兵庫へ

摂津、播磨、但馬、丹波、淡路――多様な顔を持つ大県を、
一つにまとめたあげた人こそ、池田会長だった。
=親をも及ばぬ、砕身の激励があった。=

「大阪の戦い」を終えて

 ただならぬ響きの声が廊下にもれてくる。池田大作青年室長は足を止めた。
 そっと仏間をのぞき込む。端座して、ひたぶるに祈っている男がいる。何か大きな壁に立ち向かっているように見えた。
 一九五六年(昭和三十一年)秋。大阪の鶴橋にあった関西本部での一コマである。
 顔に見覚えがある。確か尼崎の青年だったはず。この年、歴史に残る大阪の弘教で奔走してくれた。器用に立ち回るタイプではない。武骨で実直。裏方仕事の労も惜しまない。
 大阪の中心者・白木義一郎を呼んだ。「何を悩んでいるのか。よく相談に乗ってあげなさい」
 白木は同年の参院選で当選。関西全体が、ひと山越えて、安堵の息をついていた。
 その関西で室長は、次の闘争へ走り出していた。
 激増した会員を、いかに育成するか。この右肩上がりの勢いを、いかに持続していくか。
 一切の土台は「陰の一人」を大切にすることだ。

             *

 男は谷井茂。尼崎の男子部で輸送班(学会行事を運営する人材グループ)をしていた。
 十代で両親を失う。天涯孤独の青春。海軍に入隊。戦友にだけは心が許せたが、終戦でまた、ひとりぼちになった。家族、学歴、仕事、友達、貯金。何もない。
 元手のいらない靴磨きになった。大阪・梅田で、ぺたんと腰を落とし、客の靴から泥を落としているとき、座談会に誘われた。
「まあ、座りなはれ」。人から座布団を勧められたのは、生まれて初めてだった。座ると膝がふかふかした。
 満足に学校に通えなかったから字が読めない。入会後、ある会合で御書(日蓮の手紙や著述集)を読むように指名され、棒のように立ちつくした。
 これで何度、恥をかいてきたこと か・・・。
 背中から小さな声。後ろの人が機転を利かせ、助け船を出してくれた。ゆっくり口にする言葉を復唱した。この時、御書を上下逆さまに開いていたが、誰も笑わない。多かれ少なかれ、みなお互いさまだった。
 池田室長が育てた大阪は、無性に温かかった。仏法を学びながら字を覚えた。
 一九五六年(昭和三十一年)、難波の戎橋のたもとで、靴磨きの客に「こんどな、スポーツの白木が選挙に出るんや」と声をかけ続けた。

             *

 室長が察したとおり、谷井は悩んでいた。三十を過ぎて身を固めたいが、ままならない。天涯孤独なだけに、家族をもつことが怖い。自信もない……。
 事情を聞いた室長は、白木に仲立ちしてもらい、縁談をまとめた。定収入のある仕事にも就かせた。
 一将功成りて万骨枯る ー 室長は、この愚行を排したかった。「大阪の戦い」は見事に勝ったが、いまだ会員は貧しかった。長い人生の坂を上り始めたばかりである。きめ細かいアフターケアが必要だった。
 この時期、室長は関西で、幾百人もの?谷井″の面倒を地道に見た。
 今日の池田会長と関西の紐帯は「大阪の戦い」「大阪事件」など、歴史に残るドラマにのみ、淵源があるわけではない。ポスト「大阪の戦い」など、それこそ――
 親をも及ばぬ……
 砕身の激励があったればこそなのである。


丹波篠山の木こり=

 兵庫県丹波篠山。
 カーン、カーン。木に斧を入れる音がする。
 早朝に大阪を出発した後藤幸子は、この音が聞こえると、ようやく目的地が迫ったことを知る。
 もうすぐや。
 崖伝いの細い道。右手で長女の手を引き、左手で山肌をたどりながら足を運んだ。すぐ後ろに同行した婦人部員もいる。   
 伐採現場。スギやヒノキが地響きをたてながら倒れていく。
 後藤たちが着くと、山男が集まってきた。斧やノコギリを片付け、道具入れから御書を大事そうに取り出した。切り倒した丸太を矩形に並べ、山の座談会が始まった。
 昭和三十年代なかばのことである。後藤は梅田支部の地区担当員。篠山に受け持ちの班があった。

