第21回 平和・祈りと行動

日米、日中、日ロ、日韓。国と国の反目の谷間で傷ついた人がいる。
人間社会の差別に人権をふみにじられた人がいる。
犠牲者となった大衆の目には、誰が平和の人に見えたのか。


▼「池田会長は言葉が分かりやすい」

◇狙撃された市長

 新聞記者と別れ、公用車に乗り込もうとした瞬間、本島等は異様な気配を背後に感じた。
 パン!
 銃声。熱い火箸を突き刺されたような衝撃が走った。
 たった今、本島と別れた記者たちは長崎市庁舎の玄関前に飛び出す。修羅場を踏んでいるはずの彼らも息をのんだ。
 本島が胸をおさえながら、膝から崩れ落ちている。背広に赤黒い染み。路上に血だまりができていく。
「市長!」
 一九九〇年(平成二年)一月十八日午後三時過ぎである。
 犯人取り押さえ。救急車搬送。取材陣は、病院や警察に散って、原稿を書き殴る。
長崎市長が狙撃され重体」「至近距離一・五メートルから撃たれ、左胸を貫通」「犯人は右翼団体幹部」……。
 戦争責任に関する本島の発言が引き金だった。
 戦後、初めて要人が国内で撃たれたテロ事件だった。
 辛うじて一命を取り留めた本島。
「人間というものは、十人から激励や支持を得ても、一人からすごい非難攻撃を受けると、案外こたえるものですね。眠れぬ夜もありました」
 言論の重さは生命の重さに等しいことを、改めて知った。

被爆都市の視線

 被爆都市・長崎。市長在任中(一九七九年〜九五年)から、本島は国内外の政治家、学者、平和運動家を長崎に迎えた。
 ひときわ印象に残る人物がいた。池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長。
 ありとあらゆる平和団体に接してきたが、何が違うのか。
「そりゃ、あげればキリがないけど、とにかく会長は言葉が分かりやすい」
 現在、本島は執筆に専念している。反核軍縮、平和。テーマは明快だが、論じるほど言葉も内容も難解になる。多くの学者や運動家が直面するジレンマである。
「池田会長は、難しい言葉を使わない。全部、平明な言葉。著作を読んでも前のページにさかのぼって読み返す必要がない。それこそ島原のバアちゃんでも『なるほどなあ』と分かる」
 市長時代から、池田会長の論文、著作を繙いてきた。
「かといって、決して内容の質が落ちるわけじゃない。そこに僕は偉大さを感じるんだな」
 平和運動の指導者の資質とは。
「大衆向きに長じていることです。それが池田会長には生来、そなわっている」
 発言の背後には、世にあまたある平和団体の実態も垣間見える。難しい。分かりにくい。大衆の側を向いていない。
 時に利権すら絡む。一部の平和団体環境保護団体、人権団体が「環境や人権を食いものにする利権屋」と化しているのも現実である。

              *

 池田会長の民間外交の軌跡は、この連載でも触れてきた。日米、日中、日ロ、日韓……。それぞれの国と日本の間には、戦争、反目、対立の歴史があった。国家と国家の谷間にのみこまれた犠牲者がいた。
 池田会長は、こうした大衆に、どんな言葉を届けたのか。いかなる心の変革をもたらしたのか。

マンハッタン計画

 橋本トヨミは、冷や汗をかきながら成田発パンナム一六便の座席にたどりつき、シートベルトを巻いた。
 一九八二年(昭和五十七年)五月三十一日の夕方である。
 初めて搭乗する国際便。まったく勝手が分からない。しかも目的地はアメリカ。一九四五年(昭和二十年)夏、長崎にいた自分の頭上で炸裂した原爆を製造した国である。
 ニューヨークで開かれる第二回
「国連軍縮特別総会」。一連の行事の中で、被爆者代表として、苦渋の半生を発表する予定だった。
 ――四五年八月九日。爆心から一・二?の自宅にいた。一瞬の閃光と地響き。三歳の長男と崩れた家の下敷きに。息子は救出されたが、自分の上には重い梁。動けない。火の手が迫ってきた。逃げんば!
 飛び出た釘が横腹を切り裂く。痛みをこらえ、渾身の力を込めた。辛うじて脱出できた。
 全身を刺したガラス片。“ピカ”を直視した長男の右目には光が戻らなかった。戦後も家族の入退院に明け暮れた。補償も不足し、長く暗い地獄が続いた。

