第15回 青春の埼玉


――身をなげうって恩師を守った舞台
ひとたび事業家として敗れた恩師。埼玉での渉外、外交の成否が、事態を打開するカギだった。
戸田会長が再起できるかどうか、すべては二十二歳の青年の双肩にかかっていた。

◆◆埼玉で阿修羅のごとく師を守った。


◆こんな男に誰がした
 月光の道を、二つの人影が歩いていた。
 埼玉県大宮市(当時)。駅の周辺こそ煙々と明るいものの、川沿いの土手まで来ると外灯もなく、星の瞬きが美しい。
 一九五〇年(昭和二十五年)九月。
 痩せて肩の尖った戸田城聖第二代会長のすぐ後ろを、二十二歳の池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長が歩いている。
 人には、駅の雑踏を避け、静かに風を浴びたい夜もある。
 戸田会長の事業が進退窮まったのは、八月二十二日である。
 経営していた東京建設信用組合の業務停止が決定した。
 帳簿に記載された負債総額は、事業家の命根を絶つに十分な数字だった。
 凄惨な "敗戦処理" が始まった。
 この日も出資者を求め、埼玉県・大宮の知人宅まで足を運んだが、けんもほろろに追い返された。
「ダメだ、ダメだ。帰れ。こんな若造まで連れて来やがって!」
 戦後、戸田会長に拾ってもらった男であった。日頃、戸田会長の恩を口にし、得意気に吹聴していた者ほど手のひらを返した。
       *
 空を見た。天の川を翔けるように「はくちょう座」が羽根を広げて昇っていく。
 こんな夜にしっくりくる歌が、戦後、はやっていた。
「星の流れに 身をうらなって……泣けて涙も かれ果てた こんな女に誰がした」(『尾の流れに』清水みのる作詞、利根]郎作曲)
 足元に口を落とすと、すっかり靴が傷んでいる。休日返上で駆けずり回り、靴底もごっそり減ってしまった。
 くよくよしても仕方ない。かがんで靴紐を締め直しながら、ふと歌の一節を替えて口ずさんだ。
「こんな男に誰がした……」
 つと顔を上げると、ポケットに手を入れて前を歩いていた戸団会長が、長身をひねった。
「俺だよ」
 星影に浮かぶ横顔が笑っている。


◆埼玉で勝つか負けるか
 師が死ぬか生きるかの時期。池田青年は阿修羅であった。
 師は学会の理事長職も辞任。債権者が地獄の獄卒のごとく押し寄せた。事件の臭いをかぎつけたマスコミも、執拗に追いすがった。
 一日中働きづめに働いて、アパートに着いた途端に意識が遠のく。気がつくと、靴を履いたまま自室の入り口で倒れていた。深夜、日記を綴ろうとしても、字が乱れて書けない。
 池田青年が埼玉を訪ねたのは、そんな時期である。大宮周辺に有力な資産家、投資家がいた。
 一九五〇年九月二日。同九月十一日。同十月三十日。同十一月三十日……。融資を得るため、ぎりぎりの折衝が埼玉で続く。
 絶体絶命。ここで失敗すれば、戸田会長は社会的に葬られる。創価学会も崩壊する。
 「もう、いかん。大作……」
 「先生、私が一切の借金を返します」
 「世間的に見れば、いつ自ら命を絶ってもおかしくない」(当時の関係者)日々。埼玉で勝つか負けるか。命懸けの死闘が続いていた。


