第25回 遠藤 周作氏

仏法は強くなるための信仰
21世紀の宗教の条件「平易な言葉」「寛容性」「明朗さ」


 「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず」──私は深く、あなた方を敬います。決して軽んじたり、慢(あなど)ったり致しません。
 これは、法華経・不軽品の一節である。
 真の対話は、他者の尊極の生命に対する敬意から始まる。
 この点に関しては、世界的な文化人類学者ヌール・ヤーマン博士とも一致した。「相手を尊敬すること」そして「耳を傾けること」である、と。
 そうした対話の極意を生き生きと体現されていた文豪が、遠藤周作先生であられる。
 私も御一緒に、楽しく清々しい、そして忘れ得ぬ対話の歴史を刻ませていただいた。
     ◇
 遠藤先生が「週刊朝日」に連載されていた対談に、私がゲストとして招かれたのは、昭和43年(1968年)の師走、12月20日のことであった。
 昭和30年に32歳の若さで芥川賞を受賞された先生は、すでに文壇に揺るぎなき地歩を築かれていた。しかし、いささかも気取ったところがない。
 「池田会長とは、ぜひ一度お会いしたかったんです」
 私の著作を読まれたり、知人から話を聞いたりして、以前から熱望されていたという。対談の意気込みを、こう記されている。「今日、創価学会をぬきにして日本の仏教は絶対に語れない」「にもかかわらず日本の知識人にはこの創価学会について無知であり、無知だけではなく黙殺しようとする人が多いのはなぜか。作家として日本人と宗教との問題に関心のある私にはこの対談企画は有難かった」
 この年の5月3日の本部総会で、私は、核兵器保有国が一堂に会して、核の廃棄を協議し合うことなどを提案していた。
 さらに9月8日には、第11回学生部総会で、「日中国交正常化」の提言を行った。
 「平和」と「共生」と「生命等厳」の21世紀の創造へ、遠藤先生と大いに論じ合いたいと、私も心弾ませて対談に臨んだ。

 笑顔と好奇心

 率直な対話を愛される。明るい第一声で、緊張をほぐし、心の扉を開く達人であった。
 事前に相手のことを、よく調べ学ばれている。眼鏡の奥の伶例な眼差しが、誠実な光を発しておられた。
 ざっくばらんで、時折、交えられる関西弁が、なんとも温かい。
 談論風発。語らいは終始、和やかな雰囲気に包まれた。
 先生は、友情を結ぶための対話の急所として、「笑顔と好奇心」を挙げられている。
 「笑顔、これは相手に好意を持っていることの意思表示であるし、好奇心、これは相手が人生や生活で学んだことを尊重している意思表示だからだ」(『生き上手 死に上手』文春文庫)
 ゆえに、先生の「ユーモア」は「思いやり」と一体であった。「ぼくは小説家。会長さんは大説家」と言われながら、大きな組織を牽引する苦労を、真心から気遣ってくださった。
 話が仏法の生命論に及び、熱を帯びると、「少し折伏されてきましたよ」と遠藤先生が笑われる。こちらも「私は折伏はへタですから」と応じる。互いの笑顔がはじけた。

 青春の共通点

 5歳年長の遠藤先生と私の青春の共通点。それは「病魔との闘争」であった。
 先生のインタビューに応じて、私は語った。
 幼い頃から腺病質だったこと。悪性の肋膜炎を何回も繰り返し、恩師から「30までは生きられないだろう」と嘆かれたこと。しかし、生と死を深く見つめる上で、病気との闘いは幸せだったこと──。
 「夜中に出る寝汗、あれはイヤだけれども美しいですね」。そう申し上げた際、先生が語られた一言が印象的だった。
 「ぼくも大病の経験がありますから知っていますがあれはつらい。つらかった」

