公明党を創立(上)


軍閥政治の犠牲となった牧口初代会長。戸田二代会長は宗教を根本にした政治理念を掲げた。
政界に「五五年体制」が生まれる時代、政治進出の初陣に一人の青年が立ち上がった。




▼なぜ学会は政治に進出したのか。

◇「大阪事件」最終陳述

 傍聴席の視線が、いっせいに法廷中央に集まった。
 長椅子から立ち上がった池田大作会長が固い木床を踏みしめ、証言台に向かう。
 正面の判事席を向き、半円形の台に立った。
 一九六一年(昭和三十六年)十二月十六日。大阪市北区西天満大阪地方裁判所。すでに四年余に及んでいた「大阪事件」の公判は、最終陳述の日を迎えた。
 五七年の参院補欠選挙に端を発した冤罪事件。検察は池田会長に「禁固十カ月」の厳しい求刑を突きつけてきた。

 会長は雄弁だった。
「宗教を信ずる者が選挙活動をやるのが、なぜ悪いのか」
 傍聴席に小さなざわめき。「しょっぱなから強気や!」
 異色の弁論に、新聞各紙の司法記者もペンを走らせる。
 判決を控え、裁判官の心証を決する最終局面である。普通、被告は波風を立てない。
 芝居がかった弁舌で反感を買わぬよう訴えるか。
 執行猶予ねらいで媚びを売るか。ボロを出さぬよう身を縮ませるか。
 会長は真っ向から主張した。
「我々の選挙支援は、憲法に保障された国民の権利である」
 裁判長の田中勇雄。眉一つ動かさない。閉廷。苦い顔で公判担当の検事が会長に近寄ってきた。はねつけるように言った。
「私は民主主義が続くかぎり、選挙をやる。絶対に勝ってみせる」

 およそ一カ月を経た六二年一月二十五日。同法廷は、無罪判決を下した。(詳しくは単行本第一巻「大阪事件」の章を参照)
 大阪からの帰途。皆は、勝った、勝ったと無邪気に、はしゃいでいる。
 会長は釘を刺した。「戦いは終わったのではない。むしろ、これから始まるのだ」
 何ごとか、思索をめぐらせている様子だった。
 翌二十六日。東京での本部幹部会。参加者は発表に驚いた。
「公明政治連盟を結成する」
 公明党の前身となる政治団体の正式発表である。
 無罪判決の翌日。まだ検察による控訴の可能性も色濃く残る時点である。
 公明党結成への本格的な一歩は、大阪事件という一大冤罪事件の中から踏み出された。

 公明党衆議院議員三一人、参議院議員二一人、地方議会三〇五一人。(二〇〇七年十月現在)
 大企業や資本家、労働組合がバックにあるわけではない。
 宗教団体を母体に誕生した。
 日本の政治史上、類例を見ない。
 それだけにまた、これほど中傷・批判にさらされた政党もない。
 いまだ人は問う。
 なぜ学会は政治に進出したのか。
 なぜ学会は政党を創立したのか。
 真相に迫る。

◇牧口会長と普通選挙

 上野公園を出た群衆の波が、砂塵を舞いあげた。飛びかう怒号。
「閥族打破! 憲政擁護!」
 一九二〇年(大正九年)二月。七万五〇〇〇人のデモ行進が東京市街を飲み込んだ。普通選挙を求めるデモ行進である。
 喧騒を遠目に見ていた人物がいた。
 口髭をなでる手をとめ、つぶやいた。
 ――普選の実施は、もはや時間の問題だな……。
 牧口常三郎創価学会初代会長)。四十九歳。下谷区(現・台東区)の西町小学校の校長である。明治四年生まれ。近代日本の歩みとともに生きてきた。

 時の政府は公然と民権運動を弾圧した。
 ある野党議員の演説会。青竹に突き刺した豚の生首が入り口に立てられている。恐がって誰も入れない。
 演説が始まるや、屈強な壮士が刀を抜いて乗りこむ。
 壮士といえば聞こえはよいが、政府筋が雇った愚連隊である。たちまち警官が演説会の中止を宣告する。はじめから申し合わせたうえでの茶番劇である。
 選挙権は「直接国税三円以上の男子」に与えられ、成人人口の僅か五パーセントしか政治に意思を反映できない。

