第26回 映画人と池田会長

いかなる映画も、その幕があがる前に、製作現場で予想もしないヤマ場がある。
原作者、キャスト、スタッフ。映画『人間革命』に関わった人たちの間にも、筋書きのない名場面があった。

●閉塞した日本映画界に風穴を開ける。

◇砧スタジオに集合

「おい、身体は空いてるか」
 一本の電話から現場は動き出す。
 舛田利雄(映画監督)らスタッフが三々五々と招集されたのは、一九七二年(昭和四十七年)の暮れである。
 活動シャシン(映画の旧称)が三度の飯よりも好き。
 撮影。照明。美術。録音。音響。スチール。小道具。大道具……。一家言をもっている。いいシャシンのためなら、どんな苦労も厭わない。独特の美学とプライドを持った職人集団である。
 映画製作の常連が東京・砧の東宝スタジオに続々と顔を出した。
 一冊の台本が用意されている。
 映画『人間革命』
 原作は、創価学会池田大作会長である。
 舛田はアクション映画、戦争映画が十八番。七〇年には日米合作で真珠湾攻撃を題材にした『トラ・トラ・トラ』を大ヒットさせた。
 まったくの畑違いである。
 心中に期するところがあった。

                    *

 映画製作の現場には、不思議な魔力がある。
 監督や主人公ばかりでなく、裏方の職人にいたるまで、人を熱く、のめり込ませる。
 作り手が熱狂できない作品が、観衆を魅了できるはずがない。
 映画『人間革命』が生まれた現場には、どんな葛藤や感動があったのか。
 映画人たちの眼に、池田会長は、どのように映ったのか。

東宝のプロデューサー

 東宝田中友幸が、池田会長と会ったのは一九七〇年(昭和四十五年)八月三十一日だった。『ゴジラ』シリーズ、黒澤映画など二〇〇本以上を手がけた辣腕プロデューサー。
 大阪の万国博覧会の会場を案内してから、映画、『人間革命』の企画を会長に、ぶつける。
 いざ勝負の日である。
 映画は博打だ。少額の予算で巨万の富を生む傑作もあれば、五〇億円かけて大赤字の駄作もある。
 小説『人間革命』は、映画原作として魅力十分だった。池田会長の代表作。巻を重ねるごとにベストセラーを記録。創価学会戸田城聖第二代会長を主人公にした伝記小説である。
 田中の心は、不安と自信の間を揺れていた。
 日本の映画界は斜陽化している。爆発的に普及したテレビに映像娯楽の主役の座を奪われた。ハリウッドの大作も目官押しで、邦画のヒット作は、めっきり減った。
 その閉塞状況に風穴を開ける。映画『人間革命』しかない。数百万の学会員を動員できる。ビッグマネーのチャンスである。
 しかし、危惧も抱いていた。
 果たして商業ベースに乗せていいのか。学会員の反発は招かないか。
 映画なら他の宗教団体も続々と乗り出している。安易な教団の宣伝に見られないか……。
 最後は自分の眼力を信じた。
 小説『人間革命』。抹香くさい宗教本ではない。戸田会長の飾らない人柄。ダイナミックな生命論。戦後の混乱期を背景にした群像小説にも読める。
 多くの青年が「どうしたら、この世で幸せになれるか。平和を実現できるか」を追求している。
 絶対に「絵」になる。学会員ではない人々に訴えるだけの普遍性をはらんでいる。

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 一方の池田会長。
 生まれ育った東京・大田区の蒲田には、松竹撮影所があり、シネマの天地と呼ばれた。
 後輩を励ますため、一緒に映画館へ。多忙なため、物語のヤマ場になるころには席を立ってしまう。
 年末の仕事納めの夜。「ご苦労さん。映画でも行くか」。若手を連れて新宿でオールナイトを観賞。受付のチケット係が学会員で、思わぬ対話が弾んだこともあった。
 飛躍的に伸びてきた学会だからこそ「これからは質だ」「文化の時代だ」と語ってきた。
 恩師の戸田会長を直接知らない世代も増えている。小説『人間革命』の映画化も視野にあった。
 新しい形で師の偉業を宣揚していく時期かもしれない。

