第2回昭和31年・大阪
民衆は、かく戦い、かく勝った(下)
「民衆を見下すものは許さへん!」。
池田室長を中心に、関西の庶民たちは、権力の横暴に真っ向から挑んだ。
◆「年齢も位も役職も関係なかった」
▼最前線こそ本丸だった
「人のいないところばかり回ったんだ」
池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長は、つい先日も「大阪の戦い」を青年たちに述懐している。
「会員が少ない地域こそ中心地だと決めていた。?末端″という意識などなかった。遠い最前線が重要な城だった。本丸だった」
「一番遠くて、一番弱くて、人が行かないところに力を入れたんだ。人が多くいるところは、あまり振り返らなかった。様子も事情も良くわかっていたからだ」
力点を置く場所だけでなく、用兵にも独特の着眼があった。
「年輩者も青年も一体だった。横隊だった」
?横隊″という言葉に、縦の関係で、なく、横の連帯を強化したことが窺える。
「年齢も位も役職も関係なかった。歴史に残る合戦や、英雄の戦も、横隊の軍団は強かったじゃないか。位を気にしたり、権力を自慢したり、上下で差別しようとしたら、もう本当の戦いはできない」
当時の関西の会員が、今なお口をそろえて「愉快だった」と胸を張るのは、誰もが平等に尊重され、力を発揮できたからにちがいない。
▼勝利の鍵は 朝のスタートに
午前七時。
池田青年室長は、背筋を伸ばし、
静かに端座した。
関西本部の三階広間から、室長の鳴らす鈴の音が館内に響いた。
カーン、カカカ、カーン……。
勤行の始まりである。
その音で、がばっと身を起こし、
?いかん、また寝坊した″と布団を飛び出す派遣隊のメンバー。
流し場で顔をちょっと水でこすり、広間へダッシュ。すでに東天に向かっている室長の視線に入らないように、小さくなって皆の後ろに従った。
昭和三十一年。大阪の戦いは、朝のスタートに勝利の鍵があった。
一〇〇人近くの会員が祈りをひとつにしていた。
銀色に光る朝の淀川を早朝の列車で越えてきた夫婦が並んでいる。
眠りから覚めていないミナミの繁華街を自転車で突っ切り、まだ息のあがっている壮年もいる。
すでに青物市場でひと仕事し、勤行が終わったら、また前掛けをしめて働く商売人もいる。
勤行の後は、御書講義。
心持ちイスに浅く腰掛けた池田室長は、ぐっと身を乗り出すようにして、御書をひもといた。
御書のページ数を伝えると、紙をめくる音が一斉に聞こえ、まだ持っていない会員は、隣の人の御書をのぞき込んだ。
室長の声は、語尾が強く、歯切れがいい。朗々と、仏法者の団結を説いた有名な一節を読みあげた。
「異体同心なれば万事を成し……」
御文にそって論じた後、関西の未来のために言い残した。
「関西は派閥をつくってはいけない。妙法の世界では、皆、日蓮大聖人のもとに平等である。仲違いしたら終わりだ。戦っている人をほめていくのが信心である。戦っている人を出し抜こうというのは野心である。異体同心でなくてはいけない。大聖人もおっしゃっているではないか」
何人もが、口元を固く引き結び、うなずいている。
さらに、法華経で菩薩群のリーダーとして説かれている上行菩薩を例に、関西の使命を語った。
「広宣流布は、どこかが牽引力にならなければならない。これが上行菩薩の役割である。上行は先頭に立ち、引っ張らなければいけない。関西は上行でいくんだ。先頭でいくんだ。それが上行の役目だ。自分中心ではいけない。その労苦は大変だけれど、大変な分、すべてが功徳に変わる」
当時の派遣隊の面々は今も「みんな、寝起きの時と目つきが一変した」と語る。
▼八〇〇〇人の会員との出会い
講義の後も、池田室長の動きは目まぐるしい。出勤する壮年に、短く指示を出す。拠点に向かう婦人に伝言を託す。