 一九一七年のロシア革命のうねりは世界に波及し、日本にも達していた。労働組合啓蒙思想団体が次々と生まれ、政党内閣の実現を訴えた。

 牧口は孤高の教育者だった。
 独創的な教育理論を掲げ、市の視学(教育監督官)や教育界のボスと激しく衝突した。反骨を疎まれ、たびたび左遷、冷遇された。
 失意に沈む日も多かった。
 ただ、デモのひと月ほど前、心を癒す出来事があった。
 北海道から上京したというイガグリ頭の青年と会っている。十九歳の
 戸田城聖(二代会長)である。剛毅、豪胆。見るからに大器量の持ち主だった。
 彼となら、社会を変えていけるかもしれない。掌中の玉を得た思いだった。

 政治への関心は深い。
 為政者が腐っていては、教育改革は夢のまた夢である。学校や校長室に閉じこもらず、進んで政治家、行政家と交流した。
 力強い仲間もいる。「黎明会」。吉野作造政治学者)らが結成した、立憲政治の啓蒙団体である。
 新渡戸稲造(農学者)。朝永三十郎(哲学者)。左右田喜一郎(経済学者)。名だたる学識者が名を連ねていた。

 一方で、盛んになりつつあった社会主義者の勢力とは一線を画した。
「なるほど社会には欠陥がある。改革は必要だ」
 一人の運動家に厳しく直言した。
「だが社会を破壊しただけで、代わりの建設案がなければ、戦国時代の再現にすぎない」

犬養毅と古島一雄

 創価教育学会の理事長となった戸田が嬉しそうに駆けよった。
「先生、ようやく完成しましたね」
「ありがとう、戸田君」
 謹厳な師の顔も、この日ばかりは、ほころんでいる。
 手には、重厚な表装の本があった。
 一九三〇年(昭和五年)十一月十八日。年来の宿願である『創価教育学大系』の発刊にこぎつけた。
 表紙をめくる。題辞の筆を揮ったのは「立憲政友会」総裁の犬養毅である。憲政の神様。藩閥政治打倒のシンボル。

 容赦ない政府への毒舌で人気があった。
 多忙を極めていたが、快く題辞の筆を染めてくれた。
 それほど牧口学説に共鳴していた。
 戸田は誇らしかった。この本が発刊された翌年、犬養は内閣総理大臣になる。
 一国の宰相が、師の学説を高く評価している。
 これほどの喜びはない。
 戸田自身も、この時期に政界のキーマンと親しくなった。
 古島一雄。犬養の懐刀である。元新聞記者の経歴を生かし、政界、財界、教育界、ジャーナリズム界に幅広い人脈があった。
 その著『一老政治家の回想』(中公文庫)は、明治・大正・昭和の三代の政治史を語る名著として、今なお名高い。

 戸田は、すっかり意気投合し、創価教育学会の顧問も務めてもらった。

 創価教育学会が誕生した昭和初期、政界は二大政党制の時代だった。
 一つは犬養が率いる「立憲政友会」。
 鳩山一郎(後に首相、自民党初代総裁)や大野伴睦自民党副総裁)など、戦後に「党人派」と称される人びとも所属していた。
 犬養、鳩山も創価教育学会の後援組織だった「創価教育学支援会」に名を連ねている。
 犬養毅と牧口会長。
 古島一雄と戸田理事長。
 立憲政友会創価教育学会。
 不思議な縁があった。
 犬養毅研究の第一人者・時任英人(倉敷芸術科学大学教授)は語る。
「犬養は、一個の人間に焦点を当てた牧口会長の教育理念に共鳴した。
 そしてまた古島も、牧口会長を支える戸田理事長の姿に、青年期から犬養を守り続けた自身を重ねあわせたのでしょう」

◇「五・一五事件」の衝撃

 タクシーが玉砂利を噛み、総理大臣官邸前に急停車した。
 降り立った青年将校の眼は血走っている。ドアを跳ね開け、邸内に飛び込んだ。
 一九三二年(昭和七年)五月十五日午後五時過ぎ。
 犬養毅は七十八歳とは思えぬ迫力で銃身の前に立ちはだかった。
「まあ待て。騒がんでも、話せばわかる。撃つのは、いつでも撃てる」
 二発の銃音。
 お手伝いが駆けつける。流れ出た血が着物を赤黒く染めていた。
「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」。遠のく意識の中で眩いたが、その夜、絶命した。

五・一五事件
 政党政治の終焉は、そのまま軍閥政治の到来を意味した。
 犬養のように軍部政府に対時する政治家は、すでにない。思想統制の暴風の中で、創価教育学会への弾圧がはじまった。
 四三年(昭和十八年)七月。奇しくも普通選挙の実現と表裏一体で施行された「治安維持法」が、牧口会長、戸田理事長を獄につないだ。翌年十一月、牧口会長は逝いた。
 戸田理事長は、独房の厚い壁を拳で叩いた。
 ――不甲斐ない政治家が、軍部の跳梁を許した! 真の政治家がいなかったから、牧口先生を死に至らしめたのだ! 間違った政治が先生を殺したのだ!

