第6回 日中国交正常化を提言(上)

――「日本は池田提言に救われた」



 一九六〇年代、会長就任直後から、中国との関係正常化へ布石を打ち続けた池田会長。

 満を持して放たれた大提言は、日本だけでなく世界に衝撃を与えた。
◆「また池田先生に会えるかと思って」

▼中国の街角で

 青年が飛び込んできた。

「池田先生は、こちらに見えていますか?」

 一九八六年十月。北京の中国革命博物館。創価学会の主催で、平和を主張する展示が開かれていた。

「街で見たポスターに 『創価学会』とあったので来てみました。北京大学の学生のころ、池田先生の講演を聴いて大変に感動したので、また会えるかと思って……」

               *

「日本から来たんです。屋上から街を撮らせてもらえませんか」。カメラマンと通訳が食い下がっても支配人は頑として聞かない。

 上海の目抜き通り。高級ホテル

「上海大廈」のロビー。一九九一年八月のことである。

 引き上げようとした時、支配人の目がカメラマンのネームプレートに吸いよせられた。

 中国語で「創価学会 第一回青年文化訪中団」の文字。

創価学会の方ですか!」。がらりと態度が変わった。「一番、見晴らしのいいベランダにご案内しましょう」

 驚いた。

「ところで、池田先生は、今度は、いつ来られるんですか」

               *

 黒竜江省青年連合会の主席・申林がマイクの前に立った。

 二〇〇一年八月。創価学会の訪中団を歓迎する挨拶である。

「私も、池田先生とトインビー博士(英国の歴史家)の対談集に、人生の指針を学びました」

 その夜、宿舎で、こんな会話があった。

「さっきの主席の話。本当かな」(訪中団員)

「何を言うんですか。ホントの話ですよ」(訪中団通訳)

 その通訳が留学していた当時の北京大学。あちこちに分厚い書物を小脇に抱えた学生がいた。

『展望二十一世紀』

 トインビー対談の中国語版である。わざと本の表紙や題字が見えるようにしている。

「あの本を持ってキャンパスを歩くのが、一種のステータスでした」(通訳)

               *

 二〇〇六年三月。創価大学の「北京事務所」がオープンした。

 開所式では、感嘆の声がしきりだった。

「日本の一私立大学の開所式に、これだけの顔ぶれが揃うとは」

 中国外交部をはじめ、中国社会科学院北京大学清華大学浙江大学、南京大学、中国科学技術大学など四四の名門大学・学術機関の首脳が出席した。

 中国当局の正式な認可のもと、国外大学の連絡事務所が設置されたケースは、まだ三つしかない。

 東京大学ハーバード大学。三番目が創価大学である。

 中国の人々が池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長に寄せる敬意に、当の創価学会員が現地で驚いている。

