第1回昭和31年・大阪

民衆は、かく戦い、かく勝った(上)

“まさか”が現実となった「大阪の戦い」。

その陣頭指揮を執り、不可能を可能にしたのは、当時28歳の若き青年であった。


▼“まさか”が現実になった。


「“まさか”が実現」--。

 それは、昭和三十一年の七月九日、「朝日新聞」の大阪版(夕刊三面)に躍った見出しである。

 この前日に行われた第四回参議院選挙の結果を報じた総括記事である。本文には、こう続く。

「大阪中の人をアッといわせてすべり込んだ白木義一郎氏」「『まさか』といっていたその“まさか”が現実になった。これはどういうことなんだろうか。大阪の三人は、自民の二と社会の二、計四人の候補者で争うというのが衆目の一致したところだったのに--」

 白木義一郎とは、この選挙で創価学会が大阪選挙区に立てた候補である。当時、学会の大阪支部長でもあった。記者の驚き、興奮がストレートに伝わってくる文章である。

 無理もない。白木は「他の候補者たちから『警戒すべき黒馬』と目されてはいたが、ハラの中はせいぜい『どのくらい票を食うか』という心配がせいいっぱい」(同紙)だったのだから……。

 今から五〇年前。創価学会は、初めて国政選挙に候補を立てた。全国区四人、地方区二人の計六人である。

 学会は日蓮仏法の根本原理である「立正安国」「王仏冥合」の理念から、政治の世界に人間主義の新風を送ろうと、この前年に初めて統一地方選挙に候補を立て、五二人の地方議員を進出させていた。

 この地方議会選挙に引き続いて、参議院選挙に清新な庶民の代表を送り出すことは、時代の必然の流れであったといってよい。

 だが、大阪地方区は定員三人。当選ラインは二〇万票強。それに比べて、当時の学会世帯数は三万余にすぎない。単純な世帯比から考えても、当選など思いもよらない「夢物語」であった。

 これに対して、東京は学会本部の膝元でもあり、世帯比から見ても当選は極めて有望視されていた。

 しかし、学会にとって乾坤一擲の大勝負とも言えた、この国政選挙の緒戦において、東京は敗れ、大阪は勝った。もし大阪も敗北していたならば、戸田城聖第二代会長の采配の責任も問われていただろうと言われる。

 その「大阪の戦い」の陣頭指揮を執った人。“まさか”を実現させたその人が、当時二十八歳の池田大作青年室長であった。のちの第三代会長である。

 かつて、創価学会の展望を語る戸田城聖会長が、池田室長に尋ねた。

「東京の次に大事なのは、どこか」「関西です」戸田会長は「さすがだな」。そして「大作、やってくれるか」。間髪を入れず「はい」と返事をした池田室長には、持論があった。

「どこか一カ所を強くすることが大事だ。そうすれば、他も良くなっていく」それが関西であった。

 この信念は今も変わらない。池田SGI(創価学会インタナショナル)会長は最近も語っている。

「『常勝関西』の伝統だけは残しておきたい。どこか一カ所強くないと、学会全体が弱くなってしまう。関西が日本の牽引力である。これが『常勝』という意味だ」関西に思いをはせる時、会長の表情は、いつも懐かしげである。口振りにも厚い信頼がにじむ。

