相手を変えるためには

《指導の要点》 
すべての問題は、自分自身に悩まなければならない因があって、まわりは縁である。
回りを変えるには自分自身を変えることが先決である。


指導を受けに来る人に、よくこういう人がいます。
「主人が悪い」「姑が悪い」「子供が悪い」「幹部が悪い」「あれが悪い、これが悪い」「悪くないのは自分だけ」と思っている。(笑い)
 私が悪いために苦しんでいるといってくる人はひとりもいない。みんな、ほかが悪いということになっている。今日も自分は悪くない人ばっかりが集まっている。(爆笑)
 どんな問題でも、結果が生じるには、必ず、因と縁があります。因としての種がある。それに、縁という水を全然やらなければ育たない。また、いくら水をやっても種がなければ芽も出ない。
 ここに水があります。沈殿物があれば、かき混ぜると水がにごる。かき混ぜるというのは縁。沈殿物はにごる因です。
 夫婦喧嘩ばっかやって相手が悪いといっている人は「あんたがかき混ぜたからにごった」といってるのと同じですね。
 いくらかき回したって、沈殿物がなければにごらないんですよ。沈殿物があったことに気づかないで、人ばかりうらんでいる場合が多いのです。
 自分自身に因があって、それが縁によって生じているということに気づかない。
 夫婦喧嘩をやっているのは、主人からいえば「家内が悪い」、奥さんは「主人が悪い」という。「私が悪い」といって喧嘩している人は一人もいない。
 戸田前会長が市ケ谷の事務所で個人指導されていたとき、ある婦人が「内の姑は、根性曲がりで、意地わるで、いくらいってもかなわない」と姑の悪口をいっぱい並べた。戸田前会長は「若いあなただってなかなか自分の根性が直らないじゃないか。まして年とった姑さんの根性を直そうというあなたの根性がよくないよ」といわれた(笑い)そしてこんこんと指導されて、その人が「本当にそうだ。おばあちゃんじゃない。私が悪かった」と気づいて家に帰ったところ、その姑さんも変わっていたそうです。
 ほかの問題も同じです。
 相手じゃない。子供じゃない。親じゃない。自分自身の宿命の転換が信心なんです。
 「主人が、主人が・・・・・・」「子供が、子供が・・・・・・」といっている間は、いつまでたっても解決しない。なぜ主人や子供で苦労しなければならないのか・・・・・・。それを考えなければならないのです。
 たとえば子供のことで悩む。それは、自分自身が間違った宗教をやってきたが独で子供で苦労する宿命を持ったことと、それに気づかず相手が悪いとうらんでいたことの現在の信心の姿勢に因がある。子供で苦労しなければならない自分の宿命を転換すれば子供が変わるのです。
 子供で苦労している人は、たいてい、子供が悪い、子供が悪いという。私から見れば、子供より、その親のほうがよっぽど悪い。(笑い)
 大事なことは、自己の宿命を見つめて、その転換を祈っていくことです。
 御書全集の九三〇頁をみてごらんなさい。
 「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」と。
 亜闍世王のような大逆罪のような人であっても、心の底から懺悔すれば罪が消えていく。しかし、懺悔がなければ、小さい罪さえも消えない。本当に、自分の宿命を見つめて、過去、現在の謗法をおわびし、題目を唱え抜いていけば、転換できない罪業などないのです。
 身近な例でいうと、百万円払わなければならないのに、三万円、五万円で軽くすましてもらう。これが転重軽受です。借りたものは返さなければならない。自分が作った因は、自分が受けなければならない。しかし、信心の功徳で思い罪業も、全部驚くほど軽く受けながら、最高に幸せな境涯になっていくのです。

【指導の泉 和泉覚 25p−28p聖教新聞社 1979年発行】



ここでは家族の問題が挙げられているが、組織においても同じであろう。
後輩がいうこと聞かない、先輩・幹部に分かってもらえない。
全部自分の命なんだ。


深く、深くお題目をあげていこう。