             *

「大阪の戦い」で、尼崎市内の行商人の男性が入会。大阪から日用品や雑貨を行李に背負い、丹波篠山へ。帰りに栗や黒豆など山の産物を仕入れていく。商いで知り合った木こりを折伏したことから、丹波山中に布教の手が伸びた。
 山奥の班へ通うため、後藤は福知山線の始発列車に乗り込んだ。篠山口で下車。バスに乗り換え終着地へ。さらに別路線で山奥に向かい、ここでも終点で降りる。すでに昼が近い。弁当で腹ごしらえして、徒歩で伐採現場にのぼっていく。
 丸一日がかりである。座談会が長引き、最終バスに飛び乗る日もあった。「あれ、何やろ?」。黒く大きな影がバスの前を駈けていく。「イノシシですわ」と運転手。「こんな大きいの、大阪では見られへんでしょう」


=芦屋の座談会=

 御書を小脇に抱えた城所俊子は、芦屋の屋敷町で、宏壮な邸宅を見上げた。
 今日、座談会を開く会場である。一九五四年(昭和二十九年) に神戸の長田で入会し「大阪の戦い」も経験した。
 外門をくぐり、玄関に立つ。木目も鮮やかな上がり“かまち”である。長い廊下に沿って、壁に矢印が示されている。順路にしたがっていくと、やっと仏壇のある部屋に着いた。
 長田では、がらっと長屋のガラス戸を開けば、家の一番奥まで丸見えだった。
 長屋の会場とは大違いやな……。
 しかし、いざ芦屋で話し始めると、何のことはない。病気。生と死。家庭不和。会社の人間関係。悩みの本質は何ら変わらない。
 むしろ外聞をはばかり、あけっぴろげに相談できない分だけ、深刻だった。弁護士、音楽家、会社社長・・・。見栄や世間体が解決を遅らせている。
 下から上を動かせー・
「大阪の戦い」で池田室長から叩き込まれている。
 知的な風貌の紳士と対面した。大阪大学の名誉教授。「死ぬのが怖いんです。」生命論を語ると後に入会した。
 そごう百貨店の支店長夫人。大きな家。高級な車。何一つ不自由のない生活なのに、心の中は空っぽだった。それがくだんの高級車で聖教新聞を配るようになると、すっかり明るくなった。
 中尾嘉子。界隈でもひときわ目を引く大屋敷。夫は大手商社の副社長だったが、出世レースに敗れる。長男は重い病に倒れ、次男は原爆で死んだ。「財産がいくらあっても、それだけでは絶対な幸福はつかめない」
 市井の一女性に勧められ入会。富では得られなかった充足感にあふれる。屋敷には古びた自転車が並び、庶民の笑いが響くようになった。
 浦嶋秀雄。大手商社の花形社員として、ニューヨーク、上海を渡り歩く。戦後、神戸に戻ると、財閥解体が待っていた。
 起業から九年後、五十六歳で学会と出会う。社長でありながら毎夜、神戸の坂をかくしゃくと歩き、仏法を語る。
「大事なのは人としてどう生きるか。本当の生き甲斐は、ここにある」


