第26回 映画人と池田会長
いかなる映画も、その幕があがる前に、製作現場で予想もしないヤマ場がある。
原作者、キャスト、スタッフ。映画『人間革命』に関わった人たちの間にも、筋書きのない名場面があった。
●閉塞した日本映画界に風穴を開ける。
◇砧スタジオに集合
「おい、身体は空いてるか」
一本の電話から現場は動き出す。
舛田利雄(映画監督)らスタッフが三々五々と招集されたのは、一九七二年(昭和四十七年)の暮れである。
活動シャシン(映画の旧称)が三度の飯よりも好き。
撮影。照明。美術。録音。音響。スチール。小道具。大道具……。一家言をもっている。いいシャシンのためなら、どんな苦労も厭わない。独特の美学とプライドを持った職人集団である。
映画製作の常連が東京・砧の東宝スタジオに続々と顔を出した。
一冊の台本が用意されている。
映画『人間革命』
原作は、創価学会の池田大作会長である。
舛田はアクション映画、戦争映画が十八番。七〇年には日米合作で真珠湾攻撃を題材にした『トラ・トラ・トラ』を大ヒットさせた。
まったくの畑違いである。
心中に期するところがあった。
*
映画製作の現場には、不思議な魔力がある。
監督や主人公ばかりでなく、裏方の職人にいたるまで、人を熱く、のめり込ませる。
作り手が熱狂できない作品が、観衆を魅了できるはずがない。
映画『人間革命』が生まれた現場には、どんな葛藤や感動があったのか。
映画人たちの眼に、池田会長は、どのように映ったのか。
◇東宝のプロデューサー
東宝の田中友幸が、池田会長と会ったのは一九七〇年(昭和四十五年)八月三十一日だった。『ゴジラ』シリーズ、黒澤映画など二〇〇本以上を手がけた辣腕プロデューサー。
大阪の万国博覧会の会場を案内してから、映画、『人間革命』の企画を会長に、ぶつける。
いざ勝負の日である。
映画は博打だ。少額の予算で巨万の富を生む傑作もあれば、五〇億円かけて大赤字の駄作もある。
小説『人間革命』は、映画原作として魅力十分だった。池田会長の代表作。巻を重ねるごとにベストセラーを記録。創価学会の戸田城聖第二代会長を主人公にした伝記小説である。
田中の心は、不安と自信の間を揺れていた。
日本の映画界は斜陽化している。爆発的に普及したテレビに映像娯楽の主役の座を奪われた。ハリウッドの大作も目官押しで、邦画のヒット作は、めっきり減った。
その閉塞状況に風穴を開ける。映画『人間革命』しかない。数百万の学会員を動員できる。ビッグマネーのチャンスである。
しかし、危惧も抱いていた。
果たして商業ベースに乗せていいのか。学会員の反発は招かないか。
映画なら他の宗教団体も続々と乗り出している。安易な教団の宣伝に見られないか……。
最後は自分の眼力を信じた。
小説『人間革命』。抹香くさい宗教本ではない。戸田会長の飾らない人柄。ダイナミックな生命論。戦後の混乱期を背景にした群像小説にも読める。
多くの青年が「どうしたら、この世で幸せになれるか。平和を実現できるか」を追求している。
絶対に「絵」になる。学会員ではない人々に訴えるだけの普遍性をはらんでいる。
*
一方の池田会長。
生まれ育った東京・大田区の蒲田には、松竹撮影所があり、シネマの天地と呼ばれた。
後輩を励ますため、一緒に映画館へ。多忙なため、物語のヤマ場になるころには席を立ってしまう。
年末の仕事納めの夜。「ご苦労さん。映画でも行くか」。若手を連れて新宿でオールナイトを観賞。受付のチケット係が学会員で、思わぬ対話が弾んだこともあった。
飛躍的に伸びてきた学会だからこそ「これからは質だ」「文化の時代だ」と語ってきた。
恩師の戸田会長を直接知らない世代も増えている。小説『人間革命』の映画化も視野にあった。
新しい形で師の偉業を宣揚していく時期かもしれない。
*
万博会場を案内した田中は、池田会長に切り出した。
「『人間革命』を読みました。大変に感動しました」思わぬ二言が返ってきた。
「私も映画に興味があります。良いものを作っていますね」手応えは十分。映像文化への造詣が深く、共鳴する点も多い。
三カ月後の十一月、高ぶる気持ちを抑えながら伝えた。
「ぜひ映画化させてください。必ず成功します!」
東宝は製作部門を独立させ、良質な作品に力を入れてきた。映画館のネットワークも広い。全国にくまなく分布する学会員も足を運べる。
条件は申し分なかった。
後日。会長から返事をもらった。「ぜひ立派なものにしてほしい」
◇ホンは橋本忍
「一ホン(脚本)、二カオ(役者)、三クミチョウ(監督)」
この三つが、映画を成功させるポイントである。まずはホン。すぐれた脚本である。
すでに原作は手に入れた。ヒット小説の筋書きをなぞった映画もあるが、そんな手法は田中に毛頭ない。