          *

 六月一日。
 アメリカの科学者グループと懇談した。原爆を開発した「マンハッタン計画」に関わった人もいる。
 そのひとり、マサチューセッツ工科大学教授のバーナード・フェルドが握手を求めてきた。
 学究者らしく穏やかで知的な風貌だが、目の奥に何かわだかまりがある。
 当たり障りのない話が続いたが、ふと言葉が途切れた時、フェルドが低い声で切り出した。
「あなたはアメリカを恨みますか?」
 ひやりとした空気が流れる。
 あまりにもストレートな問いである。極めて微妙な問いでもある。しかし橋本は、何の迷いもなく答え始めた。
「最初は憎くて、たまらんやった。原爆は、たった一発で、わが家の、多くの市民の幸せば奪いよったけん」 橋本と通訳を交互に見ながら、科学者たちは険しい顔で聞いている。
「ばってん、今は、アメリカでも、世界の誰に対しても、私らが受けた苦しみを、二度と絶対に味わわせたくなかと。そいだけです」
 思いもかけない発言だった。
「私は日本で仏教の団体に入っています。創価学会です。会長の池田先生に教わりました。『愚かな指導者の生命にある魔性が、一番悪か』って」
 フェルドの顔に驚嘆の色が広がった。

巣鴨プリズンの戦犯

私は貝になりたい
 この題名のテレビドラマがヒットしたのは、一九五八年(昭和三十三年)である。
 軍隊から復員した理髪店主(フランキー堺)が逮捕される。捕虜虐待の容疑。気の弱い男で、上官の命令にしたがった行動だった。しかしBC級戦犯として法廷に立たされ、絞首刑に。
 家族への遺書。もう人間に生まれたくない、海の底の貝になりたい、と記す。貝ならば兵隊に取られず、戦争もないからだ。反戦ドラマの秀作だった。

             *

 伊藤栄子愛媛県新居浜市)の父・喜市は、BC級戦犯だった。
 軍事裁判に、かけられ、四年間、東京の巣鴨プリズンに押し込められた。
 もともと平凡な製缶工である。四三年(昭和十八年)秋。会社から、工場で捕虜を使うように命令された。
 新居浜には収容所があり、オランダ、オーストラリア等の捕虜がいた。命令で警戒員を務めた喜市は戦後、捕虜虐待の罪に問われた。
 娘の栄子は、一度だけ母に手を引かれ、巣鴨プリズンの父を訪ねた。
 四八年十二月二十二日。池袋の周辺には闇市がひしめき合い、喧噪がうなっていた。
 募金箱を首から提げた傷痍軍人。無表情で丼物をかっこむ女。流行り始めた「異国の丘」のメロディーがラジオから流れてくる。
 刑務所は異界だった。
 ヘルメット姿の立哨兵。肩にかけた機関銃が鈍く光る。高さ五メートルほどの赤茶けた塀の中へ。万事アメリカ流で運動場も整っている。娯楽施設もある。食事も栄養価の高いメニューだった。

◇金網越しの父と母

「元気な?」
「元気だったか?」
 お互いに一言交わしたっきり。嗚咽が続く。三〇分の面会時間は、たちまち過ぎた。
 長い廊下を、うつむきながら歩く女性とすれ違った。ある戦犯の夫人だった。この日の深夜、元首相・東条英機の絞首刑が執行された。父は受刑者として、後片づけをさせられた。

             *

 仮釈放され、新居浜に戻ってきた父は、すっかり無口になった。何かを忘れるように酒に溺れた。
 創価学会で信仰と出会った伊藤だが、誰にも打ち明けられない悩みがあった。
 なぜ父は戦犯になったのか。私は犯罪者の娘なのか。問いただせないまま、重く時が流れた。
 そんな彼女の心に響いたのが、小説『人間革命』第三巻「宣告」の章だった。物語の舞台は、極東国際軍事裁判東京裁判)である。
 一九六六年(昭和四十一年)の十二月二十二日から聖教新聞で連載開始。奇しくも、巣鴨プリズンで父と面会した日だった。
 東京裁判を真っ向から論じている。勝者が敗者を裁く。そこに正義があるのか。戦勝国なら人を処刑しても罪にならないのか。父も戦争の犠牲者であることを改めて思い知った。
「宣告」の章に背中を押され、戦犯について聞きたい、と父に初めて問うことができた。学会が戦争証言を集めている時期である。
「ええが。済んだことじゃが」と言っていたが、一つ一つの記憶が鮮明だった。捕虜全員の名前すらも。高熱を出した捕虜のため、自ら薬を求めて飲ませたこと。その捕虜の証言で減刑されたこと。決して非人道的な父ではなかった。
 貝のように押し黙っていた過去が明かされ、父と娘の長い戦後が終わった。

