名誉会長「霊鷲山」と「彼岸」を語る


◇ 名誉会長「霊鷲山」と「彼岸」を語る〔上〕 

  命あるかぎり前へ! 前へ!

  師弟の道に 永遠の勝利が

  不惜身命が学会の魂

  ─ 師匠は命懸けで弟子を育てた

  ─ 弟子は命懸けで師匠を守った

【「霊鷲山」と「彼岸」を語る】

 一、私の青春は、恩師・戸田先生に捧げた青春であった。

 19歳で恩師に巡り会い、21歳の時、恩師の会社にお世話になった。

 以来、まっすぐに恩師に仕え、恩師のために生き抜いた。

 戦後の混乱のなかで、戸田先生は事業に失敗され、莫大な借金を背負われた。身も病んでおられた。絶体絶命の危機であった。

 この厳しき秋霜(しゅうそう)の時代に、ただ一人、先生をお守りし、一切の逆境を跳ね返していったのが私である。

 深夜であろうが、緊急の時は、隼(はやぶさ)のごとく先生のこ自宅にうかがった。

 先生の病状を案じて、一晩中、待機したこともあった。

 今では想像もできないと思うが、本当に峻厳な師弟であった。

 ある時、先生は、うれしそうにおっしゃった。

 「私には君がいる。本当の弟子がいる。だから絶対に何があっても安心しているんだ」

 また、先生から「私のそばにいてくれ」と言われて、私は、夜学に通うことも断念した。

 しかし、そのかわりに、先生は、残された全生命力を振り絞って、弟子の私に万般の学問を個人教授してくださった。

 その魂の薫陶(くんとう)は、師の命果てる寸前まで続いた。

 師匠が命をかけて育てた弟子であった。

 師匠を命をかけて守った弟子であった。

 先生が涙ながらに語ってくださったことが忘れられない。

 「君には苦労ばかりかけてしまった。病弱であるのに、死を決意してまで私のために戦ってくれた。

 永久に忘れないよ。君の功績は大聖人が全部、見通しておられるよ」

  戸田大学の薫陶が私のすべて

  ≪戸田先生≫ どんな指導者や学者と議論しても負けない男を作っておいたよ

◆世界の識者との対談集は「50」に

 一、先日、アメリカ・ソロー協会の知性との語らいをまとめた『美しき生命 地球と生きる』が発刊された(毎日新聞社刊)。

 世界の識者との42点目の対談集である。

 さらに現在、複数の対談を継続している。そして、この秋、「東洋学術研究」誌上で連載開始となるアルゼンチンの人権活動家エスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)との対談をもって、50点の対談が世に出ることになる(大拍手)。

 世界の識者との対談の実質的なスタートは、約35年前のイギリスのトインビー博士との語らいが最初であった。

 「人類の直面する基本的な諸問題について語り合いたい」 ── このように博士のほうから対談を希望されたのである。

 語らいは、文明の未来、生命論、環境論、女性論、国際情勢、教育と宗教など多岐にわたった。

 2年越し、40時間に及んだ対談が終わった時、私は、「トインビー先生の生徒として、何点ぐらいとれたでしょうか」とうかがった。

 トインビー博士は、にっこりとして言われた。

 「私は、ミスター・イケダに最優等の『A』を差し上げます」と。

 私のすべては、「戸田大学」で、約10年間、毎日のように訓練していただいたおかげである。

 戸田先生は、私のいないところで、このようにも語っておられたようである。

 「戸田門下生で、大作にかなう者はいない。どこに出しても恥ずかしくない。

 どんな指導者と議論しても、どんな学者と議論しても、負けない男をつくっておいたよ」と。ありがたい先生であった。

 これまで、私は、多くの識者と語り合ってきたが、洋の東西を問わず、一流の人物の結論は、「師弟しかない」であった。

 師弟のあるところに、本当の人生があり、真実の永遠性があり、究極の勝利がある。

◆正しい人生を 勇気の人生を

 一、創価学会の根本の精神は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のために、命をかけて戦い抜かれた牧口先生と戸田先生の師弟の精神である。

 この師弟に流れ通う広宣流布への「不惜身命」の心がなくなったならば、今は、いかに発展しているように見えても、学会の前途は危うい。

 仏法は、仏と魔との連続闘争である。決して甘いものではない。’

 牧口先生、戸田先生のご精神を、今こそ、守り抜いていく時である。最高幹部は、命あるかぎり、求道心を燃やさなければならない。それが本当の学会精神である。

 私は、戸田先生のために命を捨てようと決めていた。

 それを先生は察知され、「俺の体をなげうってでも、大作を守る」と言われたのだ。

 そして、先生から受け継いだ創価学会の発展のために私は、今日まで、動きに動き、祈りに祈り、書きに書いて、骨を粉にして働いてきた。

 本当の清らかな、本当の師弟に徹した信心を、私も妻も貫き通してきた。

 全世界に道を開いた。

 全世界に恩師の平和の精神を宣揚した。

 恩師の敵を討った。私は、戸田先生のただ一人の真正の弟子である。

 先生は遺言するように語られた。

 「私は何百人、何千人もの弟子を見てきたが、本当に誠実に私を支えてくれ、創価学会に尽くしてくれたのは大作が一番である」

 皆さんには、いい人生を生きていただきたい。正しい人生を生きていただきたい。勇気ある人生を生きていただきたい。

 その根本の道が「師弟の道」である。

 私も、さらに本腰を入れて、本当の学会精神を語り残しておきたいと決意している(大拍手)。

◆彼岸は大宇宙の運行の節目

 一、きょうは、陰に陽に、わが創価学会を厳然と護り支えてくださっている、最も功労深き方々の代表にお越しいただいた。

 常日ごろからの尊い献身に心からの感謝を込めて、「霊鷲山(りょうじゅせん)」と「彼岸(ひがん)」をテーマにスピーチを残させていただきたい(大拍手)。

 まもなく、秋の彼岸である。

 「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる通り、秋の気配が深まってきた。

 文豪・夏目漱石は、大病を克服した後に書いた新聞小説に『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』という題名をつけた。