ターゲットは、あくまでも広い映画ファン。いかに客を呼べる作品にするか。真っ先に、当代一の脚本家を訪ねた。『羅生門』『七人の侍』などで知られる橋本忍である。
*
橋本は首を縦に振らなかった。
信頼する田中のたっての願いである。絶対に離さないという気迫も伝わってくる。それでも迷った。
「田中さん、原作を読むだけでも時間がかかる。待ってくれ」。なんとか猶予をもらった。
重い仕事である。
長年のカンで、これは長丁場になると分かった。
脚本家の報酬はシナリオ一本あたりで決まっている。短期間で仕上がるものほど助かる。効率からいけば、この仕事は断るべきだ。しかし、ノーの返事にためらった。
理由はひとつ。題名が引っかかる。『人間革命』
スケールが大きい。どんなに長いシナリオも、煎じ詰めれば端的な命題に帰着する。巨大な意味の込められた四文字に見えた。
池田会長の著作との格闘が始まった。人間の内面を描かなければならない。
これが難しい。作中に描かれる戸田会長の生命論に引き込まれた。作品のヘソになるかもしれない。
橋本は青年期に、生と死の淵をのぞいている。
徴兵後、肺結核を患い、軍の療養所へ。同じ病の戦友がバケツに血を吐く。おびただしい血が床に飛び散り、絶命していく。
次は俺の番か……。
療養所にいれば三年。田舎に帰れば二年。医師に余命を宣告された。
療養所の売店で筆記用具を買い求め、シナリオを書き始めた。
身近に死を感じながら、脚本家の一歩を踏み出した。
池田会長も結核だった。小説『人間革命』では、肺を病んだ山本伸一(会長がモデル)が人生を模索する日々が描かれていた。
決断まで三カ月を要した。
「田中さん、やらせてもらうよ」
一九七一年(昭和四十六年)二月、橋本は仕事を受けた。
●百の演技指導も、ひとつの配役には、かなわない。
◇クミチョウは舛田利雄
舛田利雄が田中に呼び出されたのは、一九七一年の夏である。
手堅い手法の監督。渡哲也らスターを世に送り出してきた。「ちょっと特殊な世界だから、異論があるかもしれない。ホンを読んでから返事してくれ」
分厚い脚本を渡された。通常より五割ほど多い。
「もし断るにしても、橋本さんに会ってくれ」
橋本さんのホンか。えらいことになったな。
創価学会や人間革命への予備知識はない。戦闘シーンや、大立ち回りなら、お手の物だが、宗教の世界を絵にする自信はない。
しかも映画界では難解とされる橋本脚本である。
それでも舛田は、首根っ子をつかまれたような気がした。
以前から漠然とした「死への恐怖」が胸にあったからだ。
少年時代、夜中に物干し場に立つ。何万年もの時を経て星々の光が届いている。それに比べ人間の一生は何と短いのか。人は死んだら、どこへ行くのか。戦慄が走り、家族の胸に飛び込んだ記憶がある。
派手なアクションシーンで観客を沸かせているくせに、今でも人間の死を考え、眠れない夜がある。
恐怖の底にあるものは、生命の不可解さである。いったい人間は、どこから来て、どこへ行くのか。
いいチャンスかもしれない。自分なりに勉強させてもらおう。
◇カオは丹波哲郎
次はカオ(役者)である。
戸田城聖役を誰にするか。一流スターの名が続々と上がった。
どれも粒が小さい。
橋本忍の師匠格になる映画監督の伊丹万作。「百の演技指導も、ひとつの打ってつけの配役には、かなわない」と言い残した。
それほどキャスティングは、作品の成否を握っている。
最後の最後で舛田が奥の手を出した。丹波哲郎。一九〇センチ近いタッパ(身長)が戸田会長を彷彿させる。演じなくても演じているような存在感がある。
「アクション俳優ねえ……」。関係者の詳しげな声を跳ね返した。
「いや、性格的にいって、丹波が一番近いんだ」
*
舛田が丹波を口説きに行った。
型にはまらない天性のスター。
学徒出陣したが、まったく規律を守らず、上官も見放したほどである。
高圧的な態度は逆効果だ。
徹底して持ち上げるしかない。
「あんたしかやれないんだ」「これは適役だよ」
丹波は返事を渋っている。まずは脚本を読んでくれと頼むと「いや、今ここで、どんな話か教えてくれ」。
筋書きと狙いを話した。「死への恐怖」を覚えた少年時代の原体験も打ち明けた。
太い眉の下で、丹波の目がぎょろりと動く。
「うーん、それは面白い」
役者魂に、ぽっと火がついた。
「実は俺も生命というものに興味がある。人間、死んだら、どうなるのか。最大のテーマだね。よし、分かった。そんなに俺を必要としているなら、ひとつ舛田さんを喜ばせてやるかな」
*
一九七三年(昭和四十八年)二月十日。映画『人間革命』はクランクインした。
初日に、丹波哲郎が分厚い眼鏡をかけ、鼻の下に髭をつけた。
その瞬間、橋本は直感した。
“これでいける!”