 なぜ、ここまで注目し、賞讃を惜しまないのか。

 その淵源を約四〇年前の出来事から遡りたい。


▼大鉄傘が揺れた

 分厚い原稿の束を手に、池田会長は演壇に立った。

 司会の「会長講演!」の声と同時に、東京・両国の日大講堂に反響していた拍手が、ようやく鳴りやんだ。

 一九六八年九月八日、正午過ぎ。第十一回創価学会学生部総会。

 身を乗り出す学生たち。

 毎年の学生部総会といえば 「重大発表」が行われてきた。

 一九六四年(第七回)「創価大学の設立」

 一九六五年(第八回)「ファッショ論を破す」

 一九六六年(第九回)「大衆革命の中核たれ」

 一九六七年(第十回)「沖縄の即時返還」

 あの分厚い原稿の中身は、いったい何か。四階まで埋め尽くされた会場は期待感に満ちていた。

 会場のプレス席。朝日、毎日、読売はじめ、報道陣は一斉にメモ帳と鉛筆を構えた。

 他社に比べ、朝日の記者が、やや余裕の表情か。すでに朝刊で他紙を抜いていた。

 九月八日付の朝日一面。四段抜きの見出しが、ライバル紙を悔しがらせた。

「日中首相会談を 対中国積極策を提唱 創価学会池田会長」

 記事には「創価学会池田大作会長はこのほど中国問題についての総合的な考え方を論文にまとめ、八日公表することになった」とある。

 場内には、朝日の記事を読んだ参加者もいた。中国と聞き、彼らなりの感慨が去来したという。

 軍国日本の暴走は、中国侵略から始まり、破局に突き進んだ。戦後二三年。日中の国交は断絶したままである。

 ちょうど学生部員たちの父親は、中国大陸や南方戦線で戦った“戦争世代”にあたる。その大人たちは、戦後処理に手をこまねいていた。

              *

 原稿は、一年ほど前から練られていた。写真家の斎藤康一は、ある場面に出くわしている。

 池田会長を密着取材していた冬の日。学会本部の会長室で撮影していると、会長は机の引き出しを指さしながら言った。

「中国について発表する原稿があるんです」

 推敲中の原稿が入っていた。

 斎藤は、中国に不思議な縁がある。昭和四十年代初頭。中国撮影旅行の際、通訳をしてくれた王という青年が、しきりに聞いてくる。

創価学会という組織が、大変な勢いで伸びているそうじゃありませんか」「いったい、どれくらい日本人の社会や生活の中にとけ込んでいるんですか」

 斎藤が答えられずにいると、その後も何人かの人間から、同様の質問にあった。情報が閉鎖され、世界のニュースに疎いはずの中国の青年が、異様なほど関心を示している。

創価学会とは何だ?」。中国で生まれた好奇心から、池田会長を追いかけてきた。

              *

 ――会長の額に大粒の汗が光った。七七分間。一気に走り抜けるように講演を終えた。

「ウォー!」

 地鳴りのような声が、巨大な鉄傘を揺るがした。プレス席の記者たちは、せわしなく席を立った。

 十三時三十分、閉会。会場から上気した学生が飛び出してきた。

 ある者はキャンパスへ。ある者は東京見物をキャンセルし、上野駅羽田空港へ。仙台から夜行列車で上京した水戸雄二(副会長)は振り返る。

「あのころ、中国なんて漠然としたイメージしかなかった。とてつもないスケールの提言だった。ただただ圧倒されるばかり。提言の意味の重大さに気付いたのは、かなり後になってからです」


▼「日中提言」の持つ意味

「池田提言」(骨子を別掲)の内容は広く報道されている。ここではマスコミが、どの点に注目したか記したい。

 第一に「北京政府の承認」である。

 報道陣の中には、池田会長が創設した公明党の結党大会(一九六四年)を思い返す者もいた。

 この大会に際し、会長は提案している。「政策については皆さんに託しているが、一つだけ、中国問題に対してだけは、お願いしたい」

 提言に先立つ六八年四月、公明党は「日中国交正常化」「中国の国連承認」等の政策を打ち出している。

 公明党は同年七月に行われた参院選で六六六万票を獲得し大勝。次の衆院選に向け、一挙に七五人の候補を発表したところである。

 各党は慌てた。とりわけ政策の斬新さを見せつけられた野党は、公明批判にも走った。

 そうした空気の中で、あえて会長は北京政府承認という旗幟を鮮明にしたのである。

 第二に「首脳同士の直接交渉」である。

 国交正常化の道のりには「賠償請求」など多くの障壁があった。

 池田会長は、事務的な問題処理を積み上げるのでなく、大局的見地から、日中首脳のトップ会談を提唱した。

「トップ同士が胸襟を開いて語り合えば、すんなり話は解決するものだ」 戸田城聖第二代会長が生前、何度も語った人間学である。

 第三に「中国の国連加盟承認」。

 中華人民共和国の成立以来、国連加盟は、たびたび国連総会の議題になった。しかし、アメリカが強硬に反対。加盟問題は、そのまま北京政府と台湾政府の代表権問題に直結したからである。


▼「日中国交回復提言」の骨子

●日本は北京政府を正式に認めること。国交の正常化へ、 両国の首脳が会談を実現し、大局観、基本線を固めるべ きである。


●日本は対米追従主義ではなく、独自の信念で北京政府の 国連加盟を積極的に推進すべきである。


●日本は「吉田書簡」(日中間の貿易に際し、輸出入銀行 などの政府資金を使わせない旨を述べた、吉田茂元首相 の台湾宛書簡)を廃棄し、中国との貿易拡大に真剣に取 り組むべきである。