▼仏法は「無理」がない

◇無理なく、自然に、平和に関わっている。

 会長就任直後の一九六〇年代初頭。あるルポライターの取材を受けた。
 焦点は「幸福とは何か」。
「では池田会長、その絶対的な幸福とは、創価学会に入る以外ないというんですか」
 大きく手を振った。「そんな手前ミソを言うつもりはありませんよ」
 だが絶対的というからには、よほどの頭脳や経済力、精神力などが必要だ。それこそ超人的な能力が。
 ライターの疑念を打ち消すように、会長は語気を強めた。
「仏法には、そういう無理がないんですよ。人間とは何か。何をすべきか。それを極めて合理的に無理なく説ききっている」
 はっとした。
 仏法には無理がない。
 インタビューの核になる言葉だった。
「だから誰もが生きる目的を持ち、強くなれる。主体的に自らの宿命を転換していけるようになる。
 そうした個々の宿命転換の総和が、自然と、社会、国、人類の平和につながっていく」

             *

 学会員は超人的な活躍などで平和運動を進めているわけではない。無理なく、自然に、己の生き方の延長として、いつの間にか平和というテーマに関わっている。そんなケースが圧倒的に多い。

◇ある一歩兵の戦後

「日本名は鈴木光義さん、鈴木光義さんです。山東省から来られました。中国名は……」
 ブラウン管から叫びにも似たアナウンサーの声が響いていた。
 一九八三年(昭和五十八年)十一月。石崎馨(東京都豊島区)はテレビに食い入った。
 画面に男性の顔が映し出され、テロップに間違いなく「山東省」の文字が流れている。その上には「中国残留孤児帰国調査」とあった。
 目と耳を疑った。
 山東省に残留孤児?

             *

 石崎は、巣鴨とげ抜き地蔵の近くで工務店を営む平凡な職人である。
 大戦末期の四四年(昭和十九年)に召集され、宇都宮第一四師団第二歩兵連隊に入隊した。
 戦況は悪化の一途である。訓練もそこそこに中国・山東省に派遣された。
 翌年八月、終戦。石崎ら山東省駐留の部隊は、粛々と任務を遂行した。
 最後まで踏みとどまって、山東省に在留する邦人の帰国ルートを確保した。祖国への帰還に全力を注いだ。
 テレビを消して考えた。
 どうして山東省に孤児がいるんだ。全員帰国させたはずではないか。
 大工の石崎は、仕上げた仕事にケチをつけられたようで面白くない。
 翌朝、厚生省(当時)に電話し、残留孤児「鈴木光義」の滞在先を教えてもらった。訪ねていって、鈴木に会った。
 生い立ちを聞くと、第一四師団の手が届かない地域で、一家は離散していた。そうだったのか。残念で仕方ない。
 ここから残留孤児との縁ができる。
 三年後、鈴木光義の妹・信子が発見された。しかし、お役所の杓子定規の規定にはばまれ、日本の永住が認められない。
 石崎は家族を集めた。
「俺が身元引受人になる。縁があるんだ。見離せない。さんざん池田先生から『一人を大切に』と教わってきたじゃないか」
 妻も家族も賛成してくれた。
 石崎の店は、学会の東京戸田記念講堂に近い。幹部会のたびに池田会長を迎えた。出会った一人一人に、とことん面倒を見る姿勢が目に焼きつく。
日中友好なんて大それたことを思っちゃいなかった。ただ、日本に帰りたい、と言っている人の力になりたくて。
 それに中国人は、敵国だった日本人の子どもを育ててくれた。その恩義に報いたかった」
 妻・かなえと共に身元引受人として厚生省に登録。以来、世話した孤児らは二四年間で二〇世帯、一〇〇人を超える。
 帰国した孤児に池田会長の足跡を語ることもある。日中国交正常化提言。周恩来との出会い。「あなたたちが、ここにいるのも、日中友好の井戸を掘った人がいるからだ」。孤児たちは、驚きと感謝のまじった顔になる。

