山口の戦い


 
明治維新の電源地となった山口では、政界の指導者が勢力を競ってきた。
思想戦を決する要衝の地に、池田室長は乗り込んだ。



◆政界の群雄が割拠する維新回天の地。

▼開票速報の夜

 その夜、戸田城聖第二代会長は、そわそわと落ちつかなかった。
 しきりに愛用の仁丹をかじっている。東京・信濃町創価学会本部。二階の会長室と、一階の事務室の間を、幾度となく往復する。
「開票は、どうなった」
「北条は、まだ決まらないか」
 幾たびも当直の職員に問いかける。
 一九五六年(昭和三十一年)七月九日の深夜である。八日に投票された第四回参議院選挙の開票速報がラジオから流れていた。
 初めて学会が挑んだ国政選挙。気にかけていたのは、全国区(当時)の候補、北条雋八の票である。
 二人の候補を立てた地方区。すでに大阪の白木義一郎が当選。東京の柏原ヤスは及ばなかった。
 四人を立てた全国区。辻武寿が当選圏内だが、原島宏治、小平芳平は絶望的だった。
 これで二勝三敗。残るは西日本の学会員が支援した北条の当落だけである。
 蒸し暑い日だった。会長は胸をはだけた姿で磊落に涼みながら、冷たい飲み物で喉を潤す。
 職員の目には、どこか沈痛な面持ちに見えた。
 北条陣営の頼みの綱は、関西勢である。青年部の池田大作室長が率いる大阪支部が、西日本一円に会員の急増をもたらしていた。
 まさに 「もう一つの大阪の戦い」の決着の瞬間が訪れようとしていた。

              *

 当日、本部にいた鈴木一弘。
 みし、みし……。人気も絶えてきた本部に、また階段から下りてくる音がする。
 会長が顔を出した。
「おい、北条はどうなった?」
 情勢は相変わらず際どい。
「大阪へ電話しなさい」
「福岡は、どのくらいか聞きなさい」
「岡山や山口は、どうだ」
 五分おきに電話をかけさせる。
 NHKのアナウンサーが、ラジオで数字を読み上げるたびに、うん、うん、と耳をそばだてた。
 日付が七月十日に変わった。本部の時計も、午前一時を回った。
「これでは、朝まで決まらないな」
 心残りの口ぶりで本部を後にした。見送った職員らは事務室の隅で仮眠をとった。
 眠りを破ったのは、けたたましいベルの音である。黒電話が鳴っている。あわてて受話器を取った。
「どうだ、北条は決まったか」
 驚いた。まだ朝の五時前。自宅で休んでいるはずの戸田会長の声だった。
 北条は二六万一三四二票で当選した。次点と約二万の差。池田室長の「大阪の戦い」が勝利を決した。(くわしくは単行本第一巻「もう一つの『大阪の戦い』」を参照のこと)

自民党幹事長 岸信介

 同じく七月九日。永田町。
 自由民主党ナンバー2、幹事長の岸信介は朝から忙しい。
「どうも、いかんねえ」。どうしても話題は開票状況に集中する。
 急伸する日本社会党と比べて旗色は悪い。党本部に張り出された候補者一覧。まばらに赤い造花がポツン、ポツンとついている。徹夜明けの選対関係者が、脂の浮かんだ顔で口をへの字に結んでいる。
 選挙前から、内閣総理大臣鳩山一郎の健康問題が懸念されていた。気力、体力の衰えは、いちじるしい。すでに政界の実権は、幹事長の岸、農相の河野一郎らが握っていた。
 当選議員の中には「いかに岸内閣へ橋渡しするかが自民党の課題」と広言する者までいた。