 北京支持の票は増え続け、六五年の第二十回総会では「四七対四七」の賛否同数にまで迫った。池田会長は後押しするように、国連加盟を主張した。

「これだけ大規模な民衆、それも学生を前に『中国の国連加盟』を提言したのは、池田会長が日本で最初である」と明言するジャーナリストもいる。


▼学生と政治の季節

 ヘルメットをかぶり、タオルで顔を覆った男が、校門でビラを配っていた。学生会館前の立て看板には、

「粉砕」「打倒」「闘争」などの大文字が並んでいた。

 七〇年安保の目前。時代は「学生」と「政治」の季節だった。

学生運動”といっても、硬軟さまざまである。政治色の濃いグループから、学生ホールの定食代の値下げ要求まで、千差万別だった。

 ベストセラー『竜馬がゆく』を抱えた者もあれば、完訳版『毛沢東語録』をバイブルにする者もいた。

「運動の中身は二の次。熱狂できるものが欲しかった」(学生運動の元闘士)。革命という名の“はしか”にかぶれていたのかも知れない。

 ただ、青年のエネルギーは巨大だった。運動は時に過激化し、火炎瓶が飛び交った。

 荒れ狂う学生を前に、大人たちは茫然と立ちつくした。父や母も、お手上げだった。

 六八年の東大・駒場祭。「とめてくれるな、おっかさん。背中のいちょうが泣いている。男東大どこへ行く」の大看板が人目を引いた。

 学生たちは「尊敬できる大人」に飢えていた。

 かつて池田会長は学生たちに語った。その中に、世の権威、権力が大嫌いで、すぐ食ってかかるタイプの学生がいた。

「この前、外国の記者と会ったけれど、私のことを大したやつではない、って言っていたよ」と会長。

「? ?」。怪訝な顔の学生。

「妖怪みたいな格好をした教祖とか、独裁者のタイプではないという意味かな。私は平凡の中の平凡な青年だから」

 初めて素直に大人の話を聞けた。

 著名な大学教授。東大の安田講堂全共闘に占拠された六八年、池田会長に連絡した。

「何とか学生の暴動を抑えてください。あの講堂には日本の貴重な文献があるんです。あの文献がなくなったら、取り返しがつかない」

 池田会長の存在は、大学社会で一目を置かれていた。
「そもそも――」。ある新聞記者は言う。「目の血走った学生の前で、中国との国交回復を訴える指導者なんか、どこにもいませんでした」