◇シベリア抑留兵の記録

 おや? 方向が反対じゃないか……。
 衛生兵の吉川三雄は、小さな船窓に顔を押しつけた。南下して日本へ帰還するはずの貨物船なのに、逆に間宮海峡を北上しているではないか。
 突然、船内のスピーカーが耳をつんざいた。「日本兵士は捕虜としてソ連に連行する。入国のため直ちに所持品検査を行う。甲板に集合せよ!」
 畜生、だまされた。国際法も完全に無視している。ソ連を罵る怒号が渦巻いた。一九四五年(昭和二十年)九月、船はシベリアに碇をおろした。ラーゲリ強制収容所)で過酷な労働が待ち受けていた。
 猛吹雪の日。原始林で伐採作業をしていた吉川は仲間とはぐれた。頼りの焚き火が消えた。ああ、俺は死ぬ……。
 気が付くと病院のベッドの上にいた。全身凍傷。傷が癒えると、衛生兵の経験を見込まれ、看護士になった。しかし、あっけなく仲間は生命を落としていく。厳寒期は一晩に最低一人は死ぬ。
 せめて人間らしく野辺送りしてやりたいが、ソ連兵は「死人に着せる服などない!」。枯れ木のような裸の骸がシベリアの大地に吹きさらされた。

             *

 一年が過ぎた。病室から怒声と野次が聞こえる。
「この帝国主義の手先め! 徹底的に自己批判しろ!」
 目を血走らせた捕虜が、同じ日本人を吊し上げている。「大衆裁判」が開かれていた。
 共産思想への洗脳。きっかけは壁に張られた「日本新聞」だった。日本政府を批判し、ソ連をたたえる記事が紙面を埋める。編集長はKGBソ連国家保安委員会)の中佐コワレンコである。
 冷たく凍った目の男も潜入してきた。思想教育のプロ。患者は恐怖におののく。これが病院なのか。
 警察官。憲兵。役人。支配階級にあった者を引きずり出す。吊し上げは二時間、三時間と続く。肉体的に弱ったところへ精神的に辱める。発狂して首を吊る者も出た。
 生き地獄そのものだった。
 吉川も机の上に立たされ、徹底的に批判された。反抗すれば帰国の道が閉ざされる。歯を食いしばった。同じ祖国の仲間なのに、なぜ!
 四八年(昭和二十三年)六月。日本への帰還許可が出た。抑留は実に九七一日間。ソ連への憎悪は消えようがない。

             *

 帰国後、北海道庁に職を得た。再婚した妻のミサヲは学会員で、しぶしぶ入会した。内心、これも洗脳の一種じゃないのかとも疑った。
 しかし根は勉強家。池田会長の著作に吸い寄せられる一文があった。
「戦争は人間の生命に巣くう魔の所業である」
 シベリアで人間の魔性を嫌というほど見てきた。
 最も驚いたのは、共産主義国家との対話だった。冷戦下、ソ連、中国の首脳をも魅了している。「日本新聞」編集長、コワレンコまで池田会長を深く慕っていた。
 あの共産主義の権化が!
 吉川は悩んだ。自分が小さく思える。ソ連を憎んでいるだけでいいのか。
 池田会長を見てみろ。自分に何かできないか。そうだ、あの悲惨な体験を後世に残すことができるじゃないか。
 思い出すのも嫌だった過去を呼び起こし、原稿用紙に刻みつけた。ラーゲリでの日々、同胞の死。執筆は深夜にまで及んだ。
 よし、これでいいだろう。
 一九八四年(昭和五十九年)、ペンを置いた。原稿用紙五〇〇〇枚。憎しみの壁を乗り越えた満足感があった。
 この資料をもとに上梓した『九七一日の慟哭』は九六年(平成八年)、北海道ノンフィクション賞に選ばれた。

◇“平和屋”への怒り

 核時代平和財団の所長デイビッド・クリーガーが答えに窮したのは、二〇〇〇年(平成十二年)三月十六日である。
 東京・創価学園。卒業式を前に池田会長と懇談していたときである。
「所長。いったい核は、どんな色をしているんですか。どんな臭いがするんですか」
 虚を突かれた。核とは何物なのか。どうすれば退治できるのか。その正体を暴きたい。烈々たる思いが伝わってきた。