             *

 岸は、戸田会長の古くからの知己である。
 出身は山口県田布施。瀬戸内海に突き出す熊毛半島のつけ根にある。造り酒屋に育ち、旧制中学三年で岸家の養子となった。
 ここ田布施の周辺から、個性的な面々が世に出ている。松岡洋右(元外相)、宮本顕治(元日本共産党議長)、佐藤栄作(元首相)。そして佐藤の実兄である岸信介
 野坂参三(元日本共産党議長)も山口・萩の生まれである。
 維新回天の地は、昭和の世を迎えても、いぜん政界の群雄が割拠していた。
 名だたる長州閥の本拠地である。すでに山口は伊藤博文山縣有朋桂太郎寺内正毅田中義一と五人の総理を輩出してきた。
 戦前の「革新官僚」のホープ満州の実力者、東条内閣の商工大臣、A級戦犯容疑者、公職追放、政界復帰……。
 浮沈の激しい人生を送ってきた岸が、六番目に最も近い男だった。

               *

 第四回参院選の各県別の得票数。西日本で擁立した北条雋八を見ると、山口県の得票は一四七九。
 北条が獲得した二六万一三四八票のうち、僅か〇・五?でしかない。
 保守の牙城。岸の地元である。いずれ政権は岸の手中に収まるだろう。学会が軽んじられてはならない。山口こそは、学会の将来を決する要衝である。
 九月五日、戸田会長は池田室長を会長室に呼んだ。日本地図を広げ、師弟二人だけの作戦会議。山口には、わずか四〇〇世帯の会員が点在しているだけだった。室長に命じた。
「山口で折伏の指揮を執れ」

▼山口作戦とは何か

 池田室長が指揮を執った作戦は、こんにち「山口作戦」として名高い。以下は、その概括である。
 一九五六年(昭和三十一年)秋から、池田室長は集中的に山口県を開拓した。
 全国三二支部のうち二六支部から精鋭を動員する。“史上最大の作戦”であった。主力は「大阪の戦い」で自ら薫陶した関西勢である。
 戸田会長から九月に指令が出ると、室長は即座に決めた。
「三回行こう。十月、十一月、十二月だ」
 第一次で火をつけ、第二次で勢いをつけ、第三次で仕上げる。(後に年末は繁忙期なので、第三次は翌年一月に調整された)
 副将や参謀格は置かない。自ら日程やコースを立案した。
 入念に準備したうえで、室長が前線に入ったタイミングで運動量を最大に拡大する。拠点は駅前の旅館。寝食の手間が省け、会合も開ける。本陣は下関にする。
 幾多の困難が予想された。
 第一に、幹部の足並みの乱れ。
 派遣隊は「タテ線」と呼ばれた各支部からの選抜メンバーである。支部ごとの絆は囲いが、横の連携がない。血気はさかんだが、一歩間違えれば、烏合の衆になりかねない。
 第二に、山口県の特殊性。“ホシ”となる中心地が見極めにくい。県都山口市だが、瀬戸内に産業の発展した都市が点在している。
 岩国、柳井、徳山、防府宇部、下関。内陸部には山口、美祢。日本海側に萩。正攻法で丹念に当たるしかない。ローラー作戦。時間も手間もかかる。
 第三に、限られた時間。
 当時の学会の世帯は四〇万前後で失速気味だった。戸田会長の悲願である七五万世帯の達成へ胸突き八丁にさしかかっていた。
 全国の精鋭が山口に集結する。再び弘教を加速する好機だが、このチャンスを逃せば悲願は遠のく。もはや七五万世帯へ時間も猶予もない。
 歴史的な事件というものは、当事者すらも分からない出来事の積み重ねのうえに起こり、進行し、終わっていく。
 派遣メンバーも当時の新会員も、山口作戦なるものの全体像を把握していた者は皆無といってよい。これまで公刊された記録なり証言集を見ても、断片的なエピソードばかりが多いのは、そのためだと思われる。
 そこで本稿では、山口での池田室長の実際の足跡を追うことで、山口作戦の全容に迫ってみたい。
 三次にわたった室長の山口入りは、のべ二二日間に及んた。
 室長の行動の輪郭を太く描き出すために、最後の指導行(一九五七年一月二十一日〜二十六日)を時間軸に描く。

◆岩国 基地の街

【一月二十一日】

 大阪から列車で山陽路を下った池田室長は、岩国駅で降りた。
 明け方、零下二度まで下がったが、北風は弱い。パルプ工場の煙突から、白煙がまっすぐ上っていく。
 拠点の「小池旅館」で弘教が順調に進んでいるとの報告を受けた。