=アシックスの創業者=

 アシックスの鬼塚喜八郎が机の上で時折、ふさぎ込むようになったのは、自社がスポーツシューズで日本のトップメーカーに躍り出たころである。
 戦後、履きだおれの街・神戸の長田で、靴製作を一から学んできた。休日返上で売り歩く。創業九年目の一九五八年(昭和三十三年)には、中小企業庁から優良企業として表彰を受けるまでに。売り上げも急速に伸びていった。      
 しかし収益がふくらむと、ある疑念が首をもたげてきた。利潤の追求が企業のすべてなのか。果たして会社は自分のものなのか。
 毎日、夜遅くまで社員は汗を流してくれる。経営者の自分だけ、いい思いをしてはいけない。悩む日々。トップは孤独である。
 近所の美容師が学会員だった。
?髪結いのおばさん″と呼んで、長く慕ってきた。
「もっと会社を立派にしよう思うたら、あんた自身の生命力を強くする信仰をせなあかん。人間革命することや」
 ずばりと踏み込んでくる。
「それが従業員を幸せにしていく根本の道やで」
 座談会に足を運んだ。誰もが苦労を背負っているが、屈託がない。からりと陽性。笑顔で励まし合っている。
 これや!
 池田SGI創価学会インタナシヨナル)会長の思想を学び、経営理念に反映させた。
「自分の幸せだけではいけない。同時に他者の幸福を可能にすることで、社会に寄与する経営でありたい」
 一グラムでも軽く、衝撃をやわらげるシューズを開発し、スポーツ文化の向上に貢献した。
?裸足の王者″と呼ばれたエチオピアアベベにシューズを履かせ、マラソンで優勝させた。
 シドニー五輪の金メダリスト高橋尚子も、鬼塚に「靴がピッタリでした」と感謝した。アテネのマラソンで優勝した野口みずきイチロー(シアトルマリナーズ) の足元も守った。
 執務の合間に手を休め、よく聖教新聞に目を通した。つと目を上げ、秘書に話しかける。.
「池田先生は、こんなに世界から顕彰されて、ほんまにすごい。こういう人は、もう二度と出てこうへんわ」
 二〇〇七年(平成十九年)九月二十九日に永眠した。池田会長と共に写った記念写真を生涯の宝とした。


=兵庫の「五つの顔」=

 真っ白な色紙を手元に置いて、池田会長は、ぐいぐいと筆を走らせた。
「神戸団結」
 少し顔を離し、その四文字を一瞬、凝視する。
「うん、これでいい」
 一九六三年 (昭和三十八年)五月三十一日。初の兵庫本部幹部会。色紙を幹部に手渡す。
 取り組むべき課題を決めたうえで、地方入りする。
 今回のテーマは団結である。
「人材はいる。団結して、それぞれの地域性を生かせば、本当の力が出る」
 裏を返せば、それだけ地域の個性が死んでいる。実力が出し切れていない。
 兵庫。ここは日本の縮図である。
 工業都市、農漁村、離島が神戸を囲んでいる。四季の変化にも富み、豊岡が雪に埋まっているころ、淡路では春の花便りが届く。
 江戸期には実に二〇もの小藩が犇めいた。摂津、播磨、但馬、丹波、淡路の 「五つの顔」がある。、
 地域性だけではない。地方出身者、引き揚げ者、居住地で差別される人々、在日コリアン……。兵庫は分断の因が凝縮していた。
 互いにそっぽを向き、対立するクセがある。これでは力が分散してしまう。
「大阪の戦い」で、関西圏の礎を築いた。いずれは大県・兵庫にも、本格的な指導の手を入れなければならない。いつ「兵庫の戦い」を開始するか。タイミングを計っていた。

             *

=悪い報告ほど迅速にしなければいけない。=
 
 六五年(昭和四十年)の参議院選挙で兵庫は苦杯をなめた。東京からの派遣幹部が最悪だった。
 「題目が足りないんだ。今日から題目を数えろ」  
 独特の、おごった声音。後に造反する男である。県内の多くの店からカウンター(計数機)が消えた。カチカチ……。純真な会員は、題目と同時に必死に数をかぞえた。
 これで勝てるのか。誰もが心の中でいぶかしく思った。
「これが模範の戦いだ」。派遣幹部は、ますます自信満々である。
 投票日の当日に帰京。駅まで総出で見送りをさせる。本人は 「勝った、勝った」と呑気にピースサイン。東京で遊びの約束があり、そそくさと引き上げた。
 この行状について報告が遅れた。地元は沈黙し、会長が知るのは一年以上も後のことである。
「なぜ言わなかったんだ!」
 遅い。遅すぎる。悪い報告ほど迅速にしなければいけない。会員が可哀想ではないか。兵庫の組織は疲弊している。「五つの顔」に手を打つ時が来た。