◆戸田先生は敗れていない
 この時の渉外戦の凄まじさを物語るエピソードがある。
 昭和三十年代に入ってからである。ある時、聖教新聞社の広告マンたちは完全に行き詰まっていた。丸一日、足を棒にしても成果はゼロ。そんな日が続いていた。悩んだあげく、池田会長を囲んで相談会をもった。
「まず名刺をみせてごらん」と会長。見ると、肩書きが何もない。
「これじゃ誰も会ってくれない。氏名の上に『主任』と入れよう」
 聖教新聞はまだ日が浅く、名刺に刷る役職を持つ者などいなかった。即座に手を打った。
 どこへ行ったのか。何軒、回ったのか。口上。反応。広告単価。デザイン。次の予定。勝算。作戦……。
 観念論、抽象論でなく、具体的な指示を出す。いったい、どこで、こんなに力をつけたのか。広告回りの職員と同年配なのに、経験と実力に天と地ほども隔たりがある。
 いつの間に……。
「全部、戸田先生が苦境に立っておられた時に学んだことだ。あの時のことを思えば、これしきのことは、何でもない。私の一切は、戸田先生の訓練のたまものだ」
       *
 池田会長は埼玉で、誠意を尽くして出資者を回った。
 商取引の根本は信用である。いくら再建策を力説しても、肝心のバランスシートが真っ赤っ赤では、聞く耳など誰も持たない。そのうえで、要は戸田会長の人物そのものを信じてもらえるかどうかだった。
 金は人を狂わせる。
 ある地域の有力者。戸田会長の事業上の失敗を理由に、学会の信仰まで「インチキ宗教」と頭ごなしに罵倒した。
 目が血走っている。若者が相手とあなどってか、ぞんざいな物言いで追い払う。
「さっさと帰れ! 戸田には、もう引っかからないぞ!」
「誤解です。戸田先生は、人をだますような人ではありません」
 言葉は丁寧だが、ゆずらない。
「おっしゃるとおり、戸田先生は事業には敗れました。しかし、信心では敗れていません」
 たしかに。男の顔色が変わった。
 損得勘定しかなかった男が耳を傾け始めた。聞いてみれば、青年の語る事業の再建プランには納得がいく。
「分かった。あなたを信用しよう」
 やがて大宮の他の人たちも協力を惜しまなくなっていった。
 さらに恐ろしいのがマスコミだった。
 ここでも戸田会長の人物を記者に訴えるしかなかった。先走った報道で誤ったレッテルを貼られては致命的であること。社会的に絶対、傷をつけてはならない大事な人物だということ。
 当時、池田青年の訴えを聞いた関係者の一人は述懐する。
「とにかく、この二つで押してこられた。何かこう、人間としての迫力に負けました」
 こんにち、池田会長が戸田会長の苦境を身を挺して救った歴史は有名である。その捨て身の死闘は、埼玉で刻まれたものなのである。
   *
 ようやく難局打開のめどが立った一九五一年(昭和二十六年)五月三日。戸田会長は第二代会長に就任した。

◆一二番目の支部・志木
 第二代会長が誕生し、七五万世帯の達成へ動き出した学会だが、各支部の実力には格差があった。
「どうも士気の上がらない志木支部だなあ」。戸田会長は、よく笑っていた。
 埼玉県の志木支部。一九五一年四月の結成である。戸田会長就任の一カ月前。学会草創の一二支部のうち、最後に生まれた。
 伝統がない。弘教も伸び悩んでいた。このままでは、折伏大行進に驀進する学会のアキレス腱になりかねない。
 中央の幹部も敬遠した。どうせ指導に行くなら、活気があって、結果も出る組織がいいに決まっている。
 その "お荷物扱い" された支部に、コツコツと通ってくれる青年部・幹部がいた。
          *
「戸田会長のお近くにいる方が、川越で御書の講義をしてくださる」
 埼玉県の小杉よしが、婦人部の先輩から会合に誘われたのは、五二年の一月である。
 御書? 三週間前に入会した小杉には意味不明である。
 会場に着くと、青年がいた。
「よくいらっしゃいました。さあ、日蓮大聖人の仏法を学びましょう」
 小杉は、かつてない体験をした。
 まず声に驚いた。不思議、不思議。御書の一言一句を聞いているだけで、背骨がしゃんとしてくる。
 勉強会のようでいて、理屈っぼくない。七〇〇年前の文章なのに、古くない。難しいテーマなのに、すっと頭に入ってくる。
 いちばん驚いたのは、こんな自分に「他人を幸せにする使命がある」と言い切ってくれたことである。
 信じられない。戦争中に重く心臓を病んだ。終戦。戦地から夫が生還。しかし、自分の身体は動かない。夫は寝たきりの自分につらく当たり、背中を向けて一升瓶を傾けている。
 いっそ空襲で死んでいた方が楽だと思っていた。信心を始めて身体が動くようになったが、夫が怒鳴り散らして反対している。
 こんな自分に他人を救う使命があるというのか!
 小杉は、まじまじと講師の顔を見た。聞けば、まだ二十四歳だというではないか。


