第19回 アメリカ・希望は海を越えた


自由な海外渡航が禁じられていた時代。日米関係も、戦後最悪の事態。
池田会長の決断は揺るがなかった。「みんな待っている。時は今だ」


▼「必ず多くの学会員がアメリカを歩く」

◇手探りの初訪米

 ニューヨークの乾いた空に、国連本部ビルが聳えている。
 一九六〇年(昭和三十五年)十月十四日。日本人の一行がビルを仰ぎ見ていた。
 整然と並んだポールにたなびく国連加盟国の旗、旗、旗。イースト川を渡る風は強い。早くも晩秋の冷たさである。
 第二次世界大戦の戦争状態を終結させたサンフランシスコ講和条約の発効から、やっと八年。日本は国際社会のテーブルの端に、ようやく席をもらった程度の存在である。
 トレンチコートに身を包んだ池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長。パナマ帽を手に、同行者を振り向いて微笑んだ。
 「帽子をかぶった紳士は、見あたらないねえ」
 同行の学会幹部たちが、面目なさげに頭をかいた。会長のいでたちは、彼らが悩み抜いた末のアイデアである。どんな服装で国連本部を表敬すればよいのか。正直、見当もつかなかった。
 渡航直前、ニューヨークの雑誌を読みあさった。
 新宿の帽子屋でパナマ帽を買い求めた。最新のフォーマル・ファッションのはずだった。

                     *

 初訪米。受け入れる現地スタッフは一人もいない。先発隊は無論のこと。
 会館、拠点どころか、メンバーの連絡先すら、ほとんどつかめない。
 すべてが手探り状態のまま乗り込んだ。
 ハワイ、西海岸等を経て、ここニューヨークにやってきた。
 国連本部では、第十五回通常総会を傍聴した。
 国連職員たちは怪訝そうに一行を見ている。池田会長は何ごとか想い巡らせながら議場を注視していた。
 国連ビルから表通りに出た。マンハッタンの街角では、渋い顔をしたニューヨーカーたちがニュースペーパーを読んで毒づいている。
 前日にワールドシリーズ終戦があり、地元ヤンキースが痛恨のサヨナラ負けを喫していた。
 --日本人メジャーリーガーの活躍など夢のまた夢。日本から、はるかに遠く隔たった異国である。
 訪米の計画が論議されていたころ。一人の学会幹部が、池田会長に質問した。
 「海外には、ほとんど会員がいません。それなのに、どうして行かれるのですか」
 つくづく彼の目を見て答えた。
 「三〇年後を見なさい。私が行った後には、必ず多くの学会員が歩く。今は分からなくてもいい。後で分かる。見ておきなさい」

 ◇渡航日は変えない

 信濃町の学会本部のあたりに、赤とんぼが飛びかい始めていた。
 困り果てた顔で副理事長(当時)の北条浩が会長室に入ってきたのは、八月も半ば過ぎのことである。
 「先生。どうしても、うまくいきません……」
 渡米準備の件だった。
 当局に渡航を申請してから、すでに一カ月。承認のメドすら立っていなかった。
 出発日は十月二日と決まっていたが、とうてい間に合いそうもない。
 日程の延期を進言するつもりだった。その理由を会長に列挙していく。
 じっと聞いていた会長。北条の話が一段落するのを待って口を開いた。
 「そうか。言いたいことは分かった。でも、私たちがやろうとしているのは、何のためだと思う? 世界のための渡航じゃないか。そこを分かってもらいたい」
 世界のため--。
 北条には意外だった。
 草創期、聖教新聞に「世界」という見出しは、まず見当たらない。
 そもそも戸田城聖第二代会長ですら「東洋」とは口にしたが「世界」を明確に展望したことはない。学会員にとっては聞き慣れない、現実感に乏しい概念だった。
 「向こうで、みんな待っているぞ。時は今だ。今しかない。
 渡航の日は変更しない」
 北条の話は正論かも知れない。しかし未踏の道を行く以上、困難、障害は覚悟のうえである。
 出発日は予定通り。
 その一点は譲らない。
 会長室を辞した北条は思った。会長の決意は固い。乾坤一擲(けんこんいってき)。鵯(ひよどり)越えの義経か、桶狭間の信長のようだ。