▼「われわれも選挙で戦う時がくる」

◇戸田理事長と戦後の政界

 戦後の東京・神田。
 事務所で商談を片付け、株式市場の変動も確認すると、戸田理事長はマッチを擦って愛用のピースに火をつけた。

 一服しながら虚空を見つめる。独特の思索の時間である。
 秘書が茶を運んだ。そっと湯呑みを置き、頭を下げた瞬間……。
「それにしても今の政治は本当に悪い。本当に悪い政治家ばかりだ!」
 紫煙が、ゆらゆらと立ちのぼった。

 戦後、事業と学会の再建に全精力を注いだ。一方で政治への監視を怠らなかった。
 一九四九年(昭和二十四年)一月の衆議院選挙。
 吉田茂が率いる民主自由党は、二六四議席の多数を獲得した。
 吉田の天下か……。
 ラジオの前で腕組みして、選挙速報に耳を傾ける。戦後も政界の指南役として重きをなした、あの古島一雄が推す人物である。
 吉田の手腕も気にかかるが、関心事は他にもあった。宗教団体の政治進出である。天理教が、保守系の民自党と民主党などから、合計一〇人の信者を当選させていた。
 ラジオの音を掻き消すように言った。
「いずれは、われわれも選挙で戦わねばならぬ時がくる。政治は好きだとか、嫌いだとか、言っておれない段階が必ずくる」
 周囲は唖然とした。
「僕は、政治は好かない。だが仏法者の使命であれば、そんなことは言っておれない」
 使命? 先生は政治家になるのか。
「御聖訓を拝し、現代の国家組織を考えていくと、どうしても政界に進出せざるを得ないのだ」
 夢物語のように聞こえる。
「いずれ時が来よう。その前に、やらねばならぬことがある」

日蓮主義者の系譜

 くわえたタバコが短くなってきた。
 脳裏に、戦前の宗教家、政治家の姿が浮かぶ。
 田中智学という男がいた。
 日蓮宗から出家したが、還俗して「国柱会」を結成。
 日蓮宗国家主義をマッチさせた運動論は異彩を放っていた。
 ネーミングにたけた男で「日蓮主義」「八紘一宇」「国立戒壇」などは、すべて田中の造語である。
 ついに「立憲養正会」なる政治団体を結成。出生地の日本橋から衆院選に立候補した(一九二四年)。選挙区(東京五区)の「国柱会」会員は二八人。
 有権者に頭を下げるような真似はしたくないと、文書と演説会のみの選挙活動だった。
 七九四票で落選した。
 ただ、熱心な「信者」を獲得した。宮澤賢治童話作家)。高山樗牛(文学者)。北原白秋(詩人)。石原莞爾(軍人)等。
 なかでも石原の傾倒ぶりは有名である。
 陸海軍の将校を集めて日蓮研究のグループをつくるまでになった。
日蓮聖人の〈前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし〉は、私の軍事研究に不動の目標を与えた」(『戦争史大観』)

 日本を世界の盟主に押し上げる「世界最終戦争論」を唱道する。
 第一段階として満州事変を首謀。“満州国”の生みの親となる。

 日蓮宗井上日召。「血盟団」を結成し、テロによる国家改造を目指した。
 一人一殺。蔵相だった井上準之助三井財閥の総帥・団琢磨を暗殺した。
二・二六事件」の首謀者・北一輝。新興仏教青年同盟を結成し、社会主義運動を進めた妹尾義郎……。「日蓮主義」は右翼も左翼も生み出した。
 いずれも破滅的な道をたどっている。