派遣隊と一日の行動を入念に打ち合わせてから、ともに朝食。その間も、食が細い者、顔色の優れない者はいないか、目を配る。
食事後、派遣隊は一斉に現場へ。室長のもとには、すでに会員が指導を求めに来ている。
小さな座机をはさんで対話が始まる。「うん、うん」。じっと相手の悩みに耳を傾ける時間が長い。むしろ指導は簡潔だった。大学ノートに、名前や住所を書き取った。
昼前後には、迎えの車に乗せてもらい、遠方の拠点へ。かなり年季の入った中古車である。
車中では、小声で唱題。仏法の種が大阪中にまかれることを願った。「室長、事故なら心配いりまへんで」。勘違いする運転係もいた。
拠点に到着。ここから自転車に乗り換える。運搬用のがっちりした荷台がついた頑丈なタイプ。キーコー、キーコー。こぎ出すと、さびた車輪が悲鳴を上げる。
次々と会員宅へ。動きは敏捷である。自転車を降りる。スタンドを立てる。歩き出す。これが同時である。
「こんにちは。池田です」
あわてて案内役が後を追いかける。
わざわざ、人を集めるようなことはしない。目の前の一人を、ただ全力で励ます。
ガチャ、ガチャと機械音の絶えない町工場。丸椅子に座って経済苦の主人を勇気づけた。
間口のせまい店の奥。帳場に腰掛け、おかみさんの日ごろの奮闘を心から称えた。
拠点の庭から「こんにちは」。縁側から半身に腰を下ろした室長を囲み、座談の輪ができた。
「横になろうよ」。畳の上で手足を伸ばし、男子部員と腹を割って話す日もあった。
駄菓子屋の店先。「お母さんを大事にするんだよ」と腕白小僧たちにアメや昆布を買ってあげた。
五〇年後の今、動きに動いた日々を懐かしく振り返るときがある。
「数カ月の間に、大阪では訪問指導だけで八〇〇〇人くらいと会った。自転車で回りに回った」
▼千馬力のモーター
夕方。「創価学会座談会会場」と大書された提灯が、軒先に揺れた。池田室長が現れた会場では友人が我先に入会を希望した。
同じころ――。朝から大阪一円に散った派遣隊が、座談会で大いに気炎を上げていた。
室長の千馬力のモーターにギアが噛み合うと、恐るべき力が宿ることを感じるのだった。
二〇人ほどの新来者が来た座談会。体験発表などで盛り上がったところで、派遣隊の青年が端から順に語り続けた。全員が入会を希望した。
別の座談会。女子部員が表に走り、ちょうど通りかかった友人を引っ張ってきた。
「両手で鍋を持った娘さんでね。朝ご飯の味噌汁に入れる豆腐を買った帰りだよ。鍋を持ったまま話がはじまって、で、やりますかって聞いたら、ハイ、やりますっていうんだ」(大川清幸)
源泉は、朝の講義にあった。
「池田先生の一念に触れ、感動と喜びが生命からわいてきたからです。『さあ、やろう!』という気持ちが相手にも伝わり、折伏が面白いように決まっていきました」(栗原明子)
夜の九時過ぎ。戦い切ったメンバーは次々と関西本部へ。座談会から帰った室長が出迎え、労をねぎらいながら、事故がなかったか確認する。
食事抜きで奮闘した者もいる。白木義一郎の妻が、特製のうどんすきをこしらえ、室長と派遣隊が鍋を囲んだ夜もあった。
入浴した派遣隊が全員、床につくまで室長は見守った。就寝は一番、最後である。
ようやく関西本部が寝静まったころ、自室でノートを広げた。会員の住所が書き留めてある。一人ひとりの顔を思い浮かべ、便りを書いた。さらに御書を開き、明朝の講義で話すべきポイントを思索した。
深夜に丑寅勤行。小さな声で、明かりもつけなかった。皆を起こさないためである。その姿に気づいた人は少ない。
▼戸田会長の飾らない人柄
大阪に創価学会の会員が増えはじめたのは、昭和二十八年ごろである。
「ロウソクとシキミ代があればいいんだよ」
