152 世界一の婦人部を讃う



 太陽の
   母は今日も
      輝けり

 燦々と「希望の太陽」は昇った。
 世界の新しき春を明るく照らすのは、人生の最高の道である広宣流布に生き抜く「創価の太陽」の母たちである。
 「冬は必ず春となる」(御書一二五三頁)──この妙法の大法則を、満開の笑顔で晴れ晴れと実証しゆく、平和と勝利の婦人部総会も、全国で行われてきた。
 私も妻も、毎日、皆様からの弾けるような決意と喜びの報告を、合掌する思いで伺っている。
 あの地でも、この地でも、梅よりも早く、婦人部の対話の花が、春を告げ始めている。
 「春の初(はじめ)の御悦び木に花のさくがごとく・山に草の生出ずるがごとしと我も人も悦び入って候」(同一五八五頁)
 最愛の家族の逝去という悲しみを乗り越えて、前進しゆく南条時光の一家に贈られた、正月の御聖訓である。


     ◇


 来る春も
   また来る年も
    栄えゆく
  偉大な母の
    勝利の讃歌よ

 今年は、「地区」そして「ブロック」よりも少人数の単位となる、婦人部の学習・懇談の「グループ」が発足して三十周年である。 そのスタートの年、すなわち昭和五十三年、私は一月から四国を訪れ、連日連夜、尊き学会員の激励に奮闘した。
 いわゆる第一次の宗門事件の邪悪な狂風が、日に日に強まっていた時代である。
 その渦中、私は愛媛婦人部の勤行会に出席した。さらに四国研修道場で行う、「香川県婦人部総会」にも招待をいただいたのである。
 総会の前日には、式次第や県婦人部長の挨拶の内容を伺いながら、大成功のための協議を細かく行った。
 いかなる会合であっても、中心者は深き祈りと事前の準備を怠ってはならない。一回一回の集いが、広宣流布と一生成仏のための真剣勝負であるからだ。
 総会のその日、県婦人部長は、打ち合わせ通り、「貧女の一灯」の仏教説話を通して、凛とした声で語っていった。
 ──私たちにとって「貧女の一灯」とは何か。
 それは、「信心」であり、「学会精神」です。
 大風を受けて、ほかの何百何千もの灯が全部消えても、ひたぶるな信心の心を捧げた一人の貧しき女性の灯だけは消えなかったと言います。
 これと同じように、「潔い信心」「確固たる信心」「揺るぎない信心」「地道な信心」の一念すなわち学会精神のある限り、社会がどうあろうが、いかに偏見の中傷批判があろうが、私たちの一念の大福運を壊すことは、永久にできません。
 今日より、私たちは、大いなる拡大の目標へ、「福運の一灯」「福運の一念」を広げゆく前進を誓い合っていきましょう!──と。
 美事な確信の名スピーチであった。
 「そうだ!」。共感と決意の大拍手が轟きわたった。


     ◇


 最高に
   貴く強く
     美しき
  母の心に
    敵うものなし

 仏典によれば、かの貧女は師匠である仏に誓った。
 「今、私は貧しい身ですが、真心を込めてこの小さな灯を供養いたします。
 そして、私は誓います。
 この功徳をもって、来世は智慧の照明を得て、一切衆生の無明の闇を滅ぼし尽くそうと──」
 この「誓願」の灯は大風にも決して消えず、貧女は厳然たる成仏の記別を受けたと、経文に説かれている。
 ともあれ、人びとの幸福を願う心、そして真実の世界の平和のために、広宣流布に進み抜こうとする心──そこにこそ、最高の幸福への道があるのだ。
 まことに「心こそ大切」である。人数の多い少ないではない。「一人」が立てばいいのだ。「師弟の心」に燃えた婦人部が、毅然と頭を上げて、正義の誓願の灯を掲げゆくのだ。
 その灯は必ず「二人・三人・百人」へ広がり、地域を照らし、さらに日本中、世界中を照らす大いなる灯となることは、絶対に間違いない。
 この大仏法の方程式通りの拡大が、婦人部の「グループ」の尊き大行進であった。