 なぜ日蓮の信奉者が政治に関わると、悲劇が生まれるのか。
 狂信、急進、テロリズムに走るのか。
 思索は続いていた。
日蓮を用いるとも、悪しく敬えば国が亡ぶであろう」(日蓮の言葉)いかに高邁な哲学も、ひとたび用いかたを誤れば、社会に甚大な災厄をもたらす。
 いまだ日蓮の哲学を、あやまたずに政治、社会に生かしきった運動は、日本史上になかったと言ってよい。
 着想が浮かんでくる。
 タバコをねじ消し、愛用のペンを握った。

◇論文「王法と仏法」

「どうだい、今度の巻頭言の出来具合は?」
 戸田理事長は上機嫌で青年たちに感想を求めた。
 論文「王法と仏法」が学会の機関誌「大白蓮華」の巻頭を飾ったのは、一九五〇年(昭和二十五年)三月である。

 学会首脳による初の政治論。
「吾人が体験した最も劣悪な政治は太平洋戦争中の日本の政治である」
 師を死に至らしめた政治への怒りが伝わってくる。
「此の劣悪な政治を吾人は、その時代は忍ばねばならぬとしても、それでよいとして泣き寝入りする訳には行くまい」
 出獄から五年。
 思索の結論を、日蓮の短い文言であらわしている。
王法仏法に冥じ仏法王法に合す」

王法」とは何か。
「国王による政治」「俗世間の法」「世の習わし」など種々の意味を含んでいる。単に政治のみではない。政治をはじめ、行政、経済など社会の営み全般を広く指すと言ってよい。
「仏法」は、生命の尊厳、慈悲や慈愛などの精神的価値を指す。
「冥合」とは奥深い次元での合致である。
 制度上の合体ではない。仏法の哲理、精神性を、広く社会に生かしていくことである。
 文字から受ける印象こそ厳めしいが、本義を解題してみれば、何のことはない。極めて常識的な概念にすぎない。

 そもそも--昨今流行のスピリチュアリズム心霊主義)や占いの類いなら、いざ知らず。およそ万人救済の宗教を名乗りながら、自らの理想と抱負を社会に問わない教えがあろうとも思えない。
 五六年(昭和三十一年)八月には、論文「王仏冥合論」を執筆した。
「社会の繁栄が即個人の幸福と一致しないということが、昔からの政治上の悩みではないか。
 ここに日蓮大聖人が、政治と個人の幸福とは一致しなければならぬと主張遊ばされたのが王仏冥合論である」

 余事ながら「国立戒壇」なる用語に触れる。
 今では多くの学会員が関心はおろか、言葉すら知らないが、過去の一時期、学会は「国立戒壇」の用語を使用した。日蓮正宗
 宗門への顧慮からである。
 同宗管長・細井日達の言葉。
「わが宗で使用した名称なるゆえに、その“国立”なる名称を使用したにすぎない」(一九七〇年五月三日)
 もとを辿れば田中智学の造語。
「世間の人々が“国立”という名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、あたらない」(同)
 日蓮も幕府からの国家安泰祈願の要請を断っている。「国教化」や「戒壇の国立」は開祖が否定していた。
 公明党も結成時、政策として否定している。
 試みに、学会の青年部員に聞いてみた。
 一人は「国立階段って何ですか」と真顔で反問してきた。
 なかには「国立怪談」と当て字を示した青年もいた。
 確かに、現代の民主主義社会では、怪談めいた話である。

天理教の政界進出

 奈良県北部。
 山辺丹波市町の詰所に、人だかりができている。もんぺ姿の主婦やゲートル巻きの復員兵が、しきりに手を振っている。
 一九四六年(昭和二十一年)四月。戦後、最も早く政治進出を果たした、天理教の選挙演説会だった。

 戦前は大本教と並び、いわゆる新宗教横綱格だった。
 教祖・中山みきの死後、教派神道を名乗って明治政府に迎合し、弾圧を回避した。
 戦後、真っ先に衆議院総選挙に出たのも、全国に一万もの教会が温存されていたからである。
 関西を中心に八人の候補を立てた。教会組織を動員し、各選挙区で数千枚のビラを配った。
 機関紙「天理時報」で支援を呼びかけた。
 奈良と徳島で、教団職員と天理中学の元校長が当選。第一党の自由党にも二人の推薦議員を誕生させた。
「本教(=天理教)の実力をもってすれば、相当数の代議士を国会に送ることはそう難事ではない」(「天理時報」一九四六年四月二十八日付)
 翌四七年四月。第一回参議院選挙では、全国区で約六〇万票を獲得し、二人の教団幹部を当選させた。
 当時の機関紙を見ても、具体的な政治ビジョンは見当たらない。
 教祖が「世直し」を説いた天理教だが、多分に勢力誇示の側面が強かったようである。
 以後、衆参両院に議員を送り続けた。五〇年(昭和二十五年)には、衆院に一〇人、参院に四人もの教団関係者を擁するにいたった。
 もはや堂々たる政治勢力である。「天理政治会」なる結社も喧伝された。

