320 恐れなき和歌山の友に贈る



連続勝利の歴史を!

全世界の友のために

 日蓮大聖人は、「開目抄」に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御
書二三七ページ)と宣言なされた。全く正しき道理である。
 牧口先生もまた、「愚人に僧まれたるは第一の光栄なり」と断言なされた。
 大聖人の直系の指導者であるならば、当然なる真理の叫びである。
 師の殉教の後を継ぐ戸田先生もまた、「愚人にほむらるるは、智者の恥辱な
り。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」と宣言された。
 仏法の真髄の法理であり、人生の究極の正義の道である。そして、信仰の誉
れ高き人間の究極を突いていらっしゃる。
 古来、「仏法書読みの仏法知らず」が、いかに多かった日本の歴史よ!
 経文を唱えれば、それで信仰者であるが如く見え、学校や大学で仏教史を教
えれば、それがまるで仏教学者であるが如く見える時代も、長く続いていた。
 仏法は実践である。仏法は、人を救い平和を築く「不惜身命」の行動なくし
ては、ありえないのだ。
 「仏法は、着物みたいに美しく飾りながら、読んだり説いたり、形式的な飾
りになり下がってきた。それは、釈尊に対して、そしてまた大聖人に対し、利
用のみであり、厳しく言えば侮辱であり、傲慢だ」と言った仏教哲学者がいた。
 わが創価学会は、大聖人の仏法を信じ、行じ、あらゆる経文通りに、あらゆ
る非難中傷を受けながら、広宣流布に戦い抜き、行動し抜いてきた。
 これは、万人の凝視するところだ。
 だからこそ創価学会は、新時代を築きゆく広宣流布の真実の使命ある団体と
して、世界的になったのだ。
 嬉しいことに、私は、この先師らの言う通りの世界を歩んできた。
 ゆえに、正義であり、勝利者であると自負している。
 そして、学会の中に、皆の中に、その正義の仏法は脈動している。
 われらの同志の世界は、広宣流布の闘争に、常に燃え上がっている。これが、
人間としての究極の誉れ高き栄光の正道であるからだ。

 小説『新・人間革命』の次の章、「烈風」の章では、いよいよ昭和四十四年
十二月の和歌山訪問について綴らせていただく予定である。
 急性の肺炎による高熱を押して臨んだ和歌山市の県立体育館での、あの一万
人の県幹部会。
 その時、私の生命を奥底から突き動かしていたのは、ありし日の恩師・戸田
先生のお姿であった。
 それは、忘れることのできない昭和三十二年十一月十九日、信濃町の旧学会
本部の応接室でのことであった。
 戸田先生は極度に衰弱しきっておられた。ソファに横になられて、声もあま
りにも寂しく低かった。
 それにもかかわらず、翌日、広島への指導へ旅立つ決意をしておられた。
 私は決断した。誰も先生の体を心配していないのか。何たる側近だ。何たる
弟子だ。怒りをもって、私は横になっておられる先生の前に土下座し、「先生、
明日出発される予定の広島指導をやめてください」と大声で懇願した。
 「先生、ご無理をなされればお体にさわり、命にもかかわります。おやめく
ださい」
 私はすがるような思いで申し上げた。だが、先生は厳しい表情で立ち上がら
れ、断固として言われた。
 「仏のお使いとして、私は死んでも行くのだ。大作、行かしてくれ。それが、
まことの信心ではないか!」
 私は直感した。
 "先生は、今や死を決意しておられる"
 私も真剣であった。引き留めることに全魂を込めて、先生に申し上げた。
 すると先生は、声を振り絞るかのように言われた。
 「四千人の同志が待っている。……大作、死んでも俺を、行かせてくれ!」
 先生は弟子たちに、不借身命こそ仏法者の本来の姿であることを、身をもっ
て示しておきたかったのだ。
 その命を削る思いの言々句々は、唯一無二の弟子である私には鋭く直感でき
た。