 ――やがて大阪地方区の“主将”として立った池田室長であったが、しかし、それは世間で俗に言われる選挙参謀の類ではない。

 脳裏には、世間の通念に毒された選挙戦術などなかった。

 あくまでも信仰の歓喜から湧き上がる自然な熱意が第一。そこから、時代を変えずにはおかない民衆の連帯をつくる。このことであった。


◇火蓋を切った「大阪の戦い」


「すごい目をしてはった」

 池田室長の「目」のことである。その場にいた誰もが、射すくめられた。身動きできなかった。

 昭和三十一年一月四日。来阪した室長が、関西本部の広間で勤行をした直後だった。

「戸田会長に代わって、このたびの戦いの指揮は、私が執らせてもらいます!」びりびりと広間の空気がふるえるような一声だった。

 目の前にいた白木義一郎は、身じろぎもせず、膝の上で拳を握った。戸田会長の魂が宿ったかのような迫力だった。

 ただちに戦いが始まった。まず池田室長が向かったのは、一階の広間で待つ、教学試験の受験者のもとであった。

 この日に限らず、室長は、いつも御書を手放さなかった。きれいに線が引かれ、白く、丁寧に使われた御書だった。

 講義は、理論をもてあそぶところがなかった。受講者の高津井綺子は振り返る。

「何か理屈を説明しようとするものではありません。生命にズバッと入って“よし、頑張ろう”と勇気を与えてくれる講義でした。他の講師とは、まったく違いました」同じく受講者の峯山益子は、市の図書館に勤務していた。膨大な蔵書に囲まれていた

 彼女に、室長は言った。「たとえ何万冊本があっても、御書がなければ活かしきれません。御書から、あらゆる書物や社会事象を見ていくのです」

 講義が講義にとどまらない。字句の解説、知識の切り売りなどとは次元の異なる魂の触発があった。


◇人を見下す傲慢は許さない


 翌五日夜、事実上の出陣式となる大阪の地区部長会が、関西本部三階の広間で行われた。

 その様子は、小説『人間革命』第十巻にくわしい。

 勝利に向けて、不可能を可能にする信心の一念。

 その根本である強盛な祈り。戦いの要諦は、信心から発する「法華経の兵法」に極まること。

 そして「黒田節」を舞い、みなの戦う気運を高めた……。

 だが、実際にその場にいた人の実感は、小説の表現よりも鮮烈であった。

 京都の逢坂琴枝は、まず、室長の人間としてのスケールに圧倒されたという。

「小説には、柔らかく、優しく書いてありますけど、そらもう恐ろしいような場面でした。当時、先生は二十八歳ですわ。それでもわてらには四十歳近くの貫禄に見えました。東京から来る他の幹部とは、まるで違う。入ってこられただけで空気が変わるんです」二十代の気迫と四十代の精悍が融合していた。

 毎回の地区部長会。真剣そのものだった。ある地区部長が室長に横柄な口を開いた。

 日頃から、不遜で、ぞんざいな態度の人物だった。何よりも会員に対する責任感や慈愛が微塵も感じられなかった。

 尊大ぶった発言が長々と続いた。

 やがて厳しい声が響いた。「学会をなめているのか!」

 あまりの気迫に、逢坂は柱の陰で腰を抜かしそうになったという。

 終了後、関西本部近くにあった、なじみのうどん屋に京都の仲間と転がり込み「あーっ、びっくりしたなあ」と一息ついた。

 傲慢と戦う。室長の姿勢は、第三代会長に就任してのちも、寸毫も変わらなかった。

毎日新聞」の政治部記者出身で、やがて衆議院議員に転じた小林正巳は、その著書『現代人物論 池田大作』のなかに記している。

「人を見下す尊大な態度、思いやりのなさ、あらゆる傲慢さに、池田は本能的ないし、条件反射的ともいえる嫌悪の反応を示す」同書によれば、池田会長は、国会議員と、その家族に厳しく注意したのち、こう小林に語ったという。

「あれでいいんです。私がいわなければ、他にいう人がいないんだから。バランスがとれるわけです」

 小林は「池田の叱責の真意がみんなのため、そして何より本人のためを思ってくれているとの信頼がこうした指導を可能にしているのに違いない」と分析している。


◇派遣隊の青年たち


 一枚のモノクロ写真がある。

 半袖シャツの若い男たち。互いに肩を抱き、腕を組み、強い一体感がある。

 背後の壁に「参議院地方区開票速報」と大書きした紙。昭和三十一年の七月九日、白木義一郎の当選に沸き立つなか、東京から派遣されていた学会の青年たちがカメラに向かった一葉である。

 写真の中の何人かに「大阪の青春」を振り返ってもらった。

 やや頬のこけた表情が印象的な細身の若者は大川清幸。後の参議院議員である。「なーに、派遣隊っていっても、ろくなのはいなかったよ」東京の下町生まれの大川は、江戸っ子らしく、歯に衣を着せぬ言葉がポンポン飛び出す。