庶民の町・大阪は、商人の町でもある。戸田城聖会長は、信仰によって、元手なしに利益が得られることを平易な語り口で説いた。
来阪した戸田会長一行は、西成区の花園旅館などを拠点にした。
「戸田先生に会ってみてや」。誘われた友人や新会員は、てっきり「生き仏」のような、有り難い訓話を垂れる坊さんかと思っていたが、実像は正反対だった。
東京の?お高く止まった人″に反発する土地柄だが、戸田会長の飾らない人柄は、たちまち人々を魅了した。
花園旅館近くで酒屋を営む中尾安夫・佳代の夫妻は、戸田会長が来阪するたびに、黒いだるま型の瓶で知られるウイスキーを届けた。
オンザロックで、くい、くい、とグラスを飲み干していく。
自分は一滴の酒も飲まない佳代が「先生、なんで、こんなん飲みますのん」とたずねた。
戸田会長は指で頭をこんこんと指しながら「ここが冴えるんだよ」。そして呵々大笑するのであった。
池田会長は今も「戸田先生は天才でいらっしゃった。飲むと天才に磨きがかかる」と語る。
中尾夫妻は、商売柄、酒を飲む人間の見極めには自信がある。
酒によって、人柄が曇る人と光る人がある。自分中心になる人と他人を思える人がいる。
戸田会長は、後者だった。飲むほどに友の悩みを憂い、邪な連中への怒りを燃やした。
また、昔の花園旅館の女将は「鰊のくんせいと枝豆をつまみに、にぎやかに日本酒を召し上がっていました」と回想する。
戸田会長が入浴中に、ある従業員が、うっかり洗濯のため浴室に入ってしまった。
あわてて出ようとすると「いいよ。いいよ。僕はつかっているだけだから」と、湯船にゆっくり肩まで身を沈めていた。実に気さくな振る舞いである。
女将には、こんな思い出もある。
「池田先生は、気持ちの強い、しっかりした方でした。戸田先生を囲んで、遅くまで、よく勉強してはりましたわ」
そして、手の指を広げ「こんな分厚い本を読んでましたよ」。日蓮大聖人の御書であろう。
旅館の女将の目にも、戸田会長一行は、若さと熱意に満ちた人間群に映ったようである。
▼民衆のうねりが起きた
♪泣くな妹よ
妹よ 泣くな……
昭和三十一年。ある女子部の会合。池田室長の提案で『人生の並木路』が歌われた。
泣き虫の妹。捨て去った故郷。希望の人生への願い。哀愁を帯びた古賀政男のメロディーには、昭和の世相が色濃く反映されている。
女子部員にとって、歌の世界は、決して人ごとではなかった。
少女時代の戦争。父や兄の世代の戦死。集団就職。紡績工場の住み込み。郷里の母への仕送り。
女性ファッションは華やかになったと言うが、彼女たちのスカートは穴が継いであったり、スーツの下のブラウスは袖がなかったりした。
そんな青春期に出会ったのが、仏法であった。
室長だけが言い切ってくれた。
「いくら泣いたって幸せにはなれない。もう泣かない自分になると決めることだ」
彼女たちにとって、室長は頼むべき「兄」だった。学会は立ち返るべき「故郷」だった。
戦争が終わって一一年。戦後の政治や経済の手がまだ届かない層のなかから、関西の民衆のうねりが起きていた。
在日韓国人二世の杉原実(本名・趙成莞)は、同胞を折伏に行くと、吐き捨てるように言われた。
「日本の神さんは怖い。こりごりや」。まるで祖国を裏切ったような目でにらまれた。
ちょっと金持ちの日本人に仏法を語れば、門前払いを食らった。
「あんたたちより暮らしのええ私らが、なんで、そんなこと言われなアカンの」
◆「もう泣かない自分になると決めることだ」
日本という国家に冷遇され、在日の同胞からも偏見を抱かれ、杉原は二重の意味で差別されていた。日本を見限り、朝鮮半島に帰る仲間もいた。
しかし、学会活動には新鮮な驚きがあった。偉ぶったり、人を見下すような幹部が容赦なく叱られているではないか。池田室長直伝の?横隊? の組織ならではである。