     ◇


 厳然と
  母がおわせば
     勝ち戦

 この昭和五十三年の六月、全国の津々浦々、大ブロック(現在の地区)の単位で、第八回の婦人部総会が、にぎやかに開催されていった。
 折から、私たち夫婦は、北海道を訪問していた。
 この時、妻は、恩師・戸田先生の故郷である厚田村(現・石狩市内)で、二カ所の婦人部総会に、喜び勇んで参加している。
 また、妻は、自分が総会に出席できなかった地域の大ブロック担当員(現・地区婦人部長)さんのところへも、足を運んだ。
 さらに、その総会の会場であるお宅を訪ね、未入会だったご主人にも挨拶をし、和やかに懇談させていただいた。
 日本中、そして世界中、どこへ行っても、妻は時間さえあれば、一人でも多くの同志とお会いし、少しでも労い、励ますことを、何よりの喜びとしてきた。
 翌年の昭和五十四年の五月、第九回の婦人部総会の時には、神奈川にいた妻は、横浜市神奈川区内の大ブロックの総会に出席した。
 いずれも、恩知らずの坊主の陰険な圧迫の最中である。
 しかし、「婦人部の皆さんは、元気いっぱいですよ!」と、妻は満面の笑顔で報告してくれた。
 戸田先生は言われた。
 「学会幹部の責任は、会員を幸福にすることにある。それ以外には、何もない」
 わが創価学会には、いずこの地域にあっても、その地の友の「幸福責任者」として、何ものにも微動だにせず、戦い続ける母がおられる。だからこそ、学会は強いのだ。
 この三十年、わが創価の婦人部は、邪宗門をはじめ「三類の強敵」の暴風をものともせず、邪悪の闇を破り、世紀を照らす、正義の誓願の灯を燃え上がらせてきた。
 蓮祖大聖人は、いかばかり讃嘆されているであろうか。


     ◇


 苦しみも
   凱歌で飾りし
       母の顔

 わが創価の女性の信念の闘争を、世界の知性は、最大の信頼と共感をもって見つめている。
 南米アルゼンチンの人権の闘士エスキベル博士も、その一人であられる。
 博士との対談では、私たちの「宗教革命」の戦いと時を同じくする、「五月広場の母たち」の不撓不屈の足跡も語り合った。
 一九七〇年代、軍事政権下のアルゼンチンでは、多くの市民が軍隊や警察によって連れ去られ、行方不明になった。その犠牲者は、三万人に上るともいわれる。
 この非道な権力に対して、敢然と抗議の行動を起こしたのが、息子や娘が行方不明になった母たちであった。
 当時は戒厳令下で、集会・結社の自由は奪われ、人びとはおおっぴらに集まることもできない。
 しかし、母たちの聡明な知恵は、そして、わが子を救わんとする母たちの愛は、権力者に屈しなかった。
 ──一カ所に結集した会合が駄目なら、ずっと動いていればいいではないか。会合ではなく、勝手に歩いていることに文句は言わせない!
 一九七七年(昭和五十二年)の四月、独立革命を記念する、首都ブエノスアイレスの「五月広場」に、母たちはやって来た。最初はわずか十数人であった。
 そして彼女たちは、権力者が居座る大統領府の前に立つ広場の「塔」を、無言で、しかし決然たる足取りで、ぐるぐると回り始めた。



 「一刻も早く、息子を生きて返せ! 娘を返せ」と、心で絶叫しながら──。
 母たちは、行方不明の家族の名前を書いた白いスカーフをつけて、毎週木曜の午後、五月広場にやって来ては、抗議の行進を重ねていった。
 心ない罵声も浴びた。非道な弾圧もあった。それでも次の週には、また練り歩いた。
 母たちは、勇敢であった。不屈であった。地道であった。そして、正義であった。
 この非暴力の人権闘争は、やがて国内外の世論を味方につけ、逆に軍事政権を追い詰めていったのである。
 母たちの行進は三十年間で干五百回を超え、今も続けられている。この間、あの凶暴な軍事政権は、とっくに崩れ去っていた。勝ったのは、母たちであったのだ!
 この母たちのために、命を賭して戦い抜いてこられたのが、エスキベル博士である。
 その博士が、「人びとの善悪を見極める力を伸ばし、自由と人間の尊厳の道を築くことに寄与する」と絶讃してくださっているのが、創価の師弟の共戦であり、女性の連帯なのである。


     ◇


 母の詩
   母の曲あり
     創価かな

 千日尼御前御返事には──
 「悲母の恩を報ぜんために此の経の題目を一切の女人に唱えさせんと願(がん)す」(御書一三一二ページ)と仰せである。
 末法の御本仏であられる、日蓮大聖人が唱え出された、この題目を朗々と唱え抜きながら、幸福と正義の女性のスクラムを拡大することだ。
 これこそが、蓮祖へのこの上ない報恩となる。さらに、わが母、そして、すべての母たちへの無上の孝養となるのだ。
 なかんずく、巡り来る二月は、御本仏・日蓮大聖人の聖誕の月であり、恩師・戸田城聖先生の誕生の月である。
 この意義深き月を、報恩の祈りを込めて、広宣流布の拡大の転機にするのだ!
 これが、昭和二十七年のその時、二十四歳の私の全生命に燃え盛る闘魂であった。
 この私と一緒に、寒風のなか、欣喜雀躍と、大法の弘通に走ってくれたのは、白木静子婦人部長をはじめ、蒲田支部の母たちだったのである。
 婦人部と青年部の一体の息吹によって、あの「伝統の二月」の歴史が築かれたのだ。