 他教団の動向。
 生長の家。教祖の谷口雅春自ら出馬の動きもあったが、最初の参院選で幹部の矢野酉雄が当選したのみ。次期選挙で落選すると国政から消えた。
 立正佼成会。目立った動きは一九四八年(昭和二十三年)の東京都知事選で、保守系候補を支援したことくらいか。

 昭和二十年代は、天理教の一人勝ちである。特に西日本に強い。
 しかし五一年(昭和二十六年)五月、後に天理教を震憾させるできごとが起こった。創価学会に戸田第二代会長が誕生したのである。

創価学会天理教

 戸田会長は、学会再建にあたって二つのプランを温めていた。
「教学」と「青年」である。戦前の退転者は日蓮仏法の教義に暗く、世間ずれした古参が多かった。青年部を発足させ、教学を叩き込んだ。
 既成仏教や天理教は、軒並み信徒を奪われた。天理教の幹部で、最後の参議院議員だった常岡一郎すらも「すごい」と唸った。

 学会発展の影響は天理教の選挙に及ぶ。
 一九五二年(昭和二十七年)十月の衆院選。奈良と徳島のエース二人が「まさかの落選」。同選挙区から撤退した。

 五三年四月の参院選。「天理時報」の選挙報道が「一面」から「二面」に後退。
 全国区の得票は三二万票にとどまり、第一回の半分まで落ち込んだ。
 五五年二月の衆院選。九人の候補を擁立したが、機関紙に一行も報じられていない。
 国政進出から僅かに九年。この失速ぶりは、どうしたことか。
 宗教ジャーナリストの分析。
「要因は二つ。一つは創価学会折伏が、もろに効いた。
 もう一つは、政治進出に理念がなかった。だから信者が“選挙疲れ”を露呈した」

 五六年(昭和三十一年)六月十日。信徒は、ため息をついた。
「特定の候補者出さず 参院選挙に本部の決定」。
 天理時報の一面は、来たる夏の参院選不出馬を伝えていた。
 逆に学会は、この参院選で国政進出を果たす。天理教金城湯池だった西日本を中心に、三人の国会議員を誕生させた。

◇宗教団体と政治

 宗教と票。古くから切っても切れぬ関係にあった。
 天理教も、戦後三度目の総選挙(一九四九年)で、教団独自の推薦という形態をへ既成政党からの立候補に切り替えた。
 他の教団も同様の手法を選んでいる。
 理由を戦前の宗教弾圧にたどる見方が多い。
 宗教にとって政治権力を敵に回すほど恐ろしいことはない。
 教団組織の維持を図るためには、政治家とも政党とも、良好な関係を保ちたい。
 だが、弊害も出る。時に宗教的理念に矛盾が生じる。
 政界の利害関係に巻き込まれ、教団の分裂すら招きかねない。
 宗教団体にとって政治との関わりは、両刃の剣なのである。
 日本の宗教団体の政治進出は四パターンに分類できよう。
 1.いち早く政治に乗り出し、やがて失速し、撤退した天理教生長の家等。
 2.自前の政治団体は持たないが、選挙で既成政党に影響を及ぼす立正佼成会霊友会等。
 3.自宗派の代表を政界に送る一方で、既成政党にも一定の影響を保ちたい仏教、キリスト教等の各派。
 4.独自の理念と基盤をもち、独自の運動を展開した創価学会
 1.から3.は「大同小異」。というよりも、日本の宗教団体にとっては、1.から3.の選択肢
 しか許されなかったというのが実情だろう。
 それほど政治権力というものの存在は大きい。
 そのなかで、本当に4.という選択肢は成り立つのか……。

 戦後日本の宗教と政治を巡る情勢を、戸田会長は的確に掴んでいた。情報源の一つに東京大学宗教学者・小口偉一がいた。
 神道キリスト教など宗教界全般に人脈を持ち、学者らしからぬ情報通で知られた。互いに飾らぬ性分。懇談の機会も増えた。
 静岡での折。「ちょいと失礼」。談笑の継ぎ目をみて会長が席を立った。
 小一時間ほどで戻ってきた。「いやいや、御書講義があったものでね」
 これか。得心がいった。最高指導者と会員の間に垣根がない。
 学会伸張の秘密を見た。

▼悪を悪と言い切る政治家になれ!