「酒問屋をしていた、あたしんちは借金王。当時の金で数千万円の負債があったけど、オヤジに下駄をあずけて大阪に行っちゃった」「新米議員の藤井富雄さんだって、それまで、コロッケ包む竹の皮を売る、うだつの上がらない暮らしさ。それに、大学に落ちた浪人生。結核で休職していた病み上がり。

 失業中で、女房の布団を質に入れて、大阪の運賃を工面したのもいたな」「そんなあぶれ者みたいな連中を、池田先生は、活かし切ってくださったのさ」派遣隊のメンバーは関西本部に寝泊まりした。

「なに、東京に戻る金がないからさ。それで半年間、居着いちゃったのさ。たこ焼きひと皿食べて、後は鶴橋の駅で水をがぶがぶ飲んで、腹ふくらましては、かけずり回ったもんさ」大阪全体を五管区に分けた。なかでも、中心部の大阪市内は、第一管区(管区長・藤井富雄)、第二管区(管区長・上林繁次郎)に分けた。それぞれ管区長の下には、青年部の参謀がついた。大川は、第二管区の参謀だった。

 選挙戦といっても、現場の会員は最初から最後まで、折伏の大行進。派遣メンバーは、徹底的な家庭指導、個人指導の連続だった。

 毎月の弘教の目標はあったが、票の読みや計算に重きは置かれなかった。

「だって、おれら選挙知らないんだもん。細かい票の計算なんてできないし、だいいち計算の仕方がわかんない」

 ごく簡単な報告だけが各拠点で集計された。

「学会員にも電話がないから、報告を教えてもらいながら、おれたちが拠点から拠点へ歩いて、歩いて、励ましていったのさ。それがよかったんじゃない」


▼「戦いの指揮は、私が執らせてもらいます!」

◇情けない「侍大将」


 写真の中で涼しげな目をした青年は、後の公明党最高顧問・藤井富雄である。当時、東京・練馬の区会議員で、大阪では第一管区長として活動した。

 この前年の昭和三十年秋、藤井は、愛知県豊橋で御書講義を担当した。その後、東京行きの夜行に飛び乗った。

 薄暗い車両の中で、空席を探した。すると偶然、そのなかほどに池田室長と北条浩主任参謀(当時)がいた。

 車中で室長は、藤井の身の上に、ゆっくり耳を傾けた。

「わかった。藤井君、今度、大阪に連れて行ってあげよう」「はい! ありがとうございます」

 藤井は、てっきり大阪見物に連れて行ってくれるものと思いこんだという。

 明けて、三十一年二月。池田室長は、藤井と上林繁次郎を交え、学会本部で大阪派遣の打ち合わせをした。

 上林は千葉・船橋の市会議員。元プロ野球のキャッチャーで、白木義一郎とバッテリーを組んだ男である。

 しかし、二人は、まったく要領を得ない。室長は日記に「わが心知らず」と書いたほどだ。

 辛抱強く、最後に言った。「一つだけ約束してほしい。今は何もわからなくてもいい。しかし、一切合切、今回は私の指示どおり徹底して実践してほしい。いいね!」

 威勢よく返事した二人だが、大阪では案の定、室長の足を引っ張った。

 序盤戦、予想以上の成果に、若い派遣メンバーは舞い上がり、調子に乗った。大阪の地元勢ともウマが合わない。よりによって、そんな時に藤井が傲然と胸を反らし、英雄気取りで、いい調子になって指導をした。これほど大阪庶民の神経を逆なでする言動はない。もちろん池田室長から目の玉が飛び出るほど慢心を戒められた。