◆◆三年にわたり通い続けた川越の講義。

◆感激の修了証
 記録では池田会長の志木支部川越地区への講義は、一九五三年二月までの、三年にわたり、合計一〇回行われている。
 夜七時に始まる講義は、開始二〇分前には満員になった。
       *
「おい! もう出ないと間に合わないぞ!」
 時計は午後六時を回っている。鳥海英一は、なかなか出てこない家人に、しびれを切らしていた。
 地区講義の会場までは自転車で三〇分。自転車の後部にリャカーをくくりつけた「特製人力車」で家人と近所の学会員を乗せて走った。
 今も大切にしている当時の御書。
「如説修行抄」の表題の脇に「説の如く」とメモ書きされている。
 青年講師が「今日は、ここだけは覚えて帰りなさい」と教えてくれた一節である。
       *
 高沢武夫は入会直後に講義に参加した。二十二歳だった。
 初対面の印象。"なんだい、俺とあんまり変わらない年格好だな"
 ぼんやりと顔を見ていたら「はい、あなた」と指名された。
 御文の拝読。さっぱり言葉がわからない。
 えーい、ままよ。適当にごまかしてしまえ。あぐらをかいたまま、中途半端な気持ちで読み始めようとした瞬間だった。
「仏法の教えを乞う時に、その態度は何事か!」
 思わず跳び上がるようにして、正座した。後に高沢は、志木支部を代表して「大阪の戦い」に馳せ参じている。
       *
 講義が終わると修了証が配られた。御書名、担当者が記されている。発行者名は戸田会長だった。
「あなたにも使命がある」と指導されて以来、熱心に通った小杉よし。
 修了証をもらうと、ひとつのことをやり遂げたようで嬉しかった。
 帰宅すると夫の賢治が横目でのぞく。
「ほう。そんな立派なのを、もらえるのか」
 次の講義を冷やかし半分で、のぞいてみた。着流し姿で一番前にドッカと座る。
 さあ、お手並み拝見。海軍では戦艦にも乗り組んだ海の男だ。日の前の若者をにらみつけた。
 凛としているが、やさしい声。あら探しをするつもりが、なんだかすっかり気持ちよくなった。つい、うとうとする。気がつくと、目の前に笑顔の青年がいた。
「どうでしたか? 難しかったでしょう」
 率直な問いかけに頭を掻いた。
「聞いてるうちは気持ちいいんだけど、さっぱりわからなくて」
「それでいいんです。この仏法は、毛穴から、身体から入っていく仏法なんですよ」
 仏法はわからなかったが、この若者が気に入った。小杉賢治は、人が変わったように学会の活動をはじめた。


