160 わが師の思い出の歌──"五丈原"と"大楠公" 


 勝ち誇る  人生 築かむ    今日もまた  自由だ 希望だ     勝利の歌あれ

大使命に生きる誉れの人生
「早く生い立て」と父は待つ

 私の大師匠である戸田城聖先生は、二つの歌が好きであられた。
 先生の前では、さまざまな折に、さまざまな人が、さまざまな歌を歌った。
 先生は、皆の心を大切にされ、領きながら歌を聴かれていたが、重ねて望まれる歌は稀であった。
 先生が格別に愛されて、幾たびも幾たびも、青年たちに歌わされたのは、"大楠公"と"五丈原"の歌である。
 どちらも、先生に最初にお聴かせしたのは、私であった。
     
 大桶公  父子の正義の    魂か  勝利の歴史を    馬上豊かに

 先生は「少年たちが歌ってきた歌かもしれないが」と微笑まれながら、"大楠公"の歌を、よく所望なされた。

青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ……    (詞=落合直文

 南北朝時代の関西の名将・楠木正成(まさしげ)と、その後継の子・正行(まさつら)の父子の劇である。
 父は、大義を掲げ、死を覚悟して、足利尊氏との決戦に臨む。その死出の旅に御供を願い出た、わが子・正行に、父は故郷に帰れと諭す。
 なおも供を願い続ける息子に、父は、早く生い立て!断じて生き抜け! そして父に代わって大業を果たせ!と厳命するのである。
 父の心も、子の心も、生死を超えて、深く強く一つに結ばれていった。
 「父子同道」──父と子が、同じ使命の道を、不二の心で戦い進みゆくことは、人生の究極の劇といってよい。
     
 大楠公  我が弟子 嬉しや    正行が  後を継ぎゆく     広布の舞台よ

共に歌え 共に舞え 師弟の曲
偉大なる創価孔明 立ち上がれ

 戸田先生が発願され、わが創価学会が全力を注いだ「御書全集」は、昭和二十七年の春に完成した。その祝賀の集いで、先生と二人して、この"大桶公"の歌を舞ったことも、忘れ得ぬ思い出である。
 御年五十二歳の先生は、父・正成であられた。
 齢二十四歳の私は、子の正行であった。
 先生が、流麗に舞われる。

 正成涙を打ち払い  我子正行呼び寄せて 父は兵庫に赴かん
 彼方の浦にて討死せん いましはここ迄来(きつ)れども とくとく帰れ故郷へ

 続いて、先生の舞に、私がお応えする。

 父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん
 此正行は年こそは 未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅

 師弟は一体となり、不二の舞を織り成していった。
 この年の五月三日、私と妻の質素な結婚式の折にも、先生は、この"大桶公"の歌の合唱を求められ、じっと聴き入っておられた。
     
 "大楠公"の調べに、私は懐かしい関西の友、なかんずく、誇り高き兵庫の同志が思い起こされてならない。
 念願の、いな悲願であった、神戸市の長田文化会館への訪問を叶えたのは、二〇〇〇年の二月のことである。
 あの阪神・淡路大震災で、最も甚大な被害を受けた地にあって、厳然と聳え立ち、地域の被災者の方々の避難所となった大城だ。あまりにも尊く、健気な長田区、兵庫区、そして北区などの代表の方々との語り尽くせぬ思い──。
 私は「常勝の間」に置かれたピアノに向かった。
 楠木正成の最後の決戦の地となった湊川も、ほど近い。私は万感を胸に"大楠公"を弾かせていただいた。
 最愛の家族と、また宿縁の同志と、思いもよらぬ別れもあったに違いない。しかし、生死は不二である。
 亡くなられた方々の命を、わが命に受け継いで、立ち上がり、戦い抜いてきた勇者たちを、私は労い讃えたかった。
 そしてまた、霊山へ旅立たれた三世永遠の創価の友よ、広宣流布の陣列に、早く還り来たれとの祈りを込めて、私は鍵盤を叩いた。
 早く生い立て──大兵庫、そして大関西の"後継の正行"たちも立派に成長している。
 今日十八日、わが兵庫の音楽隊・鼓笛隊の友が「神戸まつり」に出演し、フラワーロード等を意気も高らかに大行進すると伺った。
 さらに、遠来の九州の同志を迎え、関西で、にぎやかに交流の集いも行われる。
 創価の友は躍動している。(※ここに参加しました 管理人)

