第2総東京最高幹部協議会 中

心とは幸福への行動
御聖訓「一人のために法を説く人は仏の使い」
傍観するな 沈黙するな 正義を叫べ! 語り抜け

 一、組織を発展させていく要諦は、何か。
 それは中心者の一念である。どこまでも「師弟の精神」を根本に、学会とともに、まっすぐに生き抜くことだ。
 そして、大事なのは真剣さだ。行動である。
 リーダーが必死に祈り、動いている組織は発展する。反対に、中心者が内では威張ってばかりいて、外に打って出ないような組織は発展できない。
 自らが率先して、人と会っていく。新しい友情を結んでいく。そして、学会の偉大さ、師弟の素晴らしさを堂々と語り抜いていく。それでこそ、新しい時代は切り開かれていくのだ。
 中心者が本当に真剣に戦って、充実した一日一日を送っていれば、周りにも勢いが伝わる。歓喜の波動が広がっていく。皆も幸せになる。
 組織といっても、中心者で決まる。この一点をあらためて訴えておきたい。
 もちろん「真剣」といっても、怖い顔ばかりしていたら、皆、逃げていってしまう。心には闘志をたぎらせながら、友に会うときはニッコリと微笑んで、温かく励ましていくことだ。
 ともあれ、信心とは「幸福への行動」である。仏法の生命は、どこまでも「行動」の中にこそあるのだ。
 絶対勝利の4原則の第二は「行動」である。

 「道の遠さに志が現れる」
 一、まもなく、立宗の日(4月28日)を迎える。末法万年の全民衆を救うため、日蓮大聖人は大慈悲で立宗宣言をされた。それは、大難と戦い「尊き弘法の歩みを貫く出発点となった。
 この立宗宣言に至るまでの間、若き大聖人は向学の行動に徹していかれた。
 大聖人は述べておられる。
 「随分あちこち走り回り、十二・十六の年から三十二歳に至るまで二十余年の間、鎌倉・京都・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々、寺々をあらあら学んで回った」(御書1407ページ、通解)
 真実の民衆救済の大法は何なのか──。
 それを明らかにするために、大聖人は仏道を志されて以来、立宗宣言の32歳までの間、諸国を回りに回り、研鑽を重ねられたのである。
 御聖訓には、こうも仰せである。
 「天台大師の御弟子の章安という人は、万里の道を踏み分けて法華経を聴かれた。伝教大師は二千里を経て摩訶止観をならい、玄奘三蔵は二十万里も旅して般若経を得られた。道の遠さに志があらわれるのであろうか」(同1223ページ、通解)
 求道と弘通の仏法者たちは、遠き道のりを、ものともしなかった。ただ民衆救済の大法を求めて、万里の道を歩きに歩いた。その道は、仏法探求の大道であり、仏法弘通の大道であった。
 行動なくして仏法は存在しない。広宣流布のために、どれだけ動いたか──そこに本当の信心が現れるのである。
 求道の道、弘通の道。この「道の遠さ」は、そのまま深い「志」の現れである。
 「心こそ大切」(同1192ページ)である。真実の志は、必ず「行動」として現れる。逆に見れば、「行動」なき信心には真の「志」はない。
 役職や立場ではない。「行動」という姿そのものに、その人の信心の厚薄が端的に現れるといえる。
 広宣流布のために現実に行動している人こそが最も尊いのだ。その人を大切にすることを、リーダーは決して忘れてはならない。