▼「デマの中傷は即座に斬れ」

 黒いダイヤル式の電話が鳴り響いた。

「はい、創価学会です」

「おい……お前ら、いい度胸しとるのう。どうなっても知らんぞ」

 叩きつけるように切られた電話からは、ツー、ツーと無機質な音しか聞こえない。

 また、けたたましく鳴った。

「……はい、創価学会です」

中共から、いくらもらってんだあ、コラ!」

 提言から一夜明けた九月九日。朝から創価学会本部の電話は鳴りっぱなしだった。差出人不明の脅迫めいた投書も、ひっきりなしに舞い込んだ。

 大半は右翼団体からである。

 ヒゲ面で知られる清水亘や、赤尾敏ら大物が街宣車で本部周辺に乗り込んできた。「池田提言」は“左翼的”だと言うのである。

 職員は心穏やかではないが、当の池田会長は泰然としていた。「覚悟の上だ。この程度の攻撃は慣れっこだよ」と笑っていた。

 学会の初代渉外部長として、デマの中傷を聞けば、すぐに飛んで直談判した。

 戸田会長から叩き込まれていた。

「デマは即座に斬れ。時間が経つと、皆が信じてしまう」

 提言の数日後、聖教新聞記者の岡安博司が池田会長に呼ばれた。

「あの出版社には行ったのか」

「いえ、まだ行っておりません」

「なんで行かないんだ。向こうは間違いなく怒ってるぞ。すぐ行ってこい」

「はい!」

 岡安は飛び出した。

 反共で知られる右翼系出版社である。共産党を目の敵にし、激しい言論活動を展開していた。

 かつて月刊誌『潮』の編集者だった岡安は、付き合いがあった。

 強面の社長を思い浮かべながら、先方へ急いだ。

 応接に通される。ソファに浅く腰掛けていると、社長が入ってきた。四角い顔をした若い衆を五、六人、従えている。

 どかっと腰を下ろした社長。

「岡安さん。あの提言は何だね」

「いや社長、日中の良好な関係を抜きにして、世界の平和はない、という観点からですね……」

「なにい! 舐めたこと抜かしてんじゃねえ!」

 若い衆が、ぐいっと肩を怒らせ、三白眼でにらんできた。

 冷たい汗が背中に流れる。

 まともな議論では収まらない。岡安は、池田会長の言葉を思い出した。

「池田会長は、いつもこう言っている。『今のままでは、血気盛んな青年が暴動を起こす。大規模なデモも起きる。日本の混乱は目に見えている。それを抑えるためには、学生に指針を示すことだ』。これが会長の真情です」

 若い衆がポカンと口を開けた。社長は深くうなずいている。

「提言は日本のため」――結構な話ではないか。ぴしっと筋が通っている。

「わかった。そういうことなら、いいだろう」

 納得した社長と握手をし、辞去した岡安は、外で秋風を浴びて我に返った。あらためて、池田会長の遠謀深慮に感動した。


▼「黙殺」と「非難」

 池田提言に対して、自民党は公式見解を出さなかった。もし出せば、党が二つに割れる。

 首相の佐藤栄作は、対米関係最優先の外交を貫いていた。アメリカに倣って、日本政府が「正統」と認めるのは台湾の国民党政府であった。

 佐藤の実兄の岸信介。その内閣は「バナコン政権」と椰揄された。台湾から輸入されるバナナとコンニャクの利権に結びついていたからである。

 対する“大陸派”。松村謙三を筆頭に宇都宮徳馬川崎秀二古井喜実といった中国通を擁する「アジア・アフリカ研究会」である。

 松村謙三は、周恩来総理から「池田会長の訪中を歓迎する」との言辞を引き出した政治家である。池田提言を歓迎した。

「われわれの日ごろ主張していたことが、池田会長によって提唱された」「百万の味方を得た思いだ」

 超党派で国交回復推進の声も上がったが、裏を返せば、野党にラブコールしなければならないほど、自民党の議員は頼りにならない。

 社会党。これも公式見解どころではない。中国の文化大革命の評価をめぐり、党内は四分五裂に対立していた。

 自民党は中国への好悪が交じっているが、社会党は「好き」「嫌い」の評価も定まらない。

 共産党。さらに次元が低い。六六年に訪中した書記長の宮本顕治が、こともあろうに毛沢東と大ゲンカ。互いに罵りあう犬猿の間柄である。機関紙で非難合戦を繰り広げ、関係が断絶していた。

 最後に霞が関

 提言の三日後である。東京で開かれた日米安保会議の席上、日本の外務省首脳は「創価学会の池田会長の最近の言明は中国に対して、ひどく誤った期待を高めさせることとなった」とアメリカにおもねっている。

 日本の政府も政界も、池田提言に対して「黙殺」か「非難」で応えた。

 当時、一般紙政治部記者の分析。

「各党とも提言にコメントするだけの構想や政策がない。それぞれ党内に異論を抱えているから、勝手に都合のいい部分を議論しているだけ」

 これが実状であった。


信濃町高碕達之助

 学会の中国担当として四〇回以上、訪中した三津木俊幸(参議)。

「日中提言の中身や、国交回復後の学会と中国の関係については、これまで多くが語られてきました。

 しかし提言の実現にいたるまで、どんな人物が現れ、どんな役割を果たしたのか。そうした裏舞台は、あまり知られていない。それは社会だけでなく、われわれ学会員も、一番知りたいところです」