 また上林も、事実をねじ曲げた暴力宗教のレッテルを貼られ、逮捕者が出たとき、その動揺した怯儒の生命を見抜かれ、厳しく叱咤されている。

 今、藤井は、白いものの混じった頭をかきながら語る。「中間の奉公人が急に侍大将になったようなものですよ」派遣された気負いから、無理に背伸びをしていたというのだ。

「刀の差し方も馬の乗り方もわからない。尻をひっぱたかれるのは当たり前ですよね」


◇「日本一のザルになる」


 中盤戦に入ると、藤井はノイローゼになりかけた。

 その夜も、目が冴えて眠れない。戦いは日ごとに進んでいる。室長の期待に応えられない。己のふがいなさばかりが頭に浮かぶ。翌日に関西の幹部会が迫っていたが、企画も、原稿内容も詰め切れていない。

 上林と相部屋だった藤井は、まんじりともせず、服を着たまま、布団に身を横たえていた。

 ついに藤井は、がばっと身を起こした。「おいっ、上さん! 題目上げてくるわ」

 関西本部の広間でひとり、しんしんと唱題を重ねた。

 何もかも一人でやろうと見栄を張り、結局、手にあまる仕事に立ち往生している自分が見えてきた。

 細かい事柄が抜け落ち「北条さんが君をザルといっていたが……」と池田室長に嘆かれたこともあった。

“室長から戒められてきた慢心とは、このことか”。ようやく己の底の浅さを悟った。

“だが、だが、穴だらけの自分を補ってくれる同志と力を合わせれば、日本一のザルになれるはずだ!”

 奇妙な理屈だが、心の中ではストンと落ちた。ザルのくせに格好ばかり気にしていた。要は、こんな自分でも信じてくれる室長の指示どおり、愚直にやるだけだ。

 仏間から部屋に戻ると、上林をたたき起こした。「おい上さん、おれは“日本一のザル”になる。取れもしない独り相撲は、もうやめた。明日から若い青年部にお願いして、ばんばん働いてもらうよ。企画や体験原稿も、どんどん出してもらう」「そうか。俺も皆からバカと呆れられてきたから“日本一のバカ”になってやる!」

 肩の力が抜け、妙に意気投合した自称“ザル”と“バカ”は一升瓶を傾け、誓いの盃をかわした……。

 なにしろ未熟な青年ばかりである。

 ある朝、勤行の後で「室長は今日は東京に帰る予定」とメンバーに伝えられた。

 鬼の居ぬ間のなんとやら。いつもなら、朝から各拠点に散っていく彼らだが、ついつい午前中、ゆっくりと骨休めをしていた。すると一時間後。部屋の戸がガラリと開き「こんなことだろうと思ったよ」。

 なんと、そこには東京に向かったはずの池田室長が、にこにこ笑って立っているではないか。

 一行は、ほうほうのていで、一斉に大阪中に散って行った。

 荒削りな若者たちは、壁にぶつかりながらも、成長していった。ともかく、前へ、前へ、進まずにはいられない。その前進の力を、室長が引き出してくれたのである。


▼「ごめんください。池田と申します」

◇人を引きつける磁力


「ごめんください。池田と申します」

 歯切れのいい口調。訪問先の家の主とその妻に、折り目正しく頭を下げた。

 当時の青年部は、家族が未入会の場合が多く、室長は心配する親のもとへ、よく出向いていった。

 この日も、女子部の幹部とともに、ある女子部員の両親を訪ねていた。

 先方は、やや身構えていた。それもそのはず、まだ聞き慣れない宗教団体の中心者が自宅まで来たのである。

「私は創価学会池田大作と申します。素晴らしいお嬢さんです。ご安心ください。私たちにお任せください」

 未入会の両親は、若々しく誠実な姿に、面食らってしまった。特に目の輝きが気に入った。

“これなら娘の成長につながるだろう”。安心した両親は学会への理解を深めた。ほどなく、両親とも信心を始めることになった。

 別の日。戦前、陸軍将校だった頑固一徹な父親が「あんな目をした男は、帝国陸軍にもいなかった」と一驚した家庭もあった。

 相手の心を引きつける「磁力」をもった人がいる。

 ルポライター児玉隆也は、かつて池田会長夫妻を東京・信濃町の自宅に訪ねたことがある。

 児玉は『文藝春秋』(昭和四十九年十一月特別号)に『淋しき越山会の女王』を寄せ、田中角栄内閣退陣のきっかけを作った気鋭のジャーナリストだった。

『婦人と暮らし』(昭和四十九年冬号)には、会長と最初に出会った場面が記されている。

「人間には二種類あって、十度も二十度も顔を合わせながら、いつも初対面のようなぎごちなさのつきまとう人と、初対面のほんの一瞬が過ぎたとたんに『やあ、しばらくです』という感情の漲る人がある」