◇悪いやつに怒れ!

 しわぶき一つない会場に、戸田会長の御書講義の声が響いた。
 一九五二年(昭和二十七年)秋。入会間もない青年が、しゃかりきになってペンを走らせていた。
「質問のある人は、いらっしゃい」。言い残して、会長は講義を終えた。
 控室の戸を叩いた。屈託のない笑顔に引き込まれ、思い切って質問した。
「私は怒りっぽくて困っております。どうしたらいいでしょうか」
 スッと笑みが消えた。
 バーン。両手の拳で机を叩いた。
「怒りっぽいことの何が悪い!」激怒している。
「世の中には、怒らなきゃならない相手がいる。本当に悪いやつがいる。すべてに優しくしょうなんて、根本的に間違っている」
 勢いは止まらない。
「男は六十を過ぎると、みな好々爺だ。良いも悪いも引っくるめて、いいよ、いいよとなる。これは男の堕落だ」

 戦前の惰弱な政治家たちの姿が念頭にあったか。
「そんな情けない男になるな。年を取っても、悪いものは悪い、良いものは良いと言い切れる、力ある男になれ」

 一瞬の間。
「なれるか!」
 腹の底から絞り上げた。
「はい!」
 笑みが戻った。
「その言葉に間違いがないなら、将来、衆議院議員になれ! 俺が応援してやる」
 学会が政治進出する三年前である。
 悪に怒る政治家たれ!
 後に青年は衆議院議員となった。

◇「文化闘争」路線

 戸田会長は眼鏡を外し、机に広げた日本地図を舐めるように凝視した。
 学会員の分布図を詳細なデータと照合していく。
 一九五四年(昭和二十九年)秋。学会の世帯数は一五万に迫ろうとしていた。
 圧倒的に多いのは首都圏、蒲田から鶴見に広がる京浜工業地帯に印が集中している。関西の堺、北海道の函館、東北の仙台、
 九州の八女にも密集していた。ゆっくり顔をあげた。
「よし。いけるだろう」
 十一月、文化部を結成。本格的な政治進出を決めた。
 焦点は翌年春の統一地方選挙。人望のある者や教育人、経済人を「文化部員」に選び、候補者にした。

 二つの特徴があった。
 第一に「文化闘争」という独自のネーミングを掲げたことである。
 独特の観点があった。「政治とは生活である。政治を含めた生活のスタイルが文化である」
 王法、仏法の立て分けに即していえば、王法を文化と言い換えた、といえようか。
 選挙支援は、広汎な文化運動の一つにすぎない。学会は政治もやるが、教育、芸術、平和もやる。

 第二に「地方」から政治に関わった。
 戦後、天理教を筆頭に、いずれの教団も国政選挙から手を染めた。
 しかし一〇年もたないことは、天理教の場合で実証ずみである。
 結果的に、信徒が政治の犠牲になった。
 まず身近な地方議会で足腰を鍛える。政治をぐっと庶民の側に引き寄せる。
 地力をつけたうえで国政に出す。
 宗教学者の評価。
「地方議会進出は『政治を庶民の手に』。参議院進出は『政治を監視せよ』。戸田会長が政治を熟知していた証左だ」

千尋の谷に落とす

 信濃町の学会本部二階。広間に五四人が揃った。文化部員の任命式である(一九五五年二月)。
 戸田会長が入場した。厳しい目線で一人一人を見つめていく。
「今日、ここにいるのは、わが愛弟子たちである。しかし、ほとんど全員が退転するだろう」
 げっ。文化部長の鈴木一弘が浅黒い顔を上げた。川崎市議候補。
 前年、勤務先が倒産。月三〇〇〇円の生活に暗転した。
 人柄を見込まれ、会長に呼ばれた。
「どうだ、市会議員になって再起しないか」
 あの慈顔が忘れられない。いま目の前にいるのは厳父だった。
「師子は千尋の谷に子を突き落とし、這い上がらせて訓練をする。ここにいる皆も、千尋の谷に落とさざるを得ないのだ。だが、ほとんどの者が……」
 しんと静寂が流れた。
「……二度と這い上がれないだろう」
 ひと筋の涙が頬を伝っていた。側に控える池田室長は眼を閉じている。
「それを思うと、私は余りの辛さに……涙がこぼれるのだ」
 牧口会長を獄死させた政治権力への怒り。
 戦後、雨後の筍のごとく政界に進出した他宗教の動向。
 いまだ誰も果たしたことのない、日蓮仏法の「立正安国」「王仏冥合」という見果てぬ夢の実現。
 時機は来た。打つべき手は打った。だが、権力には魔性が棲んでいる。
 ここに居並び、これから政界に送り出さねばならぬ弟子たちの、誰一人として気づかぬほどに獰猛で、狡猾で、甘美な魔性が。

