第9回 三代会長と九州(上)
国家権力。坊主。内部の敵――三代の会長が学会の
前進をはばむ相手と対決した天地こそ、九州だった。
◆「ああ、先生が動いとらす……」
▼特急「かもめ」号
小倉行き特急「かもめ」8号がホームに滑り込んできた。
佐賀県・肥前山口駅の二番線。星野寿美枝たちは目を左右に走らせ、窓をチェックした。
“どの席かしら……”
四号車で格子縞のカーテンが、さっと開いた。
窓越しに池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長の姿があった。
一九八〇年(昭和五十五年) 四月三十日。プラットホームの大時計の針は午後三時を指していた。
前日に中国・上海から長崎空港に到着した会長は、この日、列車で長崎から福岡に向かっていた。
特急が停車する長崎、諌早、肥前鹿島、肥前山口、佐賀、鳥栖、博多。どの駅にも学会員が待っていた。七九年四月の第三代会長勇退後、はじめての九州入りである。この一年、聖教新聞でも動向が分からない。
「ああ、先生が動いとらす(動いておられる)……」
生身の会長を前に、絶句する者もいた。
星野は、肥前山口駅がある地域の婦人部リーダー。勇退の日の心境を大学ノートに綴っている。
――昭和五十四年四月二十四日。くもり。三時、T宅に行く。二十分ごろ、リーン。TELの音。
「なんーて? 先生が会長を勇退したて。三時のニュースで……」
一同、あぜんと驚く。
夜七時、佐賀文化会館、緊急支部長会。新たなる前進の開始。されど涙、流れる。
何度もつぶやく。宗門は、あまりに酷すぎる。生涯、この日を忘れまい。
主人と誓う。「生涯、どの様な事があっても、学会と共にゆこうね」と!
二日ほど仕事、手につかず。動揺する者も多く見る――
▼地域組織が壊滅
特急 「かもめ」 が博多に着いた翌日、福岡県大牟田市の桑畑絹代に電話がかかってきた。
「網代! 池田先生、私たちに会って下さったとよ……」
福岡市に住む母の声が弾んでいた。
一九七九年三月。当時、九州を担当していた学会幹部の福島源次郎が大牟田で宗門を挑発する発言をし、池田会長勇退の決定的な要因になった。
“震源地”の人間として二つの心情が交錯していた。迷惑をかけてしまった悔しさ。「だからこそ九州が立ち上がらなければ」という思い。
福岡県久留米市の積山弘治も同じ気持ちだった。福島の発言があった大牟田での会合に駆けつけている。
会長勇退の日、積山は我が身をさいなんだ。
“申し訳なかばい……”
鹿児島育ちの九州男児は、仏壇の前で泣き崩れた。
「九州男児、よろしく頼む」――戸田城聖会長は言い残している。
積山だけではない。――先生が一番、大変な時に立ち上がらんで、どぎゃんすると! 戸田先生に頼まれた九州が、そげなことじゃ情けなか!
*
長崎空港が位置する大村市。諏訪支部で副支部長をしていた福田順次郎は、悲鳴を上げるような思いで、池田会長を迎えた。
寺と内通した支部幹部によって、組織がズタズタに切り崩されていた。二つの大ブロック(現在の地区)が、ほぼ全滅である。
大分や熊本での被害は、更に広範囲かつ深刻であった。
そこまで組織が破壊された原因とは。その根には、何があるのか。
*
いわゆる「第一次宗門事件」の経緯や是非は、本編の主題ではないので、ここでは述べない。詳しくは他日に譲る。
そもそも事件に関しては、過去三〇年間、学会の立場、反学会の立場から膨大な量の記述がなされてきた。
しかし、それらをもってしても、事件の本質を解明したとは言いがたい。それほど事件は凄惨をきわめた。ここでただちに真相を解くなど、できない相談である。
ただ結論から言えば、この事件は日蓮正宗宗門、そして宗門と結託した学会の一部幹部による「奪権工作」であった。工作は、ほぼ成功した。したかに見えた。
しかし、工作した側には、致命的な誤算があった。学会員が池田会長に寄せる信頼の分厚さは、彼らの想像を遥かに超えていたという事実である。
池田会長は第三代会長を勇退した。学会の会則が制定され、法人規則も改定された。会長の動向が機関紙誌等で報道されることもなくなった。「封じ込め」の陣形は完壁であったと言ってよい。
だが学会員の支持は、依然として会長一身に集まっていたのである。
その具体的かつ象徴的なケースとして、池田会長と九州に焦点を絞りたい。
今日、学会の歴史において「反転攻勢」と呼ばれる、池田会長の九州行。その急所とは何か――。
▼山積みの脱会届――大分
