第30回 中東・エジプトへの旅路

世界文明の十字路であるがゆえに、中東は異なる民族や宗教が衝突する発火点になってきた。 日本から遠く離れたアラブ社会に和平の道を開くため、池田会長は人知れず布石を打ってきた。 「どうか、もう一度、中東に行ってください」

第21回 平和・祈りと行動

日米、日中、日ロ、日韓。国と国の反目の谷間で傷ついた人がいる。 人間社会の差別に人権をふみにじられた人がいる。 犠牲者となった大衆の目には、誰が平和の人に見えたのか。

連載第20回 信濃町の五五年

一九五三年、創価学会は新宿の信濃町に本部を移した。 戦前から学会と縁のある町を、誰よりも大切にしたのは、池田会長だった。

第19回 アメリカ・希望は海を越えた

自由な海外渡航が禁じられていた時代。日米関係も、戦後最悪の事態。 池田会長の決断は揺るがなかった。「みんな待っている。時は今だ」

 第18回 出会いのヨーロッパ

欧州の王室が東洋の一民間人である池田会長との交流を望んだ。 友情の連鎖が素晴らしき出会いを演出した。 ◆池田会長との邂逅を心待ちにする人がいた。 ▼ライン河の古城 「いや、これは……」 「なんと美しい」「まったく、まったく」 眼下にライン河が流れて…

第17回 大中部の光彩

――言論問題を越えて(下) 中部の学会員は「言論問題」の雪辱を果たす。 池田会長とともに進む庶民の情熱に労組幹部も驚嘆した。 ◆マスコミの風向きを変えた会長講演。 ▼第三十三回本部総会 東京・両国の日大講堂。二階に報道記者、演壇下にカメラマンが並ん…

第16回 大中部の光彩

――言論問題を越えて(上) 一九七〇年、学会を襲った「言論問題」。なぜ愛知選出の議員が 国会で取り上げたのか。嵐の中で池田会長は何を見据えていたのか。 ◆中部が受けた「言論問題」の波紋。 ▼中日新聞インタビュー 中日新聞社の社会部長(当時)・吉田昭…

第15回 青春の埼玉

――身をなげうって恩師を守った舞台 ひとたび事業家として敗れた恩師。埼玉での渉外、外交の成否が、事態を打開するカギだった。 戸田会長が再起できるかどうか、すべては二十二歳の青年の双肩にかかっていた。

第14回 正義の神奈川

――「私の舞台は、海の向こうだ」 「正義」と大書した思いを胸に、世界へ。会員の中へ。会長勇退後、横浜は、再び船が出航していく母港となった。 ▼四半世紀を経て公にされた「正義」の書。 ◇時が来たら出す 「用意できているね。じゃあ、見せて」 スピーチの…

 第13回 昭和三十四年・東京の戦い

――世間をあっと言わせた首都決戦 戸田会長の心残りだった東京の敗北。 恩師亡きあと、東京を強くした池田総務によって雪辱は果たされ、過渡期にあった学会は危機を越えた。 ▼東京創価学会の礎を築いた池田会長。 ◇根っからの「江戸っ子」 池田大作SGI(創…

第12回 ロシアへの第一歩

「ソ連が怖いのではない。ソ連を知らないことが怖い。だから行く」 一九七四年九月八日、ロシアの大地に第一歩を記した。 ◆日ソ間の“戦争”が終わった日。 ▼「日ソ復交」の承認 国会議事堂の長い階段を上り、池田大作青年室長は、三階の傍聴席に着いた。 コー…

 第11回 宗門事件の深層

宗門事件とは何か。 ある老僧が語った。「学会と宗門の争いではない。人間性の根本が問われた問題だった」。 その深層に迫る。 ▼寺の奥深くに、底知れぬ闇。 ◇「大奥」の深き闇 富士山麓の南西で寺が焼け落ち、現場から一体の焼死体が発見されたのは、一九四…

第10回 三代会長と九州(下)

「池田会長は思想で世界をひきつけた」(本島等・前長崎市長)。九州各界のリーダーが見た池田SGI会長の実像とは。

第9回 三代会長と九州(上)

国家権力。坊主。内部の敵――三代の会長が学会の前進をはばむ相手と対決した天地こそ、九州だった。

第8回 創価大学の開学

「よしっ!」――四〇年前、何もない丹木の丘で池田会長は決然と立った。あらゆる逆風、偏見、誤解にさらされ、創立事業は困難を極めた。

第7回 日中国交正常化を提言(下)

――「私は五〇年先の中国を見る」

第6回 日中国交正常化を提言(上)

――「日本は池田提言に救われた」

第5回 中南米への旅

孤高の指導者、フィデル・カストロにもたらした劇的な変化。無名の庶民という?表敬先″から開かれていった池田会長の民間外交。背広を着てカストロ議長が現れた。

第4回 大阪事件

「見ててみい。ワシの目に狂いはない」裁判長自身が池田会長の人格に圧倒されていた。会長が法廷で対峙したのは、戦前から昭和の時代を貫く思想弾圧の闇だった。

第3回

炭労事件―――売られたケンカは買おうじゃないか! 戦後の復興を支えた「炭都」北海道・夕張の地で繰り広げられた人権闘争。 池田室長の気迫に打たれ、無告の民は立ち上がった。 ◆夕張の庶民が精一杯にあげた正義の叫び。 ▼「炭都」を行き交った幾多の人生 ♪み…

第2回昭和31年・大阪

民衆は、かく戦い、かく勝った(下) 「民衆を見下すものは許さへん!」。 池田室長を中心に、関西の庶民たちは、権力の横暴に真っ向から挑んだ。

第1回昭和31年・大阪

民衆は、かく戦い、かく勝った(上)“まさか”が現実となった「大阪の戦い」。その陣頭指揮を執り、不可能を可能にしたのは、当時28歳の若き青年であった。