第30回 中東・エジプトへの旅路

世界文明の十字路であるがゆえに、中東は異なる民族や宗教が衝突する発火点になってきた。
日本から遠く離れたアラブ社会に和平の道を開くため、池田会長は人知れず布石を打ってきた。
「どうか、もう一度、中東に行ってください」

◇福田起夫の願い
     
 モーニング姿の福田起夫は、新総理・三木武夫と並び、カメラのフラッシュを浴びた。
 皇居での認証式を終え、そろって閣僚が首相官邸の西階段に整列した。恒例の写真撮影である。
 一九七四年(昭和四十九年)十二月九日。福田は三木内閣で、副総理と経済企画庁長官 (当時) を兼務することになった。六十九歳。六回目の入閣である。 波乱含みの船出だった。
 オイルショックから一年余り。日本の経済は、深刻なインフレから脱却できていない。同年、消費者物価指数が20%以上も上昇している。新聞に踊る「狂乱物価」の文字。難局の舵取りは続く。
 クリーンな政治が売り物の三木だが、権力基盤は弱い。短命も予想された。福田はポスト三木の本命。ここで失策は許されない。
 砂上の楼閣ならぬ 「油上の楼閣」のもろさが、日本経済ばかりか永田町を直撃していた。
 石油危機によってクローズアップされた、アラブ社会の重要性。アメリカだけに、いい顔を向けていればよかった時代は終わったのか。
 中東諸国との安定したパイプづくり。これを怠れば、政権のアキレス 腱になりかねない。

 七五年三月九日、福田は日曜午後の時間を利用して、東京・信濃町の 創価学会本部へ向かった。前年末に召集された通常国会で予算審議がヤマを越え、ひと段落したところである。
 敷地内に停車した車の後部座席から降り立った。ひょうひょうとした足どりである。単身で秘書も伴っていない。
 池田大作SGI創価学会インタナショナル)会長が出迎え、手を差しのべてくる。しっかり握った会長の右の甲を左手でトントンと叩く。「お久しぶりです。再会を心待ちにしていました」
 室内で懇談が始まる。福田は細い目に力を込めた。
「世界の主なところは全部、文化交流をされている。特に一番“難物″のソ連と中国に真正面から取り組んでいただいた。ほかの政治家は気づいていないかもしれないが、私は全面的に賛成です」
 政界では会長を、やっかむ声もある。「中国とソ連に、ふたまたをかけるのか」。
“難物″の前で立ち往生していた政治家たちは面白くない。
 しばしば理想主義と揶揄される福田だが、福田なりの見解がある。
「日本人は傲慢だから海外で信頼されない。人間の交流がないから中国やソ連とも、うまくいかない。民間外交こそ王道です。  
 中ソ以上の“難物″が、アラブ世界である。中東とのパイプをもつ人物は極めて少ない。
 翌七六年に総理となると、福田はイラン、カタールなど四カ国を訪れる (七八年)。首相の中東訪問は、日本史上、これが初めてだった。
 福田は中東情勢に踏み込んだ。「どの国も金の力には頭を下げる。でも表面だけです。腹の中では、日本を軽蔑している。経済一辺倒では危ない」
 池田会長は中東諸国と十数年来の交流があるという。つい三日前にも、駐日イラン大使と会見したというではないか。
 福田は大きく構えた足を閉じ、グッと身を乗り出した。
「どうか、もう一度、中東に行ってください。イランの国王にも、ぜひ会っていただきたい」

◇アラブの快男児

 アラビア湾の沖合四八?。                  
 巨大なやぐらのようにそびえる掘削船「ソーントン号」は海底を半年間、掘り続けていた。
 日本の国策を担う、アラビア石油株式会社が、社運をかけた油田開発だった。
 一九六〇年(昭和三十五年)一月二十九日、第一号井の試験採油の日がやってきた。
 運命の朝である。
 ゆっくり回されるバルブ。作業員が固唾を呑んで見守る。大規模な火災事故も乗り越えてきた。もしダメなら、一切の努力が水泡に帰す。
 頼む、出てくれ!
 次の瞬間、パイプの先端から、漆黒の液体がドッと溢れ出た。
「出た! 出た!」
「やったぞ! 石油だ!」
 クウェートで待機していた川崎寅雄。吉報を受け、はやる心を抑えな
がら日本に打電した。
「ついに出た! 日産一〇〇〇?リットル以上の巨大油田」
 アラブに自前の油田を持たず、アメリカの石油メジャーから買っていた日本が、初めて“宝庫″ に通じるバルブを開いたのである。