 児玉は、初対面なのに思わず「しばらくでございます」と挨拶してしまった、という。

 関西の青年も、池田室長の磁力に、ぐんぐん引きつけられていった。

 前途の不安や悩みを抱いた高校生には、力強く言い切った。「長いトンネルを通って、暁の黎明を目指して進む。それが青年じゃないか」出口の見えなかった闇の先に、少年は明るい光を見た。

 人をほめる達人であった。関西本部に、毎夜毎夜、懸命に戦った同志が報告に来る。

「そうか、偉い!」「よくやった! 本当に立派だ」

 ささいな報告にも、賞賛を惜しまなかった。立ち上がって、身体全体で励ました。


◇何でもお見通しの「レントゲン」


 闘争は熾烈であった。往々にして、関西本部に戻りの遅いメンバーがいた。

 終電を逃し、歩いて帰ってくる人。その日一日の目標が達成できるまで帰ってこない人--。

 池田室長は、最後の一人が帰ってくるまで、いつまでも待っていた。特に、女子部員の帰りが遅いと心配した。

 堺の中山薫は、ある日、夜十時頃に関西本部に戻った。

 出迎えた室長は厳しい顔をいったんゆるめ、関西弁で柔らかく戒めた。「だめやで」

 身を小さくした中山に、真剣な顔で「少しくらい遅くなっても仕方ないなんて思っちゃいけない。お父さんにも、お母さんにも、心配をかけてはいけないよ」。

 一人を大切にするがゆえに、会員に関する報告は、正確さとスピードを厳格に求めた。

 会議では、数字や作戦面といった議題は、さっと終わらせてしまう。

 むしろ現場の学会員の信心状況、具体的な信心指導が焦点になった。

 活動は熱心だが、どこか陰のある男子部員がいた。彼をどう励ますか話し合っだとき「お父さんの職業は何かな」と室長。

 担当の幹部が答えられないと「それでは手が打てないじゃないか」。

 あやふやな推測で報告をすると、不思議と見破られた。何でも見通してしまうので「レントゲン」の異名も持つ室長である。

 会議の席で、黙って座っている人にも厳しかった。

「何もないということはあり得ない。いい情報でも、悪い情報でも、何かあるはずだ」

 常に具体的な事実をふまえて手を打った。


◇名月とべートーベン


 低く連なる下町の屋根の上に、おぼろな満月が昇ってきた。

「ああ、いい月だね」

 次の拠点に急いでいた池田室長は、しばし足を止め、青年と夜風に吹かれながら、月の光を浴びた。

 どんなに多忙でも、周囲の人の心を窮屈にしなかったという。

 関西本部の応接室で、べートーベンの雄壮な曲を聴かせてくれることもあった。

 忙中閑あり。レコードをかけながら「名曲を聴くと、頭がさえるんだよ」「一流のものに触れなさい。広宣流布は、新しい文化や芸術を興していく運動でもある」と関西の会員に語りかけた。

 頭から湯気が出そうな幹部に声をかけ「一曲、聴いていきなさい」と心を静めさせ、第一線に向かわせた一コマもあった。

 激闘の合間を縫って、青年たちを映画に連れて行ってくれることもあった。

 もっとも、あまりに忙しいため、室長本人は映画の途中で出ていってしまう。

 女子部幹部だった栗原明子は、懐かしそうに振り返る。

「当時は、ゆっくり音楽を聴いたり、映画館に行ける人などいません。そんな余裕はありませんでした。池田先生は、大変な戦いの最中だからこそ、あえてリラックスさせ、思い出を残してくださったんです」