                        *

 ジャーナリストも驚きの目を向けた。
 「会長になって半年後。ほかの団体なら一番、不安定になる。
 トップ交替に伴う種々の変化が、すべて表面に出てくる。
 それを落ち着かせ、内部を固めなければならない時期だ」(五島勉
 第三代会長の誕生に学会全体が沸いていた。日を追って激増する会員数。
 それに伴う組織の改編、整備……。
 学会は最高幹部以下、国内の懸案事項だけで天手古舞いであった。

 ◇大蔵省の為替局管理課

 海外渡航には厳しい規制があった。今日のように、単なる視察や観光目的では許可は下りない。
 こころみに、一九六三年発行・大蔵省海外旅行調査会監修の『海外旅行の手引』を開いてみよう。
 たとえば、次の要件に該当する場合、渡航は認められない。
 「その渡航者の通常の業務からいって、あるいはその渡航者の業務の取扱量からみて、海外に渡航することの必然性を認めがたいようなもの」
 池田会長は商社マンでもない。留学生でもない。報道関係者でもない。まして政府要人でもない。
 その場合は「一般外貨渡航審査連絡会」なる機関の審査を受けるしかない。
 この審査がまた煩雑このうえなかった。
 まず、渡航目的や行程の詳細、費用の見積もりなどを明示した各種申請書を日本銀行外国為替管理局管理課に提出する。
 次に、これら申請書の写しを持って、関係する五つの省庁を回らねばならない。大蔵省。外務省。通産省経済企画庁科学技術庁
 それぞれの省庁の窓口を訪ね、担当官に渡航の趣旨を説明する。
 すべての省庁で、渡航の必然性が認められて、初めて渡航審査連絡会に案件が回る。
 もとより交渉は難航を極めた。

                         *

 旅行代理店で学会担当となった永井健雄。まだ駆け出しの新米社員だった。
 相棒は、学会に新設された海外係の黒柳明。「黒ヒョウ」と渾名(あだな)された大柄の身体に汗を浮かべている。愛想はいいが、目は笑っていない。
 二人が省庁回りを始めて、かれこれ一カ月。何度、門前払いを食わされようが、諦める気配がない。どの省庁でも、すっかり顔を覚えられた。
 「またお前たちか!」
 大蔵省の為替局管理課。ノンキャリアから叩き上げた課長補佐が窓口で睨みつけている。
 「創価学会? 最近できた新興宗教だろ。何しに行くんだよ」江戸っ子なのか、チャキチャキのベランメエ調、切り口上だ。
 申請書の渡航目的欄には「文化交流」「世界平和」と記されている。
 しかし紙を一瞥するだけ。
 詳細も聞かずに突き返してくる。
 無理もない。現地団体からの招聘状や契約書があれば有利だが、その種の書類は一切ない。
 アメリカでの団体の知名度も低い。現地のメンバーに有力者がいない。
 連絡網や指揮系統すらない。世界規模の教団として認知される要件は皆無に等しい。
 「どうせ、貴重な外貨を浪費してくるだけだろ。やめとけ、やめとけ」
 悪意はなさそうだが、頑固者。埒(らち)は一向に明かなかった。