◆恐るべし第一部隊
 なにやら勇ましい歌声が、車道から聞こえてくる。
 道行く人が振り返ると、大型バスの窓から男たちの野太い声。バスの車体には、大きな横断幕がかかっている。真っ白な布に「創価学会青年部第一部隊並木班」の筆文字。
 一九五三年(昭和二十八年)十二月二十日の早朝である。
 埼玉県羽生の男子部員たちで、約五〇の座席が埋まっている。東京・五反田での第二回男子部総会に参加するためである。
 班長の並木辰夫。会場の星薬科大学で、羽生男子部を乗せたバスを待ちわびていた。
   *
 部隊で一〇〇〇人の結集が打ち出されたとき、並木は面食らった。第一部隊の所属は六〇〇人余。それをニカ月で一〇〇〇人の結集。これは無理だ。
 並木の迷いを見透かすように、池田第一部隊長から「激文」が届いた。
「我が親愛なる同志諸君に告ぐ」と題されたガリ版刷り。
 裂吊の確信がみなぎっていた。
 ――戸田先生より部隊一千名同志獲得の命令下り、その命令に応えて、第一部隊は前進に前進してきた。
 闘争は余すところ一カ月有余である。目標完遂も諸君一人一人の闘争力にかかっている。
 戦おうではないか。花を見事に咲かせようではないか!
 概略、そのような内容だった。
 並木は決めた。やろう。無理だろうが何だろうが、俺は、やる。
 班は組織の最小単位である。現有の部員は十数人。しかし、五〇人、集めてみせる。
 第二回男子部総会が迫る。
「バスを借りよう。貸し切りバスだ。五〇人きっちり耳を揃えて、部隊長のもとに参集しようじゃないか!」
 貸し切りバスで埼玉の奥から東京に行く。大風呂敷もいいところである。ジェット機のチャーター便でハワイに行くようなものである。
 総会当日の朝。まだ足りない。あと三人、あと二人……。
 見送りに来た若者まで拝み倒して、バスに引っ張り上げた。
 あと一人……。朝早く家の戸をたたく男子部に説得され、十八歳の根来和男はバスに押し込まれた。数日前に父親が入会していた。
 とうとう五〇の座席が埋まった。バスは、出発のクラクションを鳴らした。
       *
 バスは、やがて都内に入った。見えてきた。会場の星薬科大学
 正門でバスを降りようとすると、池田部隊長が一目散に走ってきた。
「見事だぞ!」
 この一言で並木の涙腺が切れた。
「こんなところで降りるな。正面まで行二う!」
 オーライ、オーライ。池田部隊長が自分でバスを誘導してくれた。
 正門から堂々と場内に入った。バスは、ゆるやかにカーブしながら、グラウンドを一周する。すでに青年が続々と集合していた。
「おおーっ」「あれは!」
 歓声とも、どよめきともつかない声がグラウンドから噴き上がった。
「見ろ、第一部隊だ」
「並木班と書いてあるぞ。班でバスを埋めたのか!」
 バスの車・体は、たちまち興奮した青年たちに囲まれ、万雷の拍手喝采となった。
 凱旋である。
「第一部隊並木班」のひとりひとりは、将軍のように、顔を上気させてバスを降りた。この日、並木班は東京で五〇人、埼玉で五〇人、計一〇〇人の結集を成し遂げた。
「聞いたか。羽生からバス一台」
「あんな埼玉の外れから……」
 激しいデッドヒートで結集を競ってきた各部隊。壮挙は、またたく問に広まった。
 何しろ羽生といえば埼玉県の北東部。群馬との県境である。第一部隊の勢力の中心は、東京の下町なのである。
 その第一部隊が、関東を制覇せんばかりに戦野を広げ、ついに埼玉の果てからバスで攻め上ってきたのである。
 恐るべし第一部隊。
 いったい、池田部隊長は埼玉で、どんな指揮をとったのか。


◆池田部隊長来たる
 田んぼやキャベツ畑が広がる農村地帯を、一台のラビットスクーターが砂煙を上げて駆けている。
 一九五三年五月十二日。埼玉県・加須。五月晴れの日であった。
 あれが部隊長さんだろうか。
 女子部のリーダー・日下部ヨシ子は目を凝らした。
 ブレーキ音を響かせたラビットから、白のスーツを着た青年が飛び降りる。
「お世話になります」
 礼儀正しさに而食らった。幹部といえば、来てやったといわんばかりに、胸を反らす者ばかりと思っていた。
「お土産です。どうぞ皆さんで召し上がってください」
 大きな桐箱に入った東京名産の最中だった。
 仕事で羽生方面を訪れた道すがら、時間を縫って行田、加須までやってきた。
「戸田先生のそばにおられる部隊長さんが、座談会をしてくださる」
 拠点の島崎宅に、話を聞きつけた会員たちが続々と集まってきた。
 八畳二間の奥に、風呂敷をかぶせた即席の演台が用意された。さあ、どんな話が聞けるのか。若い部隊長の第一声は意表を突くものだった。
「きょう集まってこられた皆さんは、絶対に幸せになります!」
 大きな声に障子が震える。
 入会間もない女子部員・高鳥登志子は思わず隣の姉と目を白黒させた。
「私たち、幸せになれるんだって」
 こんな田舎の、ホコリをかぶったような自分たちが?
 羽生方面に学会員が誕生したのは五一年。その後二年間を経過したが、弘教は遅々として進まず、一七世帯ばかりが増えただけだった。
 それが、この夜の座談会では新来者六人が一挙に入会した。
 帰り道、新来者たちは口々に語った。
「すごい人だったね。いい人だったね。いい宗教に入ったのかもしれないね。病気で悩んでいる人に聞かせてあげたいね」
 会員たちも喜びを隠せない。
「学会の悪口を言う連中に、あの部隊長さんを見せてやりたいわね」
 旧習深い農村地域。信心を始めたというだけで村八分にされた。肩身の狭かった会員たちの胸に、ぽっと灯がともった。


