新時代の二月闘争
風雪に負けず お元気で!
師弟共戦の魂に破れぬ壁はない
皆が人材! 祈り 励まし 語ろう
吹雪にも
胸はり 凛々しき
無冠かな
厳寒のなか、広宣流布のために行動される友の奮闘を、私は最大に讃えたい。
なかんずく無冠の友の皆様方は、来る日も来る日も聖教新聞を配達くださり、心から感謝申し上げます。
どうか悪天候の折など、決して無理をせず、また焦らずに、健康第一、絶対無事故で、偉大な使命の遂行をよろしくお願いします。
◇
先日(1月23日)、首都圏も夜から大雪が降り、久方ぶりに積もった。
翌朝、いまだ暗く凍てつく4時半頃から、創価学園の硬式野球部のグラウンドがある東大和市駅の駅前の道で、黙々と雪かきをする若人たちの姿があった。誓球寮で学び鍛える創価学園生たちである。
誰に言われたのでもない。いつも温かく応援してくださる地元の方々のお役に立てばと、自発的に早起きをして、管理者の方と一面の銀世界に打って出た。路面に硬く凍りついた雪も、日頃から鍛錬した力を揮《ふる》って、はがしていった。そして、地域の方の出勤が本格的に始まる6時頃までに道を整えると、早朝の練習で一汗かいた如くに、ふだん通り学園へ登校していったのである。
あとから学園生たちの雪かきを知った近隣の皆様方も、感銘されていたと伺った。東大和市のホームページでも、他校のメンバーの除雪ボランティアの献身とともに紹介されている。
アフリカの環境の母ワンガリ・マータイ博士の言葉が蘇る。
「人間は、様々な問題を、地球規模の大きな次元でとらえてしまうと、無力感を覚えてしまうものです。
しかし、身近なところから行動を起こしていくことで、力を発揮していくことができるのです」
◇
先般の雪の翌日、東京は晴天に恵まれた。
妻は以前に、雪深い北陸出身の友人から、「東京は雪が降っても、翌日は晴れることが多いから、いいですね」と聞いたことを、折にふれ、思い出すという。
私は妻と二人して、大雪が打ち続く日本をはじめ、世界の雪国の友のご苦労を偲び、無事安穏であられるようにと祈る日々である。
大功徳を積みゆけ
御聖訓には「北国の習《ならい》なれば冬は殊《こと》に風はげしく雪ふかし」(御書1052?)との一節がある。
日蓮大聖人の佐渡流罪の法難は、過酷な風雪との戦いでもあられた。
さらにまた、晩年を過ごされた身延の庵室も、しばしば大雪に見舞われている。とくに弘安元年(1278年)は、ことのほか、厳しい冬であった。
「ふる(古)きをきな(老)どもにと(問)ひ候へば八十・九十・一百になる者の物語り候は・すべて・いにしへ・これほどさむき事候はず」(同1098?)
「きんぺん一町のほどは・ゆき(雪)一丈二丈五尺等なり」(同ページ)と、御手紙に記されている。
「一丈」とは、約3メートル。100歳に及ぶ古老たちも驚くほどの寒さであり、大雪であった。
大聖人御自身が、一年一年、厳冬を耐え忍ばれながら、令法久住の法戦を断行されていたのである。
「冬は必ず春となる」(同1253?)との仰せには、あまりにも深く、断固たる不屈の魂の響きが込められている。
大雪にも負けず、励まし合いながら、広宣流布のスクラムを組む雪国の友は、この御本仏の御心にまっすぐに連なっているのだ。
その福徳は、計り知れないことを、私は確信する。
大雪に
さらに積もらむ
功徳をば
語りて暮らせや
この世の使命と
かつて、信越の同志に謹んで贈った一首である。
確信と情熱をもて
試練の冬を勝ち越えて、戸田先生が第2代会長に就任されたのは、昭和26年の5月3日であった。
その晴れの日、戸田先生は、生涯の願業として、75万世帯の本尊流布を大宣言なされた。
だが、折伏は難事中の難事である。なかなか、思うようには成果があがらないのが、現実であった。
「どうすれば、折伏が進むのだろうか」──当時のリーダーたちの率直な疑問であり、悩みでもあった。
その思いに答えるように戸田先生は言われた。
「組織をどう運営しようとか、組織をどう動かすとかいうことは、末《まつ》の末である」「組織を動かすのは、信仰に対する絶対の確信と情熱である。その信仰に対する確信と情熱を、組織のなかへ、エネルギーとしてみなぎらすことである」
策や方法ではない。信心の原点に立ち返ることだ。
確信と情熱で、行動を起こせ!