=播磨 人材の白鷺城=

 池田会長が大阪から山陽本線で姫路に向かったのは、一九六七年(昭和四十二年)十一月二十三日である。
 東洋大学附属姫路高校で記念撮影会を予定していた。
 九年前、初めて姫路を訪れている。保守的な城下町で、なかなか会場が確保できない。ようやく借りられたのは、狭く、薄暗い劇場だった。
 全員が立ったままの会合になった。手配した幹部に「大切な会員を立たせるとは何ごとか」 と戒めた。
 明かりの乏しい小屋に、会員たちの顔がぼんやり浮かんでいる。換気が悪いのか、すえたような匂いが立ち込めている。
 よどんだ空気を払うように口を開いた。
「草創期の学会は、東京から、仙台、大阪へと地方の支部を築いてきた。いずれの地にも城がある」
「ここ姫路には、白鷺城がそびえている。戸田先生は人材をもって城となすと語られた。人材のほかに城はないのだと。城とは、ほかでもない、皆さん一人一人のことです」
 あれから九年ー一。私立高校を埋め尽くす約七倍の会員。加古川高砂、相生からも集った。
 それぞれの顔には、そびえる城にも似た気構えも感じる。

            *

 記念撮影を終え、姫路市郊外の宿舎に、いったん荷を解くことにした。すでに播磨平野は冬支度に入っている。焚き火の煙が流れ、軒下に大根が吊り干してある。
 ここ「播磨」は農村地域である。ただ闇雲に布教すれば、昔ながらの地縁、土地柄と必ず軋轢が生じる。
 宿舎近くに、七、八人の学会員が立っていた。畑仕事の途中で駆けつけた農婦の姿も見える。
 一人一人の目を見つめながら、言葉を添える。最も気がかりな点だけ、端的に示した。
 「みんな仲良くね」
 短いひとことだが、木村智子の胸に深く突き刺さった。
 木村は宗教的な潔癖さにこだわり、神社の祭礼などに反発してきた。祭りの日。わが子を悲しませないように、太鼓の囃子が聞こえない遠方まで連れて行ったこともある。
 仲良く――。近隣との協調を模索し始めた木村が、地域から推されて婦人会長になるのはそれから二三年後である。


=淡路 涙の連絡船=

「淡路」。海に囲まれた島民には団結心がある。愛島精神も強い。
 全国規模の研修会などがあると、よく会場から手があがる。
「先生、ぜひ淡路にお越し下さい」
「淡路から来ました」 真摯な響きだった。
 女子部員からの声が多い。しばしば懇願した淡路の堀内多智幸。「あんた、先生に聞いてもらうことは、それしかないんかいな」。先輩からお灸を据えられたこともあったが、この一点は譲れなかった。
 一九六八年(昭和四十三年)一月二十七日。池田会長を乗せた淡路・洲本港行きの汽船は、神戸中突堤で錨を上げた。
 一時間半ほどたつと、船は減速し始めた。優しい島影である。険しく切り立ち、人を拒絶する地形ではない。小さな灯台が迫ってきた。
 下船。体調を崩していたのでマスクをつけたまま淡路島会館へ向かった。庭でカナダ杉を植樹した後、記念撮影の会場へ急いだ。
 洲本市民会館。海峡を越え、明石からも会員が集い、二時間を越える撮影になった。
 ひとつの梯団の撮影が終わるごとに、マイクを握った。音楽隊がマーチ「旧友」を演奏。
 予定時間が延びていく。じりじり焦る運営側。「もう、そこまで!時間です」
 ストップの声を制し「もう一曲!」とリクエストした。
 タクトを握る林幸雄。三五人の音楽隊員で、車のライトを頼りに、波止場で練習してきた苦労が報われる思いがした。鼓笛隊も予定になかった「若人の歌」を奏でた。
「淡路島は、すごいじゃないか。これだけの人数で立派な演奏ができた。よくやった。忘れません」