 正月から連載して、“彼岸過迄”には完結させるという心情からの命名だったという。

 「彼岸」が日本人の生活のリズムに、深く浸透している一つの証左といってよい。

 たしかに「彼岸」は、春夏秋冬の四季の変化に富む日本において、大宇宙の運行のリズムに則った、絶妙な節目となっている。

 創価学会にとっては、春の彼岸は5・3「創価学会の日」への新生のスタートであり、秋の彼岸は11・18「創価学会創立記念日」への勇躍のスタートといってよい。

 一、また彼岸に当たり、逝去なされた全功労者、そして全同志・全会友の先祖代々の諸精霊の追善回向を、来る年も、来る年も、私は懇(ねんご)ろに行わせていただいている。

 本日も、皆さま方のご尊家の追善回向を、私は学会本部の師弟会館に御安置されている常住御本尊に真剣にご祈念させていただいた。

 さらに北は北海道・厚田から、南は沖縄まで、全国各地の「生命の永遠の都」たる学会の墓園は、墓参に訪れるご家族でにぎわいを見せる。

 美しい秋の自然のなかで、浩然の気(こうぜんのき)を養いながら、深い思い出を刻んでいただきたいと願っている。

 関係の役員の方々には、お世話になります。絶対無事故の運営を、何とぞよろしくお願いします(大拍手)。

  苦悩の世界を希望の宝土(ほうど)に

  ─ 「成仏への修行」が彼岸の本義

  ─ 墓園は「生命の永遠の都」

  ─ 広布の実践こそ真の回向

◆妙法の受持こそ「彼岸に到る」道

 一、「彼岸会(ひがんえ)」の意義については、これまでも論じてきたが、仏法における「彼岸」の本義を、重ねて簡潔に確認しておきたい。

 「彼岸」とは「向こう側の岸」の意味で、「こちら側の岸」を意味する「此岸(しがん)」との対比で用いられる。

 「此岸」は、生死の苦しみ、煩悩の迷いの世界を、「彼岸」は、解脱・涅槃・成仏の悟りの境涯を譬えたものである。

 また「彼岸」は、成仏の境涯とともに、そこに到る「修行」「実践」の意義も含んでいる。

 すなわち「到彼岸(とうひがん=彼岸に到る)」である。

 大乗仏教では、「成仏の境涯(彼岸)」に到るための修行に、「布施」「持戒」「忍辱(にんにく)」「精進」「禅定(ぜんじょう)」


智慧」の六つの行を立て、これを「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼んでいる。

 「波羅蜜」とは、梵語(ぼんご=古代インドの文章語)の“パーラミター”の音訳だが、これを意訳すると「到彼岸」となる。

 「受持即観心」の日蓮仏法に巡りあえた私たちは、妙法を「受持」、すなわち心から信じ、自行化他の実践を貫くことによって、この.「六波羅蜜」の一つ一つを果てしなく修行する歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)を経なくとも、同じ功徳を得て、「彼岸に到る」、すなわち成仏の境涯に到達することができるのである。

 これが、大聖人の偉大なる仏法の「仏力」「法力」である。そして、その力を尽きることなく引き出すのは、ひとえに、私たちの「信力」「行力」である。

 日蓮大聖人は、「観心本尊抄」で、その法理を明快に教えてくださっている。

 広宣流布への行学に徹するところ、厳然たる人間革命の実証として、「六波羅蜜」つまり「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」という、菩薩に不可欠な徳性が、私たちの生命に自然のうちに光り輝いていくとの御約束である。

 言いかえるならば、人格の深まりがないならば、真に仏法を行じているとはいえないであろう。

 その点、本日、お集まりの功労者の方々は、社会においても、皆、第一級の模範の指導者であられる。

 「信心即生活」「仏法即社会」の立派な勝利の現証が、私は何よりもうれしい。

日蓮仏法は毎日が彼岸

 一、ともあれ、本来、仏法における「彼岸」の本義は、どこまでも「成仏の境涯」、また「成仏に到る実践」にある。

 先祖供養とは関係がなかったといってよい。大聖人の御書でも、「彼岸」という言葉を、先祖供養の意義で用いられている個所は、一つもないからだ。

 そもそも、春・秋の「彼岸会」は、仏教本来の伝統ではない。あくまでも、日本独特の風習である。その定着には、浄土教の影響が強かったと推察されている。

 つまり、春分秋分の日は、太陽が真西に沈む。その夕日を見ながら西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)を思う観想法(かんそうほう)が、浄土教の中で行われていた。それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結びつき、「彼岸会」として定着していったという説がある。

 とくに、彼岸に合わせて墓参りする習慣などは、江戸時代のいわゆる葬式仏教のもとで根付いたものと考えられている。

 日蓮仏法では、「常彼岸(じょうひがん)」、すなわち毎日の勤行・唱題が、そのまま彼岸会の実践である。自らが日々、妙法を行じゆく功徳を、先祖や故人に「廻)めぐら)(回)し向ける」のが、真の回向であり追善であると説いているのだ。

 そのうえで、春、秋の彼岸を一つの機会として、故人への感謝を込め、追善を行うことも、「随方毘尼(ずいほうびに)」の法理の上から、当然、意義のあることといってよいだろう。〈「随方毘尼」とは、仏法の本義に違わない限り、各地域や時代の風習に随うべきであるとする考え〉

 善き同志とともに会館や墓地公園などに集い、清々(すがすが)しく勤行・唱題し、故人の志を継いで広宣流布に進む決意を深めゆくことは、大聖人の御心に最も適った追善であることを確認しておきたいのだ。

