101 懐かしき山口闘争
――築け!広宣流布の大人材城――
――常に対話の旋風を!幸福と平和の折伏を――
――師弟の呼吸から始まった――
この九月、山口市にお住まいの齋藤清子さんから、丁重なお便りを頂戴した。
文面からは、かくしゃくとした、お元気な様子がうかがえて、嬉しかった。
明治の創業以来、百数十年の伝統をもつ、歴史的遺産である、料亭「菜香亭」の五代目主人であられた。
三十年近く前に一度、地元の同志と共にお目にかかったが、お名前の如く、本当に心のきれいな方であった。
私が、「またお会いしましょう」と申し上げると、大正生まれの齋藤さんは笑顔で言われた。
「その時は、私がどれだけ元気であるか、会長さんに見てもらいましょう」と。
――残念ながら、多忙のために、なかなかお会いできぬまま今に至ってしまったが、齋藤さんとは、変わらぬ心の交流を続けてきた。
そして今日も、妻と二人してご長寿を祈っている。
◇
この「菜香亭」は、現在、公共の施設となり、「山口市菜香亭」として広く市民に親しまれているそうだ。
もともと「菜香亭」は、名付け親の井上馨をはじめ、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋といった明治の元勲や、岸信介、佐藤栄作という昭和の宰相とのゆかりも深い。
皆、山口出身である。まさに、近代の山口は、人材山脈の偉観を呈していた。
だが、民衆の大勝利の夜明けを開きゆく、地涌の菩薩の澎湃たる出現は、意外や、ここ山口では大変遅れていたのだ。
昭和三十一年の九月五日。厳しい残暑の午後、私は、学会本部で、戸田先生と広宣流布の協議を行っていた。
師も、弟子も、考えることは、ただ「広宣流布」の遂行という一点であった。
この年の五月には、私は、関西で指揮をとり、一カ月で折伏一万一千百十一世帯という金字塔を打ち立てた。
日本中の学会員は、再び自身の力を信じながら、師子となって立ち上がり、走った。
したがって、日本全国の広宣流布の波は、飛躍的に拡大していった。学会が生まれ変わった。
ところが、山口県は、会員わずか四百数十世帯という弱小地域に甘んじていた。
歴代の日本の総理が多く出た山口県。
ゆえに今後も、日本の重要な地位を占めていくであろう山口県――。
その山口から、地涌の菩薩たる広宣流布の闘士が躍り出ないはずは絶対にない!
つぶさに現状を把握されると、戸田先生は断を下された。
「中国が一番遅れている。大作、お前が行って、指導・折伏の旋風を起こせ!」
「はい。やらせていただきます!」
一瞬の呼吸であった。
◇
準備に約一カ月かけ、私が“山口闘争”の第一歩を印したのは十月九日、本州西端の歴史の町・下関であった。
広宣流布という新・民衆革命の発進地として、これほどふさわしい場所はないと、私は思っていた。
「おれは前進する光りの波のなかおれの腕が武者ぶるいする」とは、トルコの大詩人ヒクメットの叫びであった。
この山口闘争には――
仙台、蒲田、築地、向島、本郷、小岩、文京、足立、中野、杉並、城東、志木、大宮、鶴見、浜松、名古屋、大阪、船場、梅田、松島、堺、京都、岡山、高知、福岡、八女と、多くの支部から派遣員が参加してくださった。
それぞれ縁故を頼りに、山口県下へ走ったのである。
派遣員は、わが旧知のメンバーもいれば、今回、初めて一緒に戦う友もいた。
安楽な生活の人などいなかった。皆、大変な生活のなか、必死に旅費を工面し、勇んで馳せ参じてくれた尊き義勇兵だった。
この大事な法戦に参加した全同志を、一人も残らず勝利させてみせる!
私は、第一回の訪問では、十月十八日まで、下関市、防府市、山口市、岩国市、柳井市、徳山市(現在は合併して周南市)、宇部市を走り、勇み立って、戦いの指揮をした。
折伏の最前線で悪戦苦闘する派遣員たち。
そして、まだ信心の日浅き地元の方々の狼狽。
さらに、多くの悩みを抱えた新来の友の姿――。
私は決断していた。
断じて山口県を蘇生させてみせる!