似ている。無造作に立っているだけで、厚みがある。スタジオ関係者が、ぎょっとした表情で丹波を見た。
◇池田会長の陣中見舞い
敗戦の色濃い東京。背の高い男が焼け野原に荘然と立ちつくしていた。
折れ曲がった煙突。焼けただれた電柱。かつて教鞭を執った私塾「時習学館」は跡形もない。
撮影の西垣六郎が回すカメラの向こうで、男が和服の裾を払い、瓦礫の山に重い腰を降ろすり心配そうに寄り添う戸田会長夫人役の新珠三千代……。
「ハイ、カット!」
メガホンをとる舛田利雄の野太い声。
「いいねー、丹波ちゃん!」
一九七三年(昭和四十八年)四月二十五日。東京・江戸川区郊外のロケ地。
カメラの脇で、池田会長が熱演を見守っていた。原作者としての陣中見舞いである。
「映画とはいえ、本物そっくりですねえ。昔を思い出しますよ」
昭和二十年にタイムスリップしたような光景に、会長が感嘆した。
廃材などの処分場として使われていた埋め立て地である。
美術監督の村木与四郎が、たまたまハゼ釣りに通っている時に発見した。
トラック二台分の廃材を焼き、コンクリートの塊を転がし、約二週間で作り上げた。
撮影が一段落した。丹波が休憩に戻ってくる。会長が声をかけた。
「戸田先生、おはようございます」
「おっ、伸、元気か!」
役になりきっている丹波。大まじめな応対に笑いが弾けた。
学会本部への帰途。車中で現会長の原田稔に語っている。
「戸田先生の門下が、いかに大勢いたとしても、現実に先生を宣揚したのは、私しかいないんだよなあ」
*
撮影快調である。
学会側の協力もスムーズだった。
現場の注文に応じて、担当の鈴木琢郎が精力的に資料を提供してくれる。
スポンサーの現場への介入。“職人たち”にとって、これが一番カチンとくる。幾多の苦い記憶がある。
配給会社に政治力を持つ大物の鶴の一声で、どれだけやる気を削がれたことか。
池田会長は一切、口をはさんでこない。現場第一。
学会のコントロール下で、宣伝映画をつくるのではないか。懸念は杞憂だった。
スチールマンの中山章は、どうやって「学会らしい」スチール(宣伝材料)を撮れるか悩んだ。
学会員が経営している飲み屋や食堂にも通った。
庶民的で前向きな生き方の人が多い。
すっかり意気投合した。
おい、中山は信心したのか。冷やかすスタッフもいた。「何を言うか。君、六道輪廻(仏法用語。迷いの世界から抜け出せない意)を知っているか」と切り返した。
作中で、拘置所に入った戸田城聖がシラミをつぶすシーンがある。
生きたシラミを調達しなければならない。日本伝染病研究所から二〇匹を借りてきた。寒いと動かない。小道具係がヒーターや人肌で温めた。シラミ一匹の動きにも執念を燃やした。
◇戸田会長のテープ
「ある! 本当にあるんだ! 地獄も極楽も、あの世ではなく、この世に!」
セット裏から丹波の太い声が響いてくる。
珍しいな。スタッフが顔を見合わせた。台詞を覚えないことで知られる丹波が台本に、かじりついている。
ひどいときなど、自分の出番の部分だけ、ぴりっと破いてポケットに入れておく。
全体がどうなっているか、まったく関係ない。
その丹波が、最初から最後までシナリオを読み込んでいる。
*
役作りのため、丹波と舛田は、戸田会長の講演レコードを聴いた。
眠くなるような説法が延々と続くかと思ったが……何だ、これは。
面白い。抜群に面白い。大衆の心を見事につかんでいる。下手な落語よりも愉快である。笑いと涙があった。不正への怒りがあった。
一段高いところに立って、教えを広める人ではない。実に人間くさい。いい意味で肩の力が抜けていく。
宗教映画だからといって聖人君子を描く必要はない。人間ばなれした主人公では、観客から遠い存在になってしまう。
なんと魅力的な指導者なのか。池田会長が師事した理由も分かった気がした。
*
ロケは長期にわたる。撮影のあとで、スタッフやキャストが食事に繰り出す。