ドサッ。手を離すとハガキの山ができた。「また、こんなに届いてる」。
創価学会大分本部。うずたかく積まれた「脱会届」を前に、森保純子(現・大分総県婦人部長)は怒りで顔を赤くした。
大分女子部のリーダーの一人だった森保は、職員として会館に配属されて三年目。いつの間にか、月に一〇〇通以上も届く「脱会届」の処理が日課になっていた。ほどなくして、脱会者連中が罵詈雑言をあびせながら押しかけた。
日蓮正宗宗門による、池田会長と学会員との離間を狙った動きは、一九七七年ごろから顕在化した。
同年、竹田市に伝法寺が落成し、大分県内の宗門寺院は六ヵ寺になった。学会の会館は、まだ二会館でしかない。
擦り切れた袈裟と雪駄を身につけ、学会員の家を回る住職がいた。田植えをしている会員を見つければ、泥につかるのも構わず、腰を折って声をかけた。
純朴な会員は、まぶしいものを見るような目で敬った。疑うことを知らない無類の“人の善さ”が、ときに落とし穴になる。
七八年夏。盆を迎えた寺の本堂は蒸し暑く、あちこちで団扇が動いている。
住職の顔が、いつになく火照っていた。
「皆さん。こんな暑い中、遠い会館に行くのも大変でしょう。これからは御講や法事以外でも、気軽に寺に来なさい」
小さな変化の兆しだった。
日曜日に必ず子どもが集まる寺もあった。子どもが行けば親も連れ添う。手ぶらでは行けない。供養を包んで行く。学会員の日常の中に、じわじわと寺が入り込んでいった。
やがて竹田の学会員九一世帯が一夜にして「消えた」。
発端は大ブロック長の「学会にいたら成仏できん」の一言だった。
「学会を辞めなければ葬式はしない」と、寺の住職が言い出したというのである。
旧習深い山間地。葬式ができないことは、人間扱いされないに等しい。
寺の作戦が、まんまと当たった。
冠婚葬祭に絡めた巧妙な「信徒の囲い込み」に、学会の幹部は太刀打ちできない。
「池田先生は正しい。でも成仏できないなら学会を辞めるしかない」
地縁、血縁の骨がらみの地域社会。大ブロックはおろか支部が丸ごと「寺にもっていかれた」地域もあった。竹田の脱会者は一四五世帯に及んだ。全国でも類を見ない「壊滅的打撃」だった。
◆「選挙になると反逆者は正体を現す」
▼選挙妨害――竹田
♪守るも攻めるも、くろがねの……
竹田のパチンコ店「一銀会館」から軍艦マーチが聞こえる。学会員の中村誠一が経営する店の二階が支部拠点になっていた。
「一銀会館」の周辺に、不審な動きが強まったのは、一九七九年四月。二十二日投票の統一地方選挙が間近に迫ったころである。目つきの険しい男たちが、しきりとパチンコ店に出入りする。
竹田市は大分と熊本の県境に位置する人口二万の町。岩山に四方を囲まれているため、右も左もトンネルばかり。穴だらけというところから「蓮根町」と呼ばれた。
トンネルの間に、ぽつんぽつんと集落が点在する。早い話、その集落ごとの代表が市会議員である。選挙中、集落の入り口には篝火が焚かれ、見張りまで立つ。他陣営を寄せ付けないためだ。選挙は集落間のプライドをかけた「いくさ」だった。
四期目の当選を目指す公明党の竹田市議・安藤哲士。公明支持者は、あらゆる集落に居住している。篝火が焚かれる前の時間帯が勝負だった。
勝手知ったる道であり、地理である。集落から集落へ短時間で駆け回る。だが何か、おかしい。いつもの感触と違う。
激しい「いくさ」に選挙妨害はつきものだったが、今回は違う。明らかに動きを読まれている。
“誰かが見ている。それも内部から……”
背筋が、薄ら寒くなった。
そのころ寺の住職は、ほくそ笑んでいた。脱会者と結託した妨害工作がピタリと的中。白黒ハッキリしない“灰色会員”によって、内部情報は筒抜けである。
安藤の選挙カーを脱会者が付けていく。安藤が回ったすぐあとへ、パッと他陣営の候補を誘導して「引っくり返す」。どこを回ったか正確に把握しているのだから、きわめて効率がよい。
「公明党に入れてもムダ!」「罰があたる!」
寺に煽られた脱会者の動きは、きわめて活発である。
投票日まで数日。新聞に「竹田の安藤危うし」の見出しが立った。
まさに紙一重の戦い。安藤は大接戦を制して辛勝した。
男子部員だった吉岡順一。
「反逆者は、選挙になると正体を現す。結託する。大事な教訓でした」
学会の最高幹部も証言する。
「支援を真剣にやらない人間にかぎって、裏でコソコソ動く。仕掛けている。反逆した山崎正友や原島嵩も、支援期間に陰で工作していた」
▼火の国の怒り――熊本
寺の門をくぐった的野百合の手に、チラシが押しつけられた。池田会長の悪口で埋まっている。手を引っ込めて通り過ぎた。