                       *

 池田会長は黒柳から逐一、報告を受けた。そのつど勘どころを指摘した。
 かつて戸田会長の事業破綻を打開するために、顧客のもとへ昼となく夜となく足を運んだ。礼を踏み、頭を下げた。
 渉外は誠実第一だ。だが、卑屈になってはならない。あなどられてはならない。
 主張すべきことは確信を持って主張せよ。
“渉外のホシ”を黒柳に伝えていく。
 永井の労も犒(ねぎら)った。食事を共にし、近況や家族構成などを聞きながら気づかった。揮毫をしたためた書籍も贈った。
 「学会員でもないし、旅行代理店のぺーぺーの若造にすぎない自分に……」
 高校球児だった永井。監督から叩き込まれた「体当たりで行け」がモットー。
 闘志に火がついた。会長の誠意に応えるため、自分なりに仏法を勉強し、役所の窓口で粘りに粘った。
 「今回の渡航は、日本と世界の平和に必ず寄与します。すぐ結果が出るわけではありません。時間はかかります。でも、長い目で見てください。大事な大事な渡航なんです」
 一方、熱血漢の黒柳。時には肩を怒らせ、テーブルをたたく。
 口角泡を飛ばして熱弁を振るう。
 省庁の廊下を行く人までもが、遠巻きにして見た。
 「分かったよ」。ひと月半ほど経ったころ。難物だった大蔵省の担当官が根負けしたように折れた。
 渡米の案件は、ついに渡航審査連絡会に回された。

 ◇真心の旅行カバン

 一難去って、また一難。その連続だった。
 外務省旅券課の窓口で引っかかった。若い役人が、学会に批判的な記事が載ったアメリカの新聞を持ち出した。

 「学会さんは海外で、こんな悪口を書かれていますよ」
 アメリカ側で入国を拒否される可能性があるのではないか。
 ねちねちと、しつこい。
 なにも、この段階になって、わざわざ……。
 それでも永井は神妙に頭を下げた。なんとか穏便に事を運びたい。
 その横で、ぬっと巨躯が動いた。
 「なにい……」
 黒柳である。さんざん苦労させられ、タライ回しされた挙げ句に、この嫌みか。ずいと永井を押しのけ、担当官の胸ぐらをつかまんばかりに詰め寄った。
 「もう一遍言ってみろ!」
 場が凍りついた。
 “やってしまった……”。永井は目をつぶった。ここまで慎重に組み上げたトランプカードの家が崩れてしまうのか。
 なかば観念したが、意外や意外。がらりと役人の態度が変わっている。
 一喝されて、慌てている。どうやら公僕として一線を越えすぎたと気づいたらしい。
 ハッと我に返った黒柳も態度を改める。やがて池田会長はじめ渡航者全員が手続きを済ませ、旅券の申請は通過した。
 渡米を一週間後に控えた九月二十五日。静岡県内の戸田会長の墓前に、出発を報告する池田会長の姿があった。

                             *

 同年五月三日の第三代会長就任式。その夜、東京・大田区小林町の自宅では常と変わらぬ献立が食卓にあった。

 「お祝いのお赤飯でも、と思ったのですけれども、お葬式にお赤飯は、おかしいですから」
 香峯子夫人は、この日が池田家の葬式と覚悟を決めていた。
 「お赤飯は用意していませんが、何か記念の品を差し上げたいと思います」
 会長は応じた。「旅行カバンがいい。大きくて丈夫なものを」
 十月二日、羽田空港。目の前には会長が幼少期を送った羽田の海。
 胸ポケットには戸田会長の写真。手には夫人が贈った心づくしの旅行カバンがあった。

 ▼「海外でも言論戦だ。文章での勝負になる」

 ◇『ザ・ソウカガッカイ』

 大学生もいれば、白髪まじりの学究の徒もいる。一〇畳ほどの部屋に机を並べ、原稿用紙と格闘している。
 学会本部二階の「東の間」。
 夏の暑熱がこもる部屋の隅で、古い扇風機がカタコト音を立てて首を振っている。
 夏休み返上で、英語版の学会紹介書『ザ・ソウカガッカイ』の編集に没頭していた。
 「海外でも言論戦だ。まず文章での勝負になる。それも現地の言葉でなければいけない」
 会長の音頭で作業は七月下句からスタートした。
 当初は『折伏教典』を抄訳する案が有力だったが、納得しなかった。
 日本人の思考や教義の押しつけになってしまう。文化、習慣が異なる事情を考え、新たに書き起こすほうがいい。