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 万博会場を案内した田中は、池田会長に切り出した。
「『人間革命』を読みました。大変に感動しました」思わぬ二言が返ってきた。
「私も映画に興味があります。良いものを作っていますね」手応えは十分。映像文化への造詣が深く、共鳴する点も多い。
 三カ月後の十一月、高ぶる気持ちを抑えながら伝えた。
「ぜひ映画化させてください。必ず成功します!」
 東宝は製作部門を独立させ、良質な作品に力を入れてきた。映画館のネットワークも広い。全国にくまなく分布する学会員も足を運べる。
 条件は申し分なかった。
 後日。会長から返事をもらった。「ぜひ立派なものにしてほしい」

◇ホンは橋本忍

「一ホン(脚本)、二カオ(役者)、三クミチョウ(監督)」
 この三つが、映画を成功させるポイントである。まずはホン。すぐれた脚本である。
 すでに原作は手に入れた。ヒット小説の筋書きをなぞった映画もあるが、そんな手法は田中に毛頭ない。
 ターゲットは、あくまでも広い映画ファン。いかに客を呼べる作品にするか。真っ先に、当代一の脚本家を訪ねた。『羅生門』『七人の侍』などで知られる橋本忍である。

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 橋本は首を縦に振らなかった。
 信頼する田中のたっての願いである。絶対に離さないという気迫も伝わってくる。それでも迷った。
「田中さん、原作を読むだけでも時間がかかる。待ってくれ」。なんとか猶予をもらった。
 重い仕事である。
 長年のカンで、これは長丁場になると分かった。
 脚本家の報酬はシナリオ一本あたりで決まっている。短期間で仕上がるものほど助かる。効率からいけば、この仕事は断るべきだ。しかし、ノーの返事にためらった。
 理由はひとつ。題名が引っかかる。『人間革命』
 スケールが大きい。どんなに長いシナリオも、煎じ詰めれば端的な命題に帰着する。巨大な意味の込められた四文字に見えた。
 池田会長の著作との格闘が始まった。人間の内面を描かなければならない。
 これが難しい。作中に描かれる戸田会長の生命論に引き込まれた。作品のヘソになるかもしれない。
 橋本は青年期に、生と死の淵をのぞいている。
 徴兵後、肺結核を患い、軍の療養所へ。同じ病の戦友がバケツに血を吐く。おびただしい血が床に飛び散り、絶命していく。
 次は俺の番か……。
 療養所にいれば三年。田舎に帰れば二年。医師に余命を宣告された。
 療養所の売店で筆記用具を買い求め、シナリオを書き始めた。
 身近に死を感じながら、脚本家の一歩を踏み出した。
 池田会長も結核だった。小説『人間革命』では、肺を病んだ山本伸一(会長がモデル)が人生を模索する日々が描かれていた。
 決断まで三カ月を要した。
「田中さん、やらせてもらうよ」
 一九七一年(昭和四十六年)二月、橋本は仕事を受けた。

●百の演技指導も、ひとつの配役には、かなわない。

◇クミチョウは舛田利雄

 舛田利雄が田中に呼び出されたのは、一九七一年の夏である。
 手堅い手法の監督。渡哲也らスターを世に送り出してきた。「ちょっと特殊な世界だから、異論があるかもしれない。ホンを読んでから返事してくれ」
 分厚い脚本を渡された。通常より五割ほど多い。
「もし断るにしても、橋本さんに会ってくれ」
 橋本さんのホンか。えらいことになったな。
 創価学会や人間革命への予備知識はない。戦闘シーンや、大立ち回りなら、お手の物だが、宗教の世界を絵にする自信はない。
 しかも映画界では難解とされる橋本脚本である。
 それでも舛田は、首根っ子をつかまれたような気がした。
 以前から漠然とした「死への恐怖」が胸にあったからだ。
 少年時代、夜中に物干し場に立つ。何万年もの時を経て星々の光が届いている。それに比べ人間の一生は何と短いのか。人は死んだら、どこへ行くのか。戦慄が走り、家族の胸に飛び込んだ記憶がある。
 派手なアクションシーンで観客を沸かせているくせに、今でも人間の死を考え、眠れない夜がある。
 恐怖の底にあるものは、生命の不可解さである。いったい人間は、どこから来て、どこへ行くのか。
 いいチャンスかもしれない。自分なりに勉強させてもらおう。