熊本県八代市・白法寺。毎月十三日の“御講”の日である。供養を渡し、一番前に座る。
住職が金切り声を上げた。
「的野さん! あんた、なんでチラシば受け取らん! 寺ん言うことが聞けんのか!」
目をつり上げた住職は、衣の懐に手を突っ込んだ。的野の供養袋を引き出し、放り投げた。
「もう一回やり直せ!」
床に這いつくばって袋を拾い上げた。怒りで、かっと身体が火のように熱い。受付まで引き返し、震える手でチラシをつかんだ。頭を下げて供養袋を差し出した。
「それで、よか」と住職。
いっそ帰ってしまおうかと思った。しかし“先生にご迷惑がかかる”。
多くの会員は“御講”をガラガラにすると、学会に良からぬ事が起きると案じて我慢していた。
当時、宗門を外護する立場であった学会である。宗門への批判はタブーであった。
怒りを抑えきれない幹部もいた。ある日、住職と脱会者が庫裏で密談しているところに、地元のリーダー・勝木昭八郎が乗り込んだ。
「池田先生の悪口は金輪際、言わんでもらいたい! 供養だけ取っていじめるとは、なんちゅう根性か!」
脱会者が横槍を入れた。
「あんた、何さまか! 住職に、そげん口の利き方はなかろうが!」
勝ち誇ったような態度である。
「この野郎!」
にらみ合うのが限界だった。
衣の権威は絶対だった。学会員は一方的に殴られ続けた。
*
隠れキリシタンで知られる天草に正宗寺院・護命寺が建った時、会員は喜びに沸いた。
「これで葬式も法事もできる。もう他宗にバカにされんでよかばい」
大小一二〇の島々からなる天草諸島。弘教のため、漁船で天草灘を越え、はるばる鹿児島の港町や離島にも向かった。冬の夜には、小型船の中でドラム缶に火を焚き、潮焼けした男たちが身を寄せるようにして励まし合った。
そんな組織が破壊された。
住職は、姉や弟夫婦など四家族も寺に呼び寄せた。供養で一族を“扶養”する魂胆である。結婚式は一五万円。葬式は三〇万円。会員の生血を吸うような収奪が始まった。
聖教新聞販売店主をしていた支部長までもが脱会し、寺と組んだ。配達員もそそのかし、グループに引き入れた。
情報が遮断された離島では、島が丸ごと脱会するケースもあった。
その一方で、揺るがない島や地域があった。その一つ、龍ヶ岳町では動揺した支部員に岩下栄光が一喝した。
「もし学会が間違っていて、寺が正しいなら、わしが檀徒になる。わしが行くかどうか見てくれ、信じてくれ!」
勝木は振り返る。
「やかましい将軍が一人いれば、みんな残る。中心者がおとなしいところは、全滅やった」
▼「もう我慢できん!」
扇風機が生ぬるい風を送っている。大分平和会館の一室。主だった県幹部が、頭を突き合わせていた。一九八一年の夏である。
熱気で赤くなった県女子部長の森保純子が、こらえきれずに叫んだ。
「このままでは女子部員までが、どんどん脱会してしまう。池田先生を知らんからです!」
県青年部長の竹中万寿夫(現・公明党県会議員)も叫んだ。
「坊主の横暴には、もう我慢できん! 先生に大分入りをお願いするしかない!」
この時、池田会長は、はるか山梨の研修道場にいる。
思い立ったら動く。大分人の気質そのままに、翌日、県の代表は山梨研修道場の玄関に立っていた。前年も、会長が滞在する箱根に押しかけている。
勝手な行動だった。呼ばれてもいない。しかし、森保は言い聞かせた。「誰が何と言おうと、先生に来てもらう!」
池田会長は、一行を懇談会に招いた。片隅で小さくなっていると、しばらくして「大分!」と呼ぶ声。子どものように駆け寄った。
会長は、一人ひとりの顔を、じっと見つめながら約束した。
「行くよ。必ず行ってあげるから」
半年後の十二月八日、池田会長は一三年半ぶりに大分を訪れた。
別府市、大分市、竹田市。さらに熊本県阿蘇郡、熊本市、福岡県久留米市、八女市、筑後市、再び熊本市。九日間で八地域を回る強行軍だった。
九州における一連の「反転攻勢」の歴史については、これまで多々語られてきた。
ここでは 「九州人の胸にストレートに残る池田会長像」に注目したい。当時、会長に随行していた聖教新聞の記者・白井昭の目を借りる。九州大学卒。劇的な日々の目撃者である。
▼青年から狼煙をあげよ
第一に「青年を愛する人」であった。
大分指導の三日目。
十二月十日午前十時過ぎ。青年部の代表らが、大分平和会館の二階和室に呼ばれた。
この時までに、青年部が新指針の文案を作成し、会長に提出していた。てっきり、その件だと思いつつ入っていくと「あれはダメだよ」と会長。