 大楠公  我らの覚悟は   それ以上  広宣流布の   大楠公かな
     
 このたびの中国の四川大地震に、改めて心からお見舞いを申し上げたい。
 先日(五月八日)、お目にかかった胡錦濤国家主席、また、昨年(四月十二日)お会いした温家宝総理の渾身の陣頭指揮のもと、全力をあげて救援が進められている。
 犠牲者の方々のご冥福を祈念申し上げるとともに、一切を乗り越えられての復興を心よりお祈りしたい。
 私たちも常に胸に抱いている「変毒為薬」という希望の哲理は、中国の天台大師等が留め残された人類へのエールである。
     
 懐かしき  恩師を偲ばむ    五丈原  今朝も聴かなむ    夕べも響かむ

 あの世界的に有名な『三国志』の大英傑・諸葛孔明の真情を、詩人・土井晩翠が美事に詠じた歌が"五丈原"──「星落秋風五丈原」である。
 これも、昭和二十八年の正月五日、私が青年たちと共に、戸田先生の前で披露し、お聴かせした歌である。
 "五丈原"の歌を歌い始めると、先生が、やがて涙を浮かべながら、深い感慨を込めて聴いてくださったことを、私は忘れることができない。
 原詩は四百行に及ぼうかという長編である。その一部を抜粋し、歌ってきた。
 著作権を継承されるご家族から快諾を得て、私の小説『人間革命』などでも引用させていただいてきた。
     
 ●山悲秋(きざんひしゅう)の風更けて (※●き=示ヘン+おおざと)
 陣雲暗し五丈原
 …………
 丞相病あつかりき………

 ──諸葛孔明は、「水魚の思い」で結ばれた先帝・劉備玄徳の死後も、共に願った漢室の復興という大業を果たし、天下の安寧を実現するために、宿敵の魏(ぎ)に遠征を重ねた。
 六度目の遠征で、五丈原に進んだ。だが、対時する魏の司馬懿(しばい)は持久戦を決め込み、夏が過ぎ、秋風が吹き始めても動かない。やがて孔明は、陣中で病に倒れた──。
 晩翠の詩は、孔明の孤独の心の奥深くに鋭く迫っていた。

 成否を誰れかあげつらふ 一死尽くしゝ身の誠 仰げば銀河影冴えて
 無数の星斗光濃し 照すやいなや英雄の 苦心孤忠の胸ひとつ
 其壮烈に感じては 鬼神も哭(な)かむ秋の風
 …………
 千載(せんざい)の末今も尚 名はかんばしき諸葛亮(しょかつりょう)

 「君たちに、この歌の心がわかるか」
 先生は、一座の青年に問われながら、先帝の遺業を受け継いだ道半ばに倒れ、燃え尽きんとする孔明の、慟哭の心中を語られた。
 それはそのまま、広宣流布の大将軍として、ただ一人、全責任を担い立たれた、師の孤高の魂の流露であった。
 「孔明の名は、確かに千載の後まで残るには残ったが、挫折は挫折である。
 しかし、私には挫折は許されない。広布の大事業が挫折したら、人類の前途は真っ暗闇だからだ──」
 この翌日、私は、男子部の第一部隊長に就任し、"青年拡大"の最前線に立った。
 部隊旗授与の儀式が終わったあと、戸田先生は、第二代会長に就任された時の誓願を、再び師子吼された。
 「七十五万世帯の達成ができなければ、私の葬式は出してくださるな!」
 そして最後に、私の指揮で、「星落秋風五丈原」の歌を大合唱した。何度も、何度も。
 