◇カオは丹波哲郎

 次はカオ(役者)である。
 戸田城聖役を誰にするか。一流スターの名が続々と上がった。
 どれも粒が小さい。
 橋本忍の師匠格になる映画監督の伊丹万作。「百の演技指導も、ひとつの打ってつけの配役には、かなわない」と言い残した。
 それほどキャスティングは、作品の成否を握っている。
 最後の最後で舛田が奥の手を出した。丹波哲郎。一九〇センチ近いタッパ(身長)が戸田会長を彷彿させる。演じなくても演じているような存在感がある。
「アクション俳優ねえ……」。関係者の詳しげな声を跳ね返した。
「いや、性格的にいって、丹波が一番近いんだ」

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 舛田が丹波口説きに行った。
 型にはまらない天性のスター。
 学徒出陣したが、まったく規律を守らず、上官も見放したほどである。
 高圧的な態度は逆効果だ。
 徹底して持ち上げるしかない。
「あんたしかやれないんだ」「これは適役だよ」
 丹波は返事を渋っている。まずは脚本を読んでくれと頼むと「いや、今ここで、どんな話か教えてくれ」。
 筋書きと狙いを話した。「死への恐怖」を覚えた少年時代の原体験も打ち明けた。
 太い眉の下で、丹波の目がぎょろりと動く。
「うーん、それは面白い」
 役者魂に、ぽっと火がついた。
「実は俺も生命というものに興味がある。人間、死んだら、どうなるのか。最大のテーマだね。よし、分かった。そんなに俺を必要としているなら、ひとつ舛田さんを喜ばせてやるかな」

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 一九七三年(昭和四十八年)二月十日。映画『人間革命』はクランクインした。
 初日に、丹波哲郎が分厚い眼鏡をかけ、鼻の下に髭をつけた。
 その瞬間、橋本は直感した。
“これでいける!”
 似ている。無造作に立っているだけで、厚みがある。スタジオ関係者が、ぎょっとした表情で丹波を見た。

◇池田会長の陣中見舞い

 敗戦の色濃い東京。背の高い男が焼け野原に荘然と立ちつくしていた。
 折れ曲がった煙突。焼けただれた電柱。かつて教鞭を執った私塾「時習学館」は跡形もない。
 撮影の西垣六郎が回すカメラの向こうで、男が和服の裾を払い、瓦礫の山に重い腰を降ろすり心配そうに寄り添う戸田会長夫人役の新珠三千代……。
「ハイ、カット!」
 メガホンをとる舛田利雄の野太い声。
「いいねー、丹波ちゃん!」
 一九七三年(昭和四十八年)四月二十五日。東京・江戸川区郊外のロケ地。
 カメラの脇で、池田会長が熱演を見守っていた。原作者としての陣中見舞いである。
「映画とはいえ、本物そっくりですねえ。昔を思い出しますよ」
 昭和二十年にタイムスリップしたような光景に、会長が感嘆した。
 廃材などの処分場として使われていた埋め立て地である。
 美術監督の村木与四郎が、たまたまハゼ釣りに通っている時に発見した。
 トラック二台分の廃材を焼き、コンクリートの塊を転がし、約二週間で作り上げた。
 撮影が一段落した。丹波が休憩に戻ってくる。会長が声をかけた。
「戸田先生、おはようございます」
「おっ、伸、元気か!」
 役になりきっている丹波。大まじめな応対に笑いが弾けた。
 学会本部への帰途。車中で現会長の原田稔に語っている。
「戸田先生の門下が、いかに大勢いたとしても、現実に先生を宣揚したのは、私しかいないんだよなあ」

