北海道・東北・中部北陸・信越合同研修会(中)
この大地から あの天地から 出でよ未来の指導者群!
恩師と「不二」で駆けた誉れの行動記録
新渡戸稲造博士 「発心したならひとすじに進め」
一、私は広宣流布のために、日本中、世界中を駆け巡ってきた。
海外訪問は54カ国・地域を数える。
ある人が調べてくれたところによると、海外への広布旅は、空路の移動距離だけでも、優に「地球30周」を超えるそうだ。
世界広布のスクラムは、190カ国・地域に広がった(大拍手)。
とくに会長就任後の数年間は、「席が暖まる暇がない」というよりは、「席そのものがない」といっていいほど動き、道を開いた。
会長就任の昭和35年5月3日以降、この年のうちに国内の全方面へ訪問させていただいた。
海外では、同年10月の北南米、翌36年1月、2月のアジア、10月の欧州、さらに37年1月、2月の中東と、2年間で24カ国・地域を訪問した。
当時は、「大阪事件」の熾烈な法廷闘争も続いていた。
裁判で負ければ、会長を辞任せざるを得ない。全日本、全世界の広布を盤石ならしめるために、徹して動きに動いた。
きょうは、北海道、東北、中郡、北陸、そして信越の5方面の代表が集われている。
いずれの地にも、忘れがたい広布の歴史があり、思い出がある。
北海道では、最も北の地で健気に戦う同志に会いたくて、稚内へうかがった。昭和43年の秋9月であった。
また、厳寒の季節に、足を運んだこともある。皆様方のご苦労に、少しでも思いを馳せたかったのである。
戸田先生が逝去なされた翌年、昭和34の1月に、旭川を訪問した。
東北では、昭和37年1月のあの"雪の秋田指導"を、忘れることはできない。
翌58年の春4月には、新潟から山形へ、列車で移動した。
停車する駅のホームで、健気な同志の方々と出会いを結んだことも、懐かしい。
宮城をはじめ、岩手にも、青森にも、福島にも、何度もうかがった。
北陸では、昭和59年の8月、思い出深き北陸平和文化祭の前日(8月25日)に、富山研修道場(現・利賀会館)にも足を運び、代表の方々と記念撮影を行った。
戸田先生の故郷である石川県では、金沢市や小松市に、幾たびも訪問させていただいている。
信越では、戸田先生が亡くなられた年の7月、新潟の港を出て、大波を越えて、佐渡へ渡った。
昭和42年の6月には、長野の松代にうかがった。
松代では昭和40年8月から、「松代群発地震」が続いていた。私は、旧・松代会館の入仏式で、ともに勤行をし、愛する国土の安穏を、強く、深く祈念した。
中部では、昭和42年8月15日の終戦記念日に、富山から列車で、岐阜の飛騨・高山を訪れた。高山会館(現・高山女性会館)の入仏式を寿ぎ、奥深い山村で懸命に戦い抜いてこられた尊貴な同志に、最大の感謝を捧げた。
昭和34年秋、あの伊勢湾台風の際には、10月3日、名古屋駅に到着したその足で、南部の被災地域へ急行した。
翌日、西枇杷島(にしびわじま)町公民館で、緊急に開催された幹部会に出席したことも、忘れがたい。
昭和58年の3月には愛知の渥美半島からフェリーで伊勢湾を渡リ、、三重県の鳥羽の同志とお会いした。
これらのほかにも、心美しき5方面の同志との出会いの歴史は、枚挙にいとまがない。
お会いした、すべての同志、そしてまた、お会いした皆様に連なる全同志に、私は妻とともに、真剣に題目を送り続けている(大拍手)。
「万物の根源の力が妙法」
一、戸田先生は、東北の同志を励まして、おっしゃった。
「この信心は、やってみなければわからない。中途半端はいけないよ」
こうも指導された。
「乱れた世の中で、生活が苦しいとき、なぜわたくしたちは生まれてきたかを考えなければなりません。みな、日蓮大聖人様の命を受け、広宣流布する役目をもって生まれてきたということが宿習なのです。
