第2回 関西最高協議会 下


苦労している人のもとへ
自ら先頭に立った知将・楠木正成
指導者は「同志への感謝」を持て




 一、わが愛する関西の記念会館で開催された、今回の本部幹部会。
 そこで私は、皆様方への心からの感謝を込めて、"大楠公"などの曲を、ピアノで弾かせていただいた(大拍手)。
 兵庫・湊川の戦いに赴く武将・楠木正成と長子・正行の別れを謳った"大桶公"は、戸田先生の大好きな曲であった。
 昭和32年(1957年)の春4月13日。大阪での激闘のなか、私は、正成が築いた千早城の址に足を伸ばし、関西の同志と思い出を刻んだ。
 正成の本拠地である、大阪の千早城は、周りを深い谷に囲まれ、背後に金剛山がそびえる天然の要害であった。
 地の利を知り尽くした正成は、この山城で防備を完壁に固めた。そして、あらゆる知恵を尽くし、独創的な戦術で、大軍勢の猛攻撃にも耐え抜いていったのである。
 「千人に足ぬ小勢」で「一日が中に五六千人」を打ち倒した──『太平記』には、こう記されている。
 次元は異なるが、広宣流布の運動にあっても、リーダーは、全同志のために智慧の限りを尽くしていかねばならない。
 民衆を苦しめる悪と戦い、幸福と平和の連帯を広げる名指揮を、よろしく頼みます!(大拍手)

大阪を自転車で  
 一、作家・大佛次郎氏の小説『大桶公 楠木正成』(徳間文庫)には、傑出した智将の姿が生き生きと描かれている。
 正成は、自ら勇んで戦いの先頭を駆けた。大佛氏の作品に、こんな一幕がある。
 「正成自身が、この一日で馬を何頭か乗り潰していた。東口にいたかと思うと、住吉の方角にまた西門の近くに馬を立てていた。今もまた、新しい馬に鞭をあてて、敵の退却と並行して走っていた」
 苦労している友のもとへ──私も、大法戦の指揮を執った若き日に、大阪中をかけずり回った。常に題目を唱え抜きながら、自転車で、辻々を回り、小さな路地へと入っていった。
 車を持っている人など、ほとんどいなかった時代である。自転車を何台も乗りつぶしたことを思い出す。
 苦楽をともにした同志のことを、私は生涯、忘れない。同志への感謝があるところ、力は無限にわき出ずるものだ。
 また大彿氏の作品では、正成の妻、すなわち息子・正行の母にも、光が当てられている。
 正成の死後、妻は、息子の正行を、父の後継者として立派に育て上げていった。
 大彿氏は、こう結論している。
 「(正行を)小楠公として雄々しく出発させる鉄のような意志に変えたのは母である」
 「(母は)泣きもせぬ。歎きもせぬ。ただ、この子を父親と同じものに引上げる。心からの、その祈りであった」
 正行の母の言葉が、関西の広宣流布の母たちと二重写しとなり、胸に迫ってならない。
 そして、わが関西には、この常勝の父母の祈りの通りに、後継の青年が陸続と育っている。
 これほど、うれしいことはない(大拍手)。



ローマの哲学者
絶えず困難と戦ってきた者は 倒れても膝で立って戦い続ける


苦境を支える柱 
 「私は現在、中国を代表する歴史学者である章開沅先生と対談を進めている。
 人間の世界は、いつの時代も、どの社会も、矛盾と葛藤と複雑性に満ちている。そのなかで、正義を揺るぎなく貫き通していくための希望の光とは何か。
 それは「師弟」に生き抜くことである。この一点で、章先生と私は深く一致した。
 章先生は、こう語っておられた。「私の人生を振り返っても、最も苦しかった文化大革命の暗黒の時代、私を支える柱となったのは、師である揚東蒓先生の存在でした。そうした師をもてたことは、私の最大の幸福だと思っています」
 また、中国には、古典である『後漢書』の一節に由来する「尊師重道」(師を尊び、道を重んじる)という思想があると述べ、こう言われた。
 「人類の文化の大河が千年万年にわたって連綿と続いているのは、こうした幅広い意味での師の存在を抜きにしては語れないでしょう」
 まことに深い洞察であると思う。
 