 再び涙される師を見つめながら、私は誓った。
 ──先生! 私が一切の矢面に立って、必ず広宣流布の勝利の突破口を開きます! どうか、ご安心ください!
 それは、本物の弟子が一人立つ、誓願の歌となった。

 偉大なる  創価孔明    立ち上がれ  勝利の歴史を    永遠(とわ)に残せや
     
 ところで、土井晩翠が、傑作「星落秋風五丈原」を発表したのは、何歳であったか。
 当時、彼は二十七歳。若き青年詩人であった。
 まことに若さには、偉大な力があり、無限の光がある。
 そして同じころ、彼はもう一つ、不滅の詩を残した。
 「荒城の月」である。
 「春高楼の花の宴………」と始まる名歌である。
 それは──
 福島県会津若松鶴ヶ城址と宮城県仙台の青葉城址に発想を得たものといわれる。
 さらに、滝廉太郎の曲は、大分県の竹田にある岡城址が発想の源泉となった。
 私も、この三つの城を、それぞれ訪れた。いずれも、忘れ得ぬ歴史である。
 ことに青葉城址には、恩師と共に登った。
 昭和二十九年の春四月──晩翠が世を去って二年になろうとしていた。
 「垣に残るはただかづら」と晩翠が詠んだ、牢固たる石垣をご覧になりながら、先生は厳然と言われた。
 「学会は人材をもって城とせよ!」
 かの諸葛孔明も叫んだ。
 「国を治める道は、力を尽くし、優秀な人材を見出し、登用することにある」
 その通りだ。人材を育て、青年を伸ばしていく以外に、永続する勝利はない。
 今、ゆかりの東北の宮城県にも、また福島県にも、そして大分県にも、邪宗門の宗教弾圧を勝ち越えて、揺るぎない人材の大城が築き上げられており、嬉しい限りだ。

 築きたり   創価の長城    盤石に  人材陣列    世界に揃いて
     
 大正十一年(一九二二年)の十一月、世界的な大科学者アインシュタイン博士が来日した。
 この折、戸田先生は、師・牧口先生とご一緒に、慶應義塾大学で行われた博士の「相対性理論」の講演を聴かれたことを、人生の誉れとしておられた。
 この翌月、アインシュタイン博士は、宮城県を訪問し、土井晩翠とも語り合っている。
 晩翠は、東北を代表する「河北新報」に、博士を讃える長文の詩を発表した。
 「……ああアルバート・アインシュタイン
 ……げに彗星の突として暗夜の旅を照らす如く
 人文の史に一道の光を放つ偉大の名」
 「……天の恩寵は
 永くも君にあれとこそ
 おおいなるもの、高きもの、すぐれしものの踏まむ時
 塵土しばしば清からむ」
 ドイツ語の訳詩を受け取った博士は、「大なる喜びと驚嘆とを以て」、感謝の返事を送ったのである。
 日本の詩人から、世界の知性への贈詩──その心の交流は、後世へ伝え残されていくべき、ゆかしき文化の伝統といってよい。
 詩を贈ることは、心を贈ることである。心を結んでこそ、まことの友誼である。
 ゆえに私も、友情を結んだ世界の識者や指導者に、折にふれ、詩を贈ってきた。
 今回、再会した中国の胡錦濤主席に、漢詩をお贈りしたのも、そうした心情からであった。
     ◇
 今、八王子の東京富士美術館で、「大三国志展」が盛大に開催中である。
 本年は、日中平和友好条約三十周年、私が"日中国交正常化提言"を発表して四十周年に当たる。両国の心を結んできた歴史の上に、新たな意義を刻む展覧会となり、関係の方々へ感謝は尽きない。
 今回の大震災で被災された四川省の研究院、博物館などからもご協力をいただいており、重ねてお見舞い申し上げたい。