▼「僕は『公明党』と書いて入れている」

◇山口作戦と「公明党

「話がある」。後日、青年部の幹部が戸田会長に呼ばれた。
 池田室長をはじめ、青年部長の辻武寿、男子部長の牛田寛、各部
 隊長らが馳せ参じた。
 神妙な面もちで尋ねた。「お前たち、友人の五人や一〇人くらいは、いるか」みな呆然として言葉をのむ。室長が即答した。
「おります」
「その友人に、選挙を頼めそうか」
「大丈夫です」
 折伏と選挙は違う。嫌な人間にも頭を下げ、味方にしなければならない。
 それが納得できているのかを確かめたかった。
「そうか、分かった」

 池田室長もまた、折々に政治への関心を語った。
 公明党や公明政治連盟が結成される、はるか以前のことである。
 一九五六年(昭和三十一年)の山口作戦。拠点の旅館に、激闘を終えた派遣隊が集ってきた。
 ひと風呂浴びて、くつろいだ姿で室長を囲んだ。
 心地よい秋風がそよぐ。手ぬぐいで汗を拭いながら、社会情勢を話題にした。
「今の日本には、人物がいない。これと思う政党や政治家は見当たらない」
 参院選に進出したばかりで、学会員に衆院選への関心は薄い。
 棄権する者も多かった。
「でもね。僕は、選挙は棄権したことがない。いつも行っている。『公明党』と書いて入れているんだ」
 岡山から参加した原渕祥光。コウメイトウ? どんな字を書くんだろう。
「もし、ここにいる者が政治家になるとすれば……」
 一人に視線を向けた。
「将来、君は衆議院議員だな」
 次々と指名していく。
「君は、都議会議員。君は、どっちかというと参議院か……」
 互いを見つめて吹き出す。どう見たって政治家の顔じゃない。
 すっかり身体が冷えた。
 室長が手を叩いた。「さあ、解散。明日も闘争だぞ」。寝床に潜り込んだ。
 折伏一本だった山口作戦の陣中で、室長は全く別の次元で将来を見すえていた。
 政党名も、すでに念頭にあった。
 不思議なことに、原渕をはじめ山口作戦の参加者には、後に政界へ出た者が多い。

◇昭和三十年、大田の戦い

 桜木町行きの京浜東北線が、蒲田駅近くに差し掛かる。右手の線路際に、ひときわ大きな看板が見えてきた。
「東京都議候補 小泉隆」
 一九五五年(昭和三十年)四月の肌寒い日だった。
 選挙事務所から呑気な声が路上に漏れてくる。少し離れた場所で、コート姿の青年が、中の様子をうかがっている。池田室長である。
 数人の男がコタツを囲んでいた。
 選挙コンサルタントを気取った男が、票集めの手ほどきを伝授している。
 書類整理と電話応対で大わらわの女子部員。
 活気はある。だが、どこか上滑りな空気が漂う。
 ポケットに手を入れたまま、小さくつぶやいた。
「やっぱり。戸田先生のおっしゃった通りだ」

「文化部員」を任命し、学会が初の統一地方選挙に挑んだ春だった。
 二人の注目候補がいた。
 東京都議会の小泉隆(大田区)。横浜市議会の森田悌二(鶴見区)。理事長と支部長の大幹部が出馬したのである。