 一、戸田先生は語っておられた。
 「古来、師弟の不二なる道ほど、深く尊く、その血脈が永遠なるものはない。師弟の栄光は、永遠である」
 戦時中、戸田先生と牧口先生は、軍部政府の弾圧によって、牢獄へ行かれた。
 牧口先生は獄死。
 戸田先生も、2年にわたる過酷な獄中闘争で体を痛めつけられた。
 しかし、それでも、牧口先生の慈悲の広大無辺は、自分を牢獄まで連れていってくださった──と感謝しておられた。
 私はこれをうかがい、「師弟の精神の根本は、ここだ」と感動した。本当に尊いことである。
 この根本をはずして、何をやってもだめだ。
 今は経済的にも恵まれ、組織もできた。交通も便利だ。すべてがある。
 草創期は、何もかも、なかった。
 私は、師匠である戸田先生に徹して仕えた。戦後、先生の事業が破綻した時に、私はすべてをなげうって先生を護り、支えた。
 あの時は、本当に大変だった。多くの人が先生のもとを去っていった。
 私は、まだ20代。給料が出ない時もあった。その中で、あちこちを駆け回って、一人一人、味方を増やしていった。一切の責任を担って阿修羅のごとく戦った。
 疲れ果てた。機烈な日々であった。
 明日のことさえ、わからなかった。私がいなければ、戸田先生は倒れていたかもしれない。それほど、先生のために尽くし抜いた。
 こういう「一人」の弟子がいるかどうか。それで未来は決まる。
 私は、悪い人間とは、真っ向から戦った。
 私が陰で必死に先生を護り、苦闘を重ねていた時、一部の幹部は、私のことを罵っていた。"池田は会合にも出てこない。退転だ"と。
 私が朝から晩まで働いて、苦境の打開のために奮闘していたことは知っていたはずである。
 じつに意地悪な、愚かな幹部であった。私は大嫌いだった。いわば"偽の学会"の姿であった。
 こうした幹部は、後に同志を裏切り、学会に反逆した。



一対一の対話で壁を破れ 語れ!語れ!仏法の真髄は友情



師の命を継いで 
 一、先生は、ことあるごとに私を呼ばれた。私は夜中でも駆けつけた。
 折伏が進まない。「大作、頼むから、やってくれないか」
 私は、蒲田支部支部幹事。文京支部では支部長代理。実質的に支部長として指揮を執り、壁を一気に打ち破った。
 学会が伸びれば、社会からの風圧も高まる。先生は私を渉外部長に任じられた。
 私より先輩の大幹部もたくさんいた。しかし先生は、どこまでも若い私を信頼し、頼りにしてくださった。
 先生は言われていた。
 「大作のような弟子を持って、私は幸せだ」
 これが真実の創価の師弟である。
 組織や役職などの「形」ではない。要領でもない。師弟不二の命がけの闘争によって、今日の創価学会ができあがったのである。
 私は勝った。「真実の弟子の姿は、かくあるべきだ」と示しきった。今度は皆の番である。
 
 一、ある時、戸田先生が私の妻の実家を訪れて、男泣きに泣きながら、こう言われた。
 ──大作には、苦労ばかりかけてしまった。大作は、30歳まで生きられないかもしれない。そうなれば、学会の未来は真っ暗だ──。
 剛毅な先生だった。人前で、涙を見せるような方ではなかった。
 その先生が、人目もはばからずに泣かれたのである。
 どこまでも弟子を大切にしてくださった。ありがたい師匠であった。偉大な師匠であった。
 あれだけ体の弱かった私が、来年、80歳を迎える。本当に不思議なことだ。
 戸田先生は、「自分の命を代わりにあげて、大作を、なんとか長生きさせたい」とさえ言ってくださった。
 まさしく、戸田先生からいただいた私の命である。関西で、私は、ますます元気になった(大拍手)。
 
 一、日蓮大聖人に背いた五老僧の邪義を破折した「五人所破抄」には、日興上人の次の主張が記されている。
 「伝え聞くところでは、天台大師に三千余りの弟子がいたが、章安大師一人だけがはっきりと誤りなくすべてに通達することができた。伝教大師にも三千人の弟子がいたが、義真の後は真実の弟子は無きに等しい」(御書1615ページ、通解)
 天台大師の直弟子であった章安大師は、天台大師の講説をすべて領解し、「摩訶止観」「法華文句」「法華玄義」の天台三大部を筆録した。さらに、天台所説の法門を百余巻に編さんした。
 また伝教の直弟子・義真は幼少から伝教大師に師事し、師が中国に渡った際には通訳の任も果たしたとされる。
 釈尊の時代においても、舎利弗や目連、迦葉や阿難などの十大弟子が活躍した。
 師弟一体の闘争によって新たな歴史は開かれる。そして、真実の弟子の闘争によってこそ、師の偉業を世界に宣揚し、後世に伝えていくことができるのである。
 章開沅先生は、こうも語ってくださった。
 「創価の師弟は、ソクラテスプラトンの師弟に勝るとも劣らない、歴史に特筆すべき輝きを放っております」
 また、"創価学会の進んでいる道は正しく、その目標も、全人類が希求しているものです。創価学会の方々は、この偉大な団体のメンバーであることに、誇りを持つべきだと思います"とも述べておられた。
 これが最高峰の知性の言葉である。
 深い、また温かなご理解に、心から感謝申し上げたい(大拍手)。