「法華経の兵法」で拡大の道を開け!
恩師は、そう明確に教えてくださったのだ。
◇
師匠は、原理を示す。
弟子が為すべきは、具体的に行動に移すことだ。
私が男子部を代表し、全学会の総会で「青年の確信」を発表したことがある。弟子として、自ら突破口を開きたかったからだ。
「大聖人の御言葉を虚妄にするか、しないかは、ひとえに創価学会の力であり、私たち青年の力であります」
「あらゆる三類の強敵に打ち勝ち、世界の人びとの凝視の的となって、そして輝く闘争の完遂を期し、戸田先生のご期待に報いんことを固くお誓いして、青年の確信といたします」
登壇した私を、恩師が嬉しそうに見つめてくださったことも思い起こされる。
「報恩抄」の文段には、「一切の師の弟子を養育する、その志は大法をして弘宣することを得せしめんが為なり」と記されている。
師匠の願いは、弟子が縦横無尽に活躍し、広宣流布を推し進めることだ。
ゆえに弟子は、「若し法を伝えて衆生を利せば、畢竟、恩を報ずるなり」と結論されている。
正法を弘め抜いて、一人でも多くの友を、幸福の人生へ導いていくことこそが、師恩に報いる最極の道なのである。
私は戸田先生が喜んでくださる大折伏を心に期して、蒲田支部の「二月闘争」に突入していった。
昭和27年の厳冬、私は24歳であった。
「報恩」の一念で
「二月闘争」の発火点。それは、第一線のリーダーが集った緊急組長会であった。私は、寒風を突いて参加してくれた130人の同志と心一つに誓い合った。
──2月は、日蓮大聖人の御聖誕の月であり、戸田先生の誕生の月でもある。
大聖人が御出現され、戸田先生が一人立たれたゆえに、私たちは妙法に巡りあうことができた。
その御恩返しのために、2月を折伏の美事な勝利をもって飾ろう!──との一点であった。
「報恩」の一念に徹する時、人間は人間として、最も美しく、強くなれる。
いわんや仏法の世界で、報恩は一切の根幹である。
大聖人は、「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(御書903?)と仰せである。
私たちは一人ひとりが、報恩の心で、この御聖訓の通りに決然と立ち上がった。ゆえに姿は凡夫であっても、心は大聖人に直結し、仏の勇気と智慧と慈悲が生き生きと流れ通い始めたのである。
皆、誇り高く頭《こうべ》を上げ、胸を張った。
当時、どんなに頑張っても1支部で「月に100世帯」ほどの折伏が限界だと、皆が思い込んでいた。
しかし、私たちは、今でいえば最前線のブロックに光を当て、「組で2世帯」という折伏目標を掲げた。
そして、私は具体的に
1、祈りから始めよう
1、近隣を大切にしよう
1、体験を語ろう
と呼びかけた。
──いずれも、私自身が実践してきたことである。
恩師の事業の絶体絶命の危機を、私は「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に」(同1132?)祈り抜いて打開してきた。
また、自らが住む「青葉荘」というアパートの方々に爽やかな挨拶を心がけるとともに、折々に仏法対話も重ねていた。そうした友と、小さな一間の部屋で、一緒に勤行をしたことも懐かしい。
さらに私も、信心のおかげで病気を乗り越えた体験を大いに語ってきた──。
地涌の使命に立つ
ともあれ、「何としても、戸田先生に喜んでもらいたい」との私の心に、皆が共に燃え立ってくれた。
「誰か」ではない。
「自分」がやるのだ!