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 撮影快調である。
 学会側の協力もスムーズだった。
 現場の注文に応じて、担当の鈴木琢郎が精力的に資料を提供してくれる。
 スポンサーの現場への介入。“職人たち”にとって、これが一番カチンとくる。幾多の苦い記憶がある。
 配給会社に政治力を持つ大物の鶴の一声で、どれだけやる気を削がれたことか。
 池田会長は一切、口をはさんでこない。現場第一。
 学会のコントロール下で、宣伝映画をつくるのではないか。懸念は杞憂だった。
 スチールマンの中山章は、どうやって「学会らしい」スチール(宣伝材料)を撮れるか悩んだ。
 学会員が経営している飲み屋や食堂にも通った。
 庶民的で前向きな生き方の人が多い。
 すっかり意気投合した。
 おい、中山は信心したのか。冷やかすスタッフもいた。「何を言うか。君、六道輪廻(仏法用語。迷いの世界から抜け出せない意)を知っているか」と切り返した。
 作中で、拘置所に入った戸田城聖がシラミをつぶすシーンがある。
 生きたシラミを調達しなければならない。日本伝染病研究所から二〇匹を借りてきた。寒いと動かない。小道具係がヒーターや人肌で温めた。シラミ一匹の動きにも執念を燃やした。

◇戸田会長のテープ

「ある! 本当にあるんだ! 地獄も極楽も、あの世ではなく、この世に!」
 セット裏から丹波の太い声が響いてくる。
 珍しいな。スタッフが顔を見合わせた。台詞を覚えないことで知られる丹波が台本に、かじりついている。
 ひどいときなど、自分の出番の部分だけ、ぴりっと破いてポケットに入れておく。
 全体がどうなっているか、まったく関係ない。
 その丹波が、最初から最後までシナリオを読み込んでいる。

                    *

 役作りのため、丹波と舛田は、戸田会長の講演レコードを聴いた。
 眠くなるような説法が延々と続くかと思ったが……何だ、これは。
 面白い。抜群に面白い。大衆の心を見事につかんでいる。下手な落語よりも愉快である。笑いと涙があった。不正への怒りがあった。
 一段高いところに立って、教えを広める人ではない。実に人間くさい。いい意味で肩の力が抜けていく。
 宗教映画だからといって聖人君子を描く必要はない。人間ばなれした主人公では、観客から遠い存在になってしまう。
 なんと魅力的な指導者なのか。池田会長が師事した理由も分かった気がした。

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 ロケは長期にわたる。撮影のあとで、スタッフやキャストが食事に繰り出す。
 場の中心は、丹波である。焼き肉などをつついていると、すっくと立ち上がる。
「そもそも人間とは、いや、生命とは--」よっ、待ってました。ヤジが飛ぶ。「この映画が最高の配給と観客動員を記録す呑ことは間違いない。なぜなら、この戸田がついているからだ!」やんやの喝采である。
 丹波は、徹底的に演技を磨いた。数珠の掛け方。題目の唱え方。
 難解な仏法用語も濁点の有無にいたるまでで正確におぼえた。
 体重も五キロ減らした。戸田会長の癖をたたき込むため、スタジオへ向かう車中では、会長講演を録音したテープを流し続けた。
 この年の毎田映画コンクール(一九七三年)。丹波は菅
 原文太らライバルを抑え、男優演技賞(最優秀男優賞)を受賞している。

