我らは魂の勝利者! 宇宙の大法則の道を 山本 伸一


今ここに
我らは勇躍!
一千万の同志の
集まりとなる。

在厳なる大使命を決意した
日蓮大聖人の大仏法を
信仰する
創価の偉大なる行列は
蓮祖の生命が
三世十方の仏菩薩が
厳然と讃え
守護しておられるのだ。

我らの人生は
盤石だ!
我らの信仰は
完勝である!

常に愚者は騒ぎ走る。
我らに対して
新興宗教」などと
悪口罵詈してきた。

愚者は
いずこでも
いずれにも
嫉妬に焼かれ
邪悪に囚われ
正視眼を持てないのだ。
それは
心が濁り
不満の道を
彷徨(さまよ)っていることの
証左である。

非暴力の大英雄
マハトマ・ガンジー
大切にした
詩の一節がある。
「慈悲は宗教の根源
 罪の根源は傲慢」

傲慢な悪人を
威張らせるな!
善良な民衆に
尽くしゆけ!
これが
宗教の正道である。

我らの信仰は
悠久なるインドの
釈尊の正統であり
七百年前の
日蓮大聖人の直系である。
蓮相の出世の本懐たる
「三大秘法」であり
極意の中の極意の
仏法である。
そして信心である。

浅はかな
新興宗教」との非難など
全く成り立たない。
釈尊の教えが
大聖人の教えが
なぜ新興宗教なのか!

真実の宗教とは
生命の法理であり
宇宙の法則を
説き明かしたものだ。
正しき信仰とは
大宇宙の原動力たる
そして生命の根本たる
妙法蓮華経の極理を
唱え実践していくものだ。

 偉大なる
  宇宙と共に
    我が生命
  三世に輝く
    勝利の王者と

いかに
有名人になっても
いかに
名声だけを追いかけても
魂の真の勝利者とはいえない。
いな決して
勝利者とはなれない。

いかに
財宝を持ち
権力を持っても
永遠に通ずる幸福の魂とは
絶対にいえない。

蓮祖は喝破しておられる。
「死後の苦悩の世界では
 王の位や将軍も
 ものの数ではない。
 獄卒の責めにあう姿は
 猿回しの猿と異ならない。
 この時は どうして
 名聞名利や我慢偏執の心で
 いられようか」

幸福の大道の
根本の法則を探し求めて
幾千・幾万の哲学者が
思索し論じてきた。

その一例として
紀元前六世紀ごろに活躍した
古代ギリシャの哲学者
ラクレイトスは
生生流転が
世界の実相であると説き
「万物は流転する」との
有名な言葉を残した。

しかし
こうした探究も
理論的な光は見えるが
いまだ完全なる
生命の法則とはいえない。
万人に通じゆく
幸福の具体的な方途を
見出すことはできなかった。

御聖訓には仰せである。
「皆己心(こしん)の法を
 片端(かたはし)片端
 説きて候なり、
 然りといへども
 法華経の如く説かず」

わが生命の全体像を
あますところなく
解明した哲理を
人類は渇仰してきたのだ。

いつの時代でも
人間は外に幸福を探し
流離(さすら)いながら追求して
汝自身の魂が
いかなるものかを
知らずにきたといってよいい。

つまり
オーストリアの精神医学者
フロイトの愛娘で
父のあとを継いだアンナが
分析している通りだ。、
「いつも自分の外に
 力と自信を探していた。
 しかし それは
 自分の中から
 湧き出るものである。
 自分の内部に
 常駐しているのだ」
仏法に近い
賢明な洞察である。

御金言には
「九山(くせん)・八海(はっかい)も
 我が身に備わりて
 日月・衆星も
 己心にあり」と
明言されているじ

賢者も愚者も
智者も凡夫も
すべての人間には
「心」がある。
その心に
尊極の不滅の生命が
具わっているのだ。

我らの心は
宇宙より広い。
心より広い
宇宙はないのだ。

ゆえに
ウズベキスタンの大詩人
ナワイーは詠った。
「汝の尊厳と同じく
 他人の尊厳を大切にせよ」

その尊厳とは
位でもなければ
財産でもない。
生命それ自体の尊厳であり
人間としての振る舞いの
尊厳である。

だからこそ
ロシアの大文豪
ドストエフスキーは訴えた。
「地位の高い者、
 力のある者を
 恐れることなく、
 ただひたすらに賢く、
 つねに立派な態度を
 くずさぬがよい」

この「立派な態度」
すなわち
「人の振舞」の原動力が
正しき宗教であり
正しき哲学であり
実践と信心だ。

信心とは
幸福への行動である。
信心とは
平和への闘争である。
ともあれ
正しき信仰の究極が
この仏法だ。
この御本尊だ。

大聖人は
真剣な求道の女性
日女御前に示された。
「此の御本尊
 全く余所に求る事なかれ・
 只我れ等衆生
 法華経を持ちて
 南無妙法蓮華経
 唱うる胸中の肉団に
 おはしますなり、
 是を九識心王真和の都とは
 申すなり」

この全宇宙の中で
最も壮麗なる都は
一体いずこにあるのか。
他のどこでもない。
妙法を朗々と唱え
広宣流布に挑みゆく
私たちの胸の中にこそあるのだ。

御義口伝には宣言されている。
「始めて 我心(わがこころ)
 本来の仏なりと知るを
 即ち大歓喜と名く
 所謂南無妙法蓮華経
 歓喜の中の大歓喜なり」

わが運命を嘆くこともない。
人を羨むこともない。
自らの命に生き切ることだ。
そして
縁する一人ひとりに
生きる喜びを贈りゆくのだ。

 恐れるな
  仏の生命は
     大宇宙
   動かす力の
    信心なりせば

大聖人は仰せになられた。
「とてもかくても
 法華経
 強いて説き聞かすべし、
 信ぜん人は仏になるべし
 謗ぜん者は毒鼓の緑となって
 仏になるべきなり、
 何にとしても仏の種は
 法華経より外になきなり」