「いつか」ではない。
「今」やるのだ!
「不可能」ではない。
「可能」にするのだ!
自然のうちに、一人ひとりの心が戸田先生の大願と合致して、「師弟」の命のギアが深く噛み合った。
師と共に広宣流布することを自ら願って出現したのが、地涌の菩薩だ。学会員は皆、偉大な菩薩である。
ひとたび使命を自覚するならば、必ず第一級の広布の闘士として、本領を発揮できないわけがない。
破れぬ壁など、断じてないのである。
こうして戦いに踏み出した蒲田支部の私たちは、1カ月の限界とされてきた100世帯を悠然と超え、さらには200世帯という壁まで、突破したのだ。
◇
創価の歴史に輝く「二月闘争」から60周年──。
この佳節に、わが青年部は、みずみずしい息吹で、壮年・婦人と一体となって「創価青年セミナー」などを展開し、友情と確信の対話を大きく広げている。
女子部は、「3・16」を記念し、新たなメンバーで「池田華陽会」第5期を発足すると伺った。
この意義深き佳節を自他共の成長と勝利で飾ろう!
一人ひとりの生涯の原点としよう!
その深く尊き志が、私は何よりも頼もしい。
壮年部、婦人部の皆様方も、私と同じ心で、青年学会の構築のために、わが地域の若き友を懸命に育ててくださっている。これほど有り難いことはない。 かの大音楽家モーツァル卜は、自ら作詞作曲して、友との絆を歌い上げた。
♪なんという喜びだ、
気高い太陽よ、
本当の友情に
生きるとは
我らは、この世で何よりも誇り高き友情を広げていくのだ。学会歌の歌声も朗らかに!
師弟不二
輝く伝統
光りたり
勝ちたり 燃えたり
我らの誇りと
モーツァルトの詞は『モーツァルト全集15』所収、海老沢敏訳(小学館)。
一人から一人へ 勇気は連動
新しい力を! 新しい挑戦を!
創価の対話に「立正安国」の精神
厳寒に
耐え耐え 大樹と
育ちゆけ
吹雪に嵐に
若き行者は
「法華経」の法師品には明確に説かれている。
「能く竊《ひそ》かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」(創価学会版法華経357?)と。
仏法対話が実っても実らなくても、「如来の事」つまり「仏の仕事」を行った功徳は広大無辺である。
わが師・戸田城聖先生はわかりやすく言われた。
「この娑婆世界に、悩みのない人などいないのだ。
ゆえに、仏は人を励まさずにはおれない。救わずにはおれない。
これが折伏精神である」
友を思い、友の幸福を祈って語る。そこに自《おの》ずから仏の生命が脈打つのだ。
さらに、戸田先生はこうも語られた。
「人びとの悩みの中心を打開し、人びとが求めているものを、この信心で完璧に示していけるんだよ。
大事なのは、勇気と真心である。真心は必ず相手に伝わっていくのだ」と。
この2月、戸田先生の故郷の北海道でも、伝統の「青年主張大会」が力強くスタートした。若い力が結集し、全道の200を超える会場で開催される。
愛する郷土を活性化する連帯として、各界の識者からの期待も大きい。
大震災からの復興を進める東北の宮城県でも、創価青年大会を目標に、皆が一丸となって前進している。
戸田先生の生誕112周年のこの2月、後継の青年たちの健闘を、恩師もさぞかしお喜びであろう。
皆にダイヤの輝き
60年前、「二月闘争」は、なぜ勝利できたのか。
それは、目の前の一人を徹して誠実に励ましてきたことに尽きる。
「広宣流布」は、一人の「人間革命」から始まる。
決意した一人が、一人を立たせる。その一人が、さらにまた、もう一人を奮い立たせていく。勇気は勇気を呼ぶ。この「一対一」の決意の連鎖こそが、拡大の鉄則である。
ゆえに、「誓いの一人」を多くつくっていくことが、爆発的な広布伸展の必要条件なのだ。
戸田先生と同じ2月11日の生まれの発明王エジソンは語った。
「あらゆるものには輝くダイヤが隠されている。磨けば光る」と。
