第7回 日中国交正常化を提言(下)


――「私は五〇年先の中国を見る」



 一九八九年六月、中国は「天安門事件」で世界から孤立した。

 内外の批判、非難の中、池田会長は決断する。「困った時に行くのが、本当の友情だ」
周恩来の「遺言」に応えた池田会長。

▼「やっぱり名誉会長だわな」

 前方の座席から小柄な男が身を乗り出し、手招きした。

「山ちゃん、山ちゃん」

 元内閣総理大臣竹下登創価学会副会長(当時)の山崎尚見を呼んだ。

 一九九七年九月二十八日。

 日中の国交正常化二五周年を祝賀する記念式典(北京・人民大会堂)に出席した二人は、その帰路、成田行きの全日空機に乗り合わせた。

 山陰地方の上空にさしかかったころである。

 山崎が近寄ると、竹下は窓の外に広がる故郷の島根県を眺めながら、つぶやいた。

「やっぱり日中関係は池田名誉会長だわな。名誉会長でなければ、できないわなぁ……」

 しみじみとした出雲弁である。

「言語明瞭、意味不明瞭」と椰揄された竹下にしては珍しい。素朴で飾らない口ぶりだった。

 山崎は自分のシートに戻って、しばらくの間、今の言葉を反芻した。

 思い当たる節はある。

 日中関係は「正常化以来最悪の状態」と言われていた。

 日本では、首相が靖国神社を参拝。台湾海峡に目を転じれば、中国がミサイル演習。日米安保条約の再定義も議論が沸騰していた。

 式典には関係修復の期待も込められていたと聞く。

 会場の人民大会堂に並ぶ中国の顔ぶれも若返っていた。

 毛沢東周恩来、廖承志といった国交正常化の「井戸を掘った人間」は、すでにいない。改革開放の父・勝g小平も、二月に逝去している。

 竹下にしてみれば、こうしたキーマンを失い、明るい先行きも見えない。誰が頼りになるのか。そんな連想が池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長に及んだのだろう。

 シートベルト着用のサインが点灯した。成田空港へ高度を下げはじめた機内。山崎は、周恩来との約束を果たした池田会長の足跡を改めてかみしめた――。


▼「戸田先生の手を思い出した」

 夜目に白い息を吐きながら、池田会長は北京三〇五病院の正面から車に乗り込んだ。

 一九七四年十二月五日の午後十一時前。マイナス八度まで冷え込んだ日で、凍りつくような夜空に半月が昇りかけていた。

 周恩来との会見が終わった直後である。帰り際、池田会長は随行していた原田稔(副理事長)に小声で伝えた。

「周総理の手を握ったとき、晩年の戸田先生の手を思い出したよ」

 戸田城聖会長(一九〇〇年生まれ)と周恩来(一八九八年生まれ)は、二歳違いの同年輩である。

 細く筋張った周の右手を握った瞬間、もう永くないことを察した。

 翌六日、帰国した池田会長は羽田空港で報道陣に囲まれた。

「周総理の病状は、いかがでしたか」

 国際社会は、周恩来の健康に注目していた。

「生きているのか、死んでいるのか」「病気ならば、その政治生命は」


 中国は文化大革命の渦中で情報が流れてこない。周恩来あっての中国である。その生死は文字通り、中国の死活に直結した。

 周の病状悪化が伝えられて以降、最初に会った日本人が池田会長である。

 会見場で無数のフラッシュを浴びながら、会長は口を切った。

周恩来総理は元気でした。生命力の旺盛な人です」

 会見の日、三〇五病院から宿舎へ戻る車の中で、同乗した廖承志(中日友好協会会長)は、しきりに繰り返していた。

「周総理は、元気でしたね! 元気でしたね!」

 廖ひとりの声ではない。総理は健在であってほしい――中国人民の願望が痛いほど感じられた。

 記者会見の発言は、関係者たちの思いに応えるものだった。

 実際に周恩来が、池田会長の前で快活な表情を見せたことも事実である。周の身体を気遣い、発言を控える会長に、むしろ周の方が多く問いかけた。

「出身は、どちらですか」

「東京です」

 香峯子夫人にも同じ質問。

 「東京です」

 すかさず会長が付け加えた。

 「二人で一人前です」

 周は椅子からひっくり返らんばかりに声を上げて笑った。生命力豊かな人だな、と会長は感じた。

 会見の前日(十二月四日)、三木武夫自民党の新総裁に就任している。三木は池田会長に中国首脳への伝言を託し、それを受けながら、周も池田会長に「平和友好条約」の早期締結を伝えた。