 そこに、坊主が介在する必要など、元来、まったくないのである。

◆僧による法要は葬式仏教の産物

 一、「僧は葬送儀礼には関わらない」というのが、釈尊の遺言であり、仏教の伝統であった。

 僧は、葬儀などの儀式に関わらないで、あくまでも自身の修行に専念し、自己完成を目指すべき立場であった。

 ところが日本では、室町時代を経て、檀家制度が確立される江戸時代になると、いわゆる「葬式仏教」へと堕していった。

 寺院は、仏教本来の出家の精神を失い、経済的な支えを葬送儀式に見いだし、巧妙に利用していくようになっていったのである。

 さまざまな法要も、仏教の本義に由来するものではなく、他の宗教や思想を取り入れたものであることが、歴史研究で明らかにされている。

 例えば、なじみの深い「四十九日の法要」も遡(さかのぼ)れば、インドのバラモン教に由来するという。

 百箇日・一周忌・三回忌の法要は、中国の儒教を淵源として、平安時代までには日本でも行われるようになった。

 さらに時代を経て、法要が寺院にとって重要な財源となるにつれ、七、十三、十七、二十五、五十、六十回忌等々と、次々と回忌法要がつくり出されていったのである。

 大聖人の御在世には既に、四十九日をはじめ、回忌法要の風習は広く社会に浸透していた。 大聖人の門下も、亡くなった家族の四十九日や回忌法要に際し、供養をお届けしてきたという記録がある。

 大聖人は、その孝養の真心を讃えられながら、御自身も追善供養してくださっている。

 しかし、大聖人が、そうした法要を積極的に行うよう奨励されることはなかった。

 先ほども申し上げたように、「彼岸会」に関する記述も、御書には全くないのである。

 日蓮仏法には、儀式や形式に縛られる窮屈(きゅうくつ)さや偏狭(へんきょう)さはない。

 心を広々とさせ、伸び伸びと大宇宙の運行のリズムに合致しながら、意義深き人生の四季を飾り、福徳の生命の年輪を刻みゆく正道が示されているのである。

 「彼岸」においても、大事なポイントは、一体、何か。

 仏法の本義に立ち返るならば、「成仏の境涯(彼岸)」へ向かって、自分自身も、そして一家眷属(けんぞく)も、より希望に燃えて前進していくことこそが、眼目(がんもく)なのである。

◆「形骸のみあって真の仏法はない」

 一、戸田先生は、彼岸に関連して、正しい仏法のあり方を、さまざまに語り残してくださっている。

 そのまま、ご紹介させていただきたい。

 「彼岸といいお盆といい寺に詣でる者多く、あたかも日本は仏教隆盛の国のようにみえる。 しかるにその真実は仏法の形骸のみあって真の仏法はない」

 そして先生は、日々の学会活動にこそ、「彼岸に到る」道があると教えられた。日々の倦(う)まぬ実践の積み重ねだけが、自身を幸福の彼岸に運んでくれることを強調しておられた。

 “全同志を、幸福の彼岸へと導きたい! ” ── これが、戸田先生の叫びであった。また、創価の三代の心である。

 反対に、「葬式仏教」や腐敗堕落の坊主に対して、先生は、烈々たる舌鋒(ぜっぽう)であられた。

 「先祖伝来の既成宗教は法力も実践力もことごとく失ってただたんに葬式と法事によって、僧侶という非生産階級が細々と生活しているにすぎない。まことに日蓮大聖人が『世(よ)皆(みな)正(しょう)に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す』と仰せの世相そのものであった」

 「すべてが釈尊の意図と相反した原因は、まず従来の僧侶が形式に流れて実質をうしない、大衆の生活を考えずして、自己の保身にこれ努めた結果にほかならない。

 さらに信者は、自分の属する宗派が何であるかを、きわめようともせず、生活と関係のない寺院に、多額の布施や寄付を徴収されても、これを疑おうとせず、ただ先祖伝来を口実にして、そのお寺をまもってきた」

 「速(すみ)やかにかかる寺院、かかる僧侶が一掃せられて、真に世界に誇るべき宗教のあらわれんことを望むものである」

 ≪戸田先生≫ 「食わんがため」のみの僧が世に充満する

◆「私腹を肥やす坊主は天魔だ」

 一、また、戸田先生は、信心なき宗門の坊主に対しても容赦なかった。

 こう厳しく言い切っておられた。

 「坊主は、人々を救うためにある存在だ。

 それを、御供養といって、信者を金儲けの道具にし、何の贅沢に使ったのか。何の遊戯雑談(ゆげぞうだん)に使ったのか。仏法の本義から根本的に誤った、腐った精神の奴らである。あまりにも情けない奴だ」

 「多年(たねん)、寺を私有化し、いたずらに私腹のみを肥やして、貪欲(どんよく)の醜躯(しゅうく)を法衣(ほうえ)で偽装。僧形(そうぎょう)にして僧に非ず。天魔なるのみ」

 さらに、堕落した宗門の坊主の本質について、遺言のごとく語っておられた言葉が忘れられない。

 「なぜ、僧侶の堕落が始まり、腐敗していくのか。それは、広宣流布という至上の目的に生きることを忘れているからだ。この一点が狂えば、すべてが狂ってしまう。

 令法久住(りょうぼうくじゅう)を口にしながらも、多くの僧侶が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。つまり欲望の虜(とりこ)となり、畜生の心に堕してしまっているのだ」

 先生は、こうも予見しておられた。

 「禿人(とくにん)といって、職業僧侶、すなわち生きんがため食わんがためのみの僧侶が世に充満して、少しも僧侶として世人を救う力のない時代に、国のため、世のため、法のために、不惜身命のものが現れたときには、その僧侶等は、徒党をつくって迫害するであろう」