全員がダイヤの如き尊い人材である。同志は皆、信心の偉大さを証明する使命を持っているのだ。どれほど大切な方々か。
そう思えば、最前線で苦労している皆様を励まさずにいられなかった。
どうすれば皆が元気に戦えるか、思う存分に実力を発揮できるか、私は真剣に祈り、知恵を絞った。
当時の蒲田の支部幹部では、私が一番若かった。人を集めて偉ぶって指導しても、誰が信用するか。自分が足を運び、顔を合わせ、寒風の中を一緒に歩く以外にない。
1回の座談会、一軒の個人指導、一通の激励の手紙……すべてが私の主戦場と思って真剣に取り組んだ。
折伏が進まないメンバーがいれば、私自身の対話の姿を見せた。また私一人で話さず、同席した友にも、どんどん体験や教学の基本を語ってもらった。その中で、皆が自信と確信を深めていったのだ。
年上の同志の方々も、共に立ち上がってくださった。とりわけ、40代の壮年の先輩方も勇んで奮い立たれ、ありがたく頼もしい限りであった。
皆、何らかの悩みを抱えながらも、折伏に打って出た。その勇気が、共に悩みを乗り越える雄々しき生命力を引き出していくのだ。
これまで周囲に信心の話などしたことがないという人も、まだ信心が浅くて何も語れないと尻込みしていた人も、矢も盾もたまらぬ息吹の中で、勇気の一歩を踏み出してくれた。
共に動き 共に語る
「一人」を大切にすることから生まれる「団結」も、「二月闘争」の勝利の原動力であったといってよい。
「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(御書1463?)と仰せの通りである。
私は、皆が持ち昧を発揮し、尊敬し合って団結できるよう、人知れず心を砕き、指揮を執っていった。
とくに青年には、生活に根ざした体験を持つ壮年・婦人の先輩方と一緒に折伏に取り組むように訴えた。共に動き、共に走った。悩める友がいると聞けば、対話の輪ができた。抜苦与楽の座談会が毎日のように開かれたのである。
ある時、入信まもない婦人部の方が意を決して知人の折伏に行くということで、私か付き添ったことがあった。道すがら緊張のあまり、足もすくんでいる様子であった。
私は「学会歌を歌って、楽しく行きましょう!」と申し上げた。最初はか細い声であったが、何回も「同志の歌」を共に口ずさんでいくうちに、みるみる元気になっていった。
結局、その日の対話は実らなかった。しかし、それを機に発奮し、地方の友人たちへの折伏を次々に結実させていったのである。
この友人にも、あの知人にも語りたいと、支部中に「聞法下種」の歓喜の渦が巻き起こり、それが何百人に広がっていたか、もはや誰にもわからない。
そして2月を戦い切り、201世帯という未曽有の弘教になったのである。
一人ひとりが壁を破っていった。まさに新しい人が新しい力を出し、新しい団結で、新しい波を起こしてくれたのだ。
「やってみせる!」
「二月闘争」では、東京はもちろん、多摩川を隔てた神奈川にも、広宣の炎は燃え上がり、中部、山梨、千葉へ、そして雪の東北・秋田にも拡大した。
これ以降も、希望の春の足音は一段と高鳴り、四国、九州など全国へ広がった。我らの行進は、やがて北海道の釧路などにも及んでいったのである。
当時、夫が信心に反対のなか、内職で家計を支えながら、折伏に奔走してくださった婦人もおられる。
ささやかな昼と夕兼用のおにぎりを持って、懸命に歩き回っておられた。なかなか思うように折伏が進まない時も、皆で朗らかに声を掛け合い、励まし合い、「いまだこりず候」(同1056?)との一節を胸に不屈の前進を続けた。
この婦人は“「できない」と悩む前に「やってみせる」と決めて祈り戦う”という「二月闘争」で掴んだ精神で、300世帯もの個人折伏を成し遂げてこられた。
嬉しいことに、92歳の今も宝寿会(多宝会)の一員として、かくしゃくと活躍。創価大学の通信教育部で学ばれたことも、大きな誇りとされている。