?こりゃ、おもろい″
口先だけの平等とか人権とか、きれい事は聞き飽きていた。横一線でダンゴになり、うわーっと走っている感じが、理屈抜きに楽しい。
杉原は、池田室長の講義に衝撃を受けた。「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり」。仏自身が下層階級の出自を誇りとした民衆仏法に心がふるえた。
日本の国は信じられない。戦後の社会も信じられない。祖国に帰るべきかもわからない。
ただ、この人が教えてくれた仏法だけは間違いないと確信できた。
あれほど悩み、苦しんできた国の壁、差別の壁が、なんだか急に小さく見えた。
▼婦人部への一通のハガキ
伏し目がちの目。油気のない髪。袖や襟の古びた着物。
昭和三十一年一月五日。偶然、関西本部で池田室長と出会った福住ふさゑは、憔悴しきった表情だった。
ほんの一週間ほど前に夫を亡くしたばかりである。集金のため外出した京都で血を吐いて倒れた。命日は十二月三十日。
人生で最も暗い正月だった。凧揚げや羽根突きに興じる、近所の子どもの歓声がむなしい。
?どないして、育てよ……″。残された五人の子どもの行く末が案じられてならない。
「お気の毒に」と心配しながら、陰では「あの家、拝んどるのになあ」。世間の風は冷ややかだった。
すがるような思いで室長に指導を求める彼女の腕のなかには、生後四ヵ月の末っ子が寝息を立てていた。
途切れ途切れに、嗚咽をこらえて話す彼女を室長は諭した。
「もう泣くのは、およしなさい。母親がめそめそしていたら、だれが子どもを明るく育てるのですか。きょうから太陽になりなさい」
冷え切った身体に、温かい湯がしみわたるようだった。
「夫がいるから必ずしも幸せではない。一人になっても強いかどうか。その強さを持つ人が幸福です。若いときに夫を亡くしたり、病気で苦労した人は、最後は必ず幸福の女王になれるんだよ。不幸になった人を可哀想にと大きく包んでいくことができる。仏の心で苦しんでいる人を励まし守っていける。仏法に無駄はないよ」
単なる同情でもない。慰めでもない。現実逃避でもない。
この日を境に福住は、敢然と立ち向かった。
室長は、彼女を忘れなかった。やがて再会。元気そうな姿に膝を叩いて喜んだ。
その数日後、福住の家に一通のハガキが届いた。差出人は「池田大作」。御書の一節が記され、勝利の人生を飾ってほしいとの願いが綴られていた。
?もう、絶対に泣かへん。この子らの母親は、世界で私ひとりや″ 再びの勇気を得て、子どもを背負いながら、同志を励まして歩いた。
このようなエピソードは、枚挙にいとまがない。
後に、中国の周恩来総理は「創価学会は大衆の中から立ち上がった団体」と刮目した。創価学会は、最高指導者自身が、虐げられた大衆の第一の味方だったからである。
池田室長は、会長就任以降、海外の識者や指導者と対談を重ねていく。その履歴を妬んでか「有名人好み」と揶揄する者がいる。
ジャーナリストの柳田邦夫は、自著『創価学会名誉会長 池田大作は何を考えているか』のなかで、この点に触れている。
「数からいっても、彼(池田) の?交流″相手は、むしろ無名の青年男女が圧倒的に多い。いわゆる著名人との対話というのは、そうした民衆レベルでの交流の頂点を占めているにすぎない」
その通りであろう。一度、統計を取ってみればよい。
咲き残った桜を散らせる、無情の雨が降っていた。昭和三十一年四月八日。難波の大阪球場(当時)で、白木陣営の決起集会が行われた。
「きっと難波の大会を境に、他党も、おやっ、と思ったんじゃないかな」(大川清幸)
はじめは泡沫あつかいで、見向きもされなかった白木義一郎。