 川崎は一九三五年(昭和十年)六月、外交官試験に合格し、エジプトに留学した。ここでアラビア語に精通する。戦後、役人暮らしが肌に合わず退官したが、中東との縁は切れなかった。
 石油会社に請われ、開発プロジエクトの調査役兼通訳として再びアラブに飛ぶ。
 丸い体躯。太い眉毛。黒縁メガネ。大きな鼻の下に、口ひげをたくわえていた。明朗かつ豪放。情に厚い快男児である。
 アラブに惚れ込み、日本と中東の友好に生涯を捧げようと決めた。
 通訳として政財界の大物と付き合ったが、しばしば幻滅した。憤りを隠せなかった。
「なんだ、あんなやつら。格好だけだ。偉そうにしやがって!」
「アラブ、アラブと言ったって、石油しか見ていないじゃないか。結局、自分だけなんだ」
 石油だけではない。文化。自然。人間。宗教。アラブの大地には、豊かな宝が埋蔵されている。それなのに、誰も掘り出そうとしない。
 深い焦燥に沈んでいたころ、転機が訪れた。

 川崎の妻は創価学会員だった。夫は海外生活が長く、信仰に全く関心を示さない。そんな話を耳にした池田会長が、夫に会ってくれるという。
 心配だった。どんな立場の人にもズケズケとモノを言う性格。ケンカも、しょっちゅうだった。
「どうか失礼がないように……」
 仏壇にかじりつくように祈った。
 川崎が東京・信濃町の学会本部に招かれたのは、一九六二年(昭和三十七年)一月二十七日だった。会長は初の中東訪問を二日後に控えていた。      
 中東諸国の情勢、文化、風俗を、つぶさに聞かれた。
「先ほど、東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)の発足式を行いました。東洋を中心に、世界の文化や宗教、民族性を研究し、平和に寄与していく機関です」
 小難しい信仰の話ではなかった。世界に埋もれている大切な文化資源を掘り進めようとしている。
 気がつけば、川崎は「アラビア語辞典」 の発刊という年来の願望を語っていた。日本には当時、アラビア語の辞典すらなかった。
「偉大なお仕事です。どうか後世のために作ってください」
 これまで誰にも理解されなかった。必要ない。採算が取れない。さんざんバカにされてきた。力強く手を握られた瞬間、目頭の奥が熱くなった。
「オレは、ずっと……」        
 帰宅するなり、家人に胸の内を明かした。
「オレは、ずっと、こういう人物を探していたんだ……」
 一転して、創価学会の運動に共鳴。苦心の末、日本初の 「アラビア語辞典」も発刊した。
 創価大学の開学(七一年四月)前、再び招かれた。約束の場所に到着するや、挨拶もそこそこ、会長から思いがけない言葉をかけられた。
「川崎先生。こんど創価大学をつくります。私と一緒に余生を過ごしませんか」
 創価大学
 アラブの快男児は決断も早い。瞬時に、自らの天命を察した。手に持っていたコートもカバンも、その場にバサッと投げ捨てて、直立不動になった。
「よろしくお願いします!」
 東京外国語大学助教授になっていた。周囲は猛反対である。
「もうすぐ教授じゃないか。新しい大学など、どうして行くのか」
 頑として譲らない。
「いや、オレは行く。池田先生がつくる大学に骨を埋める。中東に橋を架ける人を育てたい」
 文学部教授として中近東史、アラビア語を教えた。新設大学として、異例の講座だった。
 残念ながら開学から六年後に、川崎は急逝する。しかし生前「この大学で、一生分の仕事ができた」と語っていた。川崎の築いた礎のうえに、後年、創価大学アラブ諸国の交流は広がる。
 中東の人と自然と文化に通じるバルブを渾身で開き、その生涯を終えた。