             *

 夜の宿舎。身体を気づかった地元の会員が指圧師を呼んでくれた。好意に甘えることにした。
 肩から腰にかけ、入念に凝りを、ほぐしてくれる。
「長年やっとりますが、こんな固いのは知りまへん。どうしてこんなに肩がパンパンなんでっか」
 屈強な指圧師が首をひねっている。
「私の肩には幾百万の学会員の幸せが掛かっています。だから張るんでしょう」

           *

 翌朝。何人かの青年とこ三熊山の頂きにのぼった。市街を見下ろす洲本城の跡地。素晴らしい眺望だった。空の澄んだ日なら和歌山まで見通せるという。
 遠くを見すえたまま、青年に問いかける会長。「もし君が大将なら、この街から、どうやって天下を攻めていく?」
 戦国時代、洲本城は大阪湾から近畿と四国一帯へ、にらみを利かす要衝だった。太閤秀吉が天下取りの中国大返し将兵を割いて制した地でもあった。
「大事なのは人材だ。ここにも城を築こう」
 島の内弁慶ではいけない。関西、四国にも名を轟かす、強い組織を築け。

    *

 午後、洲本港から、帰りの船に乗り込んだ。
 見送る人は後から後から増え、一〇〇人を優に超えた。ハンカチを握りしめる者。頭上で左右に振る者。会長も白いハンカチをポケットから出して応えた。
 ドラの音。埠頭を船腹が離れていく。見送りの一団が崩れた。船を追いかけながら、灯台の方向へ走っていく。口々に何か大きな声を発している。
 学会に反感を抱いていた汽船会社の職員がいた。光景に引き込まれ、灯台まで足が動いていた。我知らず一緒にハンカチを振って涙をこぼしていた。
 同じく興味本位で来ていた地元の有力者夫人。
「私たちには信じられる人はいない。学会の人は本当に幸せだ。うらやましい」


=但馬・丹波  雲ひとつない空=

「但馬」「丹波」。山と盆地が多く、雪深い。東北人に近い気質がある。
 弁当忘れても傘忘れるな、と言われるが、但馬の豊岡に到着した日は快晴だった。
 一九六八年(昭和四十三年)四月十四日。桜の枝が、たわわに揺れていた。
「雲一つないとは、このことや」。天気には敏感な但馬人にも、まれに見る日差しだった。
 近畿大学附属豊岡女子高校での但馬、丹波、宝塚の記念撮影会。会場に入るやいなや、「先生!」と、抱きつかんばかりの純朴な会員たち。場外にも次々と人が集まってきた。
 誠意には誠意で応じる。シャッター音の合間にも、矢継ぎ早に指示を出した。
「外の人とも写真は撮れないかな」「お数珠を差し上げて」「お子さんには、何かお菓子を」
 激励品を手渡している得田昌義を見ると「えらいこっちゃ」と小さな声。姫路、淡路と記念撮影が続き、品物が底をつきかけていた。
 回ってきた紙片を見る。
「数珠二〇 袱紗一五」 残りわずかである。
 つねづね激励の品には細心の注意を払う。
 ある行事で気前よく品物を配っていた青年部幹部に一言。
「大きな行事が終わったあとは、役員が一番たいへんなんだ。その役員の人たちのために、きちんと数を残しておかなくてはならない」
 別の行事。運営担当の役員に語った。
「私は手元にある物は、全部、配ってしまう。すべて人に差し上げる。それが人間主義の指導者というものだ」
 広大な但馬と丹波の隅々に、会長の激励が行き渡った。