 中国側が日本の新政権に表明した、最初の公式見解であった。


▼誰が周の遺志を継いだのか

 会見後の中国側の反応。

「人民日報」(七四年十二月六日付)には、前夜の十時から行われた「周・池田会見」が写真入りで報じられていた。

 この紙面を開いた中国共産党の幹部は「ああ、総理が全面的に信頼している方だ」と感じた。

 それまでは、どこか探るような目で日本の“宗教者”を見ていた党幹部たちも安心した。

 池田会長と香峯子夫人の飾らない振る舞いが、関係者の間で話題にもなった。

       *

 周恩来は、北京三〇五病院で息を引き取るまで五八七日間、入院をした。その間に海外要人との会見は六五回を数えている。

 翌七五年になってからも、日本人では稲山嘉寛(日中経済協会会長)、保利茂(元内閣官房長官)、藤山愛一郎(日中友好議員連盟会長)と会っている。

 凡帳面な実務家の周である。死期を察した以上、会う人ごとに後事を託し、没後に備えたと考えるのが自然である。それぞれの相手に信を置いて、重い言葉を残したと思われる。

 しかし、その言々句々を「遺言」と受け止め、行動と結果で応えた会談者が、どれだけいたか。

 西花庁で周が執務していたころから、売名や外交成果アピールのため周に接近する者もいた。会見内容を大げさに飾り立て、自己宣伝に利用した政治家もいた。

 巨星・周恩来に照らされる月のような人物は多いが、周の遺志を継いで太陽のように光る人は少ない。


▼「日本へ行ってみたい」

 北京三〇五病院で、ベッドから身を起こした周恩来は、主治医の張佐良らに話しかけた。

「日本……。可能であれば、日本へ行ってみたいものだ」

 一九七五年一月十三日に開かれた第四期全国人民代表大会全人代)の数日後のことである。年間の最大行事が終わり、体調も落ち着いていた。

 周は医師団の献身的な治療に感謝した後で、病状が好転した場合の訪問先にふれている。

 まず、国内では未訪問のチベット。ただ、これは現実的には難しいと自ら打ち消している。

 もう一つが日本である。

 外遊の意欲をもらした後で、周は黙って何かを考え込んでいた。


 前年の十二月五日。池田会長との会見では、桜の季節の来日を誘っても「願望はありますが、無理でしょう」と答えている。

 わずか一カ月余りで、訪日の希望を口にするように変わっている。

 同じころ、池田会長はアメリカにいた。

「周・池田会見」では「中日平和友好条約の早期締結」が話題になった。この点について、以下のことを特筆しておきたい。

 ?一月十三日。会長はワシントンで米国務長官キッシンジャーと会談。「日中平和友好条約」の締結について、キッシンジャーから「賛成です。やったほうがいい」との言質を引き出した。

 ?同日。会長は、すぐさま先進国蔵相会議でワシントンに滞在していた蔵相(当時)の大平正芳と会い、キッシンジャー発言を伝えた。大平は我が意を得たという。〈日中平和友好条約は七八年八月、北京で調印〉