 ともあれ、和歌山訪問を前に、私は大阪で、四十度を超す熱を出してしまっ
た。疲れに疲れきってしまった。
 私の容体の連絡を受け、妻も急きょ駆けつけた。
 体を診てくれた医者は、「熱が下がれば……」と口にしたものの、本心は、
絶対に和歌山行きは中止すべきだと訴えていた。
 側近の幹部からも、断じて、行かぬよう止められた。
 私は、妻と二人きりになった時に言った。
 「どうしても和歌山に行ってあげたい。途中で倒れれば本望だ」
 暗々のうちに二人で納得し合った。行くことが決まったのだ。
 忘れもしない、わが師の逝去直前の昭和三十三年三月十六日――。「広宣流
布の記念式典」は、時の首相を迎えて挙行されるはずであった。
 実は、その式典に水を差し、首相の出席をやめさせたとされる一人が和歌山
におり、いまだに学会の悪口雑言を言い放っていた。
 善良な和歌山の同志は、どんなにか苦しい思いをしているであろうか。
 私は、和歌山に行き、学会の正義を、厳然と訴えておきたいと、固く心に決
め、長い間、誓い続けていたのである。
 だが、熱のために、私の体はフラフラしていた。

 遂に和歌山の同志と共に迎えることのできた、あの県立体育館での幹部会で
は、会場を揺るがせゆく、歓喜と勇気の漲る師子たちのシュプレヒコールが天
まで轟き響いた。
 「和歌山は、戦うぞ!」
 「和歌山は、勝つぞ!」
 誰も私の本当の病状など知らないはずだ。
 私は嬉しかった。高熱を忘れて、同志の勇敢なる雄叫びに喜びもし、安心も
した。
 その会合の最後に、同志の求めに応じて学会歌の指揮をとった後、もうその
体は自分のものではなかった。
 宿舎に移り、汗ビッショリとなった下着を替え、ただちに医師に注射を打っ
てもらうと、ほんの少しだが、体が楽になった。
 起き上がって、窓の力ーテンを開けると、眼下に別世界の和歌浦湾があった。
 海の彼方に煌めいていたのは、海南市の灯りであった。あの地でも、わが同
志が、生き生きと不屈の活躍を続けているにちがいない。私は合掌し、人知れ
ず友の幸福を祈った。 今、その海南市の友の健闘がひときわ光っていると伺
っている。これほど懐かしく、また嬉しいことはない。

 昔、小学校の教科書に、「稲むらの火」という物語が出ていた。
 これは、和歌山の広村(現・広川町)出身の偉人である浜口梧陵(ごりょう)
の逸話から、小泉八雲ラフカディオ・ハーン)が創作した短編がもとになっ
ているようだ。
 ――高台に住んでいた五兵衛(モデルは浜口梧陵)が、ある年の大地震の時
に、海の異変から津波が来ることをいち早く察知した。だが、海べりの村人た
ちは、一向に気づかない。急を知らせに下りていく余裕もない。
彼は一計を安じ、刈り入れたばかりの稲の束に、ことごとく火をつけた。火事
だと思った村人が高台に集まった時、津波が押し寄せた……。
 和歌山には、この物語のように、人のために我が身を投じ、資財を投じる、
尊き献身の気風がある。
 すばらしい県民性である。
 わが学会の生き方とも、深い共通点があることを嬉しく思う。
 本来、宗教は社会を離れてはありえない。社会の信用を得てこそ、生きた宗
教の証左があるからだ。
 和歌山の同志は、時に愚直なまでに、この指針を忠実に守ってくださった。
 現在は、山間部や農村地域で、聖教新聞の購読者数が全世帯の三分の一を超
える町村が幾つも出ている。
 偉大なる人材と団結の和歌山の底力を、今もって私は心から頼もしく思い、
和歌山の同志を敬愛している。
 かつて、もし私が会長辞任した時は、和歌山に定住し、和歌山の方々と一生
涯、共戦していこうと、妻とこっそりと決意深く語り合った。妻も大賛成であ
った。
 二人にとって、忘れ得ぬ深刻な会話であった。

 ナポレオンは言った。
 「不可能は小心者の幻影であり、卑怯者の逃避所である」――。
 御書には「一は万が母といへり」(四九八ページ)と仰せである。
 一人の勇気ある行動が次の一人の行動を呼び、遂には万人の勇気の行動とな
り、勝利を呼ぶのだ。
 恐れなき和歌山の友よ、一人ももれなく幸福と栄光を勝ち取り、和歌山の連
続勝利の歴史を、全世界の友のために築き飾っていっていただきたい。
 イギリスの青春詩人バイロンは叫んでいる。
 「私の義務は、正しき目的のためにすべてを賭することにある」(阿部知二
訳)と。

2003年4月23日(水)SP掲載