 青年たちが池田室長から吸収したものはあまりに多い。一日でもさぼっては、もったいないと思った。


◇東京は「池田さん」関西は「池田先生」


 そんな池田室長を、当時から関西の友は自然のうちに「先生」と呼んでいた。

 関西では、戸田会長と池田室長の二人だけが「先生」だった。

 東京の幹部は「池田さん」「大ちゃん」などと呼ぶ人が多かった。

「関西は、昭和三十一年以前から、池田先生中心でした。戸田先生の偉大さも池田先生から教わりました」(栗原明子)

 こうした会員の率直な信頼の表現を、時にうがった目で見る者がいるようだ。

 児玉隆也は「先生」と呼ばれることについて、どう受け止めているのか、池田会長その人にインタビューしている。(『婦人と暮らし』昭和四十九年冬号)

 答えは率直だった。「私は、初めは“池田さん”と呼んでほしかった。それがだめなら、せめて“会長”にしてほしい。しかしそれは私の気持ちであって、人間の感情の自然の発露までも私の感情はせきとめることができません」

 小林正巳は、学会の師弟関係が誤解されるのは、無形の信頼関係を信じられない世間に問題があると論じている。

「世の中、万事地位や権力やカネなどの有形の利害関係で動くものと割りきる現代のいびつな思考様式にこそ、問題の本質があるのではなかろうか」(『現代人物論 池田大作』)


◇団結のための「黒田節」


 大きく弧を描く扇子の動きが、ぴたり、ぴたりと決まる。

「酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を……」

 池田室長が「黒田節」を舞う。

 大きな舞である。

 昭和三十一年。関西本部で、小さな拠点で、幾たびも「黒田節」が歌われ、鮮やかに舞った。

「次、あなた」

 室長の指名で、次々に前へ出て踊っていく。ユーモラスなしぐさに、げらげら笑っている人に限って、次の順番が回ってきた。

 日ごろはムッツリした幹部が、滑稽に踊ると、みんな手を叩いて大笑いした。普段は目立たない人が、意外に鮮やかに決め、株を上げた。

 青年部の幹部が、ある時、聞いた。「先生、こんな黒田節ばかり踊ってて、勝てるんでっか?」諭すような口調の答えだった。

「話したいことは山ほどあるよ。だけど、今は皆のバラバラの呼吸を整えることが大事だ。歌あり、涙あり、笑いあるところ人が集まる。心がひとつになる。団結のための黒田節だ」

 いつ会合で指名されるかわからない。派遣隊の青年たちも、寝る前に布団の上で「酒は飲め飲め」と稽古した。

「ここで足上げて、回るんだろう」と言いながら、こてんと転び、爆笑の中で夜が更けていった。


▼「すべての人が一兵卒だ。だから関西は強い」

◇管区長は「空飛ぶ円盤」


「ただいま空飛ぶ円盤が到着しました!」

 第二管区の会合で司会が声を張り上げた。

 会場の入り口から、管区長の上林が現れると、やんやの大喝采である。

 池田室長は、昔も今も、ニックネームをつける名人である。

 第一管区の藤井富雄は「オネスト・ジョン」。第二管区の上林は「空飛ぶ円盤」と命名された。「オネスト・ジョン」の意味を藤井に聞いたが「おれも、よくわかんない」と首をかしげた。当時、アメリカで開発され、日本でも大きく報道されたロケット砲の名前という説が有力である。