 ところが士気は上がらない。訴える政策が明確でない。実績もない。応援弁士もいない。
 知人に支援を依頼しても、気がつくと信仰体験を語っている。
 頼まれたほうが面食らう。「あんた、私に信心させたいのかい。
 選挙に行かせたいのかい?」
 地域ごとにボスが君臨する地方選挙。宗教団体の候補者が入り込む余地は小さかった。
 あげくの果てに選挙コンサルタントに踊らされる始末。
 素人選挙の無知につけこまれた。ふらっと事務所に寄ってくる男に根拠のない票読みをされ、カラ数字が飛びかった。
 東京。横浜。この二大都市で落とせば全国の士気に関わる。
 戸田会長は室長を呼んだ。
「大田も鶴見も、このままでは負け戦だ。大作、指揮を執ってくれないか」
 すでに公示日は過ぎている。室長に、土壇場の陣頭指揮が託された。

 室長は、淀んだ空気の事務所を後にし、大田区内へ。
 現場の声を聞く。「選挙、選挙」と意気込んでいる割に、具体的な目標や報告がない。
 翌日、首脳会議で切り出した。
 大事なのは信心の団結だ。座談会と家庭指導を徹底すること。
 学会らしくやれば勝てる。
 最後に伝えた。
「今日から指揮の一切は、私が執る。安心して戦ってください」
 御書をひもとき、個人指導に力を入れた。
「この仏法は一人が幸福になるだけではない。社会に仏法の理念を浸透させ、貢献していくものだ」

 青年部幹部との打合せ。テーブルに茶菓が並んでいる。
 婦人部が時間をぬって用意してくれた。
「ごちそうさま。皆も喜んでいました」丁重に礼を述べてから続けた。
「真心には感謝します。
 だが今後、こういうことは、なさらないでください」
 目をぱちくりさせている。
「目的は勝つことです。負ければ学会員が可哀想だ。戦いです。今は打って出る時です。一緒に頑張りましょう」

 婦人の力こそ勝利の原動力。台所に閉じこめてはいけない。

◇鶴見で街頭演説

 ぶつぶつ演説の草稿をつぶやきながら、森田悌二は鶴見の事務所内を歩き回った。街頭演説。学会の会合とは勝手が違う。俺の話が通用するのか……。
 玄関口が、ざわめいた。
 池田室長。予定外の訪問だった。
「街頭で一言、あいさつしますから」。大田を回った足で、鶴見にも通った。
 鶴見市場の商店街。八百屋の店主が怪詩な目を向けている。学会員も駆けつけ、五〇人ほどの人だかりができた。

 室長がマイクを握った。
「皆さん、ここにいる森田悌二さんは大変、立派な方なんです」気さくな第一声である。
「私たち青年に正しい人生を指導してくれた方です。今の若者は人生の方向を見失っている。森田さんは青年に偉大な哲学を教えてくれた」
 へえ、そんな人がいるのか。買い物客の足が止まった。
「森田さんのお陰で幸せになった。そういう人が、鶴見区には、たくさんいる。立派な指導者です。どうか、よろしくお願いします!」
 短いが、気持ちのいい演説。じっと聴き入っていた八百屋が思わず手を叩いた。

◇「五五年体制」の誕生

 壇上に何度も紙片が回された。
「小泉」「森田」の字の下に、小さな数字の走り書き。四月二十四日。投票翌日の中野支部総会。
 蒲田支部長で理事の白木薫次がメモを掲げて跳びあがった。
「うれしい臨時ニュースです。小泉、森田、両方ともトップ当選!」
 戸田会長は仁丹を噛みながら、歓声に耳を預けている。
 一週間後の各市区議会選挙では、五二人中五一人が当選。東京、横浜の勢いが全国に波及した。
 以後、学会は五〇年にわたって「政治」に関わり続けていく。

 この年の秋、政界は激震する。
 一九五五年(昭和三十年)十月、社会党の左派と右派が統一され「日本社会党」が誕生した。
 保守勢力は危機感を抱いた。
 鳩山一郎岸信介が動く。十一月、自由党民主党が合同。「自由民主党」が結成された。
 自民党社会党。いわゆる「五五年体制」の誕生である。
 焦点は、翌五六年(昭和三十一年)の参院選。巨大な二つの歯車が回り出す。
 このまま二大政党制の時代になるのか。それとも……。
 戸田会長は決断を迫られた。ここで勝負をかけるか。いましばらく様子をみるか。
「ひばり男」と呼ばれてきた。落ちるときは急降下だが、伸びるときは天高く舞い上がる。
 勝負だ! 戸田会長は、参院選への進出を決めた。一世一代の賭け。勝算は一つ。
「私には、大がいる」

(文中敬称略、次号に続く)
池田大作の軌跡」編纂委員会