全国最高協議会(7)
君よ創価の厳窟王たれ!
恩師と学んだ大逆転の劇 モンテ・クリスト伯
強くなれ! 希望を持て!
一、これからを生きる人々に、イギリスの大歴史学者トインビー博士が与えた"第一の助言"は何であったか?
それは、「死ぬまで青年の精神を保て」であった(毎日新聞社外信部訳『未来を生きる トインビーとの対話』毎日新聞社)。
ひとたび決めたら、まっしぐらに突き進む!
燃え立つ心で、新天地へ飛び込む!
わが身をなげうって、希望の道を開く!
これが青年だ。
事業の最大の苦境の時、戸田先生は、私に言われた。
「広宣流布のために、大作、"男の生きざまとはこうだ"というものを、二人でこの世に残そうじゃないか」
思えば、朝から晩まで戸田先生に仕えきる毎日であった。
阿修羅の如く!
一、また、先生はおっしゃった。
「大作、広宣流布のために、君は男として、阿修羅のごとく戦ってくれ。
たとえどのような結果になっても、すべて御本尊におまかせしよう」
私は戸田先生が逝去された年(昭和33年)の12月、男子部総会で、「天魔の働きや、三類の強敵がおそいかかってきたときには、阿修羅のごとく力を出しきって戦っていきたい」と叫んだ。
私は、恩師の言葉のままに戦った。これが報恩の道であると信じて、戦い続けてきた。
一、戸田先生が愛した小説に、「巌窟王」がある。
19世紀フランスの文豪、大デュマの傑作『モンテ・クリスト伯』を日本語に翻訳した際、名訳者の黒岩涙香(くろいわるいこう)が、「巌窟王」と訳した。
主人公は、若き船乗りダンテスである。
ダンテスは、周囲の悪党に陥れられ、冤罪で捕らえられる。そして、地中海に浮かぶイフ島の監獄、シャトー・ディフに幽閉されてしまう。
かつて、このイフ島を、フランスの青年たちとともに、マルセイユの港から眺めたことは、懐かしい思い出である。
監獄でダンテス青年は、師と仰ぐとになるファリア神父に出会い、万般の学問を授かった。とともに、モンテ・クリスト島に埋蔵された、膨大な宝の秘密を教わる。
投獄から14年後、ダンテスは脱獄に成功し、「モンテ・クリスト伯」と名乗り、社交界に現れた。
そして、知恵と巨万の富を自在に駆使して、かつての恩人に恩返しをしていく。
さらに、自分を陥れた怨敵(おんてき)たちに次々と報いを与え、仇討ちを果たしていくのである。
戸田先生は叫ばれた。
「私は、宗教界、思想界の巌窟王である。広宣流布の巌窟王である。必ず必ず、獄死させられた牧口先生の仇を討ってみせる!」
戸田先生が妙悟空のペンネームで書かれた小説『人間革命』の主人公は巌九十翁(がんくつお)という名前だ。言うまでもなく、戸田先生ご自身のことである。
先生は、あるとき「大作いよいよ、今度はデュマの『巌窟王』をやろうじゃないか!」と言われた。そして、私をはじめ青年部の精鋭が集う「水滸会」で、教材とされたのである。
一、今も世界中で愛読されている『モンテ・クリスト伯』。
ダンテス青年は、師に対する感謝を述べている。
「宝とは、あなたがわたしの頭にそそぎ入れてくだすった知識の光のことなのです」
「これによって、あなたはわたしを富めるもの、幸福なものにしてくださいました」
「わたしの得られる真の幸福、それはあなたのおかげなのです」(山内義雄訳、岩波文庫)
師のいる人生は強い。師と弟子の交流こそ、幸福と勝利の源泉である。
恩人の息子に、モンテ・クリスト伯は語りかける。
「お嘆きになるのはたくさんです。男らしくおなりなさい。強くおなりなさい。希望をおもちなさい。わたしがついていますから」(同)
また、小説の末尾の一節「待て、しかして希望せよ!」は、あまりにも有名だ。この一言に励まされた人は多い。
戸田先生は、牧口先生の獄死を知った時の心情を語られた。
「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」
この戸田先生の"巌窟王の執念"も、根底には「広宣流布」という、燃えさかる「希望」があった。
戸田先生が、どれほど牧口先生を慕っておられたか。牧口先生の三回忌法要で、戸田先生は「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」とおっしゃった。
生命の奥底から発せられた、この一言こそ、創価学会の実相である。また、学会の師弟論の真髄である。
殉教の牧口先生にお仕え申し上げた戸田先生。その戸田先生が復興した学会の勢力を、私は、何倍にも発展させた。師の正義を世界に宣揚した。
一、平和と文化の言論紙・聖教新聞が創刊されたのは、昭和26年(1951年)4月20日。当初、月3回の発行で、部数は5000部だった。
恩師と学んだ大逆転の劇 モンテ・クリスト伯
強くなれ! 希望を持て!