◇ロードショーの反響

 東北地方の漁村。公民館に立てかけられた看板の前で、老人が棒立ちになっている。
「こんなところにまで……」
 戸田会長役の丹波哲郎のアップ。その下に「映画『人間革命』絶賛上映中!」の大見出しが躍っている。
 一九七三年(昭和四十八年)九月八日。映画『人間革命』(製作=シナノ企画東宝映像)は東京・有楽町でロードショーが封切られた。
 翌月から全国で一般公開。
 一番館(主要都市の映画館)、二番館(地方都市)、三番館(地方の市町村地域)。全国に「小屋(=直営の上映館)」を持つ東宝の強みだった。
 公民館や市民会館でも上映された。野良仕事帰りの農婦や汐臭い漁師がスクリーンの前に詰めかけた。

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 映画専門家の声。
「宗教映画じゃない。人間映画」
「人間臭さと崇高な理念を合わせもった戸田会長」
「宗教に関心のない人こそ見よ」
 同年の興行収入で第一位。日本映画界の記録を塗り替えた。
 公開後、著名な映画監督から学会に打診があった。
 池田会長の随筆「一枚の鏡」の映画化である。戦時中、ビルマで戦死した会長の長兄と母をめぐるドラマ。オールロケになるため、製作費の関係で実現しなかったが、多くの映画人が池田作品に注目していた。
 監督の舛田利雄
「あれほど楽しい映画作りはなかった。学会も、すべて任せてくれた。監督冥利につきる」
 東宝では、いまだに社史を語るうえで「人間革命前」と「人間革命後」の立て分けがあるという。

●「信心は、試練を経なければいけないのだ」

◇日本正学館へ出社

「日本正学館に初めて出社した昭和二十四年の一月三日ですが……」
 橋本忍は、狙いを絞って聞き始めた。
「どんな一日でしたか」
 池田会長が答える。
「大変に寒い日でした。大田区森ケ崎の自宅からバスに乗り、品川から神田まで電車で通いました」
「昼食には弁当ですか」
「ええ。弁当持参です……」
 細かいディテールを掘り起こす。
 映画『続・人間革命』の製作が決まった。一九七四年(昭和四十九年)五月、都内で時間を取ってもらい、橋本は入念に取材した。
 続編の目玉は、山本伸一の登場である。日本正学館(戸田会長の出版社)に入社した場面を描きたい。
 最初の仕事は何か。
 給料は、いくらか。
 編集会議に出ていたのか。
 会長の記憶は鮮明だった。
 朝八時に出社したが誰もいない。雑巾がけをした。電報が来たが誰も来ないので、戸田先生のご自宅に届けた。これが初仕事。
 初任給は三〇〇〇円。すぐ六〇〇〇円に昇給した。
 雑誌『冒険少年』の編集者として、駅やバス停に足を運んだ。
 通学の子どもが何を読んでいるのか。気になって仕方なかった。
 ほう。橋本が嬉しそうに頷く。
「わかります。私も映画を作ると、小屋(映画館)の前に行って、どうだったかと聞いたりします」
 明かされるエピソード。
 編集部に届いた便りには、必ず返事を出した。
「頭を下げて一流の作家の了解を取ってきても、十分な原稿料が払えない。これが本当に苦しかった」
 宣伝力不足で休刊に追い込まれる直前、詩人の西条八十を訪ねた。
「西条先生、偉大なる少年たちに夢を与え切れる詩を書いてください」
「いい言葉だな。本当に池田君は頑張って,いる。子どもを愛していることが、よく分かった」
 心から少年読者を愛していた。

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 次第に核心に迫っていく。
 ついに出版事業は頓挫し、丸ごと信用組合へ吸収された。金融業。最も苦手な分野である。
「一番嫌いな仕事でした。
 だが戸田先生は『大作、やってくれるか』と。あれほど真剣な表情は見たことがなかった。
『先生がやられることなら、何でもやります』と答えました」包み隠さず話してくれた。信用をつかむため、ビラを作って、一軒一軒、一人で回ったこともある。あまりの重労働に、実際より十歳も老けて見られた……。
 橋本は淀みなくペンを走らせる。
 一瞬、会長が空を見つめた。
「橋本さん。できれば、こう加えてもらえませんか」珍しい申し出だった。
「信心というのは、こういう試練を経なければいけないのだ。
 社会の荒波を乗り越えなければならないのだ。その目的のため、あらゆる苦労をしていったのだ」原作者の肉声である。