              *

 平和運動の世界は、やたらと「箔」を重視する一面がある。やれ国連の某要人が後援した。やれ先進国の一流会議場でフォーラムを開いた。やれ欧米の一流紙が大々的に取り上げた。
 NGO(非政府組織)で平和運動部門のリーダーをしている人物が嘆く。
「人類は平和、平和と叫んで、五千年も経った。だが、世界平和が実現したことは一度もない。結局、平和屋、人権屋を生んだだけじゃないか」
 別の運動家は言う。
「いや、もう一種類いる。社会と世界の現実なんか、どうでもいいという夢想家、妄想家だ。浮世離れした『平和原理主義者』『平和念仏主義者』だよ」
 平和や人権を食い物にする者。現実を知らず、世間を知らない、青い
「蹴ねあがり」「お調子者」。いずれに対しても池田会長は厳しい。

            *

 余談になるが、一九七〇年代後半の、いわゆる第一次宗門事件のさなか。静岡県大石寺の境内で、こんな場面があった。
 坊主頭が雁首をそろえ、池田会長に手を合わせた。
「何とかしてください……」
 日蓮正宗宗門では坊主同士が派閥争いを繰り広げ、まっぷたつに分裂していた。反執行部の若手が寺にデモをかけるという。
 慌てふためく大石寺。ピケを張って防御の用意をする者もいた。
 右往左往の宗門首脳を横目に、池田会長は同行していた学会幹部に語った。
「本当に来ると思うか」
 事態は緊迫している。だが、誰も確証はできない。
「本気で戦うという決意なら、来る。だけど、そうは思えない。来ないよ。口先だけだよ」
 結局、デモ隊は来ず、アリバイのように周辺でビラをまいただけだった。
 口先だけの人間を、ずばりと見抜く。

        *

▼別のエピソード。

◇口先だけの人間を、ずばりと見抜く。

 紹介する人があり、某国の要人を地方の会館に迎えた。
 大物ぷっている。どこか軽薄な男。挙措動作にも落ちつきがない。会長は常と変わらず、自ら会館を案内し、厚く持てなした。
 談たまたまソ連大統領ゴルバチョフの話題になった。会長は既にモスクワでゴルバチョフと会見し、初訪日の意向を引き出している。それを知ってか知らぬか、要人が吹聴した。
ゴルバチョフについては、私も橋渡しをやろうと思っている」
 傲岸な響きの声だった。会長が問うた。
「あなたは大統領に会ったんですか」
「いや……」
「それでは、何を、いつ、どういうふうに手を打つというんですか」
「……」
 会見が終わった。要人の表情は訪ねてきた時とは一変していた。
「あの人、震え上がっていましたね」(同行記者)

被差別部落に嫁いで

「私は一〇年ほど前、同和地区に嫁ぎました……」
 山崎とし子が結婚体験を語り始めると、会場はしんと静まった。
 一九七二年(昭和四十七年)。長野県佐久市で開かれた婦人問題研修会。同和問題が議論された時である。
被差別部落の人と結婚したいと告げた時、友人に笑われ、母親に無言で叩かれ続けました……」
 隠していては何も変わらない。子どものためにも勇気を出して自分なりに解放運動の第一歩を刻んだ。

             *

 結婚を考えていた山崎富剛から、部落出身と打ち明けられた時は、別に拒否感はなかった。
 なぜ差別されるのか分からない。封建制度の犠牲者ではないか。
 東京・蒲田支部で活動してきた。
「人間は地位や身分では決まらない」と教わった。だったら差別に立ち向かおう。