=「五つの顔」に「兵庫団結」の中心軸。=

             *

 進取の気性に富む「摂津」。 西宮で青年部と記念撮影会。尼崎と西宮の会館も訪問した。
 約一年で県中をまわり、「五つの顔」 の総計二万人を励ました。
 神戸団結。兵庫団結。その中心軸が生まれた。


=国際都市・神戸=

 国際都市・神戸。海外から移り住む人は多い。それぞれに、それぞれの人生模様がある。

             *

 王桂子。華僑。
「野球選手を選挙なんかに出して」
「変な宗教や」
 一九五六年(昭和三十一年)。大阪・天神橋筋で両親と、洋装店と中華料理屋を営んでいた。隣の店の従業員が、向かいの食堂をあざ笑っている。学会員の経営。「白木義一郎」の垂れ幕が張ってあった。
「選挙までやって、けったいな宗教やなあ」
 神戸に引っ越し、家庭不和と病気で行き詰まったとき、再び学会と出会う。けったいでも何でも、飛びつくほかなかった。

             *

 ローリー稲田。フィリピン出身。
「日本で仕事をしないか」
 音楽関係のプロモーターに誘われ、海を渡ったのは七〇年(昭和四十五年) だった。
 血気盛んなフィリピン人。仲間とのトラブル、客とのケンカも絶えない。薬物にも手を出した。すさんだ暮らしの果て、バンドを解散。新天地・神戸へ移った。
 契約が終了。バイトをしながら、六〇日間の観光ビザでしのぐ。期限が切れると、いったん国外へ。そのうえでまた「観光」で来日。紙切れ一枚に一喜一憂する人生だった。
 見かねた神戸の店のママ。
「ビザの問題も、この信心で必ず解決できる」
 どんと胸をたたいた。

            *

 西原ますみ。在日コリアン
 一九三四年(昭和九年)、六歳で韓半島から大阪・堺に来た。親が決めた在日の男性と結婚し神戸へ。
 八百屋や中華料理店を営むが、夫は売上金に手をつけ、飲んだくれる。
 土地を担保に借りた金をふところに入れ、夫は韓国へ消えた。四五〇〇万円の借金が残った。
 七六年(昭和五十一年)。占い師にすがると、宗教で変えるしかないと突き離された。
 ほどなく学会の名前を知る。
 近所で開かれた座談会。
「四五〇〇万円の借金、返せますやろか」「必ず返せます」

            *

 シーラ・マルカこ。インド出身。
 商社重役の父と神戸に来た。裕福な家庭の令嬢だが、重度のゼンソクに。年に数十日は病床から起き上がれない。デリー大学への留学も中退した。
 何のために生きているのか……。ゼンソクの薬で自殺を図った。
 七三年(昭和四十八年)。西宮の鍼灸師の女性に悩みを相談した。女性は学会員。
「あなたのゼンソクは業病だ」
 きちんとした身なりの幹部が家にやってきた。
「娘さんの病気は絶対に治ります」
 日本人に好感を持てなかった父親。娘のために、ここまで親身になってくれる日本人がいるとは。


=KIGの結成=

 池田会長の指針は、彼らにどんな心境の変化をもたらしたのか。
 ローリー稲田。
 人間は生来、罪深い存在であると断じる宗教ではなかった。神や聖職者から免罪を乞う教えでもない。
「たとえ失敗しても、また立ち上がれ。大事なことは勝つまで戦い続けることだ」 − 変毒為薬(毒を変じて薬となす)の思想が新鮮だった。
 シーラ・マルカ二。
 ヒンズー教の教えのもとで育った。カルマ(業)は克服できない。できないことは諦める。
 会長の言葉には、根底に前進、変革の思想がある。「人間は、幸福になるために生まれた。では何が幸福の実体なのか。自分にしかできない使命に生きることである」。衝撃だった。