◇初の中東訪問

 エジプト・カイロのバザール。
 生きた羊を首根っこから掴んだ男が、機関銃のように売り文句を、まくし立てている。
 両側に羊を逆さまにぶら下げた馬車が通る。臓物は綺麗にくり抜かれ、代わりに水が、なみなみと入っている。水売り商だ。
 どの店も、商品には値札がついていない。まず客に相場の五倍から一〇倍の値段を、ふっかける。
 頭にターバン。濃いヒゲと太い眉の間から、ぎょろりと目玉がのぞいている。
 紺色のスーツを着た日本人の青年は、いやおうなく目立つ。あたりの視線を気にするでもなく「いやあ、庶民的じゃないか。面白い!」。商人に身ぶり手ぶりで話しかけ、たちまちバザールに溶け込んでいく。
 一九六二年(昭和三十七年) 二月。中東を初訪問した池田会長と、その一行である。
 四カ国を歴訪したが、どの国も物情騒然としていた。
 イラン。
 首都テヘランで、反政府のデモ隊と警官が衝突。二〇〇人以上が逮捕された。石油国有化問題に端を発し、デモや発砲事件が絶えない。
 イラク
 軍部が国王や首相らを殺害し、クーデターに成功。戒厳令下にあった。会長一行が滞在した二晩とも市内で銃声が鳴り響いた。
 トルコ。
 軍事クーデターの後、テロが続発。イスタンブールで数千人規模の学生デモがあった。
 エジプト。
 シリアとの分裂直後だった。「スエズ事件以来の危機」と言われるほど緊迫。軍政下で、メディアも厳しく統制されていた。
 よりによって、なぜ、こんな時期に行くのか。                  
「危険です。少なくとも時期尚早ではないか」「会員も、中東全体で日本人数人しかいない。布教も不可能です」。執行部は、こぞって反対したが、池田会長の決断はゆるがなかった。

 イランの首都テヘラン
 町の一角に、人だかりができていた。同行の黒柳明を先頭に人を掻き分けるとそこはショールームだった。
 扇風機、冷蔵庫、ラジオ……。よく見ると「HITACHI」の文字。
「こんなところで日本の製品を見るとは!」
 黒柳は目を丸くした。      
 日本商品の進出が激しくなり、対日貿易が輸入超過になっていた。イラン政府は、厳しい輸入制限を実施した。中東各国でも同様の貿易摩擦が起きはじめていた。
 案内役をしていた現地の日本商社マン。学会員ではない。会長のもらした感想が耳に残った。
「経済の交流も大事だが、それだけでは危うい。人間の交流が根本だ」
 はて。聞いて、首をかしげた。 
「観光よりも庶民の暮らし向きに興味がある。町並み一つからも、民族性や国情をつかむ。こんな人は、見たことがないな……」

 翌六三年一月、レバノンを訪問。
 同行した多田省吾は意外な質問責めに戸惑った。
 たとえば郵便物。東京から送られた荷物が、いつ届いたか。何日かかったか。電話の通話状況は、どうか。会長から事細かに聞かれた。               
「なぜ、こういうことを調べるか、分かるか」
 多田には分からない。
「国内は、もう、よく分かっている。これからは世界を知らなければならない。中東を正確に知らなければならない。いざという時に、手が打てなくなってしまう」  

▼「人間対人間の交流が、真の外交です」

◇駐日イラン大使

 小野眸子は、聖教新聞に目を走らせながら、軽快なリズムで英字タイプを打っていた。 
 駐日イラン大使の秘書になって四年。池田会長に関する記事の翻訳が毎朝の日課になっていた。
 学会員ではない小野。最初は戸惑う用語も多かったが、今では慣れたものだ。
 ハムザービイ大使に手渡すと、いつになく寂しげな声が返ってきた。
「ありがとう。こうして聖教新聞の記事を読めるのも、もうすぐ最後になるだろうね」
 五年の任期を終え、帰国の日が近づいていた。
 外交官歴五十年やや小太りな身体をキビキビと動かす。理知的な円満な人格が愛され日本で人脈を広げた。彼の最も敬愛した人物の一人が、池田会長だった。