「一度かわした約束は守る」。周との会見から一カ月余。池田会長は即座に動いていた。

 池田会長は、かつてジャーナリストの大森実と対談した際、語っている。

 「中国人というのは、本当にこちらが信義を重んじれば、信義を守る大民族です」


▼なぜ注目するのか

「周・池田会見」を節目に、学会と中国は交流を深めていく。

 世間的な通念からすれば、奇妙な関係である。

 そもそも共産主義の国が、なぜ日本の宗教団体と親密なのか。

 中国にとって、何の利点があるのか。池田会長の何を信じているのか。反日感情は学会に向けられないのか。

 いくつかの疑問を解いていきたい。

    *

 まず、中国が学会に刮目した理由を三点から述べてみたい。

 第一に「大衆性」である。

 中日関係者。

「私たちは、創価学会を『日本の縮図』と認識している」

 学会員は、特定の職種や居住地に片寄っていない。

「あらゆる階層と地域の人がいるから、学会と付き合えば、縦にも横にも、まんべんなく日本の人と関わっていける。こんな団体は、他にはないでしょう」

 かつて周恩来が 「創価学会は大衆の中に広々とした基礎をもっている。そこに創価学会を大事にする理由がある」と語っていたのは、有名な話である。

 エピソードがある。

 八四年五月、中国を代表する作家・巴金(中国作家協会主席)が来日した。

 日本ペンクラブの招待で都内のホテルに泊まり、毎朝ホテル内のレストランで食事をしていた。中国では高名でも、日本で顔を知る人は、まずいない。

 池田会長と会見した翌朝のことである。いつものようにレストランで朝食を取っていると、視線を感じた。顔を上げると、ウェイトレスがじっと見ている。

「あなたは巴金さんですね」

 にっこりと、微笑みかけてくるではないか。

 その日を境に、買い物や食事中など、いたる所で声をかけられた。

聖教新聞で見ましたよ」「あら、巴金さんじゃない」。気安く肩を叩く年配の女性までいる。

 一夜にして日本中にファンができたようで 「本当に驚きました」と文豪は笑みを浮かべていた。


◆「創価学会は大衆の中に基礎をもっている」

▼「次の次の世代」を見据えて

 第二は「継続性」である。

 池田会長の第四次訪中から随行してきた洲崎周一(SGI公認通訳)。

「今の日中関係というのは、同世代のつながりは強いが、年配と若い人の交流は少ない」

「ところが池田先生は一貫して、留学生をはじめ中国の若い人を、次から次へと大切にしてこられた。中国の各世代に、先生と学会を深く理解し、感謝している人がいる」

 七四年の第一次訪中の時から、会長は次代の中国を担う人材を注目してきた。

 中日友好協会の陳永昌(現・副会長)も、その一人。陳が若手スタッフの頃からユーモラスなニックネームで呼び、折々に日本の文化や歴史などを語り合ってきた。

 全青連(中華全国青年連合会)に対しても、胡錦涛(現国家主席)が主席を務めている当時から、学会青年部との絆を結び上げてきた。

 教育面でも然り。

 七五年四月、創価大学は、新中国初となる六人の正規留学生を受け入れた。創立者・池田会長の提唱によって門戸が開かれている。

 戦前、日本には約三万人の中国人留学生がいたといわれる。日露戦争で大国ロシアを倒した日本は、アジアで注目の的だった。隣国の学生たちも次々と海を渡ってきた。

 しかし多くの留学生が「対華二十一ヶ条要求」や「満州事変」を機に本国に引き返し、そのまま抗日運動に挺身していく。周恩来も、その一人であった。

 留学生を敵にしてしまったところから日中の長い亀裂が走りはじめた。

 これは過去の話ではない。

 外務省関係者の指摘。

「今も、かなりの留学生が日本に幻滅して帰国しているようです。これは深刻な問題です。国の交流といっても、現実的には人間と人間のつながりです」

 事態は深刻である。

 創価大学は交換教授も含めて、約二五〇人の中国人留学生を受け入れてきた。その数を聞いて、目を丸くした外務省関係者がいた。


▼「先生、折伏してください」

 第三に「利害関係がない」点をあげたい。

 池田会長は、中国を利用しない。だから利用されることもない。

「見返りを求めていません。要するに布教をしないということです。それどころか中国からの青年育成に全力を尽くし続けてきた。中国の人が信頼する理由です」(洲崎周一)