にわか仕立てで作った原案だけに、青年部幹部は「やはり」と肩を落とす。
意を決して「先生、青年部が待っています」と懇願した。その途端、会長はガバッと身を起こした。
「なに! 青年が待っているのか!じゃあ、やってあげよう」
弾かれたように立ち上がる。和室を飛び出し、階段を下りていった。
青年のために何ができるか。池田会長の行動の機軸である。
薩摩が生んだ西郷隆盛についても
「西南戦争で青年を犠牲にした」と厳しい。
会長の背中は、意外な場所に吸い込まれた。一階の奥、管理者室。何人かの婦人部員や、未来部員が待機していた。スペースは狭く、青年部幹部らは入れない。
ここで会長は、役員用の出前弁当などを一緒につつきながら、メンバーを励ましはじめた。
「激励されながら、頭の中で考えておられたのだと思う」(白井)。人間、普通は文を練るとき、一人になりたがる。会長は逆である。会員と語りながら、想を練り、稿を練る。
やがて機が熟したようである。
仕事があるから、と婦人部員たちに場所を譲ってもらい、青年部の代表を呼び入れた。
「じゃあ、いくよ」。口述が始まった。
「なぜ山に登るのか……」
長編詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」の誕生である。
あれこれ文献や資料を参照しない。一気呵成に謳いあげた。その間、三〇分。
「じゃあ、原稿の形にしておいてくれ。頼むよ!」。市内での会員激励の時間が迫っていた。
発表は、夜の青年部幹部会。会館に戻った会長は応接室に入り、清書された一三行罫紙に直しを入れ始めた。細かい言い回し、微妙な言葉のニュアンスにいたるまで、入念に推敲していく。「ここまでされるとは」。青年たちは言葉もない。
午後六時過ぎに会合が始まったが「赤入れ」は続く。会長は先に会場へ向かい、発表原稿の到着を待った。
妥協はしない。共同作業しながら青年を育てる。
エピソードがある。当時、大分で女子部の副部長だった佐藤真理子は、音楽大学の卒業。大分の県歌を作成することになり、最初の四小節は、会長が口ずさんだメロディーを写譜した。「この続きは、あなたが作曲しなさい」と指名された。
その後の懇談の席で、会長は途中経過を聞きながら、音楽表現への心構えを説いた。
「妥協してはいけない。『紅の歌』も大変だったんだ」
四国で男子部歌「紅の歌」を完成させた直後である。
「何度も何度も何度も手を入れた。一生懸命に作った。青年と作った。
皆はいいと言ってくれるが、それでも九六点か九七点だな。私は妥協しない。すべてに妥協しない」
その後、音楽家の道を歩んだ佐藤は、九州青年部が「十万人の第九」に挑んだときに
「歓喜の歌」合唱指導の大役を果たしている。
――長編詩が発表された大分県青年部幹部会。
池田会長は、静かに語った。
「ここ大分で発表したことを、青年部の諸君は決して忘れないでもらいたい」
宗門事件で揺れに揺れた大分であったが、脱会者の中に青年部員は、ほとんどいなかった。
「第一次宗門事件では、最高幹部の信心が揺らいだ。だからこそ先生は青年に託されたと思います。大人は狡い。青年しかない、と」。白井の述懐である。
▼「この記事を待っていた」
第二に「烈々たる言論人」である。
青年部幹部会が終了した。
白井は、時計を見ながら迷った。
午後八時半。発表原稿は、大量の直しで、欄外まで真っ赤である。通常の作業工程から考えるなら、聖教新聞での即日報道は難しい。
しかし、画期的なニュースであり、速報の価値が高いことは紛れもない。
相談のため原作者である会長の側に行くと、即断だった。
「青年部のためだ。やってよ」
甘かった。いつもの作業感覚でいた自分を恥じた。会長の青年への思いに胸を打たれた。
即座に本社へダイヤルを回す。
「青年部が待っているんです。何とか頼みます!」
正確な行数が分からない。三面を一ページあけてもらい、大ざっぱな分量だけ伝えて受話器を置く。
清書の時間もない。赤字だらけの一三行罫紙を、そのままファックス送信した。
聖教の制作部門は当時、東京・港区にあった東日印刷の工場に置かれていた。今日とは違い、鉛の活字を拾って組み上げる「活版印刷」の時代である。
「三面、紙面差し替え!」。整理記者が、割り付け用紙に鉛筆で線を引き始めた。降版まで、あと三時間弱。 電送された写真を製版に出し、トッパン、見出しの倍数を指定する。
「間に合わないぞ!」。怒号が飛び交う中で、紙面が組み上げられていった。