 七月半ば、翻訳グループの選抜が行われた。白文の立正安国論の冒頭を英訳する試験。受験者三一人中八人が選ばれた。
 日をおかずして学会本部での“缶詰め”が始まった。
 辞書が役に立たない。「久遠元初」「一念三千」「十界互具」。仏法用語を、どうやってアメリカ人に伝えるのか。
 一から議論を交わすしかない。
 「これじゃダメ! やり直し」
 先輩から原稿を突き返され、がっくり肩を落とす大学生。
 第一章から、赤ペンで直しに直され、原形をとどめていない。
 作業は遅々として進まない。
 白地に青の文字が映える『ザ・ソウカガッカイ』が刷り上がったのは出発直前だった。

                         *

 「移民の国」アメリカとはいえ、敵国だった日本への国民感情は依然、厳しい。
 日本人の定住目的の入国を禁止する「排日移民法」。
 日本からの布教の道も事実上、閉ざされていた。
 加えて東西冷戦下である。アメリカ社会全体が、保守化していた。
 とうてい極東発祥の宗教を受け入れる素地などない。
 そもそもアメリカは建国以来、日本に頭を下げて教えを請うたことなど一度もない。

 ◇なぜ「アメリカ」か

 いわばコストパフォーマンスを完全に度外視した渡米であった。
 「なぜ」「それでもなお」アメリカを世界への第一歩として選択したのか。
 記者がインタビューした。「会長に就任して、まず何をやろうと思ったか」
 答えは思いがけないものであった。
 「アメリカに行こうと決意しました」
 合点が行かない記者の表情に、言葉を継いだ。
 「アメリカには、戦後の混乱期に学会に入会し、アメリカ人のご主人と海を渡った婦人メンバーがいることを知っていました。
 気の毒な境涯の人が多かった。それとなく、私なりに、できる限りの方法で激励してきました」
 なんだって。戦争に翻弄された気の毒な女性のため……。
 「いつの日か行く。必ず行く。それまで待っていてほしい。いつも、いつも気にしていました。このままでは、みな、あまりにも、かわいそうだ」

                           *

 第二の点。海外については、アジアなど文化的、地理的に近い諸国から始めたほうがいい。学会内では、そういう意見が圧倒的だった。押しとどめたのは池田会長である。
 「国際情勢を見てみなさい」
 会長就任二日前の五月一日。ソ連領空を侵犯した米軍の偵察機が撃墜され、米ソ首脳会談が断絶した。
 日本には「安保反対」の大合唱が渦巻いていた。
 「新安保条約」の批准を阻止するため、デモ隊が国会を取り巻く。
 警官隊と衝突し、痛ましい犠牲者も出た。アイゼンハワー米大統領の来日が延期された。
 アメリカでは反日感情が極度に高まっていた。
 首都ワシントン。
 「オレたちの言うことが聞けないのか。ジャップ! イエロー・モンキーだったらアメリカから出て行け!」
 憎しみのこもった罵声に、身の危険を感じた日本人は多かった。
 日米関係が厳しいからこそ行く。一人の日本人として、仏法者として、アメリカから一歩を刻む。

 ◇「絶対に幸せになれる」

 「アメリカさんと結婚するような人間は、どこか違うのよ。お前は普通の娘なんだから。早まらなくてもいいじゃないの」
 テキサス州オースティンのアキヨ・リウェリン。一九五九年、二十四歳の時に渡米した。
 いつまでも母の言葉が心に刺さった。
 普通って、何かしら。私は普通ではないのか。
 神奈川県のキャンプ座間で働いていたころ、駐留軍兵士の夫と結ばれた。
 三歳の長女と一歳の長男の手をひいて太平洋を渡った。
 一四日間、船にゆられオークランドに着岸。とたんに心細さが襲ってきた。歩くたびに涙がこぼれ落ちた。
 たどり着いたのはカンザス州のフォートライリー。ここも基地の町である。
 庭のない二軒長屋に住んだ。
 英語が話せない。話し相手がいない。知人がいない。夫の実家では冷たくあしらわれる。
 親の反対を振り切った手前、口が裂けても泣きごとは言えない。
 日本への手紙では「心配いりません。私は幸せよ」と強がった。
 彼女たちの苦しみは、日本のマスコミでも報道された。
 「敗戦日本でこそ玉の輿と思えた結婚は米国本土の厳しい現実にうちひしがれ離婚自殺などが続出してルーズベルト元大統領夫人も警告を出すほどだった」(毎日新聞社『一億人の昭和史』)
 アキヨは疲れ果てた。
 ある日、日本の友人からエアメールが届く。文面を追う目が一点で釘付けになった。
 「絶対に幸せになれる」
 学会員の友人からだった。

