(235)「青年訓」50年



 「あなたは若いのです。戦いは必ずやってくるでしょう。人生は高貴な魂をもって前進する者には戦いを免除しません」(南大路振一訳)  これは、ある老婦人が、若き日の文豪ロマン・ロランに贈った黄金の言葉である。

 よく、戸田先生は言われていた。  「牧口先生は、青年が大好きであった。私も、青年が大好きである」  第三代のこの私も、青年を愛する。信頼し、尊敬する。大いなる期待をかけ、成長を祈り、待っている。

 ちょうど五十年前(昭和二十六年)の秋、戸田先生は、誕生して二カ月半の青年部に、永達の指針「青年訓」を示してくださった。  聖教新聞(十月一日付)に発表時、「青年訓」は男女青年部の班長に贈られたものであった。「班」は、当時の青年部の最前線組織であった。

 それは樹木でいえば、地中深く広がる根である。最前線の青年が、生き生きと戦い、養分を吸収し、前進しているかどうか。これこそが広宣流布の大原動力といってよい。

 青年には、指標が必要だ。

 なんのための戦いなのか。

 自らの使命はなんなのか。

 その自覚が深ければ深いほど、行動の炎は、生命の深部から燃え上がるからだ。

 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」  「青年訓」の鮮烈なる冒頭の一節から、我ら青年は、血湧き肉踊った。

 「奮起せよ! 青年諸氏よ。闘おうではないか! 青年諸氏よ」

 学会情神を会得せよ!

 同志の士気を鼓舞せよ!

 広宣流布大願の中心人物たることを自覚せよ!

 師の呼びかけに、皆、勇気百倍、奮い立った。

 当時、私は、まさに、その男子部の班長であった。

 ?広布の主体者は我なり。この「青年訓」は自分にいただいた指針だ!″――私は、そう生命に刻んだ。  では、何をもって、先生にお応えするのか。第一歩の戦いは明確であった。

 ?戸田先生からお預かりした、わが班員を、自分以上の人材に成長させよう! 池田班を、二倍、三倍、十倍と拡大していくのだ!″  しかし、戸田先生が顧問をされる会社で営業部長の重責を担う毎日は、自由に活動することを私に許さなかった。

 死中に活を求めて、スター卜した会社を軌道に乗せることは至難の業であり、苦闘の連続であった。微熱も続き、いたく体調も悪かった。  男子部の会合にも出られない日が続いた。「池田は退転だよ!」と、冷淡に言い放つ幹部までいた。

 だが、私は決意していた。  ?御本尊はご存じである。戸田先生はご存じである。  恵まれた状況のなかでなら、誰でも戦える。私は、先生の弟子だ! 師子の子だ!  どんなに苦しくとも、辛くとも、必ず勝ってみせる!″  勇気とは何か。弱い自分に打ち勝ち、環境に負けないことだ! 学会活動から断じて逃げないことだ!

 時間がないからこそ、一瞬一瞬を借しみながら、知恵を絞って戦いの手を尽くした。  カバンには、常にハガキと便箋を入れ、時間を見つけては、友に激励の手紙を書きに書いた。綴りに綴った。個人指導にも、折伏の実践にも悠然と、挑戦していった。  一歩も引けない、苦闘のなかでの仏道修行であった。  しかし、それがあったればこそ、今の私もある。

 仏法では「願兼於業」(願いが業を兼ねる)といって、菩薩は、願って苦悩多き悪世に生まれてくると説く。  また、人のため、広布のために、あえて労苦の汗を流しゆく人生こそ、至高の人生であると教えている。困難のなかでこそ、他者の苦悩に同苦し、励ましていける人間力をきた鍛えることができるのだ。

 七月の男子部の結成から半年後、二十二班あるなかで、わが池田班は、当時の全男子部員の一割近くを擁する、屈指の大班に拡大していた。  その戦いを、わが師はじっとご覧になっておられた。  翌年の一月、先生は私を」蒲田支部支部幹事に任命されたのである。

 「広宣流布は青年がやる以外にない。明治維新も二十代の青年の力でできたのだ」とは、牧口先生の固い信念であった。  戸田先生も、「吉田松陰とその門下の師弟関係が、一番美しい」と言われた。

 私は、今夏、新男子部長らに語った。  「私は師匠を戸田先生と決め、高杉晋作の気概で、弟子として戦った」  師弟が仏法の、また人間の真髄である。  私にとっては、師弟一体で戦うことが、師の「青年訓」を身で読むことであった。  この根本精神を、私は青年に今こそ、強く訴えたい。

 ――安政六年(一八五九年)十月、師・吉田松陰は、幕府権力によって刑死した。  晋作が師の悲報を知ったのは、その二十日ほど後、江戸遊学から、長州藩の萩に帰郷した時であった。  師弟の契りを結んで、わずか二年――純粋なる魂の持ち主の、二十歳の革命児は、憤怒に燃えて誓った。  「師弟の交わりを結んだからには、仇を報いずにはおかない」「朝に剣の腕を磨き、夕べには書を読み、赤心を錬磨し、筋骨を堅固にしてこそ、仇を討てるのだ」(趣旨)

 師・松陰の民衆決起(草莽崛起)の思想を継いだ彼は、やがて、「奇兵隊」を創設。  幕府の打倒に、そしてまた師匠の仇討ちに、彼は敢然と、死に物狂いで戦いを開いた。  戸田先生も、師匠・牧口先生の獄死を知った時、血涙を絞って決意された。  「よし、いまにみよ!  先生が正しいか、正しくないか、証明してやる」  「青年訓」の発表より五十年――私も、弟子として、永遠の青年として戦い、師の正義を世界に示しきってきた。

 これが、深遠なる、また崇高なる広宣流布に戦いゆく、学会青年部の魂だ。

 私は、命果てるまで、広宣流布の英雄たる青年部の諸君に、学会精神のすべてを伝え残したい。  日々、新世紀の「青年訓」を贈りゆく気持ちで。  すべて、遺言のつもりで。

 かのロランは言った。  「生とは休戦のない、容赦のない一つの戦闘であり、人間の名に値する人間であることを望む者は、目に見えなぃ敵たちの軍勢に抗して絶えず戦わなければならないのだ」(片山敏彦訳)

 戦おう、青年諸君よ!

 時代は大きく動き始めた。

 新しい世紀は我らを待っている。

 我らの使命の本舞台が来た。共に躍り出て、戦い勝ち抜こう!