「バケツをひっくり返したような雨の中、二万人が帰ろうともしないんだ。傘のない人だっていたよ。こりゃすごいなと思った」(大川)
他党にも、驚異の存在に映っただろう。
◆「おびえたらアカンのや!」
当時、大阪地方区で、もっとも安定した支持を集めていたのが自民党の左藤義詮である。
後の防衛庁長官、大阪府知事。浄土真宗の僧籍をもち、学校法人・大谷学園の学園長でもあった。
その子息の左藤恵も、法務大臣、郵政大臣などを歴任した政治家である。
父の義詮は、左藤家の養子で、旧姓は偶然の一致だが「白木」だったそうだ。
白木義詮と白木義一郎。
「三文字目まで同じ名前なので、父は、親しみを感じておったそうですよ」
父の義詮は、府知事時代、公明党の地方議員団に支えられたことを感謝していたという。
「父の話ですが、白木さんが参議院に出たころから、大阪の市会、府会に優秀な人材が送り込まれるようになった。池田先生が全国に先駆けて、大阪に組織を確立された、と聞きました」
左藤恵も浄土真宗の僧侶。宗教者が政治を監視していくことには肯定的である。
「民主主義に迷ったり、確信のもてない人が、宗教を通じて民主主義の形を求めた集まりが公明党ではないでしょうか」
また、かつて創価学会の行事に、父の義詮と二人で招待され、池田会長に挨拶した思い出なども懐かしく語っていた。
▼日本共産党も政党活動を本格化
この昭和三十一年は奇しくも、日本共産党が、政党活動を本格化させた年でもある。
同党は二十四年の総選挙で三五人を当選させる躍進を見せながら、二十五年、徳田球一を筆頭とする「主流派」と宮本顕治らの「非主流派」に分裂。その後の暴力革命路線で、国民の信頼を一気に失ったのである。
やがて同党は三十年に、ようやく党を建て直し、翌三十一年の参院選挙に打って出た。
同党の中央機関紙『アカハタ』に「創価学会」の見出しが初めて躍ったのも、この参院選挙の最中の三十一年六月二十八日。
「創価学会とは?」のタイトルで掲載された記事は、翌年、大阪補選の際も、形をかえて同様の内容が掲載されている。
当時の全国紙によると、学会弾圧をねらった「大阪事件」の発端となる出来事を大阪府警に通告したのも、実は「日本共産党の有力党員」とのことであった。
▼圧倒的な布教の勢い
藤井富雄の手帳には、細かい数字が並んでいる。
筆まめな政治家は、メモを脅しの材料にするか、物忘れがひどいかである。「僕はザルなので、メモをするようにしているんですよ」。
昭和三十一年、折伏世帯数の推移である。
上が折伏の目標、下が成果。
一月 三〇〇〇 三三八九
二月 四〇〇〇 三九八六
三月 五〇〇〇 五〇〇五
四月 八〇〇〇 九〇〇二
五月一万 一万一一一一
大阪支部は、近畿、中国、四国など広く包含していたが、岡山地区の活躍は目覚ましかった。五月の大阪支部一万一一一一世帯の折伏のうち、一割近くが同地区の成果である。
すさまじい勢いで、学会員が増加していった。当時、新入会者に本尊授与の儀式をしていた寺の僧が、あまりの数の多さに音を上げ、五月半ば、ついにダウンしたという話もある。
静かな池に石を投じれば、波紋が広がる。古い水道の蛇口をひねれば、汚れた水が出てくる。
「動執生疑」という仏法の言葉がある。古い教えが打ち破られると、疑いを起こしたり、反対したり、人間の心に激しい振幅が起こる。
素直に入会する人もいれば、猛烈に反対し、逆上し、学会員に水や塩をまき、追い払う人もいた。
関西本部におしかけ、女子部を脅かす者。「頭の上に鶏のようなものを乗せて、路上で仁王立ちする狂気の男も出た」という人もいる。
▼「電光石火」「勇戦」「大勝」
新聞が一斉に創価学会に悪意を込めて報道したのは、五月十五日であった。
「暴力で信者獲得」
「六名に逮捕状」