 ◇もう一つの戦後

 戦争花嫁。
 ウォー・ブライド。
 終戦後、日本に駐留した外国人と結婚し、相手国に渡った日本人女性である。
 人数。時期。渡航先の国。外務省、厚生労働省等に公式データはない。
 ある調査によると一九六〇年ごろまでに、四万から五万人がアメリカやオーストラリアに渡った。
 戦後のアメリカで、これほど冷遇された存在も珍しい。
 第一に、法的な保護がない。
 米国への帰化申請を認めない「新帰化法」(一九〇六年)が立ちはだかっていた。
 五〇年、「改正GIフィアンセ法」が定められる。
 ようやく進駐軍兵士の妻子に限って入国が認められた。
 しかしアメリカは“合州国”である。六〇年代に入っても、多くの州で異人種間の結婚には大きな制約があった。

 第二に、社会的な差別である。
 五〇年代、アメリカ全土を「マッカーシズム」の暗雲が覆った。“アメリカ的でないもの”を根こそぎ排除するイデオロギー。戦争花嫁も槍玉に挙がった。
 結婚手続きに一年以上かかることはザラだった。病歴、生活状態はおろか、思想信条までも立ち入ってチェックされた。
 第三に、家族の壁。
 ようやく結婚と入国が認められても、夫婦双方に「親の壁」があった。
 夫の親は「ジャップの嫁だけは連れてくるな!」
 妻の親は「ヤンキー野郎と結婚するなら勘当だ!」
 双方とも、戦争で命を落とした親戚や知人が少なからずいた。
 一人の人間として、女性として、夢を描いて渡ったはずのアメリカ。
 彼女たちの運命は苛酷を極めた。
 祖国からも、夫の国からも切り捨てられた「もう一つの戦後」があった。

 ◇写真家・江成常夫

 黄昏のマンハッタン一〇〇丁目。写真家の江成常夫は、霧がかった摩天楼を一瞥すると、めざすアパートメントへ歩みを早めた。
 毎日新聞社の報道カメラマンを辞めてフリーに転身した。
 一九七四年秋、ライフワークとなるべきテーマを求めて、アメリカヘやってきた。
 細く暗い路地の先。灰色にくすんだ外壁の建物が見える。
 黒人と白人のミュージシャン夫婦が住んでいた。
 撮影のため部屋に入ると奇妙な物体が目に飛び込んだ。
 狭いリビングの中央に、不釣り合いな仏壇。
 「創価学会? 日本の宗教が、こんなところにまで……」

