第24回 映画「人間革命」で出会った人々


 映画人たちの熱意

 「絶対、成功します!」
 あの「怪獣ゴジラ」の生みの親が、身を乗り出して言われた。
 「ぜひとも『人間革命』の続編を映画化させてください」
 1973年(昭和48年)の12月5日。
 聖教新聞社(東京・信濃町)の応接室に、東宝田中友幸(たなかともゆき)氏が訪問されていた。
 一世を風靡した怪獣シリーズや、黒澤明監督作品を大ヒットさせてきた名プロデューサーである。その隣の白髪の紳士、松岡辰郎(まつおかたつろう)社長も、真剣そのものの表情であられた。
 この年の秋、全国で公開された映画『人間革命』は観客500万人を数え、一年の興行記録を塗り替えた。当時、邦画では異例ともいえる全米公開も行われ、ブロードウェーでも、ハリウッドでも反響を広げていた。
 製作者の間では、早くから続編の構想が練られていたようだ。
 田中氏は映画『人間革命』に寄せられた好評を穏やかに語られながら、続編の話に移ると一気に語気を強めた。
 その映画人の熱意に、私は押し切られた。

 青春時代と映画

 映画には不思議な力がある。
 開幕のベルが鳴り、照明が落ちる。スクリーンには、人間の悲喜劇の絵巻が浮かび上がる。
 創価教育の創始者牧口常三郎先生も、戦前、長谷川一夫主演の名作『男の花道』を鑑賞されて、その感慨を語っておられる。
 終戦後の国民に希望を送ったのは、映画、演劇、歌謡曲などの大衆娯楽だった。
 日本映画界は黄金期を迎えていた。黒澤明溝口健二小津安二郎成瀬巳喜男。名匠が生み出す傑作は、国内外で注目の的となった。
 1949年(昭和24年)10月。師・戸田城聖先生の苦境の事業を一人支えている渦中であった。
 冷たい秋雨の東京・新橋。外回りに疲れ果て、靴のなかまで濡れそぼってしまった私は、映画館の電飾に吸い寄せられた。
 スクリーンに浮かぶ、もう一つの世界が、孤軍奮闘する青年の心労を、しばし洗い流してくれた。
     ◇
 20世紀は「映像の世紀」となった。第3代会長に就任後も、折々に青年と映画を論じ合った。
 大晦日の夜。最後まで仕事納めに追われる学会本部の青年たちをねぎらうため、新宿の映画館に連れだって行ったことも懐かしい。
 いつか戸田先生の御生涯と、広宣流布のドラマを映像で残す時が来る。いな、残さねばならない。
 このテーマを胸に温めてきた。
 70年代、高度経済成長が終焉を迎える頃、私は、いよいよ、その時が来たことを感じた。
 冷戦下にアメリカ、中国、ソ連(ロシア)の3国を民間外交で駆けめぐった。映画『人間革命』『続・人間革命』が製作、公開されたのは、その最中のことである。

 あおい輝彦さん

 『続・人間革命』の製作が決定すると、内外の関心は一点に集中したようだ。
 いったい誰が、山本伸一役を演じるのか。
 自分をモデルにした人物が登場する。気恥ずかしい限りだ。
 青年らしく、思い切って演じてくれる方なら、どなたでもよい。そうお願いし、前作同様、一切を製作委員会にお任せした。
 選考は難航したようである。
 プロ、アマを含め、候補者は約1000人。関係者が面接しただけでも300人に上った。候補には大スターとして人気を博する名優の名も挙がったと伺っている。
 慎重な選考を重ねたうえで、最後は舛田利雄(ますだとしお)監督の一声が大きかった。「あの俳優は、目に輝きがある」
 あおい輝彦さんに決定した。
      ◇
 あおいさんとは、幾たびも思い出の語らいを重ねた。
 最初の出会いは聖教新聞社
 私がロビーを通ろうとした時、ちょうど角から出てこられたのが、あおいさんだった。
 「あおい輝彦です!」
 「やあ! よく知っていますよ」
 思わぬ初対面に笑いが弾けた。

傑作を生み出す条件とは?
 皆が一丸となって進むこと!