戸田先生
 誠意誠実といっても行動が伴わなければ何にもならないぞ

 歩きに歩いた
 一、大聖人は、遠方まで、はるばる御供養をお届けした弟子の信心を、こう讃えておられる。
 「たとえ志はあっても、行動にあらわすことは難しい。そうであるのに、今、あなたが志をあらわされたのを見て、その信心が並大抵でないことが、わかります」(同1554ページ、趣意)
 さらにまた、御書にはこう記されている。
 「一切衆生法華経を誹謗して(不幸の道を)流転するのを見抜いたゆえに、(それをとどめるために)日蓮が日本国を経行して(=歩いて)南無妙法蓮華経を弘通している」(同816ページ、通解)
 釈尊とその弟子たちも、歩きに歩いた。
 大聖人とその門下も、歩きに歩かれた。
 牧口先生も、戸田先生も、歩きに歩かれた。
 「広宣流布のために、常に行動していく人は、まことの大聖人の門下であられる。これこそ、学会にあっては私の真の弟子である」
 この戸田先生の指導のままに、私も、行動に徹してきた。世界中を動き、走ってきた。
 この「行動」によってこそ、太陽の大仏法は、世界190カ国・地域にまで正しく伝えられ、広まってきたのである。
 戸田先生は、「誠意、誠実といっても、行動がともなわなければ、何にもならないぞ」とも、よく言われていた。
 私も「行動」しか信じない。いな、「行動」しか信じられない。
 大聖人は御書の中で、法華経法師品の次の文を何度も引いておられる。
 「よくひそかに一人のためにでも、法華経、乃至はその一句だけでも説くならば、まさに知るべきである。この人は如来の使いであり、和来から通わされて、如来の振る舞いを行じているのである」(同1359ページ、通解)
 妙法を語り、弘めゆく「行動」こそが、仏に連なる道である。これは永遠に変わらざる法理である。

 青春を
  悔いなく飾れや
   自らが
  人間錬磨の
    行動起こして

 清き心で行動を続ける、白蓮グループの友に贈った一首である。
 一、第2総東京の皆様は、新たな広宣流布の拡大の道を開くために、智慧をわき出して、先駆の行動を生き生きと起こしてこられた。
 婦人部と女子部が一体となって『新・人間革命』を研鑽し、友人もともに参加されゆく「コスモス平和大学校」も、まことに素晴らしい。
 また婦人部の「御書アカデミー」も、「行学の二道」の大いなる推進力である。
 女子部時代から、まっすぐに薫陶を受けてきた方々が活躍する、ヤング・ミセスの「マイ・サークル運動」も、さわやかな共感と友情を広げている。
 さらに婦人部の「女性広報部」の人間外交も、なんと清々しいことか。
 愛するわが地域に貢献しゆく、若手の壮年・婦人部の「地域先陣会」の方々も、深く地元に信頼の根を張っておられる。
 さらに、正義と勇気の「教宣部」の皆さま方の健闘も、大聖人は、どれほど賞讃してくださっていることか。

熱原の法難の中大聖人の御伝言「皆、同じ心で」進め
異体同心が勝利の方程式
「城者として城を破る」魔性の根を断て

 広宣流布を妨げる悪に対して、ずる賢く沈黙したり、傍観したりすることは、それ自体が悪に通じてしまう。
 御書には仰せである。
 「法華経の敵を見て、世をはばかり、世を恐れて黙っていたら、釈尊の敵となってしまう。どんな智人・善人でも必ず無間地獄に堕ちる」(同1412ページ、通解)
 この戒めを、ゆめゆめ忘れてはならない。
 仏法破壊の悪人とは、「言論の剣」で、断じて戦い抜いていくことだ。

妙法を持つ人は皆、仏に 互を讃え尊敬し合え

 今いる場所を使命の舞台に
 一、どんな場所であれ、今いる場所が、わが使命の舞台である。そこで最高の広宣流布の思い出を残していただきたい。
 若き日に私は、東京・大森の「青葉荘」に住んでいた。狭い部屋で座談会も行った。
 その後、大田区山王のアパートを経て、小林町に引っ越した。
 小林町の家は小さく、住み始めた最初は塀もなかった。あの家で、さまざまな方と語り合った。
 「創価学会の会長というのは、こんなに質素な生活なのですか」と驚く方が何人もおられた。わが家に気づかず通り過ぎ、探し回る人もいた(笑い)。
 大森も、山王も小林町も、いずれも、つましい家だった。しかし、いずれも、青春の金の城だった。私はそれぞれの地を拠点に、広宣流布の理想を抱いて、全力で走り抜いた。そして勝っていったのである。

 「同体異心なれば諸事叶う事なし」
 一、仏法の世界が、なぜ美しく、深く、強いのか。それは「異体同心」という究極の団結があるからだ。
 絶対勝利の4原則の第三は、「異体同心」である。これこそ、広宣流布を成就させる要諦だといえよう。
 異体同心の組織は、必ず発展する。反対に"同体異心""異体異心"の組織は、必ず衰退する。
 「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(同1463ページ)とは、永遠に忘れてはならない大法則であり、黄金律である。
 勝負は、ひとえに異体同心の組織をどう築いていくかにかかっていると言っても、決して過言ではない。