この日早朝、六名の会員が暴力行為の容疑で逮捕された。すでに解決済みのトラブルを蒸し返し、あたかも組織だった暴行事件があったように捏造されたものだった。
逮捕当日の朝刊――つまり実際の逮捕よりも前に、報道する新聞まであった。新聞の締切、降版の時間からいって、意図的な情報操作があったことは明白である。
この日、池田室長は、関西本部の広間に居合わせた会員に、泰然と御書をひもといた。
「いかに人をどすともをづる事なかれ」。仏法が迫害される道理を説いた後、墨と筆、模造紙が用意された。
室長は、大きく広げた紙の前に、膝を進ませた。まわりをぐるりと人が囲んでいる。シャツの袖をざっとたくし上げ、筆にたっぷり墨を含ませた。
息をのんで見守っていた人たちがどよめいた。魂をぶつけるような勢いで筆が躍った。
「電光石火」「勇戦」「大勝」
室長は身を起こし 「持って帰りなさい」。
手渡された人は、関西本部から拠点に走り「これ、先生が書かれたんや。おびえたらアカンのや!」と模造紙を掲げた。
一人が十人に伝え、その一人ひとりがまた十人に伝え、またたく間に室長の一念が大阪に広がった。
「目の前の病気や貧乏を乗り越えたいだけで、まだ関西には、難を乗り越えてまで信心を貫こうとする人は少なかった。しかし、この日を境に、広宣流布の大義に生きる人が増えました。自分の悩みをかなぐり捨てて戦うことで、いつの間にか、毎日が本当に楽しいという境涯に変わっていました」(栗原明子)
勇将のもとに臆病者はいない。
出勤すると、机に学会批判の新聞がわざと広げられている?いじめ″もあった。誰が置いたか突きとめて逆に折伏した。近所の嫌がらせで、表の外灯を消された家があった。カチンときた一家は「どや、見てみい」と、とびきり大きな座談会の提灯を掲げた。
五月十五日の逮捕者は、順次、釈放された。
▼遊説カーが出発した
オンポロのトラックを改造した車が、そろそろと動き始めた。
荷台の左右と後ろは、「白木義一郎」「シラキ」などと書かれた板で囲われ、中で長身の白木が手を振っている。狭い路地は、お祭り騒ぎである。エンストばかり起こしていた車が動いただけで拍手喝采だった。
「がんばりやー」
ウォーという雄叫び。拳を突き上げる男。甲高い女性の歓声。
昭和三十一年六月十二日。参議院選挙の公示日、遊説カーは関西本部の前を出発した。
この日の朝。池田室長は、白木の自宅で家族と勤行した後、向き直った。
「いよいよ今日が公示です。ご主人だけの出陣ではありません。あなた方一家の本当の出陣です」
出陣の誓いを確認してから、はっきり家族に言い渡した。
「家族が戦いなさい。誰よりも率先して苦労し、死力を尽くすのです。多くの会員のご支持をいただく恩を断じて忘れてはいけません。候補者も議員も家族で決まる。団結して魔性を破っていきなさい」
一貫して議員には厳しい。小林正巳の『現代人物論 池田大作』にも、そうした場面が紹介されている。
「議員になって、さも偉そうな顔をしていたら大間違いだ。一文のとくにもならないのに、みんなが手弁当で一生懸命働いてくれたお陰ではないか」
▼「アンタで三〇人目や」
「あまり昔話をするのは、好きちゃうけどな。時代も変わってるし」
それでも証言者は皆、うれしそうに記憶の糸をたぐってくれた。
ある人は、一日に心斎橋で三〇〇人くらいに話しかけ、白木の名前を訴えた。
買い物に行けば、会計の行列に、ひとりひとり「白木、白木」とささやきかけた。
電車に乗った際は、両隣と真向かいの人に必ず頼み、通勤の時間も無駄にしなかった。
大阪市から川をへだてた尼崎市に住む寺井英治・文子夫妻は、橋を渡って市内に入るとき、すれちがった人全員に「白木」の名前を訴えた。
「うるさい」と怒る人もいたが、なかには「アンタで三〇人目や」と、笑って教えてくれる人もいた。