歴史に残る、広宣流布の人脈を作ってみせる!と。
会って、語る。
会って、悩みを聞く。
会って、励ます。
会って、指導する。
会って、共に祈り、御書を拝する。
直接会えなくとも、手紙等で、会ったと同じだけの誠実を尽くし切っていく。
私は、喜び勇んで、体当たりで毎日毎日を走りながら、飛びながら、勝利のために、建設のために、乱舞していった。
そして、「縁した方々を、皆、偉大な広宣流布の大闘士に育成していくのだ!」と、歓喜踊躍して、苦しみを楽しみに変えながらの人生を、自分の身で創っていった。
御書には「日蓮は此の法門を申し候へば他人にはに(似)ず多くの人に見て……」(一四一八ページ)と仰せである。
この意味は、“他の人と比較にならないくらい、大勢の人に会ってきた”との御聖訓である。
わが学会員も、大聖人の御心と同じでなくてはならぬ。
まさに「会う」ことが折伏なのである。
生命と生命のぶつかり合う勝負なのだ。
◇
日蓮仏法は「下種仏法」であり、学会は「折伏」の尊き団体である。
勇敢にして、誠実に語り抜いた分だけ、自他の生命に満足と幸福の花が咲き薫っていくのだ。
いかに悪口を浴びようが、中傷されようが、折伏を実践する人が最も偉いのだ。これは、大聖人が断言されている。
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(御書五五二ページ)
強いて、仏法の正義を訴えていくのである。相手の反応がどうあれ、妙法に縁させることが大事なのだ。
そして、「強いて」語るためには、何よりもまず、自分の臆病な心、弱い心を打ち破らねばならない。そうであってこそ、勇気をもって、悠然と楽しく対話ができる。
その結実は、真心と執念で決まる。
折伏が実らず旅館に戻った同志を励まし、私は言った。
「もう一度、その人の所へ、明るい顔をして、師子の心をもって、行ってきなさい!」
またも肩を落として戻った同志に、再び私は言った。
「では、もう一度、行ってき給え!これが、本当の仏道修行だ」
決定の一念で、再び対話に臨んだ同志の顔は、あまりにも尊く、喜び勇んでいた。三度目に、頑強に反対していた相手が、「信心します」と叫んだのである。
試されているのは、常に自分の心だ。相手を絶対に救うのだという、広い慈愛、忍耐強き勇気という、本気の決意があれば、いかなる人でも心を動かしていけるのだ。
私も、先輩たちも、皆その決意で、世界一の妙法流布への創価の大勝利の陣列を飾ったではないか!
◇
第二回の私の訪問は、十一月十五日から二十一日まで七日間であった。
さらに総仕上げとなる第三回の闘争は、翌三十二年一月二十一日から二十五日まで五日間であった。
つまり、三回合わせて正味二十二日間が、私の歴史的な大闘争となったのである。
皆に勇気を!
皆に正義を!
皆に偉大な人生を!
皆に後悔なき勝利の旗を持たせよう! と、勇みに勇んで、苦難の日々の布教の山を登った。
あまりにも美しき朝日であった。
あまりにも神々しき太陽であった。
そして、あまりにも清々しき夕暮れの瞬間であった。
妙法の舞台は、人生最極の舞台なのだ。
維新回天の大事を成しゆく方途として、松陰は「草莽崛起」を構想していた。つまり、民衆革命の決起の譜を作っていた。
実は、この着想は、大聖人に由来している。
松陰は書簡に書いた。
「私の策の発端は、日蓮が鎌倉幕府の勢いが盛んな時に、よくその自らの教えを天下に広めた。しかも北条時頼でさえ、彼を抑えられなかったことだ。実行と刻苦、これを尊信すべきである。肝心なのはここだ、ここだ」
非常に有名な史実である。
ともあれ、民衆の決起とは、誰でもない、自分自身が勇敢に、一人の人間として、一人の生き抜く権利として、一人立つことである。
地位も、肩書も、ましてや役職も、まったく関係ない。
一個の「人間」として、最高無上の法則である、折伏という最前線に打って出ることだ!
実戦のなかでこそ、人材は作られる。鍛えられる。そして、師子と育っていくのだ。
私は、共に戦った同志の胸に、師弟の心を、学会精神の真髄を打ち込みたかった。
正義の闘士よ、いざ地涌の大使命に奮い立て!
その願い通り、私が魂を注いだ山口闘争が終わった時、山口は四百数十世帯から四千世帯以上へと、実に十倍近い拡大を成し遂げていた。
さらに、山口闘争は、中国方面を強化し、全学会を強くした。そして、この年の十二月、悲願の七十五万世帯達成への原動力となったのだ。
あまりに目覚ましい躍進に、多くの先輩たちの焼き餅はひどかった。
しかし、これから戦い抜こうとする、若き青年たちの勇気は、いやまして倍増していった。
◇
「大作が行けば大丈夫だ」
戸田先生は、私の戦いを、悠然と見守られていた。
先生の山口入りは、弟子の山口闘争が終わって三カ月後のことであった。
その時、私は、次の決戦場の大阪にいた。
先生は、下関で、こう言われて落涙されたという。
「今、大作は、関西で命懸けで戦っているんだ。弱い体だから心配だ」
激戦、また激戦の日々であった。中傷批判の嵐の真っ只中を、私は一段と決意深く、前進の指揮を執った。
先生に喜んでもらいたい。
勝利を報告したい。
これのみが、弟子の道であるからだ。
ああ、懐かしき山口闘争!
私は勝った。
この舞台にあっても、師弟は不二として勝った。
わが弟子よ! 君も、断じて何ものにも負けるな!
「正義の拡大」のために、勝って、勝って、勝ちまくってくれ給え!
山口は戦った。
中国方面は実によく戦った。悔いなく歴史を作った。
今や、ありとあらゆる闘争にあって、全国模範の勝利、勝利の大人材山脈が、堂々と出来上がってきた。
さあ、汝自身の永遠の福徳を積みゆくために!
創立七十五周年を総仕上げし、明年迎える「山口闘争五十周年」をば、圧倒的な完勝の歓喜で飾ってくれ給え!
2005年(平成17年)10月22日(土)掲載