 初めて出会ったのは、一九七五年(昭和五十年) 三月六日。聖教新聞社で二時間にわたって意見を交換した。
 ハムザービイには、どうしても聞きたい点があった。
「中国、ソ連との交流には、驚きました。ダイナミックに世界を駆け回っておられる。その行動を貫くものは、いったい何ですか」
 即答が返ってきた。
「人間対人間の交流です。それこそが、真の外交だという信念があります」
 我が意を得たり。     
「一二〇?賛成しても、足りないほどです」        
 人間対人間――簡単なようで至難であることを知り抜いていた。
 当時、イランは日本にとって最大の原油輸入国。どうしても“経済対石油″ の交流から脱しきれない。
 油ではない。人間の血の通った友好の第一歩を、誰と一緒に歩み出すか。その答えが見つかった思いだった。
「ぜひイランにいらしてください。私が全責任をもって国王との会見を準備します。イランのあらゆる階層の人々と会っていただきたい」          
 ベテラン外交官は喜びを隠せなかった。      
「この人なら間違いない。『有言即実行』の人だ!」
 聖教新聞の報道に注目し、思想と行動を研究した。東京・港区のイラン大使館に会長を招き、語り合った夕べもあった。

 離日の日が近づいてきた。
 その直前、小野は大使から分厚い書物を手渡された。
「私が書いたものです」
 表題は『未来への光』。日本での記録が綴られている。読み進むうちに目を見張った。           
「確かにここに世界が常に求めてきた平和と慈愛の人物がいた」       
「あらゆる社会階層の民衆と民衆とをつなぐ橋の建設者」
「池田会長こそ、真に驚異的な度量をもつ世界的人物であり、全世界の人間個々の心情と精神にとってカギとなる人物である」
 およそ三分の一が、創価学会と池田会長に関する著述で埋められていた。
 ここまで衝撃的な出会いだったのか。

 帰国直後、イラン革命が勃発。大使は令嬢の住むロンドンに亡命しまもなく逝去した。            
 死後、なおも令嬢から手紙が届く
「日本では父が大変にお世話になりました。父はイギリスに来てからも、ずっと池田会長のことを懐かしがっておりました」

◇池田ドクトリン               

 ワシントンDCは、朝から小雪まじりの天気だった。
 原田稔は時折、黒縁のメガネを拭きながら池田会長の背中を追った。一九七五年(昭和五十年)一月十三日、訪米に随行している。
 ホワイトハウス、国会議事堂……。首都の中心街は、ウォーターゲート事件ニクソン政権下の盗聴事件) の舞台になり、ニュースで見慣れた街並みである。
 米国務省の七階。
 国務長官キッシンジャーの執務室がある。七〇年代、米大統領よりも世界情勢に影響力をもつと言われた。
 米中和解、米ソ戦略兵器制限交渉、ベトナム和平協定など電光石火で処理してきた。
 午後二時半、部屋に通された。
「ようこそ。お待ちしていました」
 奥の机で、大統領フォードの年頭教書を作成していた手を休め、サッと椅子から身体を起こした。
 初対面だが、数年前から書簡のやり取りを続けていた。
 簡素な部屋である。華美な調度品はない。写真撮影、懇談の後で、原田たち随行者も席を外した。
 時間は限られている。会長は話のホシを絞っていた。
 中東問題。
 第四次中東戦争から一年余り。世界の火薬庫に、いかに和平を築くか。この超難問の考察に関しても、長官は第一人者だった。
 会長は、封筒から数枚の書類を取り出した。「私なりの提案を、まとめました」              
 受け取りながら 「今、拝見してもいいですか」。キッシンジャーは素早く目を走らせる。
「力を持てる国の利益よりも、持たざる国の民衆の意見が優先されなければならない」
「武力的解決を避けて、あくまで交渉による解決を貫くべきである」            
「平和的解決のための具体的交渉は、あくまで当事者同士の話し合いによって決定されるべきである」
 書面には、対症療法ではなく、政治・外交の基本原則(ドクトリン)が明快にまとめられている。
 何度も頷きながら、三度繰り返して読んだ。
「全面的に賛成です。どれも重要な観点です。数日間、思索させていただきます」    
 会長が念を押す。
「世界のために、勇気をもって、やり遂げてください」「必要とあらば、私自身、いつでも中東へ飛んでいきます」
 和平交渉は当事者同士の話し合いによってこそ開かれる。
“池田ドクトリン″ から三年半後、時の米大統領の招きにより、エジプトとイスラエルのトップが会談するにいたる。「キャンプデービッド合意」 である。