聖教大分支局から、記事の直しが次々と届く。東日印刷の熟練工が、活字を一本一本、ピンセットで器用に拾って差し直す。
昔ながらの職人気質が残る工場である。修羅場になるほど燃える。
「はい、責了!」。ぎりぎりまで降版をのばし、午前零時半。やがて大型の輪転機が唸りを上げた。
深夜。取材陣は胸をなで下ろした。言論はスピード第一。「時」を逸してはならない。また一つ会長から学んだ。
*
「先生、それでは、写真が真ん中で切れてしまいます」
写真の扱いでも、度肝を抜かれた。
「いいんだ。大きくやってあげようじゃないか」
大分・竹田の岡城址で撮影(一九八一年十二月十二日)した記念写真。
会長が提案した大きさは“規格外”だった。縦は新聞の段数で言えば六段抜きである。
横幅は約六〇センチ。一ページの横幅は四〇センチ弱である。これでは、二ページにまたがり、間に欄外の余白が入ってしまう。「真ん中が切れる」 とは、そのことだ。
報道畑の長い白井も、経験がない大きさだ。
寺にいじめぬかれた竹田の会員にとって、生涯の思い出となるであろう写真である。
“大きく扱いたいのは山々だが”――新聞記者なら二の足も三の足も踏む。その固定観念を打ち破っての扱いであった。
掲載された十四日付紙面。
一人ひとりの顔がハッキリ見える。どの顔も、勝ち誇っていた。
誰が宗門の虐めに苦しんだのか。誰が脱会者の罵倒に耐えぬいたのか。誰が勝ったのか。初めて全国に知れわたった。
白井は感動した。
十七日付には、熊本の会員が会長と万歳する写真が載った。竹田より更に大きい。縦は一〇段ぶち抜きである。
「すごい! これ全部、うちらの写真ちゃ!」
出口のない会員の心に風穴をあける勢いがあった。
記事も強い論調だった。
「陰謀だったとわかった。絶対に許せない。人間のなすべき行動ではないからだ」
「なんの罪のなき、これらの純真な老いたる人々を、なぜ罵倒し、いじめるのか」
“その通りだ!”
この主張を待っていたのである。
内容を相談してきた取材記者と会長が、一緒に練り上げた記事である。
手を入れながら会長は「あと何行だい」「八〇行ほどです」。口述の後で清書すると、ピッタリ八〇行に収まった。
晴れやかな顔にあふれた紙面は、宗門に対する勝利宣言だった。
九州だけではない。全国の会員にとって衝撃だった。
宗門事件で苦しんでいた地域は、なおさらである。秋田、福井、愛媛、滋賀……。
みな宗門への「反転攻勢」を待ち望んでいた。
◆「安同情」は、ごまかしと気取りの現れ。
▼「師匠は見放さない」
第三に「正邪を明確にした」。
白井には、今も鮮烈な記憶がある。
熊本文化会館の二階。東京から応援に来ている記者が、九州での取材を通じて成長していると会長に報告した。
「会いに行こう」
すぐさま編集室がある一階へ。が、途中、階段の踊り場で会長は足を止めた。椅麗に磨かれた姿見があった。
おもむろにズボンのポケットから櫛を取り出すと、髪をとかし始めた。鏡に向いたまま、ふと語った。
「私の指導は、本質を突いている……」
シャッ、シャッと櫛を入れながら、続けた。
「反逆するか、成長するか。厳しく言えば、そのどっちかだ」
やがて会長は、すたすたと編集室に向かった。記者は驚きを禁じえなかった。
白井の随行取材歴は十数年におよぶ。その中でも、最も印象的な一言になった。
「安同情」を嫌う。ごまかしと気取りの現れであり、何よりも「本人のためにならないから」である。
ずばりと本質を突く。急所をはずさない。相手の“一凶”を正す。
急所を突かれて、殻を破る人もいれば、逆に殻に閉じこもる者もいる。他人事と受け流したり、逆恨みまでする。
ささいな一念の狂いから、くっきり明暗が分かれる。
たとえば……。
一九七三年三月二十一日。九州の青年部総会を終えた後で、会長は、その場に居合わせた代表に語った。
「師匠は絶対に弟子を見放さない。離れていくのは弟子のほうだ」
その場に、後に離反していく福島源次郎もいた。
最後まで池田会長が善導したにもかかわらず、自分から学会を離れた。逆恨みから宗門につき、学会の撹乱を図ったが、さしたる影響力もなく、やがて死んだ。
三代会長を知る古参幹部。
「牧口先生は権力に厳しかった。戸田先生は坊主に厳しかった。池田先生は内部の敵に厳しかった」
権力と坊主と内部の敵。奇しくも九州は学会にとって、いずれの受難をも呼んだ地であった。そして、すべて三代の会長が矢面に立って攻防した歴史の地であった。
▼殉教を呼んだ地
「先生、それでは撮りますけん」