                       *

 橋本は、伊丹万作に師事した。
 我が師は日本一と信じ、伊丹が言うことには、すべて従った。
 伊丹が落ちるところまで落ちたら、オレも落ちよう。腹をくくっていた。
 意見の衝突もあったが、今になると、師の真意がよく分かる。
 映画の道。信仰の道。
 次元は違うが、戸田会長と池田会長の強い紐帯に共鳴できた。

◇「山本伸一」を探せ

 室内にはタバコの煙が、もうもうと立ちこめている。
 一九七五年(昭和五十年)四月。映画『続・人間革命』の製作会議。
 田中友幸ら首脳陣は難問を抱えていた。山本伸一役のキャスティング。
「この選択を誤れば、作品全体の失敗につながる……」由中は腕組みしたまま、固まった。

                        *

「選考委員会」を立ち上げた。
 プロダクション、劇団、歌舞伎界や大学の演劇部からも推薦を募った。
 一般応募も合わせ一〇〇〇人近くの履歴書が山積みされた。
 引き続きメガホンを取る舛田利雄は、三〇〇人に絞りこむ。全員、撮影所に呼んだ。直接、この目で確かめる。
 呻吟の末、四人を選ぶ。戸田会長と伸一が出会う座談会シーンを実際にセットに組んだ。丹波や学会員役を集め、カメラテスト。
 候補者を順番に、会場の後方に座らせる。
 ここで「絵」になるか。丹波と「あ・うん」の呼吸を取れるか……。
 舛田の視線が一人の青年に絡みついた。あおい輝彦
「目の感じが池田会長に近いかな。円満な目をしている」
 演技は上々。ただ年齢が気になった。二十七歳。それに顔が売れすぎている。
 ジャニー喜多川がプロデュースした歌手グループ「ジャニーズ」の一員だった。後に一世を風靡していくジャニーズ系アイドルの草分けである。紅白歌合戦で軽快にステップを踏む姿が目に焼きついて離れない。
 山本伸一の清純なイメージに合うだろうか。擦れた印象にならないか。
 舛田は賭けた。
「よし、あおいでいこう。できあがっているものは根底から破る。新しい味を引き出してみせる」

あおい輝彦と原作者

 あおい輝彦が、聖教新聞社(東京・信濃町)の玄関前で車から降り立ったのは、一九七五年(昭和五十年)六月二十七日である。
 池田会長に挨拶する。田中や橋本、舛田も同席してくれるが、やはり話題の中心は自分になる。
“首実検”にのぞむような心境だった。十四歳でデビューし、数々のステージを踏んできたが、やけに胸が高鳴ってくる。

                       *

 応接室。
「伸一さん、こっちにいらっしゃいよ」
 池田会長が迎えてくれた。すぐ横に、緊張気味の舛田。
「思う存分、自分らしくやってください。監督とケンカしながらやってください」。鬼監督の相好が崩れる。
「橋本先生も、お久しぶりです。お焼けになりましたね」
 橋本は、すでに次回作『八甲田山』の製作に追われていた。すっかり八甲田連峰で日に焼けている。池田会長とひとしきり、その話題で盛り上がる。
 あおいは安心した。肩ひじ張る必要はない。気心の知れた友人が集っているようだった。
 日中、日ソの友好に行動してきた池田会長から、国際情勢をめぐる話が続く。コスイギン(ソ連)、周恩来(中国)、キッシンジャーアメリカ)。国際政治の要人の名前が飛びかう。
「私は親中派でも何でもありません。世界派です」「この日本が、あと千年、生きるためにはどうするか。そのために手を打っている」
 大きい。この人なら。座の途中で、思い切って尋ねた。
「戸田先生との初めての出会いで、直感的に『人生の師匠』と感じられたのでしょうか」
 ここが続編のヤマ場になる。たった一度の出会いで、人間が変われるものなのか。会長に葛藤や煩悶はなかったのか。
「敗戦の憂き目にあって、誰も信じられない時代だった。
 いわば切羽詰まった状態で座談会に出たんです」諭すような口調だった。
「一番、感動したのは、戸田先生が坊主でないということでした。まったく気取りがない。
 赤裸々に、愛情を持って、何でも話してくれた。一切の形式を脱ぎ取った人間だった」
 入信後、しばらく反発しながら学会活動を続けたとも明かしてくれた。
「不思議だった。どこへ逃げたって戸田先生に出会ってしまう。どうしょうもない間柄だった」
 しみじみ振り返る。
「それから煩悶は始まった。もし、この人についていったら、難があるだろう。中傷、批判は一生ついてくるだろう。これは大変な世界だ。喜びなんていうものじゃない」
 ああ、やはり葛藤があったのか。悩みの中で師匠を求めていたのか。神秘的な儀式などではない。人間と人間の自然な結びつきだったのだ。

