破したのは、中部・岐阜ゆかりの江戸後期の思想家・佐藤一斎(いっさい)であった。
 主著『言志四録(げんししろく)』は、私も若き日に読んだ一書である。
 「心を苦しめ、思慮分別に悩んで始めて本当の智慧が現われる」(同)。これも一斎の言葉である。
 私たちには信心がある。御本尊がある。いくらでも智慧が出る。リーダーは悩み苦しんで人間革命していくのだ。
 一切衆生を救いきっていく崇高な広宣流布の活動である。
 一斎は語った。
 「天を動かし、地を驚かすような大事業も、すべて、己一個より造り出されるものである」(同)
 中心者が本気で立ち上がり、信心第一、会員第一で動いていくならば、組織が変わらないわけがない。皆が喜び勇んで、はつらつと続いていくのはまちがいない。
 私がお会いした、統一ドイツの哲人指導者ヴァイツゼッカー初代大統領は結論している。
 「結局のところ決定的に重要なのは、われわれすべての個人としての行動である。(永井清彦訳『ヴァイツゼッカー回想録』岩波書店
 その通りだ。なかんずく、指導者の行動が、一切の勝利を決する。使命は大きい。
 ゆえに、きょうもまた、勝利の前進のための研修を真剣に行ってまいりたい(大拍手)。

 誠がなければ何も成就しない
 一、「人は人 吾は吾なりとにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」(上田閑照編『西田幾多郎随筆集』岩波書店
 こう謳ったのは、北陸・石川出身で、『善の研究』の著作で有名な哲学者・西田幾多郎である。
 正義の道、信念の道を貫く人生は尊い
 初代の牧口先生と2代の戸田先生は、真実の「師弟の道」を、まっすぐに生き抜かれた。
 暴虐な軍国主義の大弾圧にあって、戸田先生ただ一人が、牧口先生にお供して、獄中闘争を耐え抜かれたのである。
 牧口先生は獄死であった。生きて牢を出られた戸田先生は、恩師の三回忌に厳かに語られた。
 ──牧口先生の慈悲の広大無辺は、戸田を牢獄まで連れていってくださいました、と。
 あの戦時中の牢獄での生活が、いかに惨いものであったか。それを感謝までされる戸田先生。
 私は感動した。戸田先生の深き人間性に。生死を超えた仏法の師弟に。
 「心こそ大切なれ」(御書1192ページ)と、日蓮大聖人は仰せだ。
 心が大事だ。
 心で決まる。
 私も同じ決心で、戸田先生への「報恩の誠」を貫いてきた。初代、2代の崇高な師弟の心を、寸分も違わず「受け継いできた。
 「事をなすには誠がなければ、あらゆるものは成就しない」(前掲『言志四録』)。これも佐藤一斎の有名な言葉である。

 師弟を教えたい
一、戦後、ただ一人、広布に立ち上がった偉大な戸田先生は、その後、事業の失敗という大難に遭われた。
 このとき、当時の最高幹部の中には、お世話になった先生を守るどころか、その苦境につけこんで、追い出しにかかった冷酷な者もいた。
 私は思った──。
 人間の心は怖い。広布に戦えば、難が起こるのは当たり前ではないか。それなのに、難を恐れ、自分は戦わない。それどころか師匠を悪者にするとは。なんという忘恩か。なんという卑劣な心か。
 私は誓った──。
 何があっても戸田先生をお守りするのだ。そして将来、必ず、学会の会長として指挿を執っていただくのだ。断じて、師匠の仇を討つ、と。
 「阿修羅のごとく戦います」と戸田先生に申し上げた。「その心が、うれしいな」と本当に喜んでくださった。
 「艱難 汝を玉にす、逆境は是れ心を練るの好時節なり」(前掲『西田幾多郎随筆集』)。哲学者。西田幾多郎の日記に記された言葉である。
 先生とともに大難を受けきったゆえに、今の私がある。広布と人生の熾烈な戦いのなかで、私は、峻厳な「師弟の心」を教えていただいた。

リーダーが先頭に
江戸期の思想家
 口先では人は心服しない 自ら実践すれば人は従う

 この創価三代の師弟の魂を皆に教えたいのだ。
 師弟があれば、断じて勝っていける。仏法の根幹は師弟であるからだ。
 「いかなる腐木にも新しい生命の芽がふくことができる。きょう最も楽しかりし」(同)。これも幾多郎の日記だ。
 時は巡り、戸田先生が第2代会長に就任された、あの晴れやかな5月の3日。
 戸田先生は、「ありがとう!」と落涙された。
 弟子の私の心にも、新しい生命の喜びの芽が大きくふくらんでいた。
 師弟とは、これほどに崇高であり、深遠(じんおん)であり、美しいのである。
 一、インドの大詩人タゴールは、宗教者たちが教えを携え、世界を旅した歴史を通して、高らかに謳い上げている。
 「あらゆる障害を乗り越して路(みち)を建設すると云うこと、それは過去における印度の大事業でありました。