 病が人を深くする


 遠藤先生の前に立ちはだかったのも、結核であった。
 フランス留学も、志半ばで断念せざるを得なかった。さらに37歳から2年もの入院。その間、1年に3度にわたる手術も強いられた。
 特に2年の入院は、芥川賞を受賞後、精力的に作品を発表していた頃だった。同世代の作家が活躍するなかで、さぞかし無念と焦燥の日々が続いたことであろう。
 だが先生は、生き抜き、勝ち越えられた。
 「私は手術によって七本の肋骨を失い、片肺を切りとられたが、私が獲たものは七本の肋骨や片肺よりも、もっと大きなものだった」(前掲書)
 それは何か──。命に及ぶ大病との格闘を通して、悩める人や弱い立場にある人への温かな眼差しを獲得されたのである。
 蘇生から4年。闘病で得た視座によって描いた渾身の力作『沈黙』(昭和41年)は、戦後日本文学の代表傑作となった。私も、ブルガリアの著名な芸術史家ジュロヴァ博士との対談で紹介させていただいた。
 「病気を正しく理解してこれに耐える人は、深く、強く、大きくなり、それまで理解できなかった識見や信念を体得するにいたります」──スイスの大哲学者ヒルティの言葉が思い起こされる。(岸田晩節訳『ヒルティ著作集第七巻』白水社
 人生は誰人たりとも、病は避けられない。病の挑戦に対して受け身になるのではなく、勇気をもって忍耐強く応戦していくなかで、自らの人間革命が成し遂げられるのだ。
 仏法では、「病によりて道心はをこり候なり」「病ある人仏になるべき」(御書1480ページ)等と、明確に説かれている。

 弱虫と強虫の宗教

 敬虔なキリスト教徒として、また文学者として、宗教への探究の眼は、誠に真剣であられた。
 私との対談で、遠藤先生は、仏教を大きく「弱虫が母親に甘えるような宗教」と「父親型で自己訓練型の強虫の宗教」とに立て分けておられた。
 そして創価学会は、「強虫になる宗教」と評価されていた。
 確かに、日蓮仏法は「厳父の愛」であると、わが師・戸田城聖先生は言われた。
 安っぽい同情心ではない。人々の悩みを取り除き、心の底から安心と希望を与えるまで、徹底して戦う責任感。これこそが仏法の慈愛であると、私は恩師から教わった。
 同時に仏法は、自分自身が最高に強くなるための信仰である。まず自分が強くならねば、苦悩の人を励ませない。尊き学会員も護れない。だから、徹して断じて、強くなれ! これが「戸田大学」の薫陶であった。
 対談で、遠藤先生は、多くの会員の悩みを背負う私の責任の重さを、幾たびも思いやってくださった。関西弁で「さぞ、シンドいでしょう」と。
 そのたびに、私は明言した。「当然の苦しみ、悩みと戦って前途を開いていく宿命だと、こう自分に言いきかしております」
 遠藤先生は、「会長さんは強虫だ」と、兄のような笑みを浮かべられた。
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 先生は、キリスト教の2000年の歴史と伝統を踏まえられながら、世界宗教に要請されるポイントを語られた。
 要約すると、「わかりやすい言葉」「寛容性」「明朗さ」の3点である。
 いずれも、どうすれば宗教は庶民に受け入れられるか、という問いから出発されている。
 第1に「わかりやすい言葉」。
 普通の人にわからなければ、宗教なんて意味がない!──これが先生の信念であられた。
 第2に「寛容性」。
 キリスト教が現代にまで流布してきた理由として、他の思想・芸術などに対する「柔軟な感覚と理解」を挙げておられた。
 そして最後に「明朗さ」。社会に開かれ、庶民から親しまれ愛される明るさである。
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 創価学会本部のある、信濃町駅のすぐ近くに立つ「真生会館」は戦前、カトリック学生寮であった。若き日の遠藤先生が、向学の青春を過ごされた場所である。不思議な御縁の先生であられた。
 私との対談から2年後、先生は月刊誌「潮」に「二十世紀宗教の限界を越えて」と題する一文を寄せられた。その寄稿は、こう結ばれている。
 「宗教をこれほど人々が希求する時代はないにもかかわらず、宗教が現代を支えられぬままになっているのが二十世紀の宗教である。だがやがて必ずそれらすべてを支えるものが生れてくる」(『春は馬車に乗って』文春文庫)
 21世紀の世界宗教に託された期待は大きく、そして深かった。

 母の祈りと文学

 遠藤先生が小説家として大成された陰には、お母さまの存在があった。
 子どもの頃から、どんな時にも、お母さまだけは「あなたは大器晩成よ」と言って、励ましてくれたという。
 そのお母さまが祈り続けておられたことがある。それは「どうか人を感動させられるような深い文学を書ける人になってもらいたい」と(遠藤順子著『夫・遠藤周作を語る』文春文庫)。
 「母の祈り」と「文学の力」──もう一度、お目にかかって、遠藤先生とじっくりと語り合いたかったテーマである。

 〈本文中に明記した以外の主な参考文献=『怠談』番町書房、『この人に聞く2』学生社〉