             *

 岩国ほど戦争の犠牲を強いられた都市もない。
 空襲で駅周辺が焼け落ちたのは、昭和二十年八月十四日。あと一日、終戦が早ければ……。翌日、人々は焦げ臭い瓦礫の街で膝を折って、玉音放送を聞いた。
 戦後は米兵が駐留した。米軍に破壊されながら、アメリカ抜きで暮らせない矛盾。
 軍艦が入港すると、水兵がどっと基地ゲートから繰り出す。繁華街の看板は英語で、日本人はシャットアウト。すこぶる金払いがいい。カウンター下にビール箱。店主が足で、ぎゅうぎゅうにドル札を詰め込む。
 いくら外貨が落ちても、ただちに幸福と結びつくわけではない。
 誰もが難問を抱え、室長の前に現れた。事業不振。詐欺事件で破産。盲目の子ども。重い皮膚病……。
 室長の指導は厳しかった。
 いくら泣いて、他人や社会を恨んでも幸せにはなれない。
 信仰とは何かにすがることではない。甘えでも、逃げでもない。自分が強く生きるしかない。

             *

 米兵と結ばれる女性も多かった。化粧を落とし座談会に現れる素顔は、あどけない。婚約者の兵士と手をつないでくる人もいた。
 父や兄の世代を戦争で失い、頼る者は米兵しかない。漠然と“これで幸せになれる”と信じる者が多かった。
 幹部は強く言い切った。
「勘違いしてはいけない。アメリカがあなたを幸せにしてくれるわけではない。あなたが強く生きるしかない。そのための仏法だ」
 室長直伝の指導である。
 戦争花嫁はアメリカSGI(創価学会インタナショナル)の草分けとなっていく。岩国は学会が世界へ伸びていく出発点ともなった。

◆柳井 宗教の三角州

 【一月二十二日】

 岩国から海岸沿いを走る「山陽本線」で池田室長は徳山へ向かった。沿線の柳井や田布施には、すでに青年が宗教に目覚めるときだ!大阪の支部の精鋭を投入してある。
 室長が初めて柳井に降りたのは前年(一九五六年)の十月十六日である。行商の薬屋が定宿としている
「開作家旅館」が拠点だった。
 学会歌が勢いよく響いている。入会間もない柳井のある青年は、関西人の威勢に圧倒された。
 前方に人影が現れた。大阪の支部長・大井満利が巨体を正して座を開ける。池田室長の入場である。
青二才でございます。二十八歳でございます」
 とたんに空気がピンと張り詰めた。視線が集まる。せきばらい一つない。
 室長は、この一帯は宗教の三角州であると指摘した。田布施は「踊る宗教」で知られた天照皇大神宮教の発祥地。それに、旧跡の寺、祠を結ぶと三角形になる。
「戦災を受けなかったと喜ぶ人もいるが、逆に言えば戦略的に意味がなかったということだ。青年の責任は重い! 宗教の重要性に目覚めるときだ」
 度肝を抜かれた。大きい。こんな途轍もない大きさの青年が日本にいるのか!
 講義が終わった。室長と「大阪の戦い」で苦楽を共にした大井が背筋を伸ばした。「戸田先生から拝領なさった、金時計を拝見させてください」。懐から取り出した室長は、戸田会長の思い出を綿々と語った。
 一人の青年に向かっては「君と信心の兄弟になろう。杯はないから、これで」。机上にあった栗まんじゅう二個を目の高さにかざした。
「ええなあ、信心の兄弟盃! 日本一の福運や」。大井が巨体を揺らしながら膝を叩いた。