          *

 一九七四年(昭和四十九年)。神戸に在住する英語圏の外国人メンバーから声があがり、英語で会合を開く関西インタナショナル・グループ(KIG)ができた。
 二年後の七六年(昭和五十一年)、池田会長と懇談する機会が、幾度かあった。
 いわゆる 「カリスマ」ではなかった。もったいぶった儀礼もない。お供の行列もいない。すたすたと平服で会場入りした。勤行の後、仏前に供えてあったリンゴを一人ずつ配っていく。
 別の機会にはピアノを弾いてくれた。「さくら」や学会歌。ごく自然な振る舞いだった。
「外国人として、奇しくも日本に来て仏法を知った。この事実を忘れてはいけない。皆さんには日本を変えていく使命がある」
 暗い過去を背負って入会したメンバーが多い。何を恥じることがあるものか。すべてに意味がある。
 質問会も開いた。アメリカ人の女性ダンサー。「日本人の夫との結婚で悩んでいます」
「どれだけ強い愛があっても、要は幸福になれるかどうかだ。愛情即幸福ではない。仏法を実践していくことは、最高の愛情表現にもつながっていく」
「愛」よりも一段深い「慈悲」の概念について語った。
 日本社会の閉鎖性、独特の家族意識…。一つ一つの質問に、時間をかけて丁寧に答えた。
 通訳は、あのシーラ・マルカニ。ゼンソクがウソのように回復していた。明快な通訳ぶりを、会長は誉めてくれた。


=残るのは宗教的信念がある人だった。=

 =被災した後の人生=

 激震でゆがんだ街並みを見ながら、テレビで、ある芸能人が語った。
「日本の仏教は、寺を開放せんかったところもあった。創価学会は別やけどな」
 名物ラジオ・パーソナリティーは呼びかけた。
「神戸の市役所には、物資がありません。でも向かいの創価学会の会館には救援物資が来ているようです。行ってみてください」
 一九九五年(平成七年)一月十七日、午前五時四十六分。阪神・淡路大震災
 昨日まであったものが突如、消えた。電気、ガス、水道などのライフライン。財産。コミュニティ。そして人命。「裸一貫」 になった時、人はどう行動したのか。

             *

「ごめんください」
 神戸市西区の仮設住宅。ある地域内の二五八軒すべてに声をかける夫婦がいた。長田から移ってきた学会員の横山巌・照子である。「何とか、孤独死だけは、なくしたい」 との一心だった。
 今いる場所で、地域で幸せに――池田会長の指針を実践した。
「うちに来てくれるんは、あんただけや」。独居老人が、しわだらけの顔に、笑みを浮かべた。
 夫婦げんかの仲裁。即席の自治会の会計。炊き出し。もちつき大会。草むしり。どんな役回りも演じた。
「ここは、ええ仮設やなあ。何が達うんやろ」
 各所を回ってきたボランティアが、仮設に生まれた温かさを評した。

             *

「これは、ひどい……」
 地震直後、小学校教諭の大嵜博英は、うめいた。
 街全体が傾いている。海の方へ降りてみる。新長田駅の方向がぼやけていた。砂ぼこりか煙か。
 小学校には数百人の住民が避難してきた。学校内を整理してから街へ走った。瓦礫の中から児童を引き出す。パジャマの中の手足は、かすかに温もりを残していた。病院に急行するも、人があふれかえるなか、医師は 「ダメです」。
 数日後、近くの施設で授業が再開。女子児童が質問してきた。
「ガラスで切れたら、いたいんかなぁ」
「いたいやろうなぁ。なんでや?」
「お兄ちゃんと自分の間になぁ、ガラスの壁があってん。それでお兄ちゃんを助けられへんかってん……」
 この教え子から逃げるわけにいかない。大嵜の母校は創価学園創価大学
「教員が成長する。自分自身を教育し続ける。それでこそ、学生を真に教育することができる」。胸に創立者の言葉がある限り、俺は立ち向かう。