一緒に戦ってくださった同志のことは、一人も残らず、私の胸の奥に光り輝いている。亡くなられた方もおられる。しかし生死を超え、題目で結ばれている。また、お子さんやお孫さん方ともつながっている。
アメリカSGI(創価学会インタナショナル)のナガシマ理事長の母上も「二月闘争」のうねりの中で、蒲田支部の拠点であった白木家に来て入会を決意した草創の宝友であられた。
ナガシマ君は、先日も、懐かしいアラスカの同志が外気マイナス13度という酷寒にも怯まず、元気いっぱい仲良く前進されている様子を報告してくれた。
民衆革命の勝因は
新しい力、すなわち庶民の力が台頭する時、「新しい時代」は開かれる。
1986年の2月、フィリピンでは「ピープル・パワー(民衆の力)革命」が起こった。別名は「二月革命」──この戦いにより、21年続いた独裁政権が打倒されたのである。
この劇的な無血革命で、フィリピン民主主義の新時代を開いた立役者の一人がラモス元大統領であった。本年も、真心の新年状をいただいた。
4度目の会見の折、私は率直にお尋ねした。
「革命は、なぜ成功したのでしょうか?」
元大統領は、鋭い眼差しで答えてくださった。
「民衆が、自分で自分を信じたからです。そして信仰があったからです」
「『自由のためならば死をも辞さない!』『どのような犠牲を払おうとも!』。そういう覚悟があったから、革命は成し遂げられたのです」
実は、この革命が成就するには、女性の力が大きかったといわれる。
独裁政権が倒れる直接のきっかけは、数十万人の群衆がマニラの「エドサ通り」に集結し、政権に抗議する“人間バリケード”をつくったことであった。
政権に反対すれば、命さえ奪われるかもしれない。そんな恐怖を前に、尻込みする夫や父、きょうだいや子どもたちを説得し、エドサ通りへ向かわせたのは、それぞれの家庭の無名の母たち、乙女たちであった。
それは、平和を願う信念強き女性たちが開いた勝利であったのだ。
学会にあっても、婦人部の確信の一言、春風の如き温かな一言が、どれほど友の心に響いていることか。
女子部の爽やかな笑顔が、どれほど同志に希望を送っていることか。
今、かのフィリピンをはじめ世界中で、創価の女性たちは、幸福勝利の対話を弾ませ、友情と平和のスクラムを広げてくれている。
ますます仲良く健やかに、素晴らしき人生を勝ち開いていかれることを、私と妻は祈る日々である。
「時を知るべし」
「仏教を弘めん人は必ず時を知るべし」(同439?)──日蓮大聖人が、この「教機時国抄」を著されたのは、弘長2年(1262年)の2月。750年前であった。
今、世界には、さまざまな困難や課題を前にして、先行きの見えない茫漠とした不安が蔓延している。
このような「時」だからこそ、今回の「SGIの日」の記念提言で申し上げたように、「全ての人間に等しく備わる無限の可能性」を信じ抜く立正安国の対話が重要である。
そして「一人一人が互いの可能性を信じ、力を湧き立たせる中で、時代の閉塞感を打破していく」立正安国の連帯が不可欠なのだ。
思えば「立正安国論」は、大聖人が御入滅を前に、今の大田区にあった池上邸で弟子たちに講義なされた重書である。
私が戸田先生と初めてお会いした大田区の蒲田の座談会で、師が講義されていたのも、「立正安国論」であった。
60年前の「二月闘争」は、この立正安国の対話と連帯を、奇しくもゆかりの大田から、庶民の力で巻き起こしていったのである。
そして今再び、同じ閏月の一日一日、わが愛弟子たちが新たな「二月闘争」を繰り広げてくれている。
今この時こそ、皆が青年の心で、青年と共に戦い、舞いゆく時である。
さあ、「立正安国」の大願を高らかに掲げ、「創価青年の新時代」を、愉快に勝ち開こうではないか!
天の時
ついに来れり
建設の
地涌の勇者に
旭日《きょくじつ》かがやけ