◇カイロのオペラハウス     
 
 エジプト留学を計画している青年が、名古屋にいた。 
 現地の情報を求めていた一九九九年(平成十一年)、エジプト人の知己を得た。名古屋市内のイベントのために来日しているという。日本語も堪能で、なかなかの事情通らしい。       
 のっけから、驚いた。
「ソウカガッカイを知っていますか? イケダセンセイは素晴らしい人です」
「ええ? 知っているも何も……」。青年は男子部員だった。
「ぼく、センセイたちの通訳をしたことがあるんです」      
 にわかに信じがたいが、ともかく話を聞いた。       
 エジプトでは観光会社に勤め、もっぱら日本人観光客のガイド役をしてきたという。
 日本人は嫌いではない。礼儀正しい。ルールを守る。金払いもいい。しかし、エジプト人と距離を置く。誰もが同じものを見て、同じ反応を示す。どこか物足りなかった。
 ある日、日本から来る団体の通訳を手伝うことになった。
 SGI。初めて聞く名前だが、その会長がカイロ・オペラハウスから「エジプト文化」象徴賞を受賞するという。
 有名な賞である。外国人が受けるのは聞いたことがない。それも日本人。どんな人物なのか。
 ――七年前の出来事というが、鮮明に覚えているようだ。彼は勢い込んで語り続ける。
「あの時、センセイは、オペラハウスの子どもたちに楽器をプレゼントしてくれた。ビックリした。いろんな国から経済的な支援を受けることはある。でも、子どもたちの未来を考えてくれる人は初めてだった」
 どうやら本当の話のようだ。
「もう一度、会いたいな、イケダセンセイ……」

▼アラブの和平に示した外交の原則。

 池田会長がエジプトを訪問したのは一九九二年(平成四年)六月。
 ムバラク大統領、ホスニ文化大臣と会見(アレクサンドリアのラス・エル・ティン宮殿)。カイロ考古学博物館、カイロ・アメリカ大学との交流など、五日間をフルに動き、トルコへ飛んだ。

ヘブライ大学の留学生

 イスラエルユダヤ人が八割近くを占める。他のアラブ国家と宗教、民族の事情が異なる。
 エルサレムで働く日本人ジャーナリストが、現地で助手を探していた。
「優秀な女子学生がいるよ」
 知人に紹介され、会ってみると日本語が堪能である。礼儀正しい。申し分ないではないか。さっそく採用を決めた。
 日本の大学に一年間、留学したという。「どこの大学なの?」
 よく聞いてくれましたとばかりに胸を張る。
創価大学です」
 小さな驚きを覚えた。創価学会の池田会長が創立した大学。イスラエルの青年まで受け入れていたのか。確か東京の西部・八王子にあったはずだ。白を基調にしたキャンパス群を見た記憶もある。
 数カ月後、別の学生からオフィスに電話があった。
「ぜひ僕を雇ってください」
 ヘブライ大学の院生。人手は足りていたが、熱心さに引かれた。一度、会ってみよう。
 喫茶店で話すと、実に大した好青年だ。ハキハキとした受け答え。元気だし、品がある。語学力もある。給料は安くてもいいから、日本に関わる仕事がしたいという。
「日本に留学したことがあるんです。もう一度、行ってみたい」
 ほう、この子もか。
「温かく、素晴らしい環境の中で、存分に勉強できました。日本の学生は遊んでばかりと思っていましたが、そこは違いました。とても真面目なんです。東京の八王子というところにあって……」
 八王子? まさか……。
「ボスも、ご存知ですか。創価大学。今でも大好きです。創立者は、いつも留学生のことを第一に考えてくれるんですよ。家族のように大切にされました」
 ジャーナリストは再び軽いショックを覚えた。
 イスラエルの優秀な学生って、みんな創価大学育ちなのか?