◆徳山 寺と町からの逆風

 【一月二十二日】

 池田室長が、徳山(現・周南市)の「ちとせ旅館」で来意を告げた。
 気圧の谷が通過し、寒く、ぐずついている。それでも旅館は学会員があふれ、活気に満ちていた。
 派遣隊を部屋に集める。大阪の梅田支部が主力である。
「みんな、大阪から多額の旅費を使って来ている。それで折伏ができなかったら意味がない。負け戦だ。徳山の奥にある、湯野温泉にでも行って湯治でもして帰りなさい!」
 徳山は逆風が強かった。
 前年(五六年)十月には、宿も追われていた。粘りに粘って折伏する関西弁の一団は歓迎されず、宿泊先にも苦慮した。
 執念だけが支えだった。思い余って徳山駅に近い石谷ヤスの家に飛び込んだのは十月十五日。
「すんまへんが、お宅の家を貸してくれまへんか。座談会いうのを開きたいんですわ」
 親切に貸すと、翌日もきた。何度も入会を断ったが、あきらめない。やっと玄関まで追い出す。だが背中を押されながらも粘る。かがんで靴の紐を結びながらも粘る。「ほんまに幸せになれる信心でっせ」。とうとう根負けした。
 その石谷の家族が「ちとせ旅館」で室長に指導を求めた。先祖の墓が他宗の寺にある。どう扱えばいいのか。
「骨という抜け殻を入れるものですから、深く気にしなくてもいい。それより未来を変えていける強い信仰に立つことです」
 こんなこともあった。
 他宗の寺の住職が突然、入会したばかりの家の仏間に上がり込んできた。
「ちょっと借りるよ」
 無造作に仏壇に手を伸ばした。
 えっ? 家人が呆然としていると、住職は御本尊を巻いて懐にしまい、スタスタと出て行った。
 あわてて抗議し、取り戻したが、こんな本尊泥棒が少なくなかった。
 後に寺の関係者が、もらした。
「学会が伸びたら、生活が立たない。壊滅的な打撃だ。どうか寺に戻ってもらいたいと思ってやったことだ」
「それにしても学会が、こんなに早く山口まで来るとは……」

             *

 逆風の徳山で、ようやく陣取ったのが「ちとせ旅館」だった。
 この旅館を味方にしたのは池田室長だった。十一月、厨房で夕飯の膳を整えているころ、室長が暖簾を分けて声をかけた。
「おばあちゃん、いいにおいがしますね。大勢で来て、大変にお世話になりますが、よろしくお願いします」
 仲居たちは口々に噂した。「普通のお客と違うね」。創価学会。初めて聞く名前だが、この信心には何かある、とさえ思い始めた。
 室長は花瓶を買い求め「粗末なものですが」と泊めてもらった記念に旅館に贈った。こんな宿泊客は見たこともない。その人柄に魅了され、仏法を求める従業員も出た。

防府 天満宮の裸坊祭

 【一月二十三日】

 男子部の植木三夫は、国鉄三田尻駅(現・防府駅)前から、拠点の「浴永旅館」に駆け込んだ。
 右腕に黄色い役員章。池田室長と三田尻駅でドッキングする目印だったが、すれ違いになった。
 指導会は始まっていた。後ろから首を伸ばす。幹部が室長と引き合わせてくれた。
「しっかり信心すれば、立派な人間になれる」
 植木は鹿児島の特攻基地で地獄を見た。戦後、家業は繁盛し遊ぶ金に困らないが、どうやって心の空洞を埋めればいいのか。その答えが目の前にあった。そうか、こんな立派な人になれるのか。

               *

 福岡支部の派遣隊が目をつけたのは、防府天満宮の参道近くに堂々と看板を掲げる老舗「吉井忠五郎商店」である。
 派遣隊の中心者は吉村七郎。もとは、戦後の闇市で幅をきかせた博多の顔役である。
 持論があった。折伏は門構えの大きい家から狙え。地元に根を張った家を味方にすれば人脈が広がる。
 吉井家は、家の法要に京都の西本願寺から僧を招くほどの旧家である。防府天満宮は、日本三大裸祭りの一つ「裸坊祭」で名高い。店の売上げも太い。それだけに、寺からは布施をがっぽり巻き上げられる。
 老舗の跡取りである吉井光昭は、それが宗教というものだと思っていた。その吉井が吉村たちから声をかけられ「ふみや旅館」へ。池田室長と会ったことで、宗教観がくつがえった。
 とにかく線香くさくない。清潔な身なりの青年が、折り目正しく生活法、宗教の浅深を論じている。
 言われてみれば、裸祭りで誰が幸せになれるのか。天満宮と持ちつ持たれつ、参道脇でソロバンを弾いていれば、食っていける。だから氏子をやっているだけだ。そんな信仰など信仰の名にあたいしない。
 吉村の狙いは的中する。吉井一家の入会は、防府では、ちょっとした事件だった。あの吉井さんが始めた信心なら……。折伏に拍車がかかった。
 五六年(昭和三十一年)十一月。その天満宮の裸坊祭が始まった。
 町は祭り一色に染まる。
 綿飴、射的、金魚すくい……。路地に露店が並び、広場に見せ物小屋、サーカスのテントが立つ。親戚や知人も年に一度のイベントを楽しみにして押し寄せる。
 派遣隊は立ち往生した。とても仏法の話に耳を傾ける雰囲気はない。
「その弱気を室長が吹き飛ばしてくれた」(埼玉・志木支部だった桑名義治)