 中国に行ってみれば分かることだが、中国の各界は池田会長を「宗教者」でなく「社会活動家」として認識している。

 七四年五月。初訪中した池田会長と廖承志の間に、こんな会話があった。

「池田先生、どんどん中国で折伏してくださいよ」

「いえいえ廖先生、その必要はありません」

 池田会長の口ぶりには、いささかの迷いもない。

「貴国の繁栄が続くうちは布教しません」

「こりゃ、一本取られた」

 廖は生まれも育ちも東京で、人情に厚い。やはり江戸っ子の池田会長と肌があった。

 二度目の訪中の時、また尋ねた。

「池田先生、そろそろ折伏しませんか」

「いいえ、しません」

 中国が初めて創価学会を認識した六〇年代の初頭、人を介して周恩来から池田会長に伝言があった。

「中国での布教は待ってほしい」

 会長は即答した。

「よく分かっています」

 当時、七億の民を抱えた中国の最高指導者にとって「宗教」への警戒心はぬぐえない。

 総理の片腕の廖が、ユーモアに押し包みながらも牽制球を投げてきたのは当然であろう。

 この約定は、周、廖が故人となった今も守られている。今なお池田会長は折にふれて、この原則を確認し、徹底している。


▼「正規」の留学生として

 一九七五年四月。新中国初の「正規留学生」が、創価大学の門をくぐった。

 周恩来は、国際社会に中国を認知してもらうため、留学制度に力を入れた。国交正常化後、中国外交部(外務省)は全土から選りすぐりの六人を日本に送り込んだ。

 七三年。彼らは戦後初の国費留学生という触れ込みで日本の土を踏んだが、籍を置いた某大学では“聴講生”として遇されていた。

 文化協定が結ばれていないため、正規の留学生試験が受けられなかったのである。

「仮に受けても“文革”真っただ中の中国人です。世界史にしても物の見方が全く違う。答案に丸をくれなかったでしょう」(留学生の一人)

 正規留学生として日本語を習得させるために、駐日中国大使(当時)の陳礎が動いてくれた。

 池田会長に「留学生に満足のいく授業環境を与えたい。創価大学で学ばせてもらえないでしょうか」

 創立者の池田会長は快諾した。かつて留学生だった周恩来の“後輩”たちである。

 「結構です。私が“身元引受人”になりましょう」

 六人は、晴れて創価大学へ入学した。

 留学生のために「日本語別科」が創設された。真新しい学生手帳が晴れがましく、何度も開いた。

 発表された単位取得のスケジュールに発奮した。決して甘いカリキュラムではない。

「猛勉強が必要でした」と元留学生。厳しい分だけ、創価大学が一人前と認めてくれたようで、うれしかった。

 友好親善の美名の下に大事にしすぎて、逆に留学生を駄目にしてしまうケースも多い。創価大学は明らかに違った。

 二年後、六人は創価大学から別科の「修了証書」を受け取った。

「留学中に周総理が逝去され、黒い喪章をつけて学びました。留学は総理のお陰です。中日友好に役立つ力をつけることで、哀悼の意を表そうと皆で決めました。池田先生にも何度も励ましていただきました」(同)


天安門事件

 一九八九年十月某日。首相官邸

 中国大使として北京に赴任する橋本恕は、総理大臣の海部俊樹に強く迫った。

「総理。相手国とケンカするために大使は行くのではない。いくら中国の評判が悪くても、仲良くする方針でいきますよ。いいですね」

 官房長官森山真弓は同意したが、水玉ネクタイの海部は、最後まで冴えない顔のままだった。

 それほど日中関係は、こじれていた。

 四ヵ月前の六月四日。民主化を求め、天安門広場に集結した学生、市民と武装した人民解放軍が衝突した。「天安門事件」である。

 中国の国際的信用は一夜にして失墜した。

 欧米諸国は、政府首脳の相互訪問を拒絶した。日本政府は中国への第三次円借款(九〇〜九五年)の凍結を決定した。

 政治、経済の両面で、中国は孤立した。

 その渦中で、橋本は中国大使を拝命したのである。外務省の中国課長(六八〜七三年)として国交正常化の実務を取り仕切り、いずれは中国大使と目されていたが、まさかこの時とは。気の毒がる友人もいた。

 大使として赴任するため、橋本は北京空港に降り立った。

 ゲートもロビーも閑散としている。在中邦人は次々と引き揚げ、残っているのは大使館関係者や商社マンくらいだった。

“こりゃ、いかんな”

 軍隊が人命を踏みにじった。各国からの非難は、まぬかれない。ただ中国を孤立させるほど、世界の安定は遠のく。あくまでも国際社会の秩序の枠組みの中で解決をはかるべきであろう。