◇まな板の上の鯉

 舛田の雷が落ちた。
「いま何て言った!」
 あおいの身体が凍りついた。
 クランクインした撮影現場で、ふともらした一言が引き金だった。
「もう僕は、まな板の上の鯉だから」
 烈火のごとき監督の叱声。
「『まな板の上の鯉』だと? ふざけるな! 鯉にするかどうかは、これから俺が決めるんだ。覚えておけ!」
 あおいは映画界では新人。包丁を入れる鯉ですらない。慌てて腰を折った。「すみません!」
 厳しい演技指導がはじまった。
 アクション映画で鳴らした舛田組。ささいなしぐさ一つにも叱吃が飛ぶ。
「カット! あおいちゃん、そこ、もっと力強く!」
 舛田には「山本伸一」の明確なイメージがあった。
「清潔。無垢。青年独特の精神の力強さ。これがないと駄目なんだ」
 鬼監督の心意気に、あおいも必死で応えた。十九歳の役に合わせ、長かった髪もバッサリ。ジャニーズ時代に身につけた演技は捨てて、ありのままの地を剥き出しにした。
 撮影終盤。舛田好みの、何ものかに飢えた目つきの、あおいがいた。

●裏方のスタッフの健闘をたたえてくれた。

◇名ライトマンの眼

 あっ。照明スタッフの石井長四郎が小さく叫んだ。
 池田会長が『続・人間革命』の撮影現場を訪れた。
 一九七五年(昭和五十年)十月二十九日、東京・砧の東宝スタジオ。
 石井は成瀬巳喜男ら巨匠を支えてきた日本屈指の名ライトマン
 当初、アシスタントたちが訝しがっていた。「なぜ石井さんが宗教映画の照明なんか……」
 石井は続編からスタッフに加わった。くどき落としたのは田中友幸である。
「前作を超える作品をつくりたい。ぜひ力を貸してくれ」この日も黙々とセットを照らしていた。
 キャッチライトという手法がある。瞳にピンポイントでライトを当て、生き生きとした表情を生む技術。
 あらゆるスターの輪郭、顔の陰影、瞳を観察してきた。
 眼の光で心の動きや身体の好不調まで判断できる。
 山本伸一のアパートを再現したセット。会長は、あおい輝彦丹波哲郎新珠三千代ら出演者、スタッフと輪になった。
 初めて出会った原作者。石井は、スチール撮影のため、スポットを当てる。
 おやっ。眼が異常に赤い。
「これは熱があるな……」
 ぎりぎりまで身体を追い込んでいる。なのに、そんな気配を周りに感じさせていない。
 セットヘ、にじり寄った。
 伸一の部屋を再現したスタッフに会長が頭を下げている。
 特に本棚の蔵書は、小道具係が三カ月かけて蒐集した。
 会長が手をさしのべて、労をねぎらっている。石井も、あぐらから正座に座り直した。
 これまで何十人という原作者を撮影現場に迎えた。有名スターと記念写真を撮って、さっさと帰ってしまう大物もいた。
 会長は、セットの隅々まで目配りして、裏方の仲間の健闘をたたえてくれた。気がつくと、帽子を脱いで会長の前に出ていた。