一九四〇年(昭和十五年)十一月、博多で写真館を営む金川末之は、緊張の面持ちでファインダ―を覗いた。
やや半身に構えた和服姿。きっちり櫛目の通った髪。髭の下で固く結んだ口元。
牧口常三郎初代会長である。
現在、聖教新聞紙上等で目にする肖像写真は、会長として九州を訪れた際に、福岡の学会員・金川宅で撮影された。
門司―福岡―久留米―八女―雲仙―別府と弘教に走った合間である。
金川は、牧口会長の右目にピントを絞り込んだ。眼光は鋭い。いかなる迫害にも負けるな、と訴えるかのようである。
*
黒板に「難」の一字が白く光る。
その横に牧口会長は「正法の証拠」と達筆で書きこんだ。福岡・八女で行われた座談会。みな、けげんな顔である。
八女の会員数は、わずか一〇世帯余り。当時は御書も聖教新聞もない。牧口会長の指導だけが信仰のよすがだった。
軽く咳払いをすると、会長は語気を強めた。
「難こそ成仏の直道である。よく覚えておくように」
まだ信仰の日浅い会員たちに、仏法の極理を正面から説いた。
学会初の地方大会となった九州総会(一九四一年十一月)。牧口会長は、会員指導のため、福岡県・二日市にあった武蔵屋旅館に入った。
二階の広間に上がると、一瞬、部屋の隅に目をやった。硬い目線の男が三人。特高刑事である。
特高刑事は冷たい表情のまま、会長の発言を丹念に記録していた。
この日から三年後、牧口会長は牢獄で殉教する。治安維持法違反――
「特高月報」によれば、逮捕容疑は、九州での発言がきっかけであることが記されている。
牧口会長を獄死させた張本人が戦後に暗躍したのも九州であった。
▼邪僧の暗躍
剃り頭の小さな男が、八女の学会拠点にドッカと座り込んだ。
「寺につくのが本当の信心じゃ!
小笠原慈聞は、からみつくように言い放った。
戦前から軍部権力に積極的に迎合し、結果的に学会弾圧、牧口会長獄死の因を作った坊主である。
日蓮正宗改革同盟の渡辺慈済は語る。
「小笠原というのは?大石寺の管長になりたい?身延と合同したい?国家と迎合して認めてもらおう。この三点。
信心があったわけではない。その目的のためには学会が邪魔だった。だから徹底的にやった。学会の幹部が逮捕されたのも、訴えて捜査させたのも、全部、小笠原慈聞」
戦後、いったんは僧籍を剥奪されたものの、ひそかに復帰。各地に出没していた。
小笠原は、福岡県久留米の霑妙寺を根城に、たびたび八女に姿を現した。一九五〇年から五一年春にかけての時期である。
戦中の経緯など知らない八女の会員に、ぬけぬけと「私は本山から派遣されてきた」。
すっかり化かされ、一〇〇人以上が集まった。寺で小笠原が勿体ぶって配る土産の扇子を、ありがたく受け取った者もいた。
戦前から唱えてきた、古くさい“神本仏迹論”なるものを説いた後、小笠原は参加者に畳みかけた。
「さあ皆さん、寺につくのか、学会につくのか。どっちじゃ!」
小さい目を剥いてテーブルを叩き、脱会を迫ったのである。
九州の一粒種である田中シマ代の顔が、怒りで真っ赤になった。
“なにが扇子っちゃ。あげなもん”
宗門の悪口は厳禁である。グッとこらえ、小さく折りたたんだ学会指導の紙片を握りしめた。
気がつくと、周囲の様子がおかしい。小笠原の話に神妙に聞き入っている。まるで狸に化かされた顔ではないか。
「みんな師匠を忘れちょる……」
牧口会長の厳しい顔と「難」の一字が脳裏をよぎった。
不安は的中した。
後日、事態を知った東京から柏原ヤスと辻武寿が駆けつけ、指導会が開かれた。
会場を見渡した柏原は胸騒ぎを覚えた。何かに憑かれたような呆け顔ばかりではないか。学会では寺や坊主に引きずられることを「寺信心」と呼んできた。その典型的な「寺信心」の形相ではないか。
指導会は、まるで手応えがない。
静まりかえる場内。ひそひそ話が聞こえる。暗い顔の壮年が、そそくさと立ち上がった。釣られるように二人、三人と会場を後にした。広い二階間に残ったのは、わずか一一人。実に九割もの脱会であった。
▼“第ゼロ次宗門事件”
八女で勃発した事件のてん末を聞いた戸田会長は、現地の学会員あてにペンを走らせた。
「辻、柏原両氏より報告を受け、悲しみの極地におります……」
一九五一年夏。同年五月の第二代会長就任の直後、最初に起きた地方の大量脱会事件である。
戸田会長は、九州を訪れたことがない。すぐにでも飛んで行きたいが、直面する課題が多すぎた。
夏季講習会の開催。御書全集発刊の推進。結成したばかりの青年部の薫陶。発刊まもない聖教新聞への執筆。