             *

 ある座談会。地元の名士が、ふんぞり返っていた。人の話に、すぐ口をはさむ。
「何が信心じゃ」「ワシはあんたらとは違う」「金に困っとらん」
 しんと静まりかえる会場。貧しいのは事実だからだ。
 池田室長が口を開いた。
「あなたのような人に、生涯、仏法が分かるものですか!」 気合い一閃。男は上体をのけぞらせ、畳にひっくり返った。
 室長は堂々と論じた。
 なにも頭を下げて学会に入ってもらおうというのではない。幸せになりたい人が真面目に学び合う団体だ。その会員をバカにするとは何ごとだ。
 参加者は息をのんだ。富や身分ではない。人の価値は「どう生きるか」「どう生きたか」で決まることを、まざまざと知った。

             *

 宮崎県延岡から参加した横山嘉寿美、山田千鶴。折伏ができない。
 思いつめて歩いていると、二人組の男に「どうしました。何か悩みでもありますか」。うなずくと「どんな悩みも解決する方法がありますよ!」。
 おや、その口上は……。他の支部の派遣隊だった。
 横山は広島で被爆。己の死ばかり見つめていたが、いつの間にか夢中で人の幸福のため動いていた。

◆山口 理屈とプライド

 【一月二十四日】

 宇部へ移動。小郡駅(現・新山口駅)で宇部線に乗り換えた。同駅から山口線で北上すると山口市に通じる。さらに、車で山を越えると萩である。今回は日程に入れていないが布石は打った。

             *

 山口市。東京・向島支部の派遣員が室長を迎えたのは一九五六年十月十四日である。シベリア抑留を生き延び、戦後は製薬会社の経理マンとなった。
「ここの人口は? 町の景気は?」。立て続けに聞かれたが答えられない。
 室長は、にぎやかな通りを歩き、映画の看板、店構え、ショーケースの品揃えなどにサーッと目を走らせた。
 その夜の座談会。地元の話題を満載にして対話が進む。派遣員たちは舌を巻いた。

             *

 数々の宰相を輩出した山口の県都。プライドが高い。理屈っぽい。へそ曲がりな男が、リウマチで右腕を痛めていた時に入会した。
 室長に「ずいぶん顔の相が良くなりましたね」と声をかけられても「顔の相と信心と何の関係があるんですか」。
 盗難に遭った。「疑わずに信心をやりきることです」と室長に指導されたが、ねちねちとしつこい。自分の不注意は棚に上げ、この信心が間違っていると言わんばかりである。
「あなたのように疑り深い人はいません!」
 男は、くらっとした。全身からスーッと力が抜ける。“俺は疑ってばかり。これでは信心してないのと同じだ”。理よりも信。やっと目がさめた。

◆萩 再び革命のロマン

 日本海側の萩。維新の揺籃も、名所・旧跡を目玉にした観光地と化していた。
 前年(五六年)の十一月、松下村塾へ。高杉晋作木戸孝允伊藤博文久坂玄瑞……。黒くすすけた肖像画が並んでいる。同行の青年に語った。
「結果的に見れば、吉田松陰は政治革命に敗れ去った。これからは、宗教革命で日本を変えるしかない」