 もともと、あおいさんは人気グループの歌手として活躍。俳優としても活動の場を広げはじめていた。
 さわやかな面立ちが印象的で、私も妻も息子たちも"あおいファン"を自認していた。
 お会いしてみると、想像していた通り、いな、それ以上に誠実で、率直な青年だった。
 私の若いころと面影が似ている。19歳の写真を見ながら、互いに驚いたものである。
 私の母も、ポスターに写ったあおいさんを見て「大作の青年時代にそっくりだ」と喜んでいた。
 映画俳優としては、初の主役。緊張気味のあおいさんの肩をボンと叩いた。
 「私の若いときは好男子でしたが、あおいさんは美男子ですね」
 ぱっと笑みが広がった。
      ◇
 山本伸一役を演じる上で、あおいさんは一つだけ疑問を抱いていた。
 映画の冒頭。伸一が座談会で戸田先生と初めて出会う場面。最初のハイライトシーンである。
 たった一度の出会いで、なぜ戸田先生を「生涯の師」と決めることが一できたのか……。
 真剣に悩みぬかれての質問だった。私は率直に答えた。
 ──戦争で滅茶苦茶にされた青春時代の苦闘。仰ぐべき師を求め続けていた探究の日々。軍部権力の投獄にも屈しなかった先生への信頼。そして「あの一瞬」から始まった、厳しくも慈愛あふれる師の薫陶。
 そのうえで私は、お願いした。
 「私を演ずる必要はない。あなたの地を、そして人間性を、どんどん出してくれれば、それでいいんです」
 あおいさんは大きく領き、納得されたようだった。
      ◇
 「池田会長と話しているうちに、疑問が解けたんです」。後に雑誌のインタビューで答えておられた。
 「私には男兄弟がいません。心の底から話せる"兄貴"を見た思いです」とまで言ってくださった。
 あおいさんは「伸一役を演ずるために、自ら希望して、学会伝統の座談会にも出席された。
 「陶襟を開いて語り合う学会員の姿に感銘しました」と述べておられる。
 76年(昭和51年)6月、映画『続・人間革命』は全国で公開され、前作をさらに超える大ヒットとなった。伸一役のあおいさんに賞讃が寄せられた。
 多くの識者からも「最も印象に残ったのは、逆境のなかで光る師弟愛の姿です。なんと美しいことか」等の深い共感の声が届いた。
 3カ月後、私の母が逝去した時も、あおいさんは真っ先に葬儀に駆けつけてくださった。
 その後も時代劇、声優等と、大活躍の舞台を一段と広げてこられた。今もなお、折々に近況を伝えてくださる。信義に篤く、義理堅い人である。

 師を信じぬく心

 映画『人間革命』『続・人間革命』では、多くの方々との出会いがあった。
 日活映画などで傑作を残してこられた名監督、舛田利雄先生。
 「仏法思想、精神というものを、どのようにして我々の生きる日々の糧としてとらえるか」という急所を見定めて、撮影を進めてくださった。
 戸田先生役の丹波哲郎(たんばてつろう)さん。幾枝夫人役の新珠三千代(あらたまみちよ)さん。
 総合芸術の映画を縁の下で支えてくださった「いぶし銀」の方々の存在も忘れられない。
 撮影の西垣六郎(にしがきろくろう)さん。美術の村木与四郎(むらきよしろう)さん。録音の増尾鼎(ますおかなえ)さん。照明の石井長四郎(ちょうしろう)さん等々。日本映画の黄金期を支えてきた第一級の映像スタッフである。
 後に、ある映画関係者が言っていたという。
 ──映画製作の現場は、それぞれの思い入れが強い。それだけに、ぶつかり合いや葛藤もある。しかし『人間革命』は全関係者が一丸となった。だから、あれだけヒットした。
      ◇
 脚本家の橋本忍(はしもとしのぶ)先生。
 映画『七人の侍』『羅生門』『生きる』『砂の器』など映画史に残る名作を手がけてこられた。
 映画『人間革命』の成功も、脚本に依るところが大きかった。
 一切を橋本先生にお任せした。力になれるならと、幾たびも取材に応じた。時に3時間、5時間に及んだ。私が原作に書かなかったことまで詳細に聞いてくださった。
 戦前の名監督・脚本家の伊丹万作(いたみまんさく)氏に師事し、徹底的に訓練を受けた橋本先生である。
 近著(『複眼の映像──私と黒澤明』)にも「生産の恩師一との思い出を温かく綴っておられた。一流の人に、一流の師あり──名界の第一人者に通じる真理である。
 橋本先生は、語られている。
 「師弟関係というのは、一番進んでいる科学者の世界にさえある。
 人間というのは、何かをやる場合、その人の言うことなら、迷わず、ためらわず、信じぬいてやる。そういう師匠がいないと何もできない」
 映画『人間革命』『続・人間革命』の底流には、師を信じぬく心の勝利の結晶が光っている。