新しき常勝を築くには?
「師と一緒に」「共と一緒に」前進
記者も少なく、皆、素人だった。
私は、戸田先生の事業を支える激務のなか、記事を書きまくり、創刊号から、聖教新聞を護っていった。
学会本部は当時、西神田にあった。
私は、神田中をまわって、聖教新聞を自ら拡大していった。
「聖教新聞を、日本中の人に読ませたい」──師の夢の実現のため、足元から行動していったのである。
昭和30年の1月。私は、「若き日の日記」に記している。
「素人一名乃至二名で始まったこの紙弾(=聖教新聞)。今、数十万部に近い勢力となる。人々は笑った。素人になにが出来るか、と。(戸田)先生のいわく“素人も、五年たてば玄人になってししまう”と」
私と妻は、常に率先して、聖教新聞の拡大を行ってきた。
御聖訓には、「仏は文字によって人々を救うのである」(御書153ページ、通解)、「(法華経の)文字変じて又仏の御意となる」(同469ページ)などと説かれている。
聖教新聞の拡大は、即、仏縁の拡大であり、広宣流布への大折伏の意義があることを、知っていただきたい。
思えば戸田先生当時、学会の会館は五つであった。現在は1200会館に発展した。SGI(創価学会インタナショナル)は、190カ国・地域に広がった。
だれもできなかった広宣流布の実証を残してきた。
勝負はこれからである。皆さんとともに、さらに盤石な、師弟勝利の歴史を築いていきたい(大拍手)。
ミケランジェロ
「おまえのために働いてくれた人の恩を忘れるな」
「信心」で立て「信心」で戦え
一、イタリア・ルネサンスの大芸術家ミケランジェロは、味わい深い手紙を多く書き残している。
ある時、ミケランジェロの甥から手紙が届いた。
それは、甥の父親──すなわち、ミケランジェロの弟が亡くなったことを知らせる便りだった。
しかし、便りの中身は粗雑で、肝心の、弟の臨終の様子などが、よくわからなかったようだ。
ミケランジェロは返事のなかで、甥の杜撰な書きぶりをたしなめた後、「おまえのために働いてくれた人(=甥の父親)の恩を忘れぬように気をつけるがいい」と綴っている(杉浦明平訳『ミケランジェロの手紙』岩波書店)。
人の心というものは、細かいところ、思わぬところに、にじみ出るものだ。
これまでの学会の歴史において、大恩ある師匠が迫害の集中砲火を浴びせられている時に、それをせせら笑っている人間がいた。後に退転した者もいた。
そういう者たちは、最高幹部でありながら、だれ一人として「信心で立つ」「信心で戦う」という根本の姿勢がなかった。悪縁に紛動されたその姿には、信心のかけらもなかった。
リーダーは心と心を結べ!
一、「師匠を護る」とは、どういうことか。それは大難の時にわかる。
私と妻は、戸田先生ご一家を、現実の上で、徹してお護りした。口先だけの人間とは、天地雲泥であった。
先生は、何かあるたびに、「大作!」と私を呼ばれた。その信頼にお応えし、活路を開いた。
学会全体の弘教が、戸田先生の思うように進まない時があった。
「このままでは、広宣流布は何千年もかかってしまう」。先生は深く嘆かれた。
私は戸田先生からの命を受け、低迷している各地の組織に勇んで入っていった。
そのなかに、東京の文京支部もあった。文京の折伏成果は、当時、最下位クラスだったが、私が支部長代理として戦い、一気に大躍進を遂げたのである。
かけがえのない、青春の鍛えの日々であった。
ともあれ、学会の幹部は、断じて偉ぶってはいけない。だれであっても、蔑んではならない。皆、同じ人間である。
偉ぶるのは増上慢であり、増上慢は人を不幸にする。どんな人も、尊い仏の生命が具わっているととらえるのが、仏法である。
皆さんは、どこまでも信心根本で、人の心のわかるリーダーになっていただきたい。そのために、どこまでも自分自身を鍛えていただきたい。
常勝の伝統を築くには、核となる人間が一緒に」進むことだ。
「師匠と一緒に」「同志と一緒に」──その心があれば、強い。魔に、付け入るスキを与えない。
離れ離れでは力が出ない。心と心を結ぶのがリーダーの智慧である。
新しき常勝の歴史を、ともどもに築こうではないか!(大拍手)
(2007・8・9)