八女には、辻、柏原のほかにも、大幹部の森田悌二を派遣していた。それが、ここまで切り崩されるとは……。
戸田会長の手紙は、厳しかった。
「僧侶の大半が折伏が出来ぬ」
「純正な信仰者を用いなさい。一人でも二人でもよいのです。今、学会人は各支部、火の様な働きです」
「坊主にほめられたがる者は、絶対に捨てなさい」
「寺信心」ほど怖いものはない。戦前から戦後にかけて、宗門の実態をつぶさに見てきた戸田会長である。その狡猾さは誰よりも知悉している。
それにしても、である。
戦前、戦中の弾圧時代でさえ、一人の退転者も出さなかった八女の組織である。
それが坊主いっぴき、現れただけで、九割もの脱会。何か他に要因があったのではないか。
実は、現地には学会前理事長の矢島周平も送り込まれていた。しかし、矢島が坊主と戦った形跡はない。
むしろ――当時を知る者は、証言する。
「寺に行きなさい、と何回も説得されました」
当時、事態の収拾に当たった辻武寿も「矢島は戸田会長に嫉妬心を抱いていたから」と回想する。
寺と坊主、それと結託した学会幹部。後の第一次・第二次宗門事件の原型は、すでに九州で出来上がっていたといえる。
*
八女への手紙の末尾に、戸田会長は「会いたいと思っております」と記した。
また重ねて伝言を届けている。
「一年間、待て」
その後も会員で動揺する者はいたが、中心者たちは毅然としていた。
「戸田先生は間違っておらん」
“坊主にほめられたがる者は捨ててしまえ”という手紙が、学会に残った者たちを強く変えていた。
◆九州の“闇”を池田会長が断ち切った。
▼やられたら、やり返せ
自動車の後部座席から、長身がスックと現れた。またたく間に人だかりができる。
「戸田先生でございますか」
「そうだよ。僕が戸田です。みんな元気そうだね。嬉しいよ」
八女への手紙を認めてから、ちょうど一年後の一九五二年八月十九日。
戸田会長は、戦後初となる夏季地方折伏の最終地に、八女を選んだ。生涯で最初の九州訪問である。
北国で育った身体に、南国の暑さは負担が大きい。だが眼鏡の奥には、自信に満ちた光があった。
仇を討ってきたからである。
*
その四カ月前。静岡の大石寺で立宗七〇〇年祭が開かれ、小笠原を“退治”してきたのである。
「絶対に小笠原慈聞が現れる。見つけたら、必ず一戦交えよ。徹底的に破折せよ」
居並ぶ青年部に厳命した。若き池田会長の姿もあった。
宿坊にいた小笠原は、完膚無きまでに破折され、牧口会長の墓前で謝罪した。
ほうほうの体で山内の宿坊に転がり込んできた小笠原。顔面蒼白、ステテコ姿である。ちょうど八女からの参加者が、この場面に出くわしている。
あれが組織を破壊した坊主だと教えてもらった。
「あいつが小笠原か!」
胸がスーッとした。
こうして戸田会長を迎えた八女の講演会。
三〇〇人の聴衆からは入会を望む声が続々とあがった。だが会長は自ら慎重に面談に臨み、二七人の精鋭を誕生させた。寺に靡くような人間を学会に入れるわけにいかない。
東京に帰る前、提案している。
「二〇〇世帯になったら、支部をつくろう」
もともと一〇〇世帯あった組織は、小笠原の策謀で一割に激減した。
“やられたら、やり返せ。二倍にして返せ”。戸田会長の強い意志を痛感した。
半年後、二〇〇世帯を突破。晴れて戸田会長から支部旗を受け取った。
あの時、ともに脱会を踏みとどまった一一人の学会員は、胸を張って言った。
「ほら見てみい。戸田先生についてきてよかったやろ!」
こうして戸田会長は“第ゼロ次宗門事件”ともいうべき事態を解決した。だが九州が歩んだ道のりには、なお紆余曲折があった――。
▼これが師匠に仕える姿か
“また、ふくれっ面だわ”
東京・信濃町の旧学会本部の一階にあった聖教新聞編集室。辻敬子は横目でチラッとデスク席を見た。編集長の石田次男が顔をしかめて、ふんぞり返っている。
業務部員の辻は、刷り上がった新聞の仕分け作業に追われていた。職員になってこのかた、石田が笑った顔を見たことがない。
「とにかく上下関係だけで人を見る。冷たい男でした」
後輩の成長を妬んだ。陰で戸田会長を支える若き日の池田会長に対しても、編集室に踏み込ませない雰囲気をつくった。この体質は後々まで続く。
石田の不在時、たまたま池田会長が編集室を通りかかった。「みんな元気かい」。パッと空気が和む。「なんて対照的なのかしら」。辻は感心した。
その後、石田は九州の担当を命じられた。その任に就くや、たちまち親分子分の上下関係を敷いた。