命を縮めても 
 「対話こそ、平和の王道である。友情の拡大こそ、仏法の人間主義の真髄である。
 私も、世界を舞台に心と心を結ぶ対話を広げてきた。そのなかでも、ひときわ印象深いのが、中国人民の父、周恩来総理との会見である。
 それは、昭和49年(1974年)12月5日の夜。場所は、北京の305病院。周総理は、ガンで入院しておられた。
 こちらは、私と妻のみ。先方は、中日友好協会の廖承志会長らが同席。
 周総理は、私の手を強く握りしめて、おっしゃった。
 「池田会長とは、どうしても、お会いしたいと思っていました。お会いできて本当に、うれしいです」と。
 さらに総理は、私が同年の5、6月に初訪中したときは、「病気がひどい時分で会えなかった」と包み隠さず話してくださった。

友好の扉開いた春4月の来日
一、1990年7月27日、第5次訪ソの折、私は、モスクワのクレムリンで、ゴルバチョフ大統領とお会いした。
 午前10時半から、約1時間10分にわたった。
 会見には、ゴルバチョフ大統領の母校でもあるモスクワ大学のログノフ総長、世界的な作家のアイトマートフ氏など、政治、教育、文化の各界の指導者が同席された。皆さん、私の親友の方々である。
 〈このときの名誉会長との会見で、ゴルバチョフ氏は、翌年春の訪日を明言。当時、氏の訪日が危ぶまれていただけに、そのニュースは、テレビ・新聞で大々的に報道された。そして約束通り、ゴルバチョフ氏は、ライサ夫人とともに、91年の4月、ソ連(当時)の最高首脳として初の来日を果たし、友好の扉は大きく開かれた。
 この会員だけをとっても、名誉会長の日露友好における貢献は特筆すべきであるとの評価や感謝の声が関係者から寄せられている〉
 本年6月にも、ゴルバチョフ氏とお会いし、9度目の語らいを重ねた。

橋を架けよう 
 一、文化大王として名高い、タイのプーミポン国王を、3度にわたり表敬させていただいたことも、私の誉れの歴史である。
 〈88年、92年、94年のいずれも2月〉
 また、1996年6月25日には、首都ハバナ市の革命宮殿で、キューバカストロ国家評議会議長とお会いした。
 カストロ議長との会見は、午後7時半にスタート。
 「後継者論」「人生哲学」「人材育成論」などを語り、あっというまに1時間半が過ぎてしまった。
 じつは、同じ年の2月、キューバ領空に入ったアメリカの民間機を、キューバ軍が撃墜するという事件が起きていた。
 アメリカの経済封鎖は強化され、キューバは孤立していた。
 こうしたなかで私は、文化交流、教育交流の橋を架けるために、キューバを訪問したのである。
 利害でもない。
 立場でもない。
 どこまでも、「同じ人間」として、語りに語り、友情を結んでいく。そこにこそ、確かな平和の地盤が築かれる。一対一の対話が、差異の「壁」を破るのである。
 正義を嫉妬する連中が、いかに卑劣な中傷を浴びせようとも、「誠実」の二字で結んだ友情は永遠に不滅である(大拍手)。