 そんな考えで働く橋本に、思いがけない知らせが届いた。

 天安門事件から一年が経とうとする九〇年五月。

 池田会長率いる創価学会の訪中団三〇〇人が、北京にやって来るというではないか。


▼「この人は誤解されている」

 相変わらず人影のとぼしい北京空港の到着ゲートで、橋本は立っていた。

 創価学会の第七次訪中団を乗せた中国国際航空機は、五月二十七日午後二時五十五分、予定通り、成田空港を離陸した報告を受けている。

 その便には、池田会長も搭乗しているはずである。

 橋本は、中国課長時代に会長の日中提言(六八年)を知った。

 後に会談する機会があった。中国問題を語りながら、ふと思った。

「ずいぶん、この人は世の中から誤解されているな」

 中国を敵視する勢力から、中傷されてきた橋本の正直な感想だった。

「それにしても、この時期に来るとは……」

 事実、外野の声は騒がしい。「学会は人道主義の団体じゃないのか。中国に加担するつもりか」。学会員の一部からも「何のメリットがあるのか」と反対があった。

 内外から噴出した批判。

「困った時に行くのが、本当の友情だよ」と会長が語ったことを橋本は後に知る。

 橋本が空港に行くことを知ると、橋本の妻は、怪訝な顔になった。

 総理、外務大臣以外は、どんな肩書きの人が来ても迎えに出たことはない。そんな時間があったら、仕事をしてきた。


 しかし、今回だけは自らの信念で空港に向かった。

 この逆風の中で中国に来ることが、どれだけ勇気のいることか。この人を出迎えなければ、男がすたる。

 池田会長を乗せた飛行機は、午後七時三十五分、静かに北京空港の滑走路に車輪をすべらせた。

              *

 会長の滞在は一週間。

 要人との会見には、中国側が気を利かせ、必ず橋本を招待したので、すべて同席できた。

 老練の外交官である橋本は、どれだけ中国が池田会長を重んじているか、手に取るようにわかる。

 党総書記の江沢民

 国務院総理の李鵬

 ナンバー1とナンバー2が、相次いで民間人の池田会長に会っている。

 次のように解釈した。

「世界中から批判されている最中に、池田会長が来てくれた。最大限の高いもてなしをすべきだと彼らは思った。時間さえ許せば、ぜひ二人の首脳は会いたかったのでしょう」

 橋本は外務省に勤めた四〇年のうち、約二〇年を中国に関わる分野で働いた。

「長く中国の仕事をしてきましたが、日本の各政党、民間団体の中でも、池田会長と創価学会に対する中国の信頼感は非常に強い。それは、ずーっと長くありました。勝g小平の時代に遡るころから感じていました」


◆「困った時に行くのが本当の友情だよ」

▼「一人で李鵬首相に会うから」

 一九八八年に総理となった李鵬。国際社会は、急激な変革に直面していた。

 ソ連ペレストロイカ。東欧の民主化ベルリンの壁の崩壊。

 中国は、八九年五月に訪中したソ連大統領ゴルバチョフとの間で、歴史的な中ソ和解にこぎつけた。

 その矢先に起きたのが天安門事件である。痛烈な批判を浴びた。フランスのアルシュ・サミットを控えた仏大統領のミッテランにいたっては「あんな国に未来はない」とまで言い切った。