 六二年(昭和三十七年)に結婚したが、現実は厳しい。実母は親戚つきあいを断たれ、妹の結婚は破談になった。
 部落内での差別が追い打ちをかける。外から嫁いだことで「よそ者」と言われ「創価学会員」ということで後ろ指を差された。
 重圧に押しつぶされる。近所の人々と変わらないようにモンぺをはき、髪型も変えた。「とにかく自分という存在を消したかった」。
 ストレスで体調を崩した時、学会の婦人部が駆けつけてくれた。
「あなたが強くなる以外ないのよ!」
 池田会長のスピーチに出会う。
「民族であれ、階級であれ、克服されるべき悪、すなわち『一本の矢』は外部というより、まず自分の内部にある」。一本の矢とは、人間が人間を差別する心を意味する。
 その通りだ。要は、どんな差別にも負けない自分になることだ。強い自分になることだ。それが本当の人権闘争だ。
 自分の存在を消しさろうというのではなく、誰にも積極的に話しかけた。婦人会の役員。行政との折衝役。難儀な仕事も買って出た。「よそ者で、学会だが」。いつしか周囲から声が上がりはじめた。「あの人は、ようやっている」
 娘と息子も強く育った。中学にあがると、同和教育の一環で話すことになった。机にしがみつき、震えながら出自を明かした。話し終えると、クラス全員から大拍手が起きた。
 夫の富剛は結婚後、学会に入り、同時に解放運動にも取り組んだ。
 一九七〇年ごろから、国による同和対策事業が始まった。差別のない社会づくりへ、国が努力していくことは当然である。一方で、それに甘えることなく運動を続けていくことが、いかに難しいか。
 富剛は振り返る。
「学会組織は何年経っても『手弁当』。国や社会に頼って民衆運動はないんです。学会活動に参加したおかげで、解放運動にも筋が入った」

ハンセン病の療養所

 厚生労働大臣坂口力は、深く頭を垂れた。二〇〇一年(平成十三年)六月、国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」(熊本県合志町=当時)の集会室は、静かな喜びに満ちあふれていた。
 同年五月、ハンセン病訴訟で、国に賠償責任があるとした熊本地裁判決に対し、政府は控訴を断念した。
 世界でも類例のない残虐な措置が、ようやく撤廃された。
 患者と元患者を支援する法律も成立し、坂口は報告に来た。集会所の一角で杵島君子は大きな節目を乗り越えたことを感じた。

              *

 熊本・八代市に住んでいた杵島は、十代で発症し、一九五二年(昭和二十七年)、菊池恵楓園に隔離された。
 社会の偏見は大きい。外界と遮断された人生。変化が起きたのは、六一年、姉の勧めで創価学会に入会した時である。
 先輩が足しげく通ってくれた。症状が進み、顔面にもいちじるしい変化が起きていたが、嫌がるそぶりもない。
 座談会で一緒に声を出して御書(日蓮大聖人が門下に与えた手紙)を読むと、声の響きがとけ合って、何とも言えない一体感をおぼえた。
 園内で結婚。赤ちゃんを身ごもったが中絶を強制された。不妊手術も施された。まるでナチスの人種根絶政策ではないか。
 身も心も切り裂かれた時、池田会長の来熊を知った。
 六八年(昭和四十三年)五月十九日、阿蘇山をのぞむ熊本・大津町で記念撮影会。数百人単位で会長とカメラに収まった。誰も除け者にされない世界があった。
 このころから池田会長に手紙を書く。
 必ず返事が来た。伝言が届いた。一通の返事、ひとつの伝言に、どれだけ励まされたことか。
 疎外感や絶望は消えていった。
 園内に学会の地区ができると、中心者になった。聖教新聞も配達した。園内放送で宗教の時間があると、池田会長に教わった「前を向く生き方」を患者に呼びかけた。
 菊池恵楓園の看護師長だった蒲池咲子。「杵島さんたちは他人を思いやることができる。逆に職員が励まされた」と感謝する。

在日コリアンの半生

 韓国の済州大学教授・趙誠倫には長年の謎がある。宗教社会学者として、どうも腑に落ちない。
 韓国は、日本発の思想や文化がなじまない国柄である。一時、天理教生長の家などが熱心に布教したが、退潮気味である。
 しかし韓国SGIは勢いが衰えない。なぜ伸びるのか。
 格好の機会が訪れた。交換教員の話があり、二〇〇六年(平成十八年)、日本に赴任した。長年の疑問を解くカギになるかもしれない。在日コリアンの学会員を取材した。
 東京で一一人。大阪で一三人。神戸で九人。一人一人の遍歴、信仰体験、学会活動の実態などを聞いた。
 そのうちの一人。大阪に、こんな男がいた。
 戦後の混乱期。警察を襲ったり、米軍の武器輸送を妨害したあげく、手錠をかけられた。
 戦後も「安価な労働力」扱いされた在日コリアンには、ろくな仕事が回ってこない。日本が憎い。日本人が憎い。その反動として共産主義に走った。
 留置場で、おびただしい血を吐く。肺結核。青白い顔をのぞき込まれ「もうアカンな。ほっといたら死ぬやろ」。追い払われるように仮出獄を命じられた。
 仲間も寄りつかなくなった。日に日に衰弱していく。
 誰も助けてくれない。せんべい布団の上で呪った。なんて冷たいんだ。祖国。日本。共産党。警察。医者。どこも手をさしのべてくれない。
 命綱を切られ、荒海に放り出された絶望感。
 たった一人だけ近寄ってくる者がいた。「絶対、幸せになれる信心や」。いくら断っても、あきらめない。もし信心して、病気で死んだら、子どもの面倒を見るとまで言い出した。
 奈落の底に垂れてきた、一本の蜘蛛の糸か。男は創価学会に入会した。