 「学会が大発展していけば、必ず坊主たちは嫉妬し、思いもよらぬ迫害を加えてくる」

 そして「広宣流布の大闘争に、少しなりとも邪魔だてする坊主あれば、青年は決起して鉄槌(てっつい)を加えよ」と訴えられた。

 衣(ころも)の権威で尊き仏子をいじめ、広宣流布を阻(はば)む悪人は絶対に許すな!  ── これが恩師の叫びであった。

◆師弟の行学錬磨の場 「霊鷲山

 一、きょうは学会の会館の建設・整備などのために尽力されている方々も、参加しておられる。

 広宣流布の同志が集う法城が、どれほど大切な場所であるか。

 日蓮大聖人は、大きな仏道修行の道場を建立(こんりゅう)するのに貢献した富木常忍(ときじょうにん)をねぎらわれて、こう仰せである。

 「一閻浮提(いちえんぶだい)第一の法華堂を造ったと、霊山浄土に行かれた時には申し上げられるがよい」(御書995ページ、通解)

 皆さま方の功労を、私は永遠に顕彰してまいりたい(大拍手)。

 一、大聖人は、「霊山浄土」について、多くの御書の中で言及しておられる。

 「霊山」つまり「霊鷲山」は、釈尊の出世の本懐である法華経が説かれた場所とされる。

 釈尊在世の時代、インドで最大の強国であったマガダ国の首都として栄えていたのは、王舎城(現在のラージギル)である。

 この王舎城は、五つの山に囲まれた天然の要塞(ようさい)ともいえる都市であった。

 その五山のうち、東北に位置する山が霊鷲山である。

 頂上には、鷲を思わせる岩が屹立(きつりつ)している。それゆえか、「鷲の峰」(グリドゥラクータ)という意味の名があり、中国や日本では漢訳されて「霊鷲山」、あるいは音を写して「耆闍崛山(ぎしゃくっせん)」とも言われてきた。

 「霊」の字には「神聖な場所」の意が込められており、単に「霊山(りょうぜん)」とも呼ばれた。

 釈尊は、この霊鷲山で真実の大法を説き残した。

 弟子たちは、師のもとで懸命に修行し、師を厳護しながら、師の教えを生命に刻んでいった。

 つまり、霊鷲山は、“師弟共戦の行学練磨の場”であり、“師弟不二広宣流布の舞台”だったのである。

 一、私も、研究のために、この霊鷲山を訪れたことがある。

 1961年(昭和36年)2月4日。初のインド訪問の折であった。今年で45年になる。

 夕刻であったため、霊鷲山に登ることはできなかったが、麓(ふもと)まで足を運んだ。

 霊鷲山は、徒歩で30分ほどで山頂に到達する小高い山である。

 その途中には、数多くの洞窟がある。ある洞穴は、舎利弗(しゃりほつ)や阿難(あなん)らの弟子が修行し、生活したと伝えられていた。

 山頂からは、ラージギル(王舎城)の雄大な景観を一望できる。そして、その山頂には、数十人が座れるくらいの平らな場所がある。そこで、釈尊が説法をしたとされている。

 ちなみに、この霊鷲山の近くには、インドでは珍しい温泉が涌いていた。釈尊や弟子たちも、この温泉で沐浴(もくよく)をしたといわれる。

◆裟婆即寂光(しゃばそくじやっこう)=現実を寂光土に

 一、法華経では、この霊鷲山に幾十万もの衆生が雲集(うんじゅう)したと説かれている。

 実際の霊鷲山は、決して大きくはなく、それほどの数の衆生が集まるのは、とうてい不可能であると、私は思った。

 戸田先生は、この点について、法華経の会座(えざ)にいる衆生は、釈尊己心の衆生であると、明快に解釈なされていた。

 現実の霊鷲山は、緑が少ない荒涼とした岩山のような所であった。

 御書には、この山には、遺体を捨てる場所があり、それを食べる鷲が住んでいるところから「霊鷲山」と名づけられた、とも記されている。〈811ページ〉

 その霊鷲山で、壮大な、大宇宙も包含しゆく法華経の会座(えざ=虚空会)が繰り広げられたことに、大聖人は甚深(じんじん)の意義を見いだされている。

 そして、「娑婆即寂光」という仏法の真髄の原理を展開されていくのである。

 「娑婆(しゃば)」とは、堪忍(かんにん)世界と言われるように、生きていくために堪え忍ばねばならない苦難多き現実世界をいう。

 また「寂光」とは、常寂光土のことで、仏が住む荘厳にして清らかな平和な浄土である。

 霊鷲山は、まさしく、生老病死の苦に満ちた娑婆世界を象徴している。

 その霊鷲山と離れずに、その霊鷲山の中で、「法華経の会座」という寂光土が現出しているのである。

 すなわち、真の仏法とは、現実から離れず、現実の真っただ中で、人々の苦悩と真っ向から向き合いながら、その打開の道を説き示すものであった。

 そして、苦難に満ちた現実世界を、希望の宝土(ほうど)に転換しゆくのである。

 私には、この「娑婆即寂光」の法理が、「霊鷲山」「霊山浄土」という仰せに凝結していると拝することができた。

◆仏法の真髄は「今、ここ」に

 一、御書には、こうも記されている。

 「法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり」(811ページ)

 「惣(そう)じて一乗(いちじょう)南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし」(同ページ)

 「霊山浄土」とは、西方極楽浄土のように、死んだ後に娑婆世界を離れて往生する別世界では、決してない。阿弥陀仏のような他力(たりき)にすがって往生する所ではない。

 御義口伝には、「法華経を持(たも)ち奉る処を当詣(とうけい)道場と云うなり此(ここ)を去って彼(かしこ)に行くには非ざるなり」(御書781ページ)と仰せである。

 現実を離れ去って、どこか他の世界に幸福や安穏を求めるのではないのだ。

 大聖人は、次のようにも仰せである。佐渡流罪の大難の中で認(したた)められた御言葉である。

 「私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光の都となるであろう。

 私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺(てんじく=インド)の霊鷲山を見、本有の(ほんぬ=永遠の昔から存在する)寂光土へ昼夜に往復されるのである」(同1343ページ、通解)