人類が為し得る最高のものは路の建設者になることであります。しかしその路は私益や権力の為の路ではなくて、人々の心が異なれる国々の兄弟達の心に通うことの出来る路なのであります」(北●吉訳『古の道』プラトン社、現代表記に改めた)【※●=日へんに令】
 偉大なる師・戸田城聖先生にお会いして、この60年間。
 私は、ただひたすらに、「広宣流布」という、人類究極の幸福と平和の大道の建設に邁進してきた。
 仏法の生命は、「行動」である。なかんずく、指導者の率先の行動である。
 創価学会が、なぜ、ここまで大発展したか。
 それは、初代、2代、3代の会長が自ら先頭に立って、「不惜身命」「死身弘法」で、法のため、友のため、奔走し抜いてきたからである。
 この三代にわたる大闘争を通して、創価の永遠の軌道は完璧に築かれたことを、私は、戸田先生の直弟子として、晴れ晴れと宣言しておきたい(大拍手)。
 一、学会に深い理解を寄せられ、学会常住の御本尊と関西本部の御本尊を認めてくださった日昇上人は、1955年(昭和30年)の12月13日、関西本部の入仏式の折、このようにおっしゃった。
 「先年は、本部の御本尊といい、ここにまた関西本部の御本尊をお認めすることは、私は実に何たる幸福で、人生の幸福、大満足に感謝にたえません。涙をもって三宝にお礼を申し上げるとともに、皆さまにも感激の涙をもってお礼申し上げる」と。
 これが真実の法主の姿であると思う。また、日昇上人とともに勤行した際、「いい声ですね」とほめてくださったことも懐かしい思い出である。

 三国四師の精神 
 一、大聖人は、仏法の正統中の正統を貫く流れを、釈尊、天台大師、伝教大師、そして御自身を含められて、「三国四師」と名付けられた。
 この「三国四師」に一貫して脈打つ大精神も、「行動」の二字である。
 きょうは、その軌跡の一端を確認しておきたい。ここに集われた、北海道、東北、中部、北陸、信越の同志もまた、使命深き地域で、尊い仏道修行を繰り広げておられるからである。
 釈尊は、その生涯を通じ、民衆救済のために、広大なインドの大地を歩き抜かれた。
 釈尊の1代の行動範囲を、現代のインドで言えば──東はガンジス河の下流域、西はデリーの東方、南はガヤ(フッダガヤ周辺)、北はヒマラヤ山麓にあたる。
 その広さは、日本の本州の面積に匹敵するとも言われる。
 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と仰せである。釈尊は「人の振舞」の力で、仏法を弘め抜いていった。
 その師に弟子たちも決然と続いた。

御聖訓 日蓮は日本の魂なり
広宣流布は人類を救う聖業

 今、この仏教発祥の天地・インドにあっても、創価の友は生き生きと活躍を繰り広げている。
 歴代の大統領も、また最高峰の知性も、絶大なる信頼を寄せてくださっていることは、ご存じの通りだ。
 一、中国の天台大師(6世紀)は、浙江省(せっこうしょう)東部にある天台山を中心として、南京(ナンキン)、江陵(こうりょう)、長沙(ちょうさ)など広大な範囲で戦いを進めた。
 論難の嵐のなか、天台大師は、厳しく邪見を論破し、正法を明らかにしていった。
 その堂々たる雄姿は、大聖人が「報恩抄」で、「天台大師の御気色(みけしき)は師子王の狐兎(こと)の前に吼えたるがごとし」(同300ページ)と綴っておられる通りであった。
 一、次に伝教大師(8〜9世紀)について、大聖人は、日本において初めて法華経の実義を弘めた存在と位置づけておられる。
 「関目抄」には、仰せである。
 「六宗の高僧ら八人、十二人、十四人、そして三百人余りの人々、さらには弘法大師らも、伝教大師に責め落とされてしまった。日本国中一人ももれなく天台宗に帰伏し、奈良の六宗の諸寺、真言宗の東寺、そして日本全国の寺院は、みな比叡山の末寺となった」(同190ページ、通解)と。
 中国への求法(ぐほう)の旅、そして混迷した諸宗を責め正した果敢な言論戦など、伝教大師もまた、行動の人であった。

 「多くの人に会ってきた」 
 一、大聖人は、仰せである。
日蓮は、この法門を語ってきたので他の人と比較にならないはど、多くの人に会ってきた」(同1418ページ、通解)と。
 我ら創価の実践は、大聖人が歩まれた広宣流布の対話の道に、まっすぐに連なっている。
 まさしく仏の道である。ゆえに功徳は無量無辺である。
 大聖人は、破邪顕正の言論闘争を続けられて、「日本国中の十人に一、二人は南無妙法蓮華経と唱えるまでになった」(同890ページ、趣意)と仰せの広がりをもたらされている。
 後継の日興上人も、日目上人も、各地で弘教に当たられ、広く教域を拡大されたのである。
 一、「法」といっても、それを捨て身で私める「人」がいて初めて、その偉大さと功徳を広げることができるのである。これは、広宣流布の厳然たる方程式だ。
 だからこそ妙法を「弘める人」の功徳は絶大なのである。
 どれだけ仏法のために、自ら足を運んだか。
 どれだけ人々のために、仏法の哲理を語り、綴り残したか。
 どれだけ多くの指導者に、正義の法理を勇敢に打ち込んだか。
 どれだけ多くの民衆を温かく励ましたか。
 この人間主義の行動のなかにこそ、人類を救う仏法の威光勢力の拡大がある。
 一、御聖訓にいわく。
 「日蓮によ(依)りて日本国の有無はあるべし、譬へば宅(いえ)に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり」(同919ページ)と。
 この大聖人に直結する学会は、今や名実ともに、日本の柱となった。日本の人々の魂の存在となった。学会が日本の命運を左右する時代に入っているのだ。
 学会の力で、広宣流布をし、仏国土を大建設していくという、これ以上の誉れの人生はない。
 そのことを互いに銘記し合って、新時代へはつらつと出発してまいりたい(大拍手)。
 (2007・8・23)