べティ・ウイリアムズ会長
「それは無理だ」と言われると 「やってみせる」と思うのです



自分の地域をよくしよう! 
 一、今もなお、世界各地で続いている戦争や暴力、人権の躁欄に立ち向かう勇敢なる女性たちがいる。
 そうした方々を支援するために、世界を駆けめぐっておられるのが、南米アルゼンチンの人権活動家エスキベル博士である。
 現在、私は、エスキベル博士と対談を進めている。〈「人権の世紀へのメッセージ──“第三の千年”に何が必要か」とのタイトルで『東洋学術研究』に連載中〉
 博士は言われていた。
 「困難にも負けず、公平で人間的な社会を築こうと抵抗運動に参加する女性もいます。彼女たちは、とにかく、その存在と人生の証として、その場所で立ち上がったのです。彼女たちは顔もあり名前もある人間で、私たちに新しい道を照らし出してくれているのです」と。
 だれにも、人生の舞台となる地域社会がある。そこで、筆舌に尽くせぬ苦悩を受けることもある。
 しかし、どれほど苦難の嵐があろうと、「自分が生きる地域社会をよくしていこう」「自分自身の勝利の証しを残していこう」──そう勇気をもって立ち上がったとき、わが地域社会は、使命の舞台と変わる。
 地域社会に貢献し、深く根ざしていく生き方は、男性よりも女性が主役となっている。
 大関西の常勝の「歴史を創る主役」もまた、女性であった。
 エスキベル博士は、創価の女性運動にも、絶大な期待を寄せておられる。
 「(女性の)皆様が地域のためにできること、それはどんなことであれ、すべて人類全体に役立ちます」と。
 私たちの「地域のため」の活動は、そのまま、「人類のため」の貢献となっている。
 また博士は、このようにも言われた。
 「女性は生まれもった性質上、生命を与えるものであり、人々に希望をもたらし、生命や人生に豊かさを与える存在です。女性はつねに、勇気と決意を示してきており、日々の具体的な戦いのなかで、抵抗と円熟の模範を示しています」と。
 女性の「勇気」と「決意」が、人々に、大いなる「希望」と「豊かさ」を与えていることを確信していただきたい。


大関西の主役は女性
エスキベル博士
 女性は 生命 豊かさ 勇気を与える


正義の怒りを 
 一、私とエスキベル博士には共通の友人がいる。
 「世界子ども慈愛センター」のベティ・ウィリアムズ会長である。
 ある母子が北アイルランドの紛争に巻き込まれ、母親の目の前で3人の子どもが犠牲になった。ベティ・ウィリアムズ会長は、故郷でのこの事件をきっかけに、正義の怒りを燃やして、平和と人権のために立ち上がられた。
 私がウィリアムズ会長に、「不屈の平和行動を貫いた支えとなったものは何ですか」と尋ねると、こう答えられた。
 「信念です。強い意志です。自分の中にある確信について、『勇気を持つ』ことが重要です。何事も、続けなければならない。だれが何と言おうと、あきらめてはならないのです」「これは、アイルランドの国民性のおかげでもあります。『それは無理だ』と言われると、『やってみせ!』と思うのが、アイルランドの女性なのです」
 まさに、関西婦人部の明るい明るい「負けじ魂」の大前進も、全く同じであると申し上げたい(大拍手)。


強くなれ! 
 一、古代ローマの哲人セネカは綴る。
 「何の妨げにも遭わなかった幸福は、どんな一撃にも堪えられません。だが、絶えず自分の障害と戦って来た者は、(中略)たとえ地面に倒されても、膝で立って戦いつづけるのです」(中野孝次著『ローマの哲人 セネカの言葉』岩波書店
 何の苦労も、努力もなしに、幸福になれるはずがない。戦いがあるから、強くなれる。強いことが幸福なのである。
 さらに、セネカは言う。
 「早くに死ぬか遅く死ぬかには、何の意味もありません。大事なのは、善く死ぬか悪く死ぬかということだけです」(同)
 仏法の哲学とも響き合う言葉である。
 一、結びに、大阪事件の出獄後、旧関西本部で、戸田先生が、しみじみと語られた言葉を紹介したい。
 「この世の悲惨をなくし、不幸をなくし、人権を、人間の尊厳を守り、平和な社会を築いていく。そのなかにこそ、仏法の実践がある。それを断行するならば、当然、難が競い起こるぞ」
 「しかし、そんなことを恐れていたのでは、仏法者の本当の使命を果たすことはできない。われわれが宿業を転換し、一生成仏を遂げていくためには、法難にあい、障魔と戦って勝つしかないのだ。だから私は、社会の建設に向かって舵を取り、三障四魔を、三類の強敵を呼び出したのだ」「大難の時に、勇気を奮い起こして戦えば、人は強くなる。師子になるのだ」
 関西は、私とともに、真正の師子となった!
 関西よ、広布第2幕の創価学会を頼む!
 21世紀の広宣流布を頼む!
 そして、創価の師弟の永遠の常勝を頼む!
 こう申し上げ、私のスピーチとしたい。
 どうか、大阪、京都、滋賀、福井、兵庫、奈良、和歌山、そして全関西の尊き不二の全同志に、くれぐれも、よろしくお伝えください。
 258回目の関西訪問に寄せて、皆様に感謝の一首を捧げたい。

 おお関西
  私の第二の
    故郷かな
  兄弟姉妹に
    勝りし同志か

 常勝関西、頑張れ!
 皆さんお元気で! 長時間、ありがとう!(大拍手)
 (2007・11・10)