 要するに、大聖人に連(つら)なり、広宣流布の魂を燃やして、妙法を実践する人がいる所こそが、常寂光の浄土なのである。

 仏法の真髄は、どこか遠くにあるのではない。今、ここに厳然とある。今、ここを離れて、仏法はない。

◆宗教革命の先端

 一、こうした大聖人の仏法の本義からすれば、特別な「聖地」や「霊地」に詣でなければ成仏できないということは、決してない。

 私と対談集を発刊した、国際宗教社会学会の初代会長であったブライアン・ウィルソン博士は、次のように論じておられた。

 「日常生活のなかでの信仰実践と、よりよい人間社会を建設していく努力を続けていくことこそ、本来の宗教の使命であるはずである」

 学会は、この宗教革命の最先端を堂々と進んでいる。このことは、聡明な皆さま方も明白にお分かりであると信ずる(大拍手)。

           (〔下〕に続く)

◇ 名誉会長 「霊鷲山」と「彼岸」を語る 〔下〕

  朗らかに 集いしこの地が霊鷲山 皆が仏か 皆が菩薩か

  「生命は永遠」「幸福は絶対」

 ≪大聖人が子を亡くした母に≫

 「日月が大地に落ちても潮の干満がなくなっても題目を唱え女人が愛する子に会えぬことはない」

【名誉会長 「霊鷲山」と「彼岸」を語る】

 一、伸びゆく人、強い人は、どこが違うか。

 まず、声が違う。いい声をしている。

 心が充実すれば、声に表れる。

 「声仏事(ぶつじを為す」(御書708ページ)である。

 声一つで、その人のことがよく分かるものだ。

 胸を張り、若々しく、切れ味のいい声で、語らいの輪を広げる。そこから、にぎやかな前進と、勝利へのリズムが生まれる。

 一つの対話、一つの会合を大事にしたい。

 「あの人の話は素晴らしいな」と讃えられる、魅力あふれるリーダーであっていただきたい。

 ともあれ、生き生きと、快活に、さわやかな感動を広げながら進んでいこう! (大拍手)

 一、ブラジルの作家アマードは綴った。

 「幸福とは正義を理解することと、勇気や品格のある生活のなかにある」(神代修訳『希望の騎士革命児プレステス』弘文堂新社)

 まさに、広布へ進む学会員には、勇気がある。品格が光る。正義のために戦う誇りがある。

 フランスの文豪ロマン・ロランは、鋭く述べている。

 「行動しないで考えることは、眠ることです」(山口三夫訳「書簡IX 精神の独立」、『ロマン・ロラン全集41』所収、みすず書房

 リーダーは、深き使命と責任を自覚していただきたい。決して鈍感であってはならない。

 心を合わせて団結し、未来を担う人材を育てながら、勝利への手を打っていきたい。

 私の人生の総仕上げは、いよいよ、これからである。

 仏法で説く「永遠の生命」についても、さらに語っていきたい。

 今まで語ってきたものが、全体の一部分となるような、さらに本格的な生命論を、真実を、全力を挙げて残していこうと思っている。

 また、大勢の方々が日々集う学会本部、日本各地、そして世界各国の会館などの整備も、これからいっそう力を入れていく予定である(大拍手)。

「勤行」は荘厳な霊山の儀式

  ─ 仏界の力が わが身に湧現

◆穢土(えど)にあっても心は霊山(りょうぜん)に住む

 一、さて、先に拝した御書(?、19日付)に、「私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光(じょうじゃっこう)の都となるであろう。

 私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺(てんじく=インド)の霊鷲山を見、本有(ほんぬ)の寂光土へ昼夜に往復されるのである」(御書1343ページ、通解)との一節があった。

 これは、どういうことであろうか。

 大聖人は「一生成仏抄」で、「浄土(じょうど)といい穢土といっても、土に二つの隔(へだ)てがあるわけではない。ただ我らの心の善悪によるのである」と仰せである(同384ページ、通解)。

 衆生の一念が転換すれば、煩悩や苦悩に満ちた穢土に、本来の浄土が現れる。

 身は娑婆(しゃば)世界にあっても、心は霊山浄土に住することができる、との仰せである。

 また大聖人は、「我らは穢土にあっても、心は霊山に住んでいる」、「心こそ大切」(同1316ページ、通解)と述べておられる。

 これは、遠く離れた、佐渡の千日尼への一節である。

 〈「我等は穢土に候へども心は霊山に住(すむ)べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ、いつか(早晩)いつか釈迦仏のをはします霊山会上(えじょう)にまひりあひ候はん」〉

◆力が満ちてくる

 一、「心こそ大切」 ── その「心」とは、具体的には、妙法を受持する「信心」である。

 御書には、次のような御文がある。

 「そもそもこの車(大白牛車〔だいびゃくごしゃ〕)というのは、本門と迹門の二門の輪を妙法蓮華経という牛にかけ、三界の火宅を生死生死とぐるりぐるりと回るところの車である。 ただ、信心というくさびに、志という油をさされて、霊山浄土へまいられるがよい」(同1543ページ、通解)

 事実として、この身が現実世界にある限り、悪縁があらわれることは必然である。信心は、三障四魔との絶え間なき戦いにほかならない。

 いわんや広宣流布は、三類の強敵との間断(かんだん)なき大闘争である。

 その仏道修行を人生の最後まで貫き通し、いささかも揺るがない強盛な信心の一念が、「臨終正念」(りんじゅうしょうねん=死に臨んでも成仏を確信して、心が乱れないこと)である。