                        *

 「アー、ユー、ウォー・ブライ……」
 ガチャン!
 ツー、ツー、ツー
 またか……。
 弱々しく受話器を置きながら江成は溜め息をついた。
 四年後の七八年、再渡米。ロス郊外の安アパートを根城にした。
 ポンコツ車にカメラ器材一式を積み、取材対象を探し回った。
 目的は「戦争花嫁」探しである。四年前の渡米で、ようやくつかんだ撮影テーマだった。
 彼女たちの存在を抜きに、日本の戦後は論じられないのではないか。
 ドキュメント的な手法で、戦争の一断面を切り取りたい。
 サンディエゴ。オーシャンサイド。モントレー
 米軍基地の周辺を必死に回ったが、壁は厚かった。
 「戦争花嫁(ウォ-・ブライド)」と口にした瞬間、電話を切られた。
 運よく会えても、貝のように押し黙ったまま。
 匿名です。撮影もしません。時間をかけにかけて説得し、ようやく重い口が開く。
 「家族に見捨てられた悲しみ。ふりきれない郷愁の念。彼女たちは、愛憎相半ばする情念に身も心も引き裂かれんばかりだった」(江成)
 取材は一向に進まない。
 そんなある日、不思議な女性と出会った。これまでと何か違う。
 夫とのなれそめ。家族の反対。苦境の日々。驚くほど赤裸々に語ってくれた。
 部屋に上がらせてもらうと、立派な仏壇がある。
 「あっ! 創価学会!」
 彼女たちにとって過去は、いつま,でも心にまとわりつく、忌まわしいものではなかった。信仰によって乗り越え、勝ち越え、既に人生の喜びに昇華したものだった。むしろ逆境の日々を誇りにすら感じている様子だった。
 驚きが取材を加速した。同じ境遇の婦人部メンバーを紹介してもらった。
 誰もがこころよくインタビューに応じてくれた。

                            *

 二年がかりで一〇〇人を超える戦争花嫁を取材した。
 そのうちの実に三分の一がSGIメンバー。労苦は写真集『花嫁のアメリカ』(講談社刊)に結実し、この分野の草分け的存在になった。
 江成の名は一躍、写真界に刻まれた。
 江成は今も語る。
 「私のような表現者は、不偏不党でないといけない。そのうえで感じることがある。SGIメンバーは、誰もが前向きで逞しかった。悩みの底を突き抜けていた」

 ◇アメリカから学べ

 初訪米の折、池田会長がアメリカの日系人メンバーに「市民権の取得」「自動車免許の取得」「英語の習得」の三指針を示したことは知られている。
 日系の著名人が述べている。
 「どうずればアメリカ社会に根付くことができるのか。私たちは何十年も考え抜いてきた。その末に導き出した結論と同じです」
 英字による独自の機関紙発刊を提案した。
 自分たちの国の言葉で、学会の指導を読み、仏法を学びたい。
 日本からの“出先機関”ではなく--メンバーの率直な思いであろう。
 アメリカに行く日本の幹部に言い聞かせた。
 「アメリカ人から学んできなさい」
 教義や指導を押しつけるのではない。アメリカ人を尊敬する。
 その長所を尊重する。そうでなければ、東洋発の宗教は根づかない。

                        *

 日本の宗教がアメリカで浸透することは難事である。
 特に南部の保守的な地域では「警戒するべき異教」という考えが今も根深い。
 仏教徒の家に爆弾が投げ込まれる事件まで起きた。
 事実、アメリカの国情、国民感情を顧みずに、いたずらに社会問題を起こした教団もあった。珍妙な布教方式。医学の否定。
 賭博の温床となった教団まであった。
 浄土真宗など既成仏教宗派の布教も、日系人社会の枠内にとどまっていた。神道とて同じである。
 日系人以外への布教を試みた教団はあったが、黒人やメキシコ人は敬遠した。
 教団内での白人系信者の反発が予想されたからである。

 ▼信仰によって逆境を勝ち越えた花嫁たち。

 ◇分断された時間

 日曜日の午前十一時。「アメリカが分断される時間」と言われている。
 アメリカ市民が礼拝に行く時間帯である。人種の違いが明確になる。
 白人の教会。黒人の教会。中国人の教会……。それぞれに礼拝施設が分かれている。同じキリスト教宗派であっても、民族によって分断されている。
 多民族国家。裏を返せば宗教対立、文化の摩擦が時に暴発を誘引する。
 政治の問題とも複雑に絡み合う。黒人解放運動の指導者マーチン・ルーサー・キングや、米大統領ケネディに向けられた凶弾の引き金にもなった。

                                  *

 あるアメリカの宗教専門誌が「人種的多様性がある」とSGIを報じている。
 「アフリカ系アメリカ人も、ほかの少数民族も何の隔てもなく平等にSGIで活躍する。これまでどの仏教宗派も不可能だった」
 一九六〇年当時、アメリカの会員の九六パーセントは日本人だったが、現在では一〇パーセントにも満たない。