      *

 藤井玉子(大阪市都島区)は、国家によって家族を分断された。
 韓国の慶尚北道に生まれ、強制労働で連行された父を追って日本へ。
 戦後、その父が死亡すると、母と兄弟は「地上の楽園」を信じて、北朝鮮に移住。藤井だけが日本に残った。
 根無し草である。帰るべき祖国は、どこか。誰が、どの国が自分を幸せにしてくれるのか。
 藤井は六三年、創価学会に入会。「負けたらバカにされる。勝つしかない」。一杯飲み屋から始めた居酒屋、焼肉店を命懸けで繁盛させた。
「誰かを頼る生き方は、やめたんや。幸せは、幸福は、自分でつかみ取るものや。勝ち取るものや。池田先生が、おっしゃってるやないか」

             *

 韓国・済州島にSGIの研修センターがある。大阪には同島出身者が多い。日韓の架け橋になりたいと願い、ツアーを組んで訪れる。
 玄関ホールでバスガイドの若い女性が泣いている。和歌が掲げられていた。
「忘れまじ 日本の原点 済州島皆さまありて 我らもあるなり」
 ガイドの感動は大きかった。
「この池田さんって、誰ですか」
「こんなことを言う日本人が、本当にいるんですか」

          *

 ある在日の学会員の近所に、韓国人の男が引っ越してきた。
 日本に来たばかり。祖国の言葉で話がはずんだ。男が土産話を始めた。
「この前、韓国で聞いたんです。実は、日本には、すごい人がいるんですよ。韓国のことを『日本の兄の国』『文化大恩の国』と称えているんです」
 なんという名前だったか、必死で思い出そうとしている。
 学会員は吹き出しそうになった。
「それは、僕の師匠ですよ!」

             *

 面接調査を終えた、済州大学の趙。いくつかの注目すべきポイントがあった。
 第一に、学会の大衆性。
 創価学会は国籍の区別なく、苦悩にあえぐ大衆を救済してきた。学会の組織は、在日コリアンが日本で生き抜く上で、他の在日コミュニティーよりも重要な意味があった。
 第二に、社会意識の向上。
 学会員は当初、個人の幸福追求を目的としている。ところが、いつしか個人の次元に終わらず、韓国と日本の社会に貢献したいと願いはじめる。行動していく。その過程も、実に無理がなく、自然だった。
 第三に、池田会長の存在。
 精神的な支柱である。朝鮮半島への認識にしても、これまでの日本人とは、完全に発想が逆転している。日本では他に類を見ない指導者である。
 ある時、趙は、在日三世の男子学生に取材した。彼は「池田会長に続き、韓日を結ぶため働きたい」と胸を張った。
 驚いた。「次の次の世代にまで精神が継承されているのか。これは奥深い。まだ調査が足りないな」
 今も大学の研究室で、SGIの謎と格闘する。

◇広島の胎内被爆

 篠原美保子は広島平和記念公園の片隅で息を殺した。一九七五年(昭和五十年)十一月八日の午後である。
 原爆慰霊碑までおよそ三〇〇?。視線の先で、池田会長が歩いている。青年が掲げる花環を先頭に、ゆっくりと慰霊碑に進む。