ハーバード大学で 

 ボストン近郊。
 白い息を吐きながら、雪かきをする市民の姿があった。
 一九九三年(平成五年) 三月の上旬、ハーバード大学中東研究センター。元所長のヌール・ヤーマンは、母国トルコの賓客と相対し、気を張り詰めていた。
 大統領トゥルグト・オザル。
 エネルギッシュかつオープンで、大人の気風がある。自国の発展はもとより、中東と欧州の橋渡しを志していた。
 池田会長は、二人にとって共通の友人である。
「大統領、私は来月、日本に行きます。池田会長と再会する予定です。もう一度、ハーバードで講演していただけるよう、正式に、お願いするつもりです」
 オザルも思い出を語り始めた。
「三年前の秋、東京でお会いしました。今でも妻が言うのです。『あなたが、あんなに楽しそうに語り合った人はいないわね』 と」
 前年の六月、会長がトルコを訪問した際は、病気療養中で会えなかった。しきりに残念がっていた。
「無理を承知で 『ジェットヘリを出しますから』 と、お願いしたのですが。
代わりに、ご子息の博正さんが、わざわざ来てくれました」
 そうだ! オザルは、いいチャンスだと気づき、ヤーマンに頼み事をした。
 会長に伝言を託していただけませんか――。
「会長の行動は非常に重要です。日本が中心となって、世界の雰囲気を友好の方向へ変えてほしい」
「デミレル首相(後に大統領)も、まったく同じ考えです。会長の活動を高く評価し、学会との友好関係を重視しています」
 翌月、大統領急逝の訃報が流れた。
 ヤーマンに託した言葉が、会長への最後のメッセージになった。

9・11テロ
 
 その日、午後十時のNHKニュースは、黒煙を上げて炎上するニューヨークの世界貿易センタービルを映し出した。
 米放送局ABCのライブ映像が、そのまま流される。現地時間は、二〇〇一年(平成十三年)九月十一日の午前九時過ぎ。
 事故か、事件か。生中継が始まった直後、画面右側から飛行機が現れ、隣のビルに激突した。

 東京・赤坂のホテル。ニューヨークとの時差は一三時間ある。
 テレビニュースで、ユナイテッド航空一七五便が貿易センタービル南棟に激突する瞬間が流れた午後十時三分。
 テロの可能性が高まる。外国人客も多い、ホテルだ。各部屋に騒然とした空気が流れる。ブラジルなど中南米SGIに所属する青年も数十人、宿泊していた。
 日本での研修会が終わったばかりである。翌日、北米経由で帰途につく予定だったが、事件の影響で、しばらく帰国できそうもない。
 決して裕福ではない。懸命に貯えた旅費。一生に一度でいい。震えるような信仰心から、日本へやってきた。
 はるかな巡礼にも似た旅である。 その時に、なぜ、こんなショッキングな事件が起きるのか。
 容易に答えは出なかった。

▼中東の宮殿で見た池田会長の著作。

 急遽連絡があった。
 翌十二日、聖教新聞社に来てもらえないか。池田会長とモンゴル駐日大使フレルバートルとの会見に同席を、との話だ。
 なぜ、私たちが?
 昨日の大惨事。会長と再会できる喜び。ますます頭が混乱する。整理する余裕もないまま、会場に駆けつけた。
 会見の冒頭。会長はアメリカの惨事に哀悼の意を表してから、彼らを振り返った。
「ここに集った青年は、世界平和への希望です。この青年たちとともに大使を歓迎いたします」
 思ってもみない紹介のされ方だった。
 こんな場面もあった。鎌倉時代日本の権力者がモンゴルからの使者を斬首した非道にふれ、心から詫びていた。
 七〇〇年以上も前のことを!
 彼らは驚いた。
 まだこの時点で、事件の全容は明らかになっていない。テロ実行犯の正体も、宗教的な背景も分からない。むろん、イスラム社会とアメリカ陣営が、やがて深い対立に陥ることも予想できない。
 ただ彼らは、胸に刻むことができた。青年の使命とは何か。生命とはいかに重いものか。そして会長の言わんとすることは何なのか。

◇ヨルダンのハッサン王子

 東にイラク、西にイスラエルと国境を接するヨルダン。
 ダニエル・ナガシマ (アメリSGI理事長)が首都アンマンの宮殿を表敬したのは、二〇〇三年(平成十五年)十月上旬の昼過ぎだった。完全武装した兵士が厳重に警備する。
 イラク戦争の「戦闘終結宣言」から五カ月。隣国では自爆テロが相次いでいた。
 イスラエルと平和条約を結び、中東和平の鍵を握るヨルダン。同国のハッサン王子は、西欧諸国から 「アラブで最も開明的な指導者」と称される。
 案内された応接室。本棚には、古今東西の書籍が並んでいた。ナガシマの目が一点に止まる。中段の、手に取りやすい位置に、池田会長の著書が何冊も整然とおさめられている。
 ナガシマの視線に気づいた王子。
「池田会長は中東諸国も含め、世界中のリーダーと友好を結んでおられる。その幅の広さに感服します」