     ◇


 母ありて
   この世の世界は
     楽しけれ
  母の長寿を
    皆して祈れや

 そもそも、誰人にとっても「誕生日」は、何よりもまず、わが生命を産み出してくれた母に、感謝を捧げるべき日といってよい。
 一九六〇年、世界平和への願いを胸に、私がアメリカを初訪問した折のことである。
 シカゴ郊外で、ある農家に立ち寄った。話が弾むうち、そのお宅のおばあちゃんが誕生日だとわかり、皆で、真心を込めて、「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」を歌ってお祝いしたのである。
 見ず知らずの旅行者の歌である。だが、おばあちゃんは私たちの歌声に、「今日は、一番嬉しい日になった」と喜ばれ、涙ぐんでおられた。
 「この母に幸多かれ」と、私は心から祈った。今も忘れ得ぬ思い出である。
 "誕生日の歌"は、最初、「グッド・モーニング・トゥー・オール」(皆さん、おはよう)という、子どもに挨拶を教える歌だったそうだ。作ったのは、幼椎園の先生をしていたミルドレッド・ヒル、パティ・ヒルの姉妹である。
 後に妹のパティは、哲学者のデューイ博士と同時代に、名門コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジで教え、アメリカにおける幼児教育の先駆者の一人となった。
 同カレッジには私も招かれ、「『地球市民』教育への一考察」と題して講演を行った(一九九六年六月)。
 ともあれ"誕生日の歌"が母や子の笑顔を広げた如く、わが婦人部は、平和と幸福の笑顔を日本中、世界中に広げゆくのだ! この最高の価値創造が広宣流布なのだ。


     ◇


 偉大なる
   母のスクラム
    世界まで
  広宣流布
    大道 開きぬ

 昨年の暮れにお会いした、アメリカの宗教研究の大家であるクラーク・ストランド氏も、傑出した慧眼をもって、創価の民衆運動を見つめてくださっている。
 帰国の前日には、関西の草創の同志とも懇談された。
 氏は、昭和二十八年に入会した、一人の錦宝会の母に、その動機を尋ねた。
 すると、「亡くなった矢追のお母さん(矢迫久子さん=関西婦人部の大功労者)から、『私もまだ入会して十日くらいで、よくわからないけど、この宗教はすごいらしいよ!』と言われて、よくわからないまま入信したのです」との答えが返ってきた。



偉大な宗教革命

 この話を聞いたストランド氏は言われた。
 「歴史的な例を見ても、新しい宗教革命が起きる時は、その宗教が伝わる勢いは大変なものがあります。
 理屈抜きで、人の心から心に伝わっていく。これが宗教革命の特徴です。
 創価学会を研究してきて、私は、おそらく五百年、千年に一度、誕生するかしないかの偉大な宗教ではないかと思ってきました。今日、関西の草創の方々の話を伺い、それが確信に変わりました」
 これが、研ぎ澄まされた知性の正視眼だ。「理屈抜き」を、ただ感情的に冷笑する傲慢な似非(えせ)インテリとは次元が違うのである。
 当然、学会は「御書根本」である。この教学の裏付けを得て、学会員はさらに確信を深め、信心の喜びを、勇んで語りに語っていったのだ。
 歓喜歓喜を呼ぶ。勇気の人が勇気の友を拡大する。
 文豪トルストイは"信仰と生活が一致してこそ真の信仰だ"と言った。わが婦人部には、何にもまして「信心即生活」の深き体験がある。
 この体験の力を、スイスの哲人ヒルティは強調した。
 「人を信じさせるものは体験である。自分も経験してみたいという願望と気分とを起こさせるものは、その経験をした人たちの証言である」
 "信心はすごい! 学会は素晴らしい!"──生命にわき上がる、その実感に勝る説得力は、どこにもないのだ。
 民衆の心に真っ直ぐに飛び込んでいく、この常勝関西の婦人部の勢い、そして爆発的な学会精神の躍動を、永遠に失ってはならない。


     ◇


 偉大な「生活博士」「幸福博士」の婦人部の皆様方は、今日もまた、きらめく智慧と勇気で、「皆が幸せに」「地域が安穏に」と、誠実な対話の波を広げておられる。
 民衆運動を続けていくうえで最も大事なことは何か。
 それは「不撓不屈であることです」と、著名な女性の未来学者ヘンダーソン博士は強く語っておられた。まさしく、婦人部の皆様の姿だ。
 暗い敗北の人生は、不幸だ。
 明るい勝利の人生は、永遠に幸福である。
 何があっても、私たちは負けない。絶対に負けない。
 創価学会に、「絶対勝利の信心」と「師弟不二誓願」がある限り!
 そして「世界の太陽」たる婦人部が、生き生きと燃え輝いている限り!

 世界一
   創価の婦人部
     晴ればれと
  一千万の
    母の力よ