大三国志展の絵巻

 三国志   おお壮大な    大絵巻  若き魂    奮い舞いたり

 熱血の「三国志」がテーマとあって、連日、多くの方々も友人を誘って鑑賞してくださっている。
 展示品の中に、「桃園の契り」で有名な豪傑・張飛が、ただ一騎、橋の上から敵軍に対峙する「長坂坡の戦い」の絵画(山口県光市の三国志城博物館蔵)がある。
 ──壊滅に等しい劉備勢に対し、押し寄せる敵将・曹操の大軍。その前に一人立ちはだかった張飛は、大声で叫ぶ。
 「われと勝負を決するものはないか!」
 その天をも揺るがす大音声に、敵軍は肝を失った。
 三度、張飛の叫びが轟くと、敵将・曹操はじめ、全軍が潮が引くように逃げ去っていった。
 『三国志演義』に「一声好(あたか)も轟雷の震えるにも似て、独り曹家(そうか)百万の兵を退(ひ)かしむ」と謳われた名場面である。
 決死の一人には、万軍に勝る力がある。
 勇気の師子吼には、万人をも動かす力があるのだ。
     
 偉大なる   母の慈愛の      新世紀

 このたびの「大三国志展」で、小さいながら、とても印象深い展示品があった。
 「陶哺乳俑──授乳する母の像」だ。高さはわずか十二センチ。後漢時代の作とされる、赤い陶製の素朴な「母子像」である。
 幼子を抱くお母さんの表情は優しく、穏やかで、幸福感にあふれている。
 戦乱に明け暮れた後漢末から三国時代。そのなかで庶民の心は何を求めていたのか。
 それは、平和であり、母と子の幸福であったに違いない。
 本来、これこそ、諸葛孔明の悲願であったろう。
 「(孔明の)その志は乱を安んずることにあった」とは、正史『三国志』に記された言葉である。
 日蓮大聖人は、「立正安国論」に、「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を●(いの)らん者か」(御書三一ページ)と叫ばれた。(●=示扁+壽)
 創価の師弟の悲願もまた、「立正安国」であり、「世界平和」の実現にある。
 それは具体的には、母と子が笑顔で暮らせる世界の実現にほかならない。
 そのために、我らは戦う!
 青年は断じて戦うのだ!
     
 昭和三十年の一月、私は、日記に記した。
 「帰路、友と三国志等を語りつつ──。
 曹操の勇を思う。項羽の大勇を念う。関羽の人格。張飛の力。孔明の智。孫権の若さ」
 「王道の人たれ、覇道の人になる勿れ。民衆の王たれ、権力の将になること勿れ。
 大衆の友たれ、財力の奴隷になる勿れ。善の智者たれ、悪の智慧者になること勿れ」
 戸田先生が教えてくださった通りに、私は確固たる平和と正義の陣列を築き上げた。
 この王道に、無数の"創価の正行"が、そして"世界広布の若き孔明"が続いてくれている。
 戸田先生と歌った"大楠公"と"五丈原"は、「広宣流布」即「人類の幸福」をめざす、我らの永遠の勝利への誓願の曲となった。

 大楠公  世にも偉大な     師弟不二

 君達も  広布に指揮執る    三国志  断固 勝ち抜け    世界の王者と


 土井晩翠アインシュタインに贈った詩は「河北新報」一九二二年十二月三日付=現代表記に改めた。アインシュタインの手紙は土井晩翠著『アジアに叫ぶ』(博文館)。晩翠の事跡は土井晩翠顕彰会編『土井晩翠 栄光とその生涯』(宝文堂)、金子務著『アインシュタイン・ショック』(岩波書店)等を参照。『三国志演義』は小川還樹・金田純一郎訳『完訳三国志3』(岩波書店)。諸葛孔明に関する言及は『諸葛亮集』(中華書局)、『三国志4 蜀書』(中華書局)、井波律子訳『正史三国志5』(筑摩書房)、加地伸行著『諸葛孔明の世界』(新人物往来社)、渡辺義浩著『諸葛亮孔明』(新人物往来社)などを参照。