 アメリカの民族構成比に照らしても、アメリカSGIは圧倒的に「インターレイシャル」である。
 同SGIの機関紙は現在、英語をはじめ、スペイン語、中国語、韓国語、フランス語、ポルトガル語タイ語カンボジア語、そして日本語の、計九カ国語で製作されている。読者の半分以上が、英語を母国語としない。

 ◇近代化のモデル

 初訪問から一五年--池田会長がニューヨークの国連本部へ三度目の訪問をしたのは、一九七五年(昭和五十年)の一月である。
 事務総長に、核廃絶を求める一〇〇〇万署名を手渡した。
 その席上、国連首脳が切り出した。
 「キリスト教世界宗教になるまで、多くの殉教者を出しながら二千年かかりました。創価学会は、わずか四十数年で到達しましたね」

                           *

 一方通行であってはならない。池田会長は日本にアメリカの代表を招く。
 夏の研修会。
 「一緒に歩こう」
 アメリカSGIの幹部に呼びかけた。
 あたりをゆっくりと歩き、会う人、会う人ごとに励ます。
 役員が気を遣わせまいと、物陰に身を隠す。すると裏に回って「隠れなくてもいいんだ」。
 一通り歩くと「ぎょうの研修は終わりにしよう」。
 指導めいたことは一切ない。拍子抜けした。
 その夜の質問会で会長に問いかけた。
 「権威主義の人間を出さないためには、どうずればいいですか」
 会長は「だから今朝、研修したんじゃないか」。
 あっ……。
 目が覚めた。これまでの自分の振る舞いを思い返す。
 独立、自主の気風を尊重する国で、メンバーの気持ちを十分に汲み取っていたか。一人一人の特性を生かそうと真剣だったか。

                         *

 会長は、アメリカの幹部や青年との懇談のなかから、要望を受けて、いくつかの提案をしてきた。
 1.財政の透明化……収支報告を明確にする。金銭問題を起こす幹部に常に厳しい。
 2.法人会則の明文化……リーダー個人の資質に左右されないシステムの整備を。「成功したアメリカ企業は、強いリーダーシップとルールが厳格である」
 3.会員第一の精神……「温かさを失ってはならない。会員を大切にしないと、組織が壊される」
 4.合議制の実施……上意下達は時代遅れだ。組織の打ち出しを一方的に落とすような会議は行き詰まる。
 5.文化本部の設置……医学者、法律家、教育者らの特性を生かす場を設けてはどうか。
 これは、ほんの一端である。
 日本の組織と一線を画した上で、アメリカをSGIのモデルケースにしょうとの意図がうかがえる。

 ▼あくまでも「良き市民」として生きる。

 ◇「理知的で進取に富んでいる」

 池田会長は、ユダヤ系、アフリカ系、イスラム系など多様なアメリカ人と対話を重ねてきた。
 政治家、学者、経済人、芸術家、社会運動家……。交流の幅は広い。
 肩書きで人を選ばない。ある著名人との会見を用意した幹部に語ったことがある。
 「肩書きでなく、誠実な人と語り合いたい」
 ハワイ・東西センターのオクセンバーグ理事長。カーター政権下は国家安全保障会議の中国・インドシナ担当上級スタッフだった。
 クリントン政権下でも米中関係のアドバイザーだった。
 学会への関心は高かった。
 軍部による壊滅的な弾圧を受けながら、日本最大の宗教団体になった。戦
 後日本の奇跡的な復興のエネルギーの一つである。
 しかも共産主義国とも友好を深め、世界各国に会員がいる。
 ミスター池田。どんな人物なのか?
 来日した際、オクセンバーグは関係者に尋ねている。「お会いする際、特別なルールはありますか」
 東洋の宗教指導者と会う場合、往々にして制約や慣例がある。
 身体に触れてはいけない。目を合わせてはならない。ひざまずく必要がある。エトセトラ。
 答えは「なにもありません」。
 会見を終えたオクセンバーグは声を弾ませた。
 「理知的だ。進取に富んだ宗教指導者だった」