 それは人生の最極(さいごく)の勝利の実像であり、仏道修行の完成の尊き姿といってよい。

 この「一生成仏の大境涯」こそが、「霊山浄土」を説かれた意義であると拝することができる。

 戸田先生は語られた。

 「我々の生命の中に、厳然と仏があらわれれば、もう我々には不幸がない。

 すなわち、我々が御本尊を拝んでいるということは、気づかなくとも、我々の生命の中に御本尊があらわれている。

 我々の体が霊鷲山になる。そこで、大聖人即大御本尊の力が、我々の体に満ち満ちてくるのである」

 強盛な信心を燃え上がらせて、広宣流布に戦う人は、来る日も来る年も、その生命の中に霊山浄土が実在するのだ。

 私たちは勤行で法華経を読誦(どくじゅ)している。法華経は、霊鷲山から虚空会へ、再び霊鷲山へ、という構成をとっている。

 「現実」から「悟り」へ、そして再び「現実」へ ── 法華経が示す、この壮大な生命のドラマを、わが生命に再現し、生き生きと生きゆくための源泉が、朝晩の勤行である。

 仏界の力を現して、悠然と、現実世界の苦難と戦い、勝利していくことができる。

 自分自身の生命に、仏界という巨大な力が満ち満ちてくるのだ。

 これが、まさに即身成仏である。

 この尊き境地は、あらゆる三障四魔に打ち勝ち、鍛え抜かれた偉大なる信心の、無限大の栄光の境涯である。

 病苦や老苦、さらに死苦をも乗り越え、勝ち越えた、晴れ晴れとした勝利が無限に続く境地であり、境涯であるのだ。

 その大境涯は、亡くなっても、永劫に続きゆく。

 宇宙全体にわが身が融け込み、広大無辺なる大境涯となって楽しみ、遊楽(ゆうらく)しながらの生命活動となっていくのだ。

 まさに、「生も歓喜、死も歓喜」の境涯である。

 そのための信仰である。そのための信心である。

 この即身成仏の境地について、大聖人は、「い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死(しょうじ)ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり」(御書1504ページ)と仰せである。

◆霊山浄土は宇宙の全体

 一、大聖人は、御書の随所で、「法華経を修行し抜いた人は、亡くなってから霊山浄土に行くことができる」と示されている。

 たとえば、「如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)」には次のように仰せである。

 「命が続いている限りは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と題目を唱えに唱え抜いて死ぬならば、釈迦・多宝・十方の諸仏は、霊山会でお約束されたことなので、たちまちのうちに飛んできて手を取り肩に担(かつ)いで霊山へと走ってくださるのである。

 その時は、二聖(にしょう=薬王普薩と勇施〔ゆぜ〕菩薩)、二天(にてん=持国天王と毘沙門天王)、十羅刹女法華経を受持した者を助け護り、諸天善神は天蓋(てんがい)をさしかけて旛(はた)を立て、私たちを守護して、功徳に満ちた永遠の仏国土へと必ず送ってくださるのである。なんとうれしいことか、なんとうれしいことか」(同505ページ、通解)

 さらにほかにも、「よくよく信心を強盛にして霊山浄土にまいりなさい」(同1226ページ、通解)、「ただ一心に信心を持(たも)たれて霊山を期しなさい」(同1227ページ、通解) ── 等々、霊山浄土を約束された御聖訓は多い。

 ただし、「亡くなって霊山浄土に行く」といっても、当然のことながら、念仏の西方極楽浄土のような別世界に行くのでは、絶対にない。

 尊き巨大な宝塔が現れ、全宇宙から仏が来集した法華経の会座(えざ)の様相が示しているように、霊山浄土は宇宙そのものなのであり、宇宙の全体なのである。

 したがって、霊山浄土とは、宇宙のどこかに偏って存在しているというものではないのだ。

 そんな偏頗(へんぱ)なものではなくして、宇宙全体の大きさ、深さと同等に、わが一念、わが生命は、妙なるリズムを刻み、歩んでいくのだ。

 ゆえに、先にも述べたように、いずこであれ、信心・修行をしているその場が、一歩も行かずして霊山浄土なのである。

 そして、この正しき信心を貫き、偉大なる正念(しょうねん)を確立した人が亡くなると、その生命は、宇宙全体を余すところなく我が生命とできるような、広大無辺なる境地にいたって、歓喜していけるのである。

 そのことを、戸田先生は、「大宇宙の仏界に溶け込む」と言われた。

 ここに「霊山浄土」の内実があると拝されるのである。

◆家族と再び巡り会う場所

 一、ともあれ、「霊山浄土」は、信心を貫き通して、一生成仏を果たした人が、等しく到達できる大境涯の仏の世界である。

 したがって、そこでは、深き生命の次元で、師弟が出会い、親子・夫婦・兄弟が出会い、わが同志たちが出会うことができる。これが真実の法則なのである。

 たとえ、今世で相まみえることができなかったとしても、「霊山浄土」において、妙法の師弟、妙法の同志、妙法の家族として巡り会うことができるのである。

 これが真実の生命の実態なのだ。

 身延におられる大聖人と再びお会いする機会がなかった、佐渡の年配の門下・国府尼(こうあま)に対して、大聖人は、「霊山浄土」での師弟の再会を教えておられる。

 「日蓮を恋しく思われるならば、出(い)づる太陽、夕べに出づる月を常に拝されるがよい。私は、いつでも日月に姿を浮かべる身です。また、今世を終えたあとは、ともに霊山浄土にまいり、お会いしましょう」(同1325ページ、通解)

 さらに、最愛の我が子・弥四郎(やしろう)を失った母・光日尼にあてたお手紙では、こう述べられている。

 「今の光日上人(光日尼)は、わが子を思うあまり法華経の行者となられた。よって必ず母と子がともに霊山浄土へ参ることができよう。そのときのご対面は、どんなにかうれしいことであろう。どんなにかうれしいことであろう」(同934ページ、通解)