場の中心は、丹波である。焼き肉などをつついていると、すっくと立ち上がる。
「そもそも人間とは、いや、生命とは--」よっ、待ってました。ヤジが飛ぶ。「この映画が最高の配給と観客動員を記録す呑ことは間違いない。なぜなら、この戸田がついているからだ!」やんやの喝采である。
丹波は、徹底的に演技を磨いた。数珠の掛け方。題目の唱え方。
難解な仏法用語も濁点の有無にいたるまでで正確におぼえた。
体重も五キロ減らした。戸田会長の癖をたたき込むため、スタジオへ向かう車中では、会長講演を録音したテープを流し続けた。
この年の毎田映画コンクール(一九七三年)。丹波は菅
原文太らライバルを抑え、男優演技賞(最優秀男優賞)を受賞している。
◇ロードショーの反響
東北地方の漁村。公民館に立てかけられた看板の前で、老人が棒立ちになっている。
「こんなところにまで……」
戸田会長役の丹波哲郎のアップ。その下に「映画『人間革命』絶賛上映中!」の大見出しが躍っている。
一九七三年(昭和四十八年)九月八日。映画『人間革命』(製作=シナノ企画、東宝映像)は東京・有楽町でロードショーが封切られた。
翌月から全国で一般公開。
一番館(主要都市の映画館)、二番館(地方都市)、三番館(地方の市町村地域)。全国に「小屋(=直営の上映館)」を持つ東宝の強みだった。
公民館や市民会館でも上映された。野良仕事帰りの農婦や汐臭い漁師がスクリーンの前に詰めかけた。
*
映画専門家の声。
「宗教映画じゃない。人間映画」
「人間臭さと崇高な理念を合わせもった戸田会長」
「宗教に関心のない人こそ見よ」
同年の興行収入で第一位。日本映画界の記録を塗り替えた。
公開後、著名な映画監督から学会に打診があった。
池田会長の随筆「一枚の鏡」の映画化である。戦時中、ビルマで戦死した会長の長兄と母をめぐるドラマ。オールロケになるため、製作費の関係で実現しなかったが、多くの映画人が池田作品に注目していた。
監督の舛田利雄。
「あれほど楽しい映画作りはなかった。学会も、すべて任せてくれた。監督冥利につきる」
東宝では、いまだに社史を語るうえで「人間革命前」と「人間革命後」の立て分けがあるという。
●「信心は、試練を経なければいけないのだ」
◇日本正学館へ出社
「日本正学館に初めて出社した昭和二十四年の一月三日ですが……」
橋本忍は、狙いを絞って聞き始めた。
「どんな一日でしたか」
池田会長が答える。
「大変に寒い日でした。大田区森ケ崎の自宅からバスに乗り、品川から神田まで電車で通いました」
「昼食には弁当ですか」
「ええ。弁当持参です……」
細かいディテールを掘り起こす。
映画『続・人間革命』の製作が決まった。一九七四年(昭和四十九年)五月、都内で時間を取ってもらい、橋本は入念に取材した。
続編の目玉は、山本伸一の登場である。日本正学館(戸田会長の出版社)に入社した場面を描きたい。
最初の仕事は何か。
給料は、いくらか。
編集会議に出ていたのか。
会長の記憶は鮮明だった。
朝八時に出社したが誰もいない。雑巾がけをした。電報が来たが誰も来ないので、戸田先生のご自宅に届けた。これが初仕事。
初任給は三〇〇〇円。すぐ六〇〇〇円に昇給した。
雑誌『冒険少年』の編集者として、駅やバス停に足を運んだ。
通学の子どもが何を読んでいるのか。気になって仕方なかった。
ほう。橋本が嬉しそうに頷く。
「わかります。私も映画を作ると、小屋(映画館)の前に行って、どうだったかと聞いたりします」
明かされるエピソード。
編集部に届いた便りには、必ず返事を出した。
「頭を下げて一流の作家の了解を取ってきても、十分な原稿料が払えない。これが本当に苦しかった」
宣伝力不足で休刊に追い込まれる直前、詩人の西条八十を訪ねた。
「西条先生、偉大なる少年たちに夢を与え切れる詩を書いてください」
「いい言葉だな。本当に池田君は頑張って,いる。子どもを愛していることが、よく分かっ