 一九五七年四月、大阪地方区の参議院補欠選挙に学会は候補者を立てた。その際、戸田会長は三つの選挙公約を決めた。

 その第一が「中国貿易の促進」であった。

 戸田会長は実業家であり、大阪は商人の町である。アジアに視野を広げた気宇壮大な展望が、いかにも戸田会長らしい。

 当時、戸田会長の身近にも、日中貿易の推進者がいた。

 学会本部がある東京・新宿区の信濃町に、政治家・高碕達之助が住んでいた。実業家でもあり、自民党きっての中国通。日中の経済交流に尽力していた。

 信濃町には、池田勇人犬養毅の邸宅など政財界人の家も並び、気さくな戸田会長は下駄履きのまま、よく挨拶にまわったという。

 高碕邸は、学会本部から信濃町駅寄りに通りを一本隔てたところにあった。現在、学会の常光会館が立つ場所である。

 近隣を大切にした戸田会長。高碕と学会の付き合いは、そのころから始まっていた。

 高碕もまた、信濃町駅から駆けるように学会本部へ急ぐ学会員を見て「元気だな。それに青年が多い」と口にしていた。

 六二年十一月十日。朝刊を広げた池田会長は、一つの記事に目を止めた。

「日中総合貿易覚書に調印」

 門戸が閉じていた日中の経済交流が再開した。突破口を開いたのは、周恩来松村謙三の会談を受け、実質的に交渉を取りまとめた高碕達之助である。

「ご近所だ。高碕先生にお会いして、中国の話を聞かせてもらいなさい」

 すぐさま学生部員に指示を出した。背景に、戸田会長の中国貿易論があったことは想像に難くない。

 深まる秋の朝。二人の学生部員が、緊張の面もちで高碕邸の前に立った。

「すげえ家だなぁ」。玄関までのアプローチが長い。恐る恐るベルを鳴らした。

 屋敷の前で、せっせと落ち葉を掃いている男がいる。

「おはようございます!」

「いらっしゃい。高碕先生は、中でお待ちですよ」

(書生さんかな……)

 別段、気にもせず邸内に入った。広い応接間に通される。高碕は笑いながら言った。

「さっき庭を掃いていた男の人がいるでしょう。中国貿易の関係者なんです」

 後の中日友好協会会長・孫平化である。

 高碕が推進した民間貿易が軌道に乗るまで、孫平化は居候として身を置いていた。

 まだ両国は、法的に戦争状態下にあった。高碕邸の四辻には私服刑事が目を光らせていたという。

 高碕は部屋のマントルピースに火を入れた。白髪を短く刈り込み、キチッとスーツを着込んでいる。

 高碕は自分の孫を見つめるような目で、淡々と語り出した――。


▼高碕を動かした民衆の勢い

 すさまじい土煙が巻き上がっていた。重戦車の群れが中国東北部を突き進んでいる。

 一九四五年八月。日本の敗戦で瓦解した“満州国”の首都・新京(長春)をめざすソ連軍である。

 日本の関東軍は早々に逃げ出し、百万もの邦人が見捨てられた。新京の駅前広場は、怒号と悲鳴に満ち、修羅場である。

 やがて新京に、中国共産党八路軍が合流してきた。

 中国の政治将校の中で、ひときわ目を引く存在があった。濃い眉に引き締まった口元。周恩来である。

 極限状況の中で、日本人の代表が進み出た。満州重工業開発株式会社の総裁だった高碕達之助である。

 日本人の生命と資産を守るため満州に残った高碕に、周はきょう気を認めた。

 高碕は必死だった。

「百万の日本人がいる。食物を与えなければならない。助けてくれるなら、どんな苦労も惜しまない」

 周は深く頷いた。

              *

「あなたは満州にいましたね。高碕さん」。周恩来に声をかけられた高碕は驚いた。あの混乱の極みで、たった一度の出会いを忘れていないのか。

 公職追放の後で政治家になった高碕は、一九五五年四月、周とインドネシアバンドン会議で再会した。

 二人の交流が始まった。高碕は、周の求めに応じ、経済人としての助言を惜しまなかった。


◆「創価学会という元気な団体がある」

 ある時、高碕が何気なく口にした。

「総理。私は東京の信濃町に住んでいるんですよ。実は同じ町内に、創価学会という元気な団体がある」

 周が静かな目を向けた。

「これが小さい勢力だけど、民衆に受け入れられているんですな。無視できない勢いがある」

 創価学会。初めて聞く団体名である。「元気な庶民の団体」という点が気になった。

 周のもとには、日本の諸団体の情報が無数に集まる。しかし、高碕は直言居士である。地獄の満州で同胞のため身体を張った男である。

“調べる価値はある”