体の前と後ろに、白木義一郎のポスターをつけ、サンドイッチマンのように往来に立った人もいる。
熱意は立派だが、これは選挙違反である。そんな会員の行動をキャッチした池田室長は、すぐさま現地に飛んでいき、こんこんと「公明選挙」の意義を説いて、やめさせた。
今日では想像しがたいが、選挙違反の基準など、国民の大多数は無知・無関心だった。
選挙といえば実弾、つまり金銭が飛び交っていた時代である。乱暴な言い方をすれば、買収さえしなければ公明選挙というイメージがあった。
白木の政策などは不思議と人々の記憶にない。
ただ、別の候補者の決起集会の写真では、演説する戸田会長の横に、スローガンを書いた大きな看板が見える。
「勤労者中小企業の税制合理化」「政治の明朗化」「公明選挙」という文字が読みとれる。また、戸田会長の年来の主張でもあった「一千萬人の海外移民」という気宇壮大な言葉もあった。
▼かっぽう着や作業服の?天子″
本番期間も、池田室長はあくまでも信心を根本に激励を続けた。一日に二〇ヵ所以上を回る日もあった。ある会場では、御書を引きながら、尊い使命を説いた。
◆「民衆を見下すものは許さへん!」
「生まれたばかりの天子は、産着に包まれているが、必ず王になる。皆さんも同じです。天子のように尊い存在です。絶対に軽んじられることがあってはならない」
かっぽう着や、作業服を着た?天子?たちは、目を丸くした。
「ほんまかいな……」
まるで夢のような話だった。
しかし、今までの人生には、その「夢」がなかった。
室長の指導を受け、各地の拠点に飛んできた幹部たちも意気軒高である。
「今に見てみい。目の青いのや黒人が、信心教えに来るんやで!」と壮年の幹部。
これまた、にわかに信じがたい。なにしろ現実の拠点は、破れ障子に穴だらけの襖である。
参加者は「なにホラ吹いとんのや、このオッサン」と思いながらも、無性に嬉しくて手を叩いていた。
当時を知る誰に聞いても、学会員の候補を応援できることが誇らしく、自然と支援に心がこもっていた。本当によく笑った戦いだった。
大阪中を走っていても、ふわっと足が大地から飛び立つような、不思議な高揚感があった。
強制や命令ではない。利害で動かされているわけでもない。既存の組織への依存でもない。頑迷なイデオロギーの闘争でもない。
信仰の歓喜からわき起こる、民衆による、民衆のための、社会に対する一大宣言――。
まったく新しい、民主主義の息吹が芽生えようとしていた。
▼「署長を出しなさい!」
大阪の町々で、学会員の後ろから影のように離れない硬い目線の男がいた。
尾行中の刑事である。戸別訪問で逮捕するため狙っていたと思われる。
初めての支援活動。学会員の側にも、法的な知識は欠けていた。
それにしても、公権力が、特定の集団を徹底マークするとは、ただごとではない。
戸別訪問容疑は、単なる入り口で、急速に発展する教団を丸裸にすることに、捜査の主眼があったことは想像に難くない。
こうした事態に、ある青年たちが知恵を絞って、数人で警察署に乗り込んだ。
押しの強そうな青年を先頭に立て、いざ突撃。胸をそらし、パタパタと扇子であおぎながら、大きな声で呼ばわった。
「署長を出しなさい! 私は大阪市民の代表だ!」
なにやら大物風情が闖入してきたので、署内はあわてふためいた。
青年たちも内心ではヒヤヒヤしていたが、ここまで来ては、引くに引けない。
「お宅の署は人権侵害している。刑事が市民を尾行しているじゃないか」と抗議した。
逃げ腰な署の応対者については、相棒を振り返って「この男の名前を控えておきなさい。然るべきところで公表するかもしれない」。
そして声を一段と高め、場合によっては法的処置を取ると告げた。