◆早朝の砂利道
 翌朝五時過ぎ。島崎一嶺は父親に叩き起こされた。
「部隊長さんが職場に出勤される。駅まで送って差し上げなさい」
 座談会の後も個人指導が続いた前夜。東京行きの終電時間も過ぎ、島崎宅に投宿した。
 誰よりも早く出勤することを心がけている部隊長。まだあたりは薄暗い。
 むろん、タクシーなど来ない。羽生駅まで、砂利道を自転車で二五分。島崎は寝ぼけ眼をこすりながら大急ぎで準備した。
「おはようございます。朝からお世話になります」
 深々と部隊長に頭を下げられた。
「しっかりお送りするんだぞ!」
 父親の言葉にうなずくと、部隊長を後部座席に乗せ、力いっぱいペダルを踏んだ。
 砂利道が続く。あまりの揺れに、つい笑いが起きた。背中で部隊長もぷっと噴きだしている。若い声を上げて笑う二人を乗せて、朝もやの道を自転車は走った。
 駅に着くと部隊長が居ずまいを正した。
「早朝から、お世話になりました。戸田先生の弟子として、男子部として一緒に頑張りましょう! 必ず、またお会いしよう!」
 始発電車が見えなくなるまで手を振った。
       *
「俺が「この仏法は正しい。願いが叶う』って言ったら、黙ってうなずくんだよ。いいね」
 そう言われた小学生の根来八重子は「うん!」と大きくうなずいた。
 部隊長の来訪後、羽生では爆発的な折伏が始まっていた。
 人手が足りない。根来ら小学生たちも陣列に加わった。入会が決まると小さな子どもたちが新入会者に勤行、唱題を教えた。
 あの夜の座談会で「幸せになれます」と言われて、驚いた高鳥。毎日、学会歌を歌いながら動きまくった。


◆◆最前線こそ本陣であり、本丸だった。

       *

 池田会長にとっては、中央から離れた最前線こそ、本陣であり、本丸である。
 一九五六年の「大阪の戦い」でも、同じである。目の届きにくい県境から火をつけ、周辺から都市部を囲い込むように勢いをつけた。
 遠い。人が少ない。時間がかかる。そんなマイナス要素から勝利の突破口を切り開いていく。
 埼玉でも東京から遠い地域の男子部ほど勇み立った。
 東京で男子部総会の大会合がある前夜など、ひと騒ぎだった。
「田舎もんだからって恥をかかせちゃならねえ」
 夜を徹してコートを縫い直す婦人部。東京へ持っていく横断幕の準備を手伝う壮年の姿もあった。
       *
 戸田会長亡き後、第三代会長推戴の声をいち早く上げたのは、埼玉青年部だったといわれる。
 ひとたび呼びかけが始まると、最前線の青年が我勝ちに声を上げはじめた。
「池田先生を第三代会長に!」
 大宮、浦和、川越、羽生。声は埼玉中に広がっていった。
 誰が徹底的に現場に足を運んできたのか。学会の末来、自分たちの将来を、誰に託せばよいのか。
 青年たちは、誰に言われずとも、よく知っていたのである。