              *

 篠原は胎内被爆者である。
 この公園の上空で原爆が投下された時、母の胎内にいた。三〇年が過ぎたいま、篠原は母になろうとしている。初出産を控え、七カ月の身重だった。
 胎児がお腹を蹴る。だが――もし自分と同じ後遺症の悲劇が、この子に待ち受けていたら……。
 中学一年の時、歯茎から出血し始めた。全身に赤い斑点。紫斑病だった。
 高校二年で再発。不正出血も続く。入院する気にもなれず、家に閉じこもった。
 死に場所を求め、自宅近くの三滝山の奥深くをさまよった。絶望して太田川の川辺にも立った。
 就職差別。結婚差別。被爆者の苦しみは後遺症だけではない。
 本心を言えば、学会の行事で被爆者として登壇することも苦痛だった。過去に目をつぶり、口を閉ざしたかった。
 十一月九日に広島で学会の本部総会が開かれる。その前日、会長が平和公園で献花すると聞き、駆けつけた。
 こっそり建物の柱の陰から会長を見つめ、慰霊碑に手を合わせた。
 邪魔になっちゃいけん。急いで立ち去り、噴水の前の信号で立っていると車が通った。
 あっ、先生!
 窓ガラスを下ろして、会長が手を振っていた。
 興奮気味に帰宅すると、姑が仏壇の所から紙片を持ってきた。
「行きんさい」。本部総会の入場整理券だった。姑の分だが、篠原が参加することが一家にとって一番プラスと考えたようだ。

▼「広島の皆さんには、生きる権利がある」

 翌日、総会の会長講演。
 ひときわ胸に突き刺さった言葉がある。
「広島の皆さんには、生きる権利がある。生存の権利がある。生きて生きて、生き抜かなければならない!」
 いつも死に引き寄せられがちな、弱い心を断ち切られた。
 絶対に子どもを生もう。それが私の生きている証しだ。翌年二月、長男を出産。子宝に恵まれ、元気な二男一女の母になった。
 篠原は変わった。
「一人でも一言でもいい。しゃべらんといけん」
 広島市内の大学で被爆体験を語り始めて一〇年になる。相手は米イリノイ大学からの留学生。アメリカ、中国、シンガポール。国籍は多様である。
 日本語しかできないが、もっとストレートに語りかけたい。最近では、英語原稿の全文にカタカナで発音を書き込んでいる。あれほど過去を隠していた自分が、世界に呼びかけようとしている。次は中国語に挑戦する予定だ。
 篠原の被爆手記は、アメリカで刊行された大学生向けの教科書にも掲載された。

◇米国平和学者の感嘆

 成田空港の到着ロビーに、白人の老紳士が姿を現した。
 戸田記念国際平和研究所の森田博は、身体を精いっぱいに伸ばしながら目印のプラカードを掲げた。
「ハロー、ドクター!」
 紳士が相好を崩した。米平和学者のグレン・ペイジ(ハワイ大学名誉教授)である。
 二〇〇一年(平成十三年)十月三十日。創価大学で行われる記念行事に出席するため来日した。
 東京の宿舎へ向かう車中。
 池田会長の知己であるペイジは、七年ぶりの再会を控え、気分が高揚しているらしい。饒舌に語りかけてくる。
モリタ聖教新聞の発行部数は、どれくらいだい?」
「では、一部あたりの価格は?」
「学会員の数は? それから……」
 妙なことに関心をもつものだなと思いながら森田は応じる。ペイジは電卓を取り出し、計算しながら感嘆している。
 ペイジは学生時代、大学を休学して朝鮮戦争に参加している。多くのアメリカ人同様、軍事力の必要性を認めてきた。悩み抜いた末に「非暴力」と「不殺生」という終生のテーマに辿りついた。
 現実というものの重みを知っている。大国が無理を通せば道理が引っこむ。それが、この世界である。その冷厳な現実の前で、平和平和と唱えるだけの空しさを嫌というほど見てきた。平和運動? 理想と現実と政治の狭間で際どいバランスを取りながら堅実に運動を進めていくことが、いかに至難か。
 人件費、移動費、会場費……シンポジウム一つにも、資金面で辛酸をなめきってきた。
「多くの平和運動を見てきた。どの団体も、必ず経済的な次元で苦労する。立派な理念を掲げても、肝心の原資が確保できない。理念だけでは平和を現実にする力にならない」
 森田は膝を打った。
 聖教新聞の部数を聞いてきた意味がわかる。
「池田会長は、これだけの組織をつくり、大部数の新聞を発行し続けている。確固とした“トータルマネジメント”のうえに、平和運動を進めている」
 車は平日の首都高速を加速していく。遠くに新宿のビル群が見えはじめた。
「会長こそは……」
 研究歴四十余年の平和学者は結論した。
ジーニアス(天才)だ」

          (文中敬称略)

    「池田大作の軌跡」編纂委員会