子飼いばかり可愛がる。当時の八女の学会員たちには、いまだに傲岸な態度が忘れられない。「田舎者め」と何度もさげすまれた。
酒乱。「あいつは日蓮焼酎」と笑われた。
酔った勢いで、車の中から靴を投げつける一幕まであった。戸田会長からも「お前の飲み方はゲスの飲み方だ」と叱責されていた。
そんな石田の臭みが蔓延する組織を変えたのが池田室長だったと、九州の草創からの会員たちは証言する。
一九五五年、八女支部の代表が学会本部に戸田会長を訪ねた。会長は磊落に、くつろいでいた。
「失礼いたします」
居ずまいを正した青年が会長室に現れた。きちんと正座し、畳に指をつけて一礼。簡潔な口調で報告しながら、戸田会長の指示にも一つひとつ明快に答えている。
池田室長だった。
今まで触れたことのない新鮮な風。感動した。
“これが弟子の姿! 師匠に仕えるとは、こういうことか”
それまで九州で接してきた幹部とは全く異質だった。
▼八女では「おてもやん」
一九五六年三月五日、池田室長が八女を訪れた。学会が初めて国政選挙に候補者を立てた年である。室長は「大阪の戦い」の渦中にあった。
女性支部長の田中シマ代は途方に暮れていた。どうやって全国区の票を出せばいいのか……。
戸田会長は大阪の激闘を知りぬいた上で、あえて懐刀の室長を送り込んだ。
御書を根本にした指導。団結の重要性を学んだだけでなく、底抜けに楽しい指導会になった。
支部長の脇には、二人の支部幹事がいた。教育畑や村で肩書のある地元名士である。
室長は彼らに、何度も「おてもやん」を踊らせた。
♪おてもやん あんたこの頃
嫁入りしたではないかいな……
ユーモラスな熊本民謡である。肥後娘の「おても」に扮して、大の男が踊るものだから、参加者は腹を抱えた。
「大阪の戦い」で室長は愉快に黒田節を踊って、みなの心を一つにした。
九州でも同じだった。大事なのは女性支部長が伸び伸び動けることだ。そのため和気あいあいの空気の中で、脇を支える男性幹部に自覚をうながしたのである。
一九五〇〜六〇年代は石田。七〇年代には福島源次郎が九州で幅をきかせた。福島は九州で言い放った。
「俺を誰だと思っている。俺の肩書から『副』を取ったら何になる?」。会長への野心が剥き出しだった。
幹部だけではない。支持者を裏切った元代議士・大橋敏雄。
九州で跋扈した退転者の本質。事情を知る者たちは「会員を池田会長に近づけさせないという一点にあった」と口を揃える。
小笠原慈聞が、戸田会長と会員の離間を狙った図式と一致する。
宗門事件の渦中に九州総合長だった古橋侃(現・九州総主事)、現・総九州長の山本武は語気を強める。
「九州にとって第一次宗門事件は『反転攻勢』や『宗門との決着』に留まる小さな歴史ではありません。
戦前の牧口先生、戸田先生の時代から、九州を蝕み続けた闇。それを池田先生が、敢然と断ち切られた。
三代会長の大闘争の結実として、九州を『一大革命』してくださった。 そう強く、実感してなりません」
▼大悪をこれば大善きたる
第一次宗門事件から四半世紀が過ぎた。
いま、事件の激震地で、当の脱会者が語る。
「もう誰も寄らんけんのう。法華講も学会も、よう来らん」(元支部長)
完全に失明。家を訪ねると、薄暗い部屋で大相撲のラジオ中継を聴いていた。
「もう学会でも寺でも、どっちでもよかですわ。今は一人です」(元大ブロック担当員)
長崎県大村市の三根松子。丈夫だった夫が、脱会後、半身不随になった。
夜な夜な、学会の座談会や唱題会に参加している夢を見たという。
東京にいた息子は、精神的な病で追い込まれた。自殺未遂を繰り返し、最後は山中で車に排気ガスを引き込み、生命を絶った。
「どげんして死のうか」。後を追って、死に場所を探していたとき、学会の福田順次郎が声をかけた。「早く学会に帰らんね」。四年前に再入会。絶対に学会を離れてはいけないと強く訴えて回る。
九州創価学会は発展した。
公明党が一九八〇年の参院選比例区において九州で獲得した票は六五万弱であった。二〇〇三年以降、全ての国政選挙(比例区)において、一〇〇万票を大きく超える。
九州青年部が主催する平和音楽祭。これまで五万人(九四年)、一〇万人(〇一、〇五年)規模の「第九」合唱を実現してきた。
日蓮仏法に有名な言葉がある。
「大悪をこれば大善きたる」。
「大善」は、ただ座して待つところに現れるのではない。大悪を大善と転換しゆく意志と団結あってこそ、栄光は輝く。
第一次宗門事件以来、四半世紀におよぶ九州創価学会の歴史は、その原理を証明する歩みであった。(文中敬称略)