 「水魚の思」で
 一、幾たびも拝してきた御文だが、「異体同心事」の甚深の一節を、重ねて生命に刻んでまいりたい。
 「一人の心なれども二つの心あれば其の心たが(違)いて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず、日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(同ページ)
 異体同心の団結があれば、必ず広宣流布できる、必ず勝てるとの大確信であられた。
 有名な「生死一大事血脈抄」には、こう説かれている。
 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(同1337ページ)
 広宣流布は魔軍との戦いである。
 どんな金城鉄壁の城も、1カ所、どこかに隙のある場所、弱い場所があれば、そこから敵に攻め込まれてしまう。
 いわんや、城の中に「異体異心の者」がいれば、魔にたやすく城を撹乱される。
 この御文に続けて、「剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(同ページ)と仰せの通りだ。
 あの熱願の法難(弘安2年=1279年)の前年に、大聖人が「くれぐれも、駿河の人々は、皆、同じお心でおられるように、とお伝えください」(同1479ページ、通解)と強調されたことを、深く拝していかねばならない。
 戸田先生も、「団結第一でいけ!」と徹して訴え抜いておられた。
 また、「御書にあるように『自他彼此の心なく』異体同心であってこそ、生死一大事の血脈、仏になる血脈を継いでいるのだというのです」とも語られた。

 「信心の団結」を
 一、また、「水魚の交わり」という言葉もある。
 『三国志』において、劉備玄徳が、智慧の名将。諸葛孔明との絆を重んじた故事に由来する名句である。
 ちなみに、孔明劉備よりも20歳若かった。しかし、年下だからといって、見下したりするのではない。英知が光り、正義に生きる青年を、一個の人格として、最大に尊敬していったのである。
 異体同心の団結には、上も下もない。
 「同体」ではない。「異体」である。それぞれの個性、特質を大事にして、皆が「同じ心」で、平等に力を合わせていくのである。
 戸田先生は言われていた。
 「創価学会のこれまでの発展というものは、なんの団結によるものかといえば、信心の団結以外には何ものもない。
 異体だが、同心とするものの団結である。
 心などというものは、縁に紛動されて、どうにでもなってしまう。それが同じ心になるというのは、よくよくのことだ。号令をかければ簡単にできるなどというものではないのです」
 めまぐるしく動く、自分の小さな感情にとらわれていては、「異体同心」はできない。
 富士のごとく、どっしりと、何ものにも揺るがぬ自分自身の信念を堅持することだ。そしてまた、大海原のように境涯を広げながら、同志を包み、励ましていくことだ。

一歩 一歩、広布の大道を

戸田 先生
君も苦労をしているか。それではお互いに御本尊に祈ろうではないか──これを異体同心というのです

 一、戸田先生は、わかりやすく、こうも語っておられた。
 「君も苦労しているか、君も苦しいか──それでは、お互いに御本尊を拝もうではないか。
 これを異体同心というのです」
 御書には、次のように仰せである。
 「絶対に、法華経を受持する者を互にそしる(=悪意の心でののしる)ことがあってはならない。
 その理由は、法華経を持つ者は必ず皆仏なのであり、仏をそしれば罪を得るからである」(同1382ページ、通解)
 「法華経を一偈一句でも説く人に対しては、『当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし』の道理であるから、(法華経を持った者は)仏を敬うがごとく、互いに尊敬し合うべきである。たとえば、法華経の宝塔品の儀式のとき、多宝如来が半座を分けて釈迦仏を迎え、二仏が並座(並び座る)したように、互いに尊敬し合わなければならない」(同1383ページ、通解)

 「名聞名利」の輩を追い出せ
 一、さらに、「異体同心」を固める重要な点がある。それは「城者として城を破る」動きを許さぬことだ。
 師子身中の虫である「異体異心の者」と徹して戦い、その魔性の根を断ち切っていくことだ。
 戸田先生は厳命なされた。
 「いかなる幹部であろうと、広宣流布を忘れ、自己の名聞名利で、自己の派閥をつくろうとする人間には、断固として、幹部が団結し、自分勝手な利己主義の輩を追放せよ」
 "戸田の命より大切"と言われた、この創価学会の和合を、未来永遠に護り抜く。
 広宣流布の命脈は、この一点にあると訴えておきたい。

 千万の
  誉れも高き
    同志かな
  異体も同心
    永遠に不滅と

    (下に続く)