             *

 萩の座談会。会場主の弘兼輔は、出席するのが億劫で、こっそり家を抜け出した。その玄関前をヘッドライトが照らす。タクシーから室長が降りた。雲隠れを決めこもうと思っていたが、室長の貫禄に引き寄せられ、後ろからついていった。
 玄関に凛とした声。「こんばんは!お邪魔します」。コートがきついのか、すぐに脱げない。
 会場には痩せた人、顔色の悪い人が多い。肺結核が死病といわれた時代である。室長は「体験一本」で勝負した。入会前は、自分も肺病でげっそり痩せていた。偉大な信心のお陰でこんなに太った、元気になった。
 あっ、あのコート! 痩せていたころのサイズなのか……。弘は腑に落ちた。

      *

松下村塾ゆかりの地で座談会。

「はよ、手え、挙げんと」
 弘宅で、横にいた組長から伊藤時枝は小突かれた。
 肺結核、腎臓結核卵巣嚢腫……。寝たきり八年。新旧の宗教を遍歴し、学会に行き着いた。だが、とっくにあきらめていた。もう治るわけがない。私は死ぬまで病人だ。
 モジモジする伊藤に、室長の声。
「そこのあなた、何かありますか」
「し、信心で、病気は治りますか」
「どなたが病気ですか」
「ワタシです」
「あなたは病気じゃない」
「……?」
 意外な返事に声が出ない。
 眠れないまま、明朝、室長がいる
「高木屋旅館」へ。昨日の言葉が耳から離れない。急階段を四つんばいで這いあがる。最後の段に手をつき顔を上げた。目の前に人影。池田室長!
「本当に、本当に、わたし治るんですか」
「絶対に治る」
 飛び上がりたいほど嬉しかった。そのまま旅館を飛び出す。無我夢中で三人の友人を引っ張ってきた。目の前で入会決定。室長は伊藤に顔を向けた。
「あなたは三人のお姉さんです。しっかり面倒を見なさい」
 信じられない。病に苦しみ、世をはかなみ、人にすがってきた。昨日の座談会も、ポロ自転車の荷台に、落ちないよう紐でくくられて運ばれたほどだ。そんな自分が、たった一夜にして変わったのだ。

宇部 炭鉱長屋と組合

 【一月二十四日】

 宇部は炭鉱の町。総仕上げに宇部労働会館で指導会を開いた。
 炭鉱長屋。労働組合。結束は強い。よそものを寄せつけない。室長は強調した。こわがるな。相手の懐に飛び込め。
 いったん味方となれば人間関係が濃密な分だけ、きちっと信心も伝わっていく。

             *

 東京の小岩支部から下関に派遣された臼井登志恵。
 小岩には野心家の石田次男がいる。自分こそが戸田会長の一番弟子と広言していた。
 度量が狭い。山口作戦の活動報告を小岩でさせてくれない。ことさら池田室長の活躍を隠したがる。
 臼井は男子部とペアを組み、下関から宇部へ通った。
 街角で一升瓶を囲んだ酔漢があぐらをかいて睨んでいる。採炭現場から出てきた男たちが送迎バスから降りてくる。顔は靴墨を塗ったように黒く、目だけがぎょろりとしている。
 主婦もガードが堅い。病気や生活苦にあえいでいたが、仏法の話に耳を貸さない。
 ある朝、拠点で池田室長が「ここに座りなさい」。すぐ隣で勤行。確信の御書講義。今日はできる、と背中を押してくれた。
「恐れるものがないとは、まさに、あの日の自分。地面を歩いている感触がない。うれしくて飛びはねるように宇部へ向かった」(臼井)
 炭鉱長屋に暮らす日浅定之・イツミ夫妻。イツミは朝鮮半島の北部でタイピストとして働いていたが、終戦で暗転。命からがら祖国へ引き揚げた。
 流転の果てに流れついた人が多い。暗黒の地下で働く炭坑夫は強そうでいて、孤独や恐怖、過去の悲しみを抱えている。定之のとりとめのない話に、室長はゆっくり耳を傾けてくれた。胸の奥がすっきりしたのは久しぶりだった。
 ほっとして白い歯を見せると「私は飲めないが、一献さしあげましょう」。コップ一杯の二級酒をすすめられた。飲み干すと胸がぽっと温かくなった。
 室長は炭鉱の特殊性や、そこで働く人の傾向性を把握した。後に北海道・夕張炭労の横暴に打ち勝つ背景には、宇部の経験もあった。