◆ウソに沈黙するな
 埼玉には、学会が発展する上での反発と無理解の壁が、いくつもあった。
 第一に、マスコミである。
 一九五五年二月九日の朝。読売新聞の埼玉版の紙面を開いた会員は驚いた。
 一方的な記事で学会を批判していた。事実無根のデマ記事だったが、埼玉の会員は、動揺した。
 まだ世の中全体に、マスコミに対する一種の畏怖があった。名誉毀損、人権侵害という概念も根付いていない。
 マスコミに抗議するなど一部の知識階級の専売特許だと思いこんでいる。庶民は泣き寝入りするしかない時代だった。
 一人の青年だけが、埼玉のために立ち上がった。
       *
 二月十六日、池田室長は読売新聞本社に乗り込んだ。最初は相手にしていなかった地方部記者も、事実を突きつけられると頭を下げた。
 その足で埼玉の読売浦和支局へ。支局長と膝談判のすえ、偏向報道の事実を認めさせた。
「よくやった」
 戸田会長は膝を打った。
 池田室長は詰めが厳しい。
 かつて他宗との法論に勝ったと意気ごんでいる青年部幹部に「勝ったというが証拠は、どこか」。
 はっとする相手に「勝ったといっても、先方の詫び状なり何なり、後日の証拠となるものがなければ、あとで水かけ論になるだけだ」。
 この時も埼玉の地元幹部に「黙っていてはいけません。どんどん反論を書いてください」。学会員の声が紙面に載るように提案した。
 やがて他宗の偏見に翻弄されず、正確な取材と報道を望む声が掲載された。
 追撃の手をゆるめない。三月二日、再び浦和支局に向かい、最終の調整。
 遂に三月四日付の紙面で、記事は既成宗派によるデマ宣伝であったことが報じられた。
 三段見出し。学会側の反論が、大宮の地区幹部の声として主張されている。それも顔写
真入り。
 勝った、勝った! 地元の学会員は大喜びだった。


◆月のように輝け
 第二に、内部の幹部。
 昭和三十年代、東京から志木方而に派遣された男がいる。
 地元で迎えた幹部は、その第一声に、耳を疑った。
「あーあ。こんな支部に来ちゃったよ。目の前が真っ暗だ」
 竜年光。後に地方議員までさせてもらいながら、支持者を裏切っている。
 異常な兆候は早くから見られた。
 小杉よしは、夫が竜から怒鳴られて帰宅したのを記憶している。
 なんと机の上にあぐらをかいて、喚き散らしていた。その前で夫は身を縮めていたという。
 自分にはカミソリの切れ味があるなどと鼻にかけていたが、結局、凶暴な言葉の刃で会員を傷つけてばかりいた。
 腫れ物に触るように、みんな黙っていたが、池田会長だけは、厳しく指摘し、指導した。
「傍観者ではいけない。悪い幹部も悪いが、それを黙っている人も悪い」
       *
 古い幹部の言動に嫌な思いをしている会員を守り、励ました。
 ある年の統一地方選挙。一人の青年が埼玉で市議選の出馬予定者になった。それが古参幹部、他陣営の準備不足が原因で、直前になって、立候補が見送られた。
「自分の力不足でこんなことになってしまった。本当に申し訳ない」
 青年は期待に応えられなかった悔しさで、居ても立ってもいられず、大田区小林町にあった池田会長の自宅に駆けつけた。
「よく来た。上がりなさい」
 青年の性格は、よく知っている。じっくりと話を聞き、じゅんじゅんと諭した。
「月を見ろ。いついかなる時も輝いているじゃないか。小さい世界に閉じこもるな。もっと力をつけるんだ。もっと大きくなれ。偉くなれ」
 青年は全埼玉を牽引するリーダーに成長した。
       *
 創価学会は戦後、急速に成長した。急増する会員の指導にあたる幹部の育成こそ急務だったが、それもままならないほどの勢いで組織は伸びた。
 しぜん、幹部の中にも、世智にたけた要領のよい者、世間的な力量のある者、学会でいうところの「世法の強い」者が幅をきかせたことも事実であった。
 世間ずれした幹部に率いられた組織は不幸である。一部の地域には、何ともいえぬ淀み、濁りが見られた。中央からやや離れていたためか、埼玉の一部にも、そうした空気があった。当時を知る人々は口を揃える。
「他の幹部は見て見ぬふりだったが、池田先生は違った」
「これだから大人はダメだ。しっかりしてもらいたい」。埼玉だけではない。蒲田、文京等と、組織利用や公私混同、なかんずく風紀の乱れがあれば、たちまち会長の雷が落ちた。