ガンジー・キング・イケダ ー 平和建設の遺産」展 (米モアハウス大学・キング国際チャペル主催)の開幕を控えての表敬だった。
 王子が会長を務める世界的知識人の組織「ローマクラブ」 の年次総会を記念しての開催でもある。
 ヨルダン王家は預言者マホメットの末裔。王子も熱心なイスラム教徒である。
 戦乱の絶えない中東で、肥沃な土地も、石油もない。巨大な荒波に挑む小船の舵を握る思いで、四〇年以上にわたって二代の国王を支え、国の安定を実現してきた。
「私は、イスラム世界とかキリスト教世界という表現で、世界を分けることに反対します。
 私の理想は 『中道主義』 です。池田会長の志向と深く共鳴します」
 王子の信念の叫びだった。

◇増田名誉教授の眼
 
 長崎大学の名誉教授・増田史郎亮は朝の支度を終え、ソファに腰を下ろして 「西日本新聞」を手に取った。
 一面をめくって手を止めた。
「おっ! 池田先生だ」
 二〇〇一年(平成十三年)十二月三日付。米国同時多発テロ事件をめぐり、日本のマスコミもアラブ社会に注目していた。この年、朝日、読売、毎日、産経の四大紙をはじめ、各紙が会長にインタビューしていた。
 会長の回答は明快だった。
「テロは、いかなる理由でも絶対悪だ」
「テロを正当化することなど、本来の宗教とは正反対」
「国連加盟国は一丸となって、特別総会の開催を検討してはどうか」
 読み進むうちに、はたと膝を打った。
「なるほど。本質を突きながらも、あえて多くを語らず、か」
 間違いない。会長は日本で一番、中東について発言する資格がある。
 各国首脳、大使等との親交。
 創価大学を通じた学術交流。
 民主音楽協会東京富士美術館を通じた文化交流。
 戸田国際平和研究所などを通じてのイスラムとの宗教間対話、文明間対話……。
 ――日本人は、とかく軽躁にすぎる。事件が起きると、蟻のようにわっと群がる。そのくせ、すぐ忘れてしまう。
「大した貢献も、責任感もないのに“中東通″ぶって、まくし立てる人間もいる。だが、ムードに流され、不用意な発言をして何になる。
アメリカ側に立っても、アラブ側に立っても、マスコミを喜ばすだけだ。それに比べ、さすがは池田先生だ」
 増田は、教育活動を通じて学会を知った。会長の国や人種、思想を超えた識者との語らいに驚嘆した。
 一人の人間が、これほどの歴史を残せるのか。
 聖教新聞に寄稿した。
「二十一世紀を、真の『平和の世紀』に転じゆくカギは何か。池田会長自ら範を示しているように『だれびとであれ』また 『いかなる国であれ』、そこに『人間』を見続けていく行為である」
 途端に、嫌がらせの電話や手紙が続いた。
「情けない。ちっちゃい連中だ。まぁ、これで僕も、ほんの少しだけ、池田先生のご苦労を教えていただいた気になりましたよ」
 からからと笑う。
 聖教新聞の若い記者が聞いた。
「それにしても日本は、何かあったとき、いや自分たちの生活に関係があるときだけ、中東に注目する。相変わらずですね」
 そこなんだと、身を乗り出した。
「ましてや池田先生が、どれだけ中東との友好に尽くしてこられたかなんて、知ろうともしない。先生の功績が正当に評価されるようになるのは、ずっと先だろうね」
「十年後、二十年後でしょうか」
 いやいや。小さく手を振った。
 ――狭量、狭量。会長の真価を知るには、日本人は器が小さすぎる。

          (文中敬称略)

池田大作の軌跡」編纂委員会
 ドキュメント企画「池田大作の軌跡」は、今月号をもちまして第一部を終了します。(編集部)