それがわかるか、わからないかが問題です」
また、「学問の都」仙台の支部総会では、「境智冥合して、生命が変化して、功徳がでるのである。これをわかろうとして、苦心せねばだめである」と語られた。
昭和31年6月、戸田先生は、北海道、九州などをまわられ、7月2日には、名古屋市公会堂で、広宣流布の前進を阻む、卑劣な妨害や不当な圧迫は、"真の民主主義を葬る民衆の敵である"と叫ばれた。
轟きわたる師子吼であった。
人材を見いだせ
一、私も、若き日より5方面を奔走した。そして、日記に書き記した。
昭和29年2月13日から14日にかけて、新潟を訪問。26歳であった。
「歴史ある地、又、生涯の歴史に思い出ともなるらん」
「此の地よりも、未来の大指導者の輩出する事を祈りつつ」
「指導者は、第一にも、第二にも、人材を見出すことに、懸命でなくてはならぬ。
七時、班長会。
全力を傾注して、指導をなす。
唯今臨終の思いでの、信心、指導でなくては」
同年10月には、戸田先生とご一緒に仙台を訪問した。
会合では、学会歌の指揮を全力で執った。
当時の日記には、こう記している。
「(戸田)先生は、大作も弱いのに、これだけ精力を使い切っては、長生きは出来ないなあと、悲しげに側近に語っておられた由。題目をあげ、宿命打開あるのみ」
「この三日間の闘争も、歴史に残る闘争であった」
「誇り高くあれ」「慢心にならず」
一、さらに日記から幾つか紹介しておきたい。
昭和30年2月6日、仙台で。
「青年部班長会開催。苦しき生活の中、よくも頑張って来たと感嘆する。此の中より、偉大な大幹部が必ず出現することであろう......と」
32年10月26日から27日にかけて。
「初の、金沢(石川県)、高岡(富山県)、富山方面の講義指導」
「如来の使いだ。誇り高くあれ。慢心にならず。決して威張らず。
水の流れゆく、心境と忍耐で」
「北陸にも、広布の響き始まる」
34年1月17日。
「北海道は、実に雄大だ。世界の冠たる──精神界の大開発を決意する。
いつの日か、この大地よりあまたの指導者が輩出するのは」
午後、旭川から夕張へ移動した。
「これらの強き同志あれば──これからの闘争に、断じて敗れまい。この人びとのために──私は起たねばならぬ」
関西の次は中部だ。全学会で力を
一、そして、昭和34年の2月15日。
「中京(名古屋)もまた元気。
学会は堅し。
関西の次は中京だ。
一支部でなく、全学会で力を入れゆく国土世間だ。
梶を誤るな」
同年3月28日。
「豊橋、大津、福井、福知山、そして岐阜と。五日間の真剣勝負の日程に悔いなし」
「新しき時代と、社会は、われらで築くぞ」
同年12月12日。
「仙台へ。講義ならびに指導のためなり」
「幹部と心ゆくまで語る。
皆、善人であり、東北の名将だ。
嬉しい。大切にしてあげねば。
仏法の指導は、御書にまかせ、その実践は、師である戸田先生の指導を、根本としてゆくべきは当然至極である」
私は、さらに勢いよく、皆さんと一緒に、広布の道を朗らかに切り開いていく決心である(大拍手)。
木は高いほど風や嵐を受ける
一、きょう集われた各方面にゆかりのある指導者、識者の蔵言を、いくつか紹介したい。
北海道の札幌農学校で学び、信越にも縁の深い哲学者の内村鑑三は言った。
「正義は国家より大にして、其基礎を正義の上に定むる国家のみ永久に栄えん」(『内村鑑三著作集第3巻』岩波書店)
内村は、時の権力を絶対化する国家主義に屈しなかった。それは、何にも揺るがぬ正義──宗教的信念を持っていたからだ。この点が、重要である。
彼は、次のようにも述べている。