       *

「今日も楽しかった。またよろしく」
 集まった婦人たちが穏やかな顔で家に帰っていく。
 学会員には震災以来、地元でボランティア活動を進めてきた者が多い。手芸教室、喫茶コーナーからドプ掃除まで……。
 被災後、隣近所との交流が財産であると思い知った。理想は学会の「他人をも幸せにする心」にあると、誰もが思った。
 地元のジャーナリスト。
「震災直後は、どんな悪人でも、つかのま善人になって、ボランティアに参加した。しかし、長い目で見ると、続かなかった。やはり残っていくのは、宗教的な信念がある人だった」


=長田マダンの日=

 星山信一は、長田で靴加工会社を営む在日コリアンである。ワゴン車一台から商売を始め、二十八歳で工場を建て、自宅も購入した。
 その矢先に起きた大震災。家も仕事場も崩れ落ちたが、それもかえりみず、学会の長田文化会館へ急いだ。
 八〇〇人の住民が避難していた。遺体も運ばれていた。うつろな目の老人がいる。両手で顔をおおって、鳴咽をこらえる女性がいる。それから一カ月間、会館で寝泊まりし、救援活動に明け暮れた。
 「人生、いろいろ乗り越えてきたんも、このときのためや!」
 池田会長から長田の青年部に伝言が届いた。
「一番、大変な時に何をするか。それが大事だ。青年部が頑張ってくれている。本当にうれしい」
 男泣きした。
 在日ゆえの不平不満もある。それでも生きてきた故郷は日本である。長田である。
「俺らが住んでる故郷や。自分らで良くしたい。当たり前のことや」

             *

「行政も民団もできないことをやっているのが学会やな」
 金泰煥(在日本大韓民国民団の兵庫県地方本部副団長)は長年、学会員の姿を見てきた。
「差別のない学会で、どれだけ同胞が救われたか。学会で面倒みてもらっている、と聞けば安心やった。学会が日本をつくってきたんや。
間違いない。そのどえらい組織をつくったのが池田会長ですわ。?個人崇拝″云々って言うのもいるけど、たとえあったとしたって、そんなん、当然やろ。それだけ偉大な人ということ。日本人には、それが見えへんねん」

             *

「あなたと結婚するなら、息子と縁を切る。どこか遠くへ行って!」
 林久仁恵は耳を疑った。彼女は在日コリアン。七年間、交際してきた相手の親から投げられた言葉だった。
 見えない壁は、ついに崩れなかった。
 日本社会の差別と向き合う。居心地のいい同胞社会に閉じこもった。
「日本人には、気を許されへん」
 わずかな例外があった。一九九四年(平成六年)に入会した。「日本は韓国に大恩がある」 と言い切る会長。そんな日本人は見たことがない。女子部員は差別体験に耳を傾けてくれる。「ひどいなぁ。そんなん、絶対に許されへんわ」
 震災に遭ったのは翌年だった。
 徐々に「長田マダン」 の時期が近づく。在日コリアンが集まり、踊りや歌で一つになる祭典である。
「今年は無理やなあ」。周囲は、それどころではなかった。
 林の考えは違った。
「こんな時やからこそ、みんなに喜んでもらおうや。池田先生やったら、そう言わはるに決まってる」
 自分も被災したが、実行委員長に。
 当日。チャンゴ(太鼓)がはじけ、踊りの輪が途絶えなかった。深紅、黄金、ピンク、黄緑、純白……。鮮やかな原色の衣装が風にひるがえる。前年の二倍の人が集まった。
「こんなに楽しかったんは、久しぶりや」。同胞が声をかけてくれた。
 ある日、女子部員から 「チマ・チョゴリを貸してくれませんか」と頼まれた。
 民族衣装。今までなら、何で日本人が着るねん、と拒絶しただろう。「いいよ」。そう言った自分に驚いた。
 とっておきの一着を貸すと、地元の支部総会で、そのチマ・チョゴリを着て、司会をしてくれた。会場に置かれた「グラフSGI」。韓国の友から贈られた韓服姿の池田会長夫妻の写真が笑っていた。

(文中敬称略)

   「池田大作の軌跡」編纂委員会