 同じく、わが子・五郎(南条時光の弟)を突然亡くした上野尼御前(南条時光の母)へのお手紙では、こう綴っておられる。

 「(亡くなられたご子息に)やすやすとお会いになる方法があるのです。釈迦仏を御使いとして、霊山浄土へ参り、会われるがよいでしょう。

 (法華経方便品第二に)『若し法を聞く者あらば、一人として成仏せずということ無けん』と言って、大地をさして外れることがあっても、日月は地に落ちられても、潮の干満がなくなる時代はあっても、花は夏に実にならなくても、南無妙法蓮華経と唱える女性が、愛しく思う子に会えないということはない、と説かれているのです。急いで急いで唱題にお勤めなさい、お勤めなさい」(同1576ページ、通解)

 霊鷲山で説かれた法華経の会座は、地涌の菩薩が滅後末法の娑婆世界の広宣流布誓願する場所であった。

 地涌の菩薩は、この「霊山浄土」から使命を果たすために娑婆世界へと出発し、また、使命を果たし終えて、「霊山浄土」へ再び還っていく。

 したがって、霊山浄土とは、地涌の菩薩にとって「永遠の生命の故郷」であり、「永遠の妙法の同志の世界」なのである。

 そして、永遠に満足と勝利と、最高の意義深き生命の回転をなしゆくことができる「常楽我浄(じょうらくがじょう)」の世界なのである。

◆根幹を忘れるな

 一、大聖人は「開目抄」で、御自身の不惜身命の精神と、広宣流布の大願を明かされた。そして、門下一同に師弟不二の信心を呼びかけておられる。

 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕(ちょうせき)教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつた(拙)なき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234ページ)

 これまでも心肝に染めてきた御聖訓である。これが学会精神の根幹である。

 さらに、それに続いて「我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし」(同ページ)と仰せである。

 師弟不二の信心とは、苦難のときこそ、師と共に、一歩も退かず、広宣流布の大願に生き抜いていく信心である。

 この師弟不二の信心を断じて破らず、勇敢に貫き通す大生命にこそ、霊山浄土の大境涯が三世永遠に豁然(かつぜん)と開かれるのである。

 そして自らの眷属(けんぞく)も、全部、霊山浄土へと導いていくことができる。

 一方、師弟の約束を、まことの時に踏みにじった忘恩背信の退転・反逆の輩は、霊山浄土には絶対に行くことができない。

 必ず無間地獄(むけんじごく)に堕ちて、無量劫を経たのちに、再び日蓮の弟子となって成仏することができると、大聖人は説かれている。

◆生死を超えて安穏(あんのん)の大境涯

 一、健気な信心を貫いた人は、霊山浄土で、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に迎えられ、これらの仏に親しく対面している ── 大聖人は、こう仰せである。

 佐渡の門下であった阿仏房(あぶつぼう)が亡くなった後、妻の千日尼を励まされた御聖訓には、次のように記されている。

 「亡くなられた阿仏房の聖霊(しょうりょう)は、今、どこにおられるであろうかと人は疑っても、法華経の明鏡(めいきょう)をもって、その影を浮かべてみるならば、霊鷲山の山の中、多宝仏の宝塔の内に、東向きに(釈迦・多宝の二仏と向かい合って)座っておられると、日蓮は見ております」(同1319ページ、通解)

 阿仏房は妻の千日尼とともに、大難のなかで、大聖人を支え抜いた。

 それは、まさしく、大聖人の法華弘通(ほっけぐつう)の大願を支え、実現していく戦いであった。

 その心は、「地涌の菩薩」の心そのものであった。

 この阿仏房夫妻の永遠の勝利の大境涯を、大聖人が御約束してくださっているのである。

 今、全世界の同志が、仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の広宣流布の団体である創価学会を支えてくださっている。

 この地涌の信心を貫き通すならば、現世は常に、仏界の生命が涌現して安穏である。亡くなった後もまた、霊山という安心立命(あんしんりつめい)の「生命の故郷」に住することができる。

 反対に、広宣流布の大願を忘れ、安逸(あんいつ)に堕(だ)し、名聞名利・私利私欲にとらわれる。

 ついには、大恩ある学会に、かえって弓を引いて、異体同心の和合僧を破壊しようとする。

 そうした反逆者の罪は、あまりにも深い。

◆仏の大生命がすべて御本尊に

 一、ともあれ、霊鷲山の儀式(虚空会の儀式)それ自体が、仏の宇宙大の生命をあらわしている。

 大聖人は、地涌の菩薩の“棟梁(とうりょう)”として、御自ら広宣流布の大願に生き抜かれた。

 そして、法華経の会座を用いて、御自身の大境涯を、御本尊としてあらわしてくださったのである。

 この御本仏の生命の大功徳は、すべて御本尊に納まっている。中央には、厳然と「南無妙法蓮華経日蓮」とお認(したた)めである。

 大聖人は、御義口伝で、御本尊こそ霊山の儀式をあらわし出したものであることを明かされ、そのお姿を「霊山一会儼然未散(りょうぜんいちえげんねんみさん=霊山の一会は儼然として未だ散らず)」(同757ページ)と示されている。

 また、大聖人と同じく、南無妙法蓮華経を唱え、妙法を実践する所には、霊鷲山の儀式が厳(おごそ)かに現前(げんぜん)する。そして、永遠に消えることはない。

創価学会の原点

 一、現代において、この甚深の義を会得して立ち上がった広宣流布の指導者こそが、牧口先生であり、戸田先生である。

 大宇宙に本来具わる大生命力が、人間の価値創造の力の源泉である。

 そして妙法こそ、この大生命力の本体である ── 牧口先生は、こう確信なされた。

 そして、大弾圧にも最後まで退くことなく、壮絶な殉教をされたのである。

 戸田先生は、牧口先生との師弟の道を貫き、獄中生活を強いられた。

 その獄中で、唱題と思索を重ねていったとき、まさに、法華経の会座に地涌の菩薩として参列している自身を感得された。

 「霊山一会儼然未散」を身をもって体験されたのである。

 この地涌の使命の自覚をもって、戸田先生は学会再建に立ち上がられた。

 そして、七十五万の地涌の菩薩を呼び出す、大法弘通の大願に生き抜かれたのである。

  大願の人生を生きよ!