◆美祢 岡山支部の奮戦

 室長が足を運んだ地域以外にもエピソードは多い。岡山支部は、県西部を縦断する美祢線の沿線に挑んだ。
 鈍行列車に乗った青年たち。黒田精将は 「お前は、ここだ」と一人、南大嶺駅で降ろされた。
 手渡された一枚の紙。ホルモン屋の店名と電話番号だけ書いてある。
 先月、店のおやじを折伏しておいた。真面目な男だから退転していないだろう。見込みで組長にしておいたから、行ってこい。
 大ざっぱな指令である。
 黒田は点在する会員をかき集め、なんとか座談会を開いた。
 終了後、ある壮年が「今晩どこに、お泊まりですか」「決めていません」
「よければ、うちに」。渡りに船とついていった。
 大きな農家である。喜んでいると母屋を素通りして、庭の納屋に入って行く。
「信心したら親に勘当されましてね。ここで寝泊まりしています」。ぶらさがった裸電球をつけながら「まあ、ゆっくりしてください」。
 土間の一角、ミカン箱に御本尊が安置してある。布団もない。積んであるワラを半分、分けてくれた。牛か馬にでもなった気分だ。
 カバンを枕に、コートをひっかけ、ワラに身を横たえた。この納屋で六日間、世話になった。

              *

◇戦後の社会で大衆がついに立ち上がった。

 黒田には原点がある。
 室長が山口作戦に出陣した岡山・弘西小学校の指導会(十月八日)に参加している。堂々とした学会歌の指揮に惚れ込み、翌月から山口作戦に志願した。
 美祢も炭鉱町。少々、気が荒い。
 大工の棟梁を折伏すると「殺してやる!」とナタを振りかざされた。
「ちょっと待て! 理由を聞かせてくれ」
 初老の棟梁はナタを少し下ろした。「うそつき! 絶対の信心というが、息子を戦争でなくした。もう生き返らない」
 黒田は腹をくくった。「そりゃあ亡くなったもんは帰ってこん。気の毒だが、当たり前じゃ。しかし、この信心をしてみんさい。実の子じゃなくても、それ以上にあんたを大切にしてくれる人が出てくる。あと二、三日して出なければ、わしが孝行息子になる」
 二日後、棟梁が手紙を手に「息子ができた」と喜んでいる。九州にいる甥っ子が弟子入りしたい、養子にしてくれないか、という文面だった。
 一週間で一〇世帯の折伏が実った。岡山に帰る日。ホルモン屋のおやじ、納屋の主、棟梁、新入会者がずらりと駅のホームに並び、万歳の声で見送ってくれた。

◆下関 「アシタツタ」

 【一月二十五日】

「兄さん、まだまだ墨が足らんよ。もっと一生懸命、すらにゃあ」
 嶋住和四郎は、板の間に広げた紙の前で、兄の正之助に頼んだ。
「おう、分かった」
 下関・旅館共同組合の大広間。
 正之助の指先は、すっかり墨で黒ずんでいる。盲腸の治療中だが、医者の目を盗んで病院を抜け出した。
 今晩、池田室長が来るんだ。のんびりベッドで寝ていられるか。弟が大書しているのは演壇中央に張り出す式次第である。
 ――「室」「長」「挨」「拶」。和四郎が特に入念に筆を走らせた。
 筆を置き 「よし、これでええ。兄さん、乾いたら張り出そうや」。
 兄弟は外に出た。春が来たように暖かい。墨が乾くまでの間、夜の結集である。