 日本との間では、円借款の凍結が最大の問題となった。

 経済協力の一環として実施されてきた、円資金による日本政府の信用供与がストップしたのである。李鵬は、日本の総理や重要閣僚に、凍結解除の要請を幾度も伝えていた。

 創価学会の訪中団がやってきたのは、そんな閉塞状態の時であった。

 中国が孤立して苦しむのは、一〇億の人民である。

 天安門広場の西にある人民大会堂は、中国の国会議事堂にあたる。

 その内部には、それぞれ香港、マカオ、中国大陸の三一の省・自治区直轄市の名を冠した部屋が設けられている。

 長い廊下から「福建の間」に入る手前で池田会長は、訪中団秘書長の三津木俊幸(当時、副会長)に耳打ちした。

「ちょっと悪いけどね――」

 滞在四日目、五月三十日。李鵬との会談が始まろうとしていた。

「全体の会議が終わったら、いったん外に出てくれないか。通訳の洲崎も、山崎(尚見)も、(秋谷)会長もいい。私だけが李鵬首相に会うから」

 三津木は言われた通り、秋谷に伝えた。

「先生は会見後、一人で李鵬首相に会われるそうです」

「どうしてだろう」

「分かりません。短時間で終わると思います」

     *

 約一時間で会見は終了した。日中友好、中ソ関係、周恩来との思い出など実り多い内容だった。

「謝謝!」。一斉に出席者が退場する。会長と李鵬、中国側の通訳だけが残った。香峯子夫人も外に出た。

「福建の間」に掲げられた世界遺産武夷山の絵だけが見守っていた。

 ――極秘会見は数分で終わった。池田会長が一人で部屋を出てきた。

「さあ、終わった! みんな、帰ろう、帰ろう」

 何が話し合われたのか。具体的な内容は、信義の上から、今日まで明らかにされていない。

 ただ、日中友好のため、その一点で実りのある会見だったことは想像に難くない。関係者によると、李鵬は会長の話を聞き、膝を叩いたという。

 「まったく、その通りです。池田先生と、こういう話し合いができて嬉しいです」

 会見の内容を耳にした勝g穎超(全国政治協商会議主席、周恩来夫人)も、大変な喜びようだった。

 勝gは、その二日前に会長夫妻と会見したばかりだった。

 「池田先生を空港まで送っていきます!」

 会長は「民間人ですから」と丁重に固辞したが、八十六歳の勝gが、今にも飛んでいきそうな勢いだった。

 後に、中日友好協会の会長だった孫平化が、来し方を振り返って、三津木俊幸に語ったことがある。

「中日関係の仕事をやっていて、嬉しかったことが二つある。一つは一九七二年九月に国交回復が実現したこと。もう一つは、天安門事件の後、創価学会が三〇〇人の幹部を連れて北京を訪れてくれたことです」