 ロケットのように一本気という意味もあろうが、単純に直訳すれば「正直者のジョン」。少し不器用で実直な藤井にぴったりのネーミングといえる。

 会合でも、あだ名が連発する。上林が会場に到着すると、すかさず司会が前述のように紹介した。

 管区長といえば、東京の感覚では、大幹部である。しかし大阪では、室長の信念と工夫で、幹部と会員の間に心の距離はなかった。

 当の室長本人にも、ずけずけ発言した。「池田先生、もう終わりの時間でっせえ」。御書講義の場で時計を指さす壮年もいた。

 すると室長は、にっこりしながら「そうか、そうか。帰っても構わないですよ。もう終わりますからね」と応じた。

 昭和三十一年の大阪では、池田室長を中心として同心円のような団結が揺るぎなく築かれていった。

 残念ながら同年、落選の憂き目を見た、東京地方区。

 当時は東京を中心に、支部-地区-班組といった、いわゆるタテ線の組織が一二支部も混在していた。いわば、一二本の指揮系統があった。役職の上下感も根強かった。

 それに比べ、大阪は平等である。上下関係の息苦しさも、堅苦しさもなかった。

 この時に刻まれた伝統を、池田室長は後に振り返っている。

「関西は戦いとなったら、上も下もない。すべての人が一兵卒だ。だから関西は強い。私が手塩にかけた関西だ。信心の訓練の仕方、育て方が違う」


◇軍艦のように揺れた


「大地の上、五寸ぐらいのところを、煙をまいて走っているような勢いだった」(藤井富雄)

「池田先生を中心に、大阪の隅々まで、ガッチリ歯車があったな。最後の突撃は、そんな感じ。愉快だった。むしょうに楽しかった」(大川清幸)

 関西本部が軍艦のように揺れ動いたという。

 もともと音楽学校だったこの建物は、横長で、細かく部屋が仕切られ、長い廊下も走っている。軍艦の内部に似ていないこともない。

 ある部屋では学会歌。唱題の声。歓喜の報告。体がぶつかりそうな狭い廊下を、素早い身のこなしですれ違っていく会員。むだな動きがない。

 池田室長が指揮を執る部屋は、その時々で、理事長室、理事室、男子部室、二階応接室と転々と変わった。

 電光石火で、一つ一つ、手が打たれていった。「だから館内のどこにいても『先生が陣頭におられる』という空気を肌身で感じた」という。

 戦いはスピーディーだった。サーッと大阪中から関西本部に集まったかと思うと、数分後には誰もいないこともあった。

 伝達のスピードも早かった。早朝の御書講義の内容は、その日のうちに組織の最前線まで徹底されていた。

「その速さといったら。まるで光のようでした。そして、毛細血管のように、同志の隅々にまで伝わりました」(栗原明子)

 誰に言われるでもなく、室長から受けた感動を人に伝えていった。伝えずにはいられなかった。

 この時代、電話は、ほんの一握りの家にしかない。むろんファックスもメールもない。直接、会いに行き、その人に面と向かって語っていった。


◇戸田会長への深夜の電話


 夜十一時になると、関西本部の廊下に、池田室長の声がもれてきた。「はい。その通りでございます。はい、先生……」相手は戸田会長のようである。

 そーっと声のする部屋をのぞくと、受話器を手にした池田室長がぴんと背筋を伸ばし、正座していた。峻厳であった。一度でも、その光景を目撃したものは“ここまで池田先生がお仕えする戸田先生とは、どんなすごい方なのか”と息を呑んだ。

 毎晩のように、室長は、東京の戸田会長に状況を報告した。

 戸田会長のいる東京の方角に向かって居ずまいを正し、一語一語、明快な口調で話した。

 眼前に師のいますがごとく、であった。

「師弟相違せばなに事も成べからず」と、日蓮仏法では説かれている。

 この「師弟不二」「師弟一体」の指揮で、ついに大阪は勝利するのである。

 こんな戸田会長の指導が残っている。「師匠の言う通りに戦おうという心そのものが、すでに勝っている。本当に心の底から『そうだ』と思ったときに勝てる。

 自分の考えで勝手に判断したり、返事だけしておいて後でごまかすから負けるのだ」

 この師の教えを、池田室長は身をもって実践した。

 選挙前、候補者の白木でさえも「私は勝つまで、何度でも戦います」と捨て石になる覚悟を述べていた。いかにも勇ましい決意に聞こえるが、何度でも戦うということは、今回は負けることも織り込み済みの発言だ。

 池田室長は違った。「私は命がけです。万が一でも負けることはできない。必ず勝つ」この一念の通り、大阪は勝ったのである。