◆反転攻勢の勝利
 第三に宗門。
 埼玉には戸田会長に終生、迷惑をかけ続けた坊主がいた。矢島秀覚。
 得度する前の名は、矢島周平。学会では理事長まで務めた。
 もともと学会幹部でありながら、いわゆる「寺信心」の抜けない男だった。九州の八女では学会員を坊主の謀略から守るどころか、寺の檀徒作りに加担したという証言まである。
 ついには自分の不行跡から坊主となり、五五年、大宮の正因寺へ。地元の会員が土地の地ならしからたずさわり、学会が宗門に寄進した寺だった。
 戸田会長は「矢島の新しい出発のためなら」と、わざわざ寺開きにもかけつけている。よほど気がかりだったのだろう。
「矢島が心配だ、心配だ」と常々、語っていた。
       *
 一九七八年(昭和五十三年)、大宮で合唱祭が開かれた。
 当時、全国で展開されていた合唱祭。学会の文化運動を理解してもらうため、宗門側を招待した。埼玉は、その第一回目だった。
 終了後、会場脇の東大宮会館(現・南大宮会館)で、池田会長が宗門側にあいさつした。
 さあ、これで散会と思った直前、一人の坊主が手を挙げた。
 矢島覚道――。矢島周平の息子である。正因寺の坊主になっていた。
 何とも臭みのある、嫌味ったらしい態度だった。
 何ごとかと思えば、御本尊の表装について云云し始めた。別に、この場を選んで、わざわざ持ち出すような話ではない。難癖をつけようとしたのは、誰の目にも明らかだった。
 会長は冷静に応えた。
「そんなことを言って、何になるのですか。雰囲気を壊すようなことをおっしゃるのは、いかがなものか」
 矢島は気圧されたのか、押し黙ってしまった。
 会場には宗門側が十数名いた。学会側は会長だけである。
 多勢に無勢だったが、会長一人の存在感が、ずしりと会場を圧した。
 第一次宗門事件が、すぐそこまで来ていた。
 埼玉は、学会が宗門との協調関係を築く上で、とくに慎重、丁重に対処した地域である。意識して寺や坊主との良好な関係を培った地域も多い。そのぶん、宗門の狙い目、付け目となった。
       *
 一九八一年(昭和五十六年)秋から、池田会長が「反転攻勢」に打って出た歴史は知られている。この連載でも、しばしば触れてきた。
 四国、大分、熊本、秋田……。宗門事件の激震地に身を投じながら、青年を育てた。
 単なる組織の修復が目的ではない。主眼は青年にあった。
 およそ一年にわたって各地を回り、八二年秋、埼玉の所沢に向かった。
 西武ライオンズ球場(当時)の第二回世界平和文化祭。東京と埼玉の青年部が主役である。
 乾坤一梛の勝負をかけた一年の総決算だった。直前の地方指導で池田会長は語っている。
「それにしても、忙しい一年だった」
「今度の文化祭はすごいそ」
 一九八二年九月十九日。
 狭山丘陵に夕闇迫る午後四時四十四分。埼玉・秩父の男子部一一一人が「秩父太鼓」を打ち鳴らした。
 一連の反転攻勢の勝利を飾る乱打であった。