大聖人の仏法は
「下種仏法」である。
たとえ一時は
相手が反対したとしても
その生命の奥深くには
妙法の種が植えられている。
その種は
必ず芽生えるのだ。

それゆえに
相手がどうであれ
白信満々と
希望に燃えて
明るく朗らかに
大仏法を語ればよい。
その対話がすべて
自他ともの
永遠の幸福の種となるからだ。

十世紀中央アジア
哲学者ファラビは綴った。
「正義と正義の守り人を愛し
 不正と横暴の悪の根を憎め」

幸福になるためには
信念の道を
歩まねばならない。
正義の道を
進まねばならない。

ドイツの巨人ゲーテ
達観している。
「何か立派な事が
 現われるや否や、
 直ぐに卑劣な敵対物が
 その対照として
 現われるものである」

これが人間社会を貫く
宿命的な力学である。
邪悪な強敵との
熾烈な闘争を
勝ち越えてこそ
金剛不壊の生命の
厳かな完成があるのだ。

正法正義のために
難を受け切りながら
戦い抜く人生は
最も崇高である。
その生命こそが
宇宙の奥の奥にある
最極の大法則と
合致していくのだ。

 鍛えたる
  精神王者の
    我なれば
  いかなる嘆きも
     常楽我浄と

広宣流布の「時」とは
どのような時か。
「但 邪天・邪鬼等有って
 王臣・比丘・比丘尼等の
 身心に入住し
 法華経の行者を
 罵詈(めり)・毀辱(きにく)せしむべき時」と
「顕仏未来記」には
記されている。

この時にこそ
真正の法華経の行者が
仏天の守護の力を得て
一間浮提に広宣流布すると
断言されているのである。
これが
御本仏の法戦であられた。

創価三代の師弟は
あらゆる三類の強敵を
打ち破りながら
世界百九十の国土に
妙法を弘通し
蓮祖の未来記を証明した。
この創価学会
異体同心の和合にこそ
「生死一大事の血脈」は
脈々と流れ通っているのだ。

我らの不惜身命の師
戸田城聖先生は
峻厳に叫ばれた。
「異体同心であってこそ
 仏になる血脈を
 受け継ぐことができる。
 誰人であれ
 広宣流布を忘れ
 自己の名聞名利で
 派閥をつくろうとする輩は
 断固として幹部が
 団結し追放せよ」

 懐かしき
  あの友 この友
     この年も
  常楽我浄の
    人生祈らむ

アメリカの人権の母
エレノア・ルーズベルト
語っている。
「晩年の幸福の秘訣は、
 人生になおも興味をもち、
 可能なかぎり活動的で、
 他人の役にたち、
 多忙で、先を
 楽しみにすることである」

我らの学会活動には
その一切が含まれている。
若々しく前進する
多宝会 宝寿会 錦宝会
太陽会 敢闘会等の方々こそ
人生の幸福の博士であり
健康の大長者なのである。

純粋な信心には
成長がある。
福運がある。
幸福がある。
充実がある。
英知がある
救済がある。
そして勝利がある。

スイスの思想家
ヒルティは戒めた。
「虚栄は、
 まだ卑小な魂の
 まぎれもない
 しるしでさえある」

燃え上がる
学会厳護の魂を忘れるな!
師弟不二の一念を忘れるな!
ここに生命の栄冠があるからだ。

 億万の
  宇宙の宝は
    わが胸に
  ありしと思いて
    今世の指揮とれ

トインビー博士は
人類の社会を
“断崖絶壁を登る人びと”に
譬えていた。

断崖にあって
途中の岩棚に留まり
登ることをやめれば
そのまま動けなくなる。
これが 成長をやめ
衰退した社会の姿である。

断崖を登る努力を
間断なく続けた者だけが
より高く到達できる。
成長のための戦いを
貫き通した社会だけが
文明として勝ち栄えるのだ。

ゆえに人類文明は
精神的向上への努力を
永遠にやめるわけにいかぬ。
このように
博士は結論されたのである。

この博士が
人類の未来の希望を
託されたのが
創価学会の発展である。

「報恩抄」には
「南無妙法蓮華経
 万年の外・未来までも
 ながる(流布)べし」と。

我ら創価の陣列は
末法万年尽未来際へ向かって
さらに前進せねばならぬ。
いな 今まさに
一段と大きく飛躍しゆく
岐路に立っているのだ。

「根ふかきときんば
 枝葉かれず、
 源に水あれば
 流かはかず」

師弟の根を
より深く堅固に張り
新たな人材群を
林立させゆくのだ。
師弟の源から
いやまして勢いよく
勝利の清流を迸らせるのだ。

新しき一年!
新しき一日!
太陽は
たゆみなく昇り
生きとし生けるものを
照らし育む。

御聖訓には仰せである。
「日月天の
 四天下をめぐり給うは
 仏法の力なり」

我らも
この大仏法の力を
漲らせながら
今日も戦い切るのだ!
今年も光り輝くのだ!
今日も生き抜くのだ!
今年も勝ち開くのだ!

 永遠の
  幸福大道
    歩みゆけ
  宇宙の力の
   妙法なりせば


二〇〇八年一月十六日
 学会本部・師弟会館にて
      桂冠詩人
      世界桂冠詩人
      世界民衆詩人