                          *

 アメリカ大統領との会見も、J・F・ケネディ以来、幾度となく話があった。
 一九九二年、当時のジョージ・ブッシュ大統領のパーティーに招待された。
 この時も、会長から指名を受けて山崎尚見(最高指導会議員)が応じている。
 この時だけではない。「アメリカは政治の国。あえて人所高所から考え、大統領と会う選択肢をとられなかったと思います」(山崎)
 政治と一定の距離を置く。特定の党派や勢力に与することはない。あくまでも「良き市民」として生きる。SGIの一貫した原則である。

                           *

 池田会長がアメリカで刻んだ足跡は多い。
 アメリ創価大学、ボストン二十一世紀センターの創立。ハーバード大学などでの講演。米国務長官キッシンジャー、経済学者のガルブレイス、レスター・サロー等々との対話。
 文明間対話の対談集だけでも--
 ヌール・ヤーマン(ハーバード大学教授、文化人類学者)
 ドゥ・ウェイミン(ハーバード大学教授、儒教研究の世界的大家)
 ハービー・コックス(ハーバード大学教授、宗教学研究の第一人者)
 エリース・ボールディング(平和学者・社会学者)
 ヘイゼル・ヘンダーソン(未来学者)
 マジッド・テヘラニアン(平和学者)
 ノーマン・カズンズ(ジャーナリスト・医学者・平和思想家)
 ライナス・ポーリング(世界的科学者、ノーベル化学賞・平和賞受賞者)……。
 四〇年以上におよぶアメリカ社会への貢献については、稿を改めて述べたい。

 ◇写真の中の笑顔

 かつてキャンプ座間からアメリカに渡ったアキヨ・リウェリン。
 二軒長屋に住んでいた戦争花嫁は仏法と出会い、段ボールの仏壇に御本尊を安置した。
 それから四十余年。娘のジョアン・マクミランはオーストン市の女性リーダーに。孫娘のリサは今年五月にアメリ創価大学を卒業した。
 なぜ米兵と結婚したのか、なぜアメリカに来てしまったのか……。あの孤独に打ちひしがれた日の面影は見当たらない。

                            *

 「うーん」
 江成常夫は白いものが混じった髪を撫でながら考え込んでいた。
 「やはり確かめに行こう」
 一九九七年、渡米の準備を始めた。
 一貫して日本人と戦争の関わりをテーマに取材してきた。すでに木村伊兵衛写真賞土門拳賞、毎日芸術賞などの栄誉にも浴していた。
 そのうえで、どうしても確かめたいことがあった。あの戦争花嫁たちは、どうなったのか。
 二〇年ぶりに追跡取材し、再び写真集にまとめようと思い立った。
 当時の赤ん坊が成人していた。音信不通の女性も数多い。思いがけない後半生の激変に瞠目したケースもあった。

 そのなかで、やはりSGIの女性は違った。光ってみえた。
 「彼女たちと巡り会っていなければ、私の人生も変わっていたでしょう」
 写真集のタイトルは『花嫁のアメリカ 歳月の風景』(集英社刊)。
 一枚一枚、ページをめくりながら回想する。
 「そういえば二〇年前、彼女たちの口から、よく池田会長の話が出てきました」
 懐かしそうに語る。
 「私など、たまたま戦争花嫁という視点が評価されたようなもの。池田会長は世界的な活動のなかで、戦争花嫁一人一人の幸せに光を当ててこられた」
 一枚の写真、一瞬の表情の背後に、幾十年にわたる歳月の流れがある。SGIメンバーの写真を指差しながら続けた。
 「ああ、この一家は大邸宅に住んでいましたね。この人は何十人もの大家族に囲まれていた。人種融合のモデルですね。二〇年たって、以前よりも、もっと幸せな生活を送っている」
 写真の中の彼女たちは、みな笑顔だった。

(文中敬称略)

池田大作の軌跡」編纂委員会