◆◆「東京の土手っ腹に穴を開けるんだ」

◆日本の勝利の要
「鉄桶って何だ?」
 人の背丈ほどもあろうかという巨大文字で「鉄桶の団結」と書かれたボードが設置されていた。
 一九七三年九月十二日、埼玉県幹部総会の会場・上尾運動公園体育館。耳慣れない言葉がスローガンになるには理由があった。
 昭和四十年代に入ると埼玉の人口は急増した。
 県民としての意識、一体感は、どうしても弱くなる。精神的な紐帯がなければ、バラバラになってしまう。
 学会組織にあっても、同じであった。時流の変化の中で、いかに前進していくか。
 結論は「団結」であった。
 池田会長は県幹部に語っている。
「団結して、東京の土手っ腹に穴を開けるんだ。東京のための埼玉じゃない。日本の勝利の要が埼玉だ」
       *
 団結すると、埼玉は強い。
 鉄桶とは、文字通り、鉄の桶のことである。「鉄桶水を漏らさず」。敵のつけいる隙もないことをいう。
 機関紙の拡大。出版物の啓蒙。展示会などの来場者。いざ団結すると、いかなる組織運動も、全国トップレベルの結果が出る。
 鉄の桶で→滴たりとも水を漏らさず、根こそぎさらっていく感がある。
       *
 二〇〇六年六月。大宮から一駅、東京寄りにあるJR「さいたま新都心」駅は、ひときわ活気づいた。
 隣接する「さいたまスーパーアリーナ」で開かれた「大ナポレオン展」(東京富士美術館主催)。七月十六日の閉幕までに二八万人が来場した。
 池田会長が恩師と苦闘期に訪れた大宮周辺も往時の面影はない。
 JR大宮駅近くで書店を経営する押田謙文堂社長の押田浩。「大ナポレオン展」の会場を訪れた。
「まるで池田先生が埼玉にナポレオンを連れて来たみたいだ」
 押田は、池田会長の著作等を扱う友好書店網の代表。約一〇〇店の書店が参加している。
 どこも最初は、商売がらみだった。しかし、各地の学会員と関わるなかで、強固な信頼関係が築かれた。
「池田先生は次々と本を書かれている。さらに『本を読もう』と言われる。書店のことまで気にかけてくださる。そんな指導者は、いないなあ」
 書店から見える世界がある。
 加速する"本離れ"。なすすべもない状況で「こんなに真剣に本を読むのは学会員しかない」と驚きの声も聞く。
 ああ、この人はこの一冊の本を大切にして生きていくんだな、と感じられる。そんな書物を庶民に示す池田会長の存在を、しみじみ思うのである。

◆二〇〇の名誉学術称号
 川越地区の御書講義から、すでに半世紀以上の歳月が流れた。
 講義を受けた会員は、修了証を宝のように抱きしめ「池田先生の学校の卒業生だ」と胸を張ってきた。
「あなたにも使命がある」と励まされた小杉よしは、九十歳目前の今も健在である。
 後継者も立派に育った。創価大学を卒業後、アメリカのカリフォルニア大学に学ぶ孫娘もいる。別の孫娘は、創価大学に進み、中国留学も経験した。
 小杉が埼玉県川越の自宅で、仏壇の前に長く端座していたのは、二〇〇六年十月七日である。
 池田会長に対し、中国・北京師範大学から名誉教授の称号が贈られる。
 世界から二〇〇番目の名誉学術称号。創価大学に通う孫娘に、思いもよらぬ大役が回ってきた。
 中国の武漢大学に留学していた実績を買われ、代表で、お祝いのあいさつを中国語で述べる。
 無事に終わったかしら。連絡はまだかしら。そわそわして、落ちつかない。
 日中戦争で軍人だった夫。その孫が、まさか敵国だった中国と、こんなご縁で結ばれるとは。
 小杉にとって、長い 日が終わった。躍るような勢いで孫が帰ってきた。
「おばあちゃん、ちゃんとできたよ。すごい式典だった。池田先生は、世界一の創立者!」
 小杉は、感無量である。我が家にも使命があったなあ。あの修了証をもらった日の師の笑顔を思い出した。
         (文中敬称略)