  ─ 広宣流布は三類の強敵との大闘争

  ─ 「創価学会の皆さまこそ仏の集まり」...〔日淳上人〕

  霊山は 師弟の勝利の山

 ≪日興上人≫ 「我一人、師の本意を忘れない」

地涌の菩薩の偉大な陣列

 一、日淳(にちじゅん)上人は、こう語っておられた。

 「法華経の霊山会において上行を上首として四大士(しだいし=四大菩薩)があとに続き、そのあとに六万恒河沙(ろくまんごうがしゃの大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法妙法蓮華経を弘通致しますという誓いをされたのでございます」

 「その方々を(戸田)会長先生が末法に先達(せんだつ)になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います。

 この全国におられる七十五万の方々が、皆ことごとく南無妙法蓮華経の弘法に精進されまするならば、釈尊もかつて予言致しましたように、末法広宣流布することは、断乎として間違いないところでございまする」

 「皆様方が相い応じて心も一つにし、明日への誓いを新たにされましたことは、全く霊山一会儼然未散と申すべきであると、思うのであります。

 これを言葉を変えますれば真の霊山浄土、仏の一大集まりであると、私は深く敬意を表する次第であります」〈1958年(昭和33年)5月3日、学会の第18回総会で〉

 まことに、創価学会の異体同心の和合僧こそ、「霊山一会儼然未散」の姿そのものであるとの意義である。

 地涌の使命に立ち上がる。

 広宣流布の大願に生き抜く。

 これが「御本尊根本の信心」である。

 伽藍(がらん)に仏法があるのではない。いかに権威ぶった儀式を行おうとも、大願の人生を歩まなければ、真に御本尊を尊敬することにはならない。

 創価学会こそ、霊山の儀式のままに、末法広宣流布へ、大願の人生を歩む地涌の菩薩の陣列である。

 日蓮大聖人の門下として、広宣流布を目指して異体同心で進む創価学会の姿自体こそ、「霊山一会儼然未散」なのである。

 一、インドの霊鷲山には、山中を歩みゆく釈尊に向かってへあの悪逆の提婆達多(だいばだった)が大石を落としたと伝えられる場所もあった。

 大恩ある師を裏切り、その命まで奪おうとした「恩知らず」と「嫉妬」の陰謀である。

 しかし、仏の命を奪うことは、絶対にできなかった。

 広宣流布の和合僧を破壊することも、絶対にできなかった。

 反対に、この提婆が生きながらにして、無間地獄に堕ちていったことは、ご存じの通りだ。

 霊山浄土は、正義の師弟の“勝利勝利の山々”でもあるのだ。

◆正義を満天下に

 一、一切は勝負、仏法は勝負である。正義なればこそ、断じて勝たねばならない。

 民衆をいじめ、正義を踏みにじる人間とは、断固、戦うのだ。本当の正義の強さ、偉大さを、満天下に示すのだ。

 「華果成就(けかじょうじゅ)御書」には「師弟が相違すれば(師匠と弟子の心が違えば)何ごとも成し遂げることはできない」(御書900ページ、通解)と厳然と仰せである。

 悪を鋭く見抜き、どんどん声をあげるのだ。臆病であってはならない。

 勇敢なる真実の弟子が、一人立てばいいのだ。

 日興上人の「原殿(はらどの)御返事」には、こう記されている。

 「大聖人のお弟子(五老僧等)は、ことごとく師敵対してしまった。日興一人、本師(大聖人)の正義を守って、(広宣流布の)本懐を遂げるべき人であると自覚している。ゆえに、大聖人の御本意を忘れることはない」(編年体御書1733ページ、通解)

 師弟が心を合わせて唱えゆく、妙法の音声(おんじょう)に勝るものはない。

 御聖訓には仰せである。

 「白馬がいななくのは、我らが唱える南無妙法蓮華経の声である。この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等が、どうして、色つやを増し、輝きを強くされないはずがあろうか。どうして我らを守護されないはずがあろうかと、強く強く思われるがよい」(御書1065ページ、通解)

 朗々たる唱題の声が、諸天を動かし、自分自身を厳然と守りゆくのである。

◆使命の舞台で人間革命の劇(ドラマ)を

 一、かつて私は、歴戦の不二の同志である、九州の多宝会の集いに、歌を贈った。

   朗らかに 集いし この地が 霊鷲山

   皆が 仏か  皆が 菩薩か

 永遠に輝きわたる創価の霊山会に集った、正義の皆さまが、絶対に幸福にならないわけがない。健康にならないわけがない。

 最後は断じて、すべてに勝ち抜いていけると決まっているのである。

 わが使命の舞台で、人間革命のドラマを成し遂げ、皆に勇気と希望を広げて、広宣流布を進めていく。これが、地涌の菩薩の「霊山の誓い」であるからだ。

 私とともに!

 同志とともに!

 学会とともに!

 この誓いを果たし抜く人生を、悠然と勝ち飾っていかれることを念願して、私のスピーチとしたい。

 亡くなられた全同志、またご家族や友人の方々の三世永遠の幸福を祈ります。

 そして皆さまの一家一族が、ますます栄えていくことを、心から祈っております。

 同志の皆さまにも、くれぐれも、よろしくお伝えください。

 ありがとう! (大拍手)             (2006・9・17)