             *

 下関は山口作戦の本陣だった。
 拠点は旅館「東陽館」。
 作戦期間中のことである。京都支部の青野とよの家に電報が届いた。妙な文面だった。
「アシタツタ」
 たった五文字である。
 アシタツタ? あしたつた?
 婦人部が集まって首をひねったが、見当がつかない。暗号か、いたずらか。発信地を問い合わせると下関からだった。
 下関! ひょっとして……。
 ――それは秋だというのに、やけに暑い日だった。京都支部の逢坂琴枝が、汗を拭きながら下関の街なかを歩いていた。
 洗濯をしていた身なりのいい主婦に話しかけると、冷たいお茶が出た。
「妙なことを伺いますが、この辺りに気の毒な人はおりませんか?」
「そういえば、足が不自由で歩けず、手に下駄を履いている子が近所にいる……」
 さっそく向かった。不遇な子である。立って歩けない。うずくまって、四肢をよじるように進む。
 子どもの親は驚いた。汚いものでも見るような視線ばかり浴びてきたが、きょうは違う。「この子かて、使命があるんや」と言ってくれる。
 犬のようだと蔑まれてきた子にも生きる意味があるというのか。
 あきらめてはいけない。信心を根本に、家計を工面して治療しなさい。親が卑屈になってしまえば、子どもも下を向いてしまう。繰り返し励まされ、再起を約束。翌月、青野の折伏で入会した。
 あの一家からだった。
 アシタツタ――足立った。
 京都の拠点は、歓声に包まれた。

             *

 山口作戦の掉尾を飾る大会。
 この日、班長の任命を受けた堺重俊は身じろぎもせず、室長の指導を聞いた。
「山口から高杉晋作久坂玄瑞等、日本の夜明けを告げる人物が出た。次は、学会員が火の手を上げ、維新を超える人材を出してほしい」
 オー! 勝ちどきにも似た声が上がった。誰もが三カ月間、夢中で奔走してきた。

              *

 下関には通称“トタン集落”と呼ばれる地域があった。背の低いトタンの家が密集。うっかりするとトタンの端で顔を切りそうになる路地からも、折伏の火の手が上がった。
 店をつぶし、土管で暮らしていた男がいた。空き地でランニングシャツを干しているとき、大阪弁の人に折伏された。今は一級の活動家である。
 戦争の影も尾を引いていた。戦災の瓦礫の山も点在していた。防空壕の跡地にもぐり、地下生活している一家もあった。
 山口作戦に関わった人は、大なり小なり戦争で傷ついていた。係累を亡くした遺族。シベリア抑留兵。特攻隊の生き残り。死線を越えた引き揚げ者……。この日、壇上の式次第を書いた嶋住和四郎も、長崎の被爆者である。
 復興からも置き去りにされた大衆層が、信仰に出あい、目覚め、自分の足で立った。その先頭に池田室長がいた。
 翌二十六日、室長は次の目的地・広島へ出発した。山陽路は春の陽気で、防府の梅が開花した。

▼新たな戦野へ

「よって、本院は岸信介君を内閣総理大臣に指名する……」
 議長の声が響き、岸信介は立ち上がった。議場の拍手を一身に浴びて頭を下げる。
 一九五七年(昭和三十二年)二月二十五日。
 鳩山一郎の後を受けた石橋湛山が、重病のため僅か二カ月で政権を投げ出した。岸は総理の座に上りつめた。
 総理誕生を祝い、地元・田布施では提灯行列が行われた。そのころ、山口の学会世帯は前年の一〇倍に達していた。
 四月二十日、戸田会長が下関へ寺の完成式に訪れている。これが山口作戦の終結と考えてよい。
 式の後、寺の庫裏で宴がもたれた。戸田会長が金扇子を持って立ち上がる。


♪生まれ故郷を後にして
 おれも はるばる やって来た
 蘭の花咲く 満州
 男一匹 腕だめし……

 舞い終わり、用を足しに廊下へ出た時である。
 会長の分厚いめがねの奥から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。
「山口の戦いも勝ち戦だった。だが祝いは、このくらいにしておいてくれ。俺は祝い酒を飲んで、ぐだぐだしてるけど、大作はのう、さぞかし今ごろ、大阪で苦労しているだろう。すまんな大作……」
 すでに池田室長は、大阪で次の参院補選の陣中にあった。

    (文中敬称略、次号に続く)
    「池田大作の軌跡」編纂委員会