                       *

「凄い人だったなあ」
 会長を見送った後。石井は学会の担当者の飛田正夫に感動を漏らした。
「ただね……」。耳打ちした。
「今日の会長の眼は赤かった。熱っぽかった。大事な人なんだから、もう少し周りが、きちんと守ってあげないと。相当、無理をされているよ」
 職人たちの男気に火がついた。

◇続編の完成試写会

 晴れ上がった富士を仰ぎながら、二人の男が歩いていく。
「ついでに、白糸の滝まで歩くか」
 戸田会長と山本伸一
 大きな吊り橋を渡る。戸田は立ち止まった。伸一の肩に手を置き、じっと見つめる。
「伸、俺はな、俺一代で現在の世帯七五〇〇を、十倍の七万五〇〇〇、いや、百倍の七五万にまでしてみせる」
「七五万世帯……」
 戸田が破顔一笑する。
「その七五万を七五〇万世帯にするのは、伸、お前だぞ」
 富士が、じっと師と弟子を見つめている--。
 すぐ隣で、スクリーンを見つめる池田会長が、幾度もうなずいた。
 田中友幸は、安堵の息をもらした。
 一九七六年(昭和五十一年)一月三十一日。『続・人間革命』の完成試写会。会長は太鼓判を押した。
「大変な力作です。何も言うことはない。申し分ない」
 あおいと舛田が、合否を待つ受験生の親子のように身体を固くしていた。
「名演技です」
 丹波哲郎も満足げである。得意の毒舌を披露する。
「橋本のダンナも、なかなか難しい顔をしているが、頑固で強情、思いこんだら命がけの男です。映画が終わってみると、何とも言えない、心の広々した男に変わっていた」
 誰からともなく、この映画のおかげで人間革命できたわけだ、と声が上がった。映画人たちは、どっと沸いた。

◇映画がはねて

 映画は祭りに似ている。
 シナリオ、キャスティング、製作発表、撮影、編集、宣伝、封切り--。
 幾多の興奮、熱狂を巻き起こすが、映画がはねると、祭りの後のような余韻が後を引く。
「あれは、いい仕事だったなあ」
 この映画に関わったスタッフ、キャストは今も往時を振り返る。
 幻の第三作の構想もあった。
 戸田会長が晩年に愛した歌に「星落秋風五丈原」がある。漢王室の命運を担った諸葛亮孔明の苦衷を歌い上げた名曲。
 橋本忍が一番、二番、三番と歌いながら、はらはらと涙を流す。
 これは次のヤマ場になると、もらしたこともある。

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 あれから三十余年--。池田会長は関係者と変わらぬ親交を結んできた。
 あるスターが、大病に伏したと聞けば、見舞いと励ましの言葉を届けた。連れ合いを亡くした役者に、故人をしのんで植樹の配慮もした。
 あおい輝彦は息の長い役者になった。
 テレビドラマ『水戸黄門』で十二年間、助さん役を好演したっ富士山と野鳥が好きで「あおい鳥彦」とニックネームがつくほど、大自然を愛する横顔もある。
 二〇〇七年(平成十九年)の春。
 池田会長が執務前にテレビのスイッチを入れ、NHKにチャンネルを合わせた。
 朝の情報番組『生活ほっとモーニング』。シリーズ「にっぽん体感こだわり旅」で、あおい輝彦がアナウンサーと富士周辺を旅していた。
 逆さ富士や夕景の富士を望む絶景ポイントをめぐり、青木ケ原で野鳥を観察している。
 会長は、そっと伝言を頼んだ。番組を見ていたこと。
 末永い活躍を喜んでいること。
 丁重な伝言が届き、あおいは思った。富士山と池田会長は、いつまでも変わらない。いつも遠くから見守ってくれていると……。(文中敬称略)

池田大作の軌跡」編纂委員会