「安全は退きて求むべき者にあらずして、進みて達すべきものなり。歓喜と満足とは前に有りて後に有らず、臆病者に平和あるなし、進め、何処までも進め」(同)
一流の人は、常に「前」を見ている。
「発心したならば、只一筋に邁進するのである。中止せずに撓まずに、進んで止まぬ様にする。
途中で障害が出来たにしても之れを排除し、又倒れたにしても起き返って進み、而して最後に極意に達するのである」
これは、牧口先生と親交があり、「太平洋の架け橋」となった新渡戸稲造博士の言葉だ(『新渡戸稲造全集第7巻』教文館)。
新渡戸博士は、東北の出身である。青春時代は北海道の札幌農学校に学んだ。
博士は、「木は高ければ高いほど、それだけ風や嵐にさらされることも多い」と綴っている(佐藤全弘訳「編集余録」、岡『全集第20巻』所収)。
これは人間社会の道理であろう。学会は大樹である。大樹であるからこそ、受ける風雨も多い。
大きな敵が人を伸ばす
一、近代日本の思想家・高山樗牛は、山形県の出身である。
戸田先生のもと、私も真剣に読んだ作家の一人である。
「凡そ如何なる事業に於ても、個人の精神の籠らぬものには決して真の生命があり得るものでない」(『樗牛全集第4巻』博文館)
学会の組織は、尊き一人一人の集まりである。一人一人の精神がみなぎっている。だから強い。この点を忘れてはならない。
私が「冒険少年」「少年日本」の編集長の時代にお会いした、時代小説の大家。山岡荘八氏は、信越の新潟が故郷である。
氏の作品に、『伊達政宗』がある。彼は、かつて私も戸田先生と訪れた、仙台の青葉城を築城心たことでも名高い。
山岡氏の作品に記された言葉を贈りたい。
「人間、師となり弟子となる......それは何の奇もない行き会いのようでありながら、しかしそこには無限の生命の通路がある」(『伊達政宗』毎日新聞社)
「真の教育は学問や理屈では説明出来るものではない。人間の心と心、魂と魂のふれ合いによって起る火花や電撃の間から肝にこたえて悟ってゆくものなのだ」(同)
師弟の共戦こそ、生命を豊かにする、最高の教育の場となる。これが、私のいつわらざる実感である。
山岡氏は、「大きな敵がなければ緊張も小さく、緊張が小さければ人間も小さくなって、伸びないものらしい」(同)とも書いている。
一つの真理を突いた言葉であると言えよう。
学会の前進もまた、絶え間ない障魔との戦いである。だから伸びる。広布の天地も広がるのである。
楽しく進め!幸福のために
一、人生には、いやなこともあるけれども、何事も楽しくやろうと決めることだ。いわんや学会活動は、自分自身の幸福のためである。
動いた人が勝つ。妙法のために動いた分だけ、功徳につながる。その行動が本末究竟して、子孫にも福運を広げていく。これが仏法の因果である。法華経であり、日蓮大聖人の教えである。私も、これを信じてやってきた。
戸田先生にお会いしてより、60年。一閻浮提広宣流布の大道は、青き地球に光り輝いている。
わが同志が、広宣流布のために、一軒一軒、友のもとへ足を運び、誠意をこめて仏法の正義を語る行動が、どれほど尊い振る舞いであるか。社会への偉大な貢献となるか。
信心に、絶対に無駄はない。広宣流布のための苦労は、自身の生命の大勲章となって輝く。
日蓮大聖人が、三世十方の諸仏・菩薩・諸天善神が、最大に御賞讃くださることは、間違いない。
いよいよ、広宣流布の第2幕である。
全リーダーが、私と同じ心で、私とともに、労苦を惜しまず動いていただきたい。
そして、広宣流布への一歩を、きょうも、そして明日も、希望に燃え、勇気に燃えて、踏み出しゆくことを祈念してやまない。
北海道、東北、中部、北陸、そして信越の天地で、新時代の勝利を、断固、頼みます!(大拍手)
(2007・8・23)