 そして、ぽつりと付け加えた言葉が三津木には忘れられない。

 「困った時に助けてくれるのが、本当の友情です」

 第七次訪中団が帰国してから一カ月後の七月五日。

 日本の首相・海部俊樹は「独自の判断」で、円借款凍結の部分解除を表明。その方針に従って、十一月二日に凍結が解除された。

 天安門事件の後、西側諸国では初めての対中経済協力の再開であった。

 日本が先鞭をつけ、これに各国が続いた。


▼中国「四世代」との友情

 人民大会堂の中で、山崎尚見と三津木俊幸は、いまか、いまか、とタイミングを計っていた。

 二〇〇二年九月。国交正常化三〇周年を記念する式典会場。学会を代表して招かれた二人は、ただならぬ場内の気配に押され気味だった。

 中国の次の首脳を披露する式典である。

 胡錦涛(国家副主席)。温家宝(副首相)。曽慶紅(共産党織部長、いずれも当時)。そうそうたる顔ぶれが前方の主席台に座っていた。

 翌二〇〇三年三月、胡錦涛は第十期全国人民代表大会国家主席に選出される。

 山崎と三津木は、池田会長からの伝言を託されていた。

 山崎が席を立ち、そわそわと三津木のいるテーブルにやってきた。

胡錦涛副主席に挨拶したいね」

「絶対したいですね」

「でも、この雰囲気じゃあ」

「困りましたねぇ」

 橋本龍太郎村山富市らの席も近い。歴代首相の目もあり、なかなか動きにくい。

 二人のこわばった顔を見て、事情を察してくれたのが「周・池田会見」の通訳だった林麗うん(中国共産党中央委員)である。

「池田先生の言葉を胡副主席に伝えたいんです。しかし抜け駆けと思われると困るので……」と山崎。

 日本人の中には、大した関係もないのに、通ぶって中国要人とのつながり、を自慢する“中国屋”が少なくない。

 林麗うんら中国側の配慮で、許可が下りた。「それでは会合が終わる直前にやりましょう」。

 レセプションは簡単には終わらない。気短な山崎。

「もう、そろそろかね」

「いや、少し待ちましょう」

「そんなこと言ったって……」

 宴たけなわ。トイレに立つふりの二人は、少し前かがみになって、そろそろと正面へ。林麗うんが、うまく先導してくれた。警備も大目に見ている。

 胡錦涛は二人の姿を認めると、破顔一笑

「池田先生! よく存じ上げております。一九八五年に東京でお目にかかったことは、今でもハッキリ覚えております。九八年にも、会見させていただきましたね」

 記憶は極めて鮮明である。

 日本の招待客が、ざわついた。

 政治家や財界人が、訝しげに見ている。

 それなら私も、と名刺を手に一斉に立ち上がりはじめた。ようやく中国と「和解」できた日本共産党の代表もいた。

 その瞬間、司会のアナウンスが響いた。

「以上で、本日の記念レセプションを終了します」

 胡錦涛は笑顔を振りまきながら、会場から去った。

              *

 日中友好に尽力してきた団体は、数多い。しかし、五〇年近くにわたって中国との「信義」を貫いてきた池田会長の歴史は、容易に綴れるものではない。

 唐家せん(国務委員(副首相級)、元外相)は、中国首脳と池田会長の会見で、中国側の通訳を務めたこともあった。

 江沢民李鵬の会見にも同席し、対話の現場を直接、見てきた「老朋友」である。

 日本語に堪能な唐は、公明新聞の記者が取材をした際、突然、日本語で「聖教新聞は来ていないのかい」と笑顔で尋ねたという。

 周恩来。勝g小平。江沢民胡錦涛。中国四世代を代表する指導者と会い、友誼を結んできた日本人は、池田会長だけである。


周恩来の遺志

 一九七六年一月八日に周恩来が逝去してから、三〇年の歳月が流れた。

 周は一切の願業を終えて他界したとは言い難い。むしろ志 半ばの死であった。

 まだ中国は国際社会で認知される足場が築けたばかりであり、国内では、文化大革命の嵐が治まっていない。

 新中国の誕生後、周が心血を注いだ芸術・文化団体も大弾圧にさらされていた。

 中国歌舞団、中国京劇院、東方歌舞団……。


▼五〇年にわたって中国との「信義」を貫いた。

 文革が始まると、伝統劇の上演は、ことごとく禁止された。劇団員の多くが農村で畑仕事を強いられた。

 演劇だけではない。中国全土の至宝を擁する「故宮博物院」。世界最大の砂漠の画廊「敦煌」。誰もが知る中国の文化遺産が、紅衛兵の破壊の的となった。

              *

 池田会長には、周の苦衷がよくわかった。文革の終息後、周が守り続けた中国の精神遺産を日本に紹介した。

 中国敦煌展の開催(八五年)

 故宮博物院名宝展の開催(九五年)

 文豪・巴金と四度の交流(八〇年、八四年)

 東方歌舞団の来日公演(九一年、九三年、二〇〇四年)

 中国京劇院の来日公演(〇二年)

 この一文が読者のもとに届くころ、中国京劇院の二度目の来日公演が幕を開ける。

 中国の専門家は、明言する。

「周総理は数多くの要人と会見しました。だが総理の期待に最大に応えたのは、池田先生です」(湖南師範大学客員教授・朱新建)


▼日中提言と台湾

「この稿を結ぶにあたって、台湾について触れておきたい。

 一九六八年九月に発表された日中国交正常化提言については、前号でも詳述した。北京政府を「中国を代表する唯一の政府」と認めている。

 当時、すでに台湾には創価学会のメンバーが存在し、組織も構成されていた。提言を機に、台湾当局は学会員への大弾圧を開始した。

 海外への渡航禁止。組織の解散命令。写真入りで「邪宗教は解散せよ」と大見出しを掲げるメディアもあった。

 現地の会員の中にも、なぜ北京政府の承認を主張したのか、怒り出す者も多かった。

 提言を発表すれば、台湾の組織は必ず窮地に立たされる。それを重々、知りぬいたうえで、池田会長は苦渋の決断を下したのである。

 戸田第二代会長は生前、厳しくも冷徹に語っていた。

「指導者は徹底して史観を養え。百年先を見据えながら、国を見つめ、民を見つめなければならない」

 一時的に苦渋を強いる形になるが、あえてアジア全体の発展を見据え、提言を発表した。

 国内からの批判だけではない。国外にも「爆弾」を抱えながらの大決断であった。

 当時、池田提言を知った著名な中国文学者の竹内好は「光はあったのだ」と賛同を寄せた。四〇年後の今、歴史は、会長の決断が正しかったことを証明している。

 中国は二十一世紀を迎え、いよいよ強力なリーダーシップを発揮しはじめた。

 一方、台湾SGIも見事な発展を遂げた。池田会長は台湾メンバーが来日するたびに親しく励ました。良き市民として行動し、社会の信頼を勝ち取ることを教えた。

邪宗教”の評価は一転した。台湾SGIは、台湾内政部から一三回連続で「社会優良団体」を受賞している(二〇〇五年現在)。台湾の大学・学術機関、また各市や郡から池田SGI会長に贈られた顕彰は数多い。本年三月には、子息の池田博正(副理事長)も中国文化大学の名誉文学博士号を受けた。

 明二〇〇七年には、台湾SGIの新本部棟が台北に完成する。

 七四年六月、初訪中からの帰国の途、池田会長は、日本のメディアに語った。

「中国は動いている。その完成と、その途上と、未完成の三つの側面を融合した巨視眼に立たなければ、鼓動のある全体像を把握できないであろう。ゆえに、私は五十年単位の中国観を忘れたくない」(「朝日新聞」七四年六月十八日付)

 深い中国観に裏付けられた池田提言は、歴史の評価を恐れずに待っている。

       (文中敬称略)