これ以降、この警察の所轄では、ぴたりと尾行はなくなった。
当局には、学会員の行動が信じられなかったと言ってよい。
選挙ときけば、資金源豊かな組織が、上から下への命令一下、票を動かしていた。
それに比べ、学会は、誰からも金をもらわない。人に金を渡さない。おかしな話だが、至極まっとうな選挙運動ゆえに「ウラに何かある」と思えてならない。逮捕劇の背景には、それほど狂った社会通念があった。
▼権力の横暴と闘う
ある警察署。組織ぐるみの犯罪にでっち上げるため、婦人部員に自白を迫った。
「誰の命令で動いとるんや!」
「日蓮大聖人ですわ」
「アホ言うな! そんな人、どこにおるねん」
「私の家にいてます」
「家のどこや」
「仏壇の中です」
笑い話のようだが、当の婦人部員は、真剣そのものである。
女性のほうが、いざというとき、ハラが据わり、毅然としていた。
「あんたの服の何寸かは、わてらの税金じゃ!」。警察官に食ってかかった老婦人もいた。
大阪の会員は勇敢だった。権力に媚びなかった。官にへつらう民ではなかった。
取り調べの背景にある、権力の欺瞞やたくらみを嗅ぎとっていた。
戦後の混乱が続いていた時代。
生まれて初めて、投票所に足を向けた人も多い。
しかし、学会員は「大阪の戦い」の中で、民主主義の根底にある、絶対に譲れない一点を、知らず知らず体得したのではないだろうか。
「民衆を見下すものは許さへん!」
それこそが池田室長の信念だった。
後年、会長に就任してからの話である。
富士方面にいた池田会長は、連日、青年たちと大自然のなかで語り合った。
キャンプファイヤーを囲んだ夜があった。パチパチと薪がはぜている。ある青年に、会長がたずねた。
「君は、将来、何をやりたいんだ」
「はい。生涯、権力の横暴と闘います」
会長は深くうなずいた。
「そうか。僕と一緒だな」
▼?まさか″が実現!
ときおり「ガー、ガー」と雑音の混じるラジオを囲み、婦人部員が耳をそばだてていた。
こんなにドキドキしながら、開票速報を聞いたことは一度もない――。七月九日、参院選の開票日。
拠点では、白木の票がラジオで読み上げられるたびに紙に書き取って、順位を確認した。
「白木さん、何番目や?」
「三位やな。三位」
正午過ぎ。「白木義一郎、無所属新、当選確実」の一報が流れた。
その瞬間、学会員の家々から喝采と歓呼の声が弾けた。関西本部でも、大歓声があがった。
最終得票数は、二一万八九一五。定数三のうち、三位の当選であった。
それでもトップ当選を信じていた会員のなかには、不満顔もいた。
池田室長から謙虚にあいさつするように指導された白木は、支持者の前に立ち 「本当にありがとうございます。入学試験で一位でも、卒業でビリではいけない。最後には一位になるよう、励みます」と述べ、深々と頭を下げた。
関西との間に結ばれた深い縁について、池田会長は最近も語っている。
「私の二人の息子も関西に行かせ、関西で人生の土台を作らせた。私も妻も、わが家は全員が、一生涯『関西創価』の一員であることを最大の誇りにしている」
「もし、あの時、東京が負け、大阪まで負けていたら、戸田先生は倒れておられたにちがいない。広宣流布は何十年も遅れてしまっただろう。戸田先生は、東京の首脳に『関西を手本にせよ』と厳命されていた」
――昭和三十一年、池田室長を中心に、関西の会員は、不可能を可能にした。
しかし、台頭する民衆勢力を妬む者たちにとって、白木の当選は、創価学会に攻撃の照準を定める決定的な要因となった。
一つのドラマが終わったように思えても、それは長い物語の序章である場合がある。
舞台の幕は、ひとまず下りた。無邪気な会員は大喝采を送っていたのだが、それは、さらなる激しい舞台が始まるまでの幕間にすぎなかった。(文中敬称略)