 周の脳裏に、創価学会の名が刻まれた。

 後に高碕は池田会長に会い「ぜひ訪中を」と伝えている。一九六〇年、もしくは六二年のできごとである。

 周恩来と池田会長の間に、一本の糸がつながった。


▼「この団体はなかなか興味深い」

 信濃町の高碕邸に居候していた孫平化は、慶承志(中日友好協会初代会長)に連れられて、北京の中南海にある西花庁の門をくぐった。

 海棠や梨、桃が生い茂った庭の奥に、周恩来の執務室がある。

 人の出入りが絶えない。中日貿易推進のため、北京と東京を行き来している孫平化も、その一人である。

 孫が日本の情報を伝えると、周恩来創価学会について強い反応を示した。幾つか質問したが、答えに満足していない様子だった。

 孫は公表されたデータを伝えるだけで精一杯である。

「池田会長の就任以来、わずか三年で三〇〇万世帯に倍増しています。会員数は一〇〇〇万人。日本の人口の一割が学会員です」。話の内容から、一九六三年前後と推察される。

「元気な庶民の団体」――高碕の直言が的を射ていたことを感じた周は、学会の幹部に接近し、資料も収集することを命じた。

 このころ、信濃町の高碕邸にいれば、学会本部から送られてくる出版物に、いち早く接することができる。

 金蘇城(元中日友好協会副秘書長)は、高碕の言葉を覚えている。

「あなた方は若い。持ち帰って、よく読み、研究してください。この団体は、なかなか興味深いですよ」

「戦後、創価学会は、急速に発展したが、こんな団体はこれまでない。必ず、その原因がある」

 高碕邸は、学会と中国をつなぐ

「情報の経由地点」だった。

     *

 高碕だけではない。政治家、経済人、文化人……国交回復を願う、心ある者たちの意志が、六八年の池田提言への気運を、じりじりと高めていった(別掲の年表を参照)。

 池田会長は、時の流れを察知していた。

「とにかく今は中国だ。向こうも、こっちを調べているぞ」

 徹底的な情報収集、分析、計画の立案が行われた。

 中国問題の第一人者・竹内好の門を叩いた。

 六四年九月、報道各社が北京に駐在記者を置くようになると「現場」の第一次情報を求めた。

 秋岡家榮(朝日)。新井宝雄、高田富佐雄(毎日)。柴田穂(産経)。北京に駐在した記者たちにも食らいついた。

 時には池田会長自身が直接、ジャーナリストから話を聞いた。中国情報は山のように積もった。

 こうした調査、分析、熟考の上で、国交正常化の提唱が決断されたのである。


▼“池田会長に日本は救われた”

 池田提言を受け、アメリカのマスコミは、皮肉たっぷりの記事を載せた。「池田会長が赤いネクタイを締めた」。

 しかし、ベトナム戦争の泥沼にあったアメリカは、すでに政策の転換を余儀なくされつつあった。軍事費が膨れあがり、これ以上、東アジアで緊張状態を維持すれば、財政は破綻しかねない。

 池田提言の翌六九年一月。共和党ニクソンが大統領に就任し、中国との国交回復を念頭にした政策を発表した。七二年二月には、電撃的な米中接近を果たし、世界を驚愕させた。

 実は、この米中接近も、池田提言によって早まったと証言する人もいる。

 慌てたのは日本政府である 中国と太いパイプを持っているのは、池田会長が創設した公明党である。田中角栄政権は橋渡しを頼んだ。

 七二年九月、日本は中国と国交正常化を果たした。

 当時、学会の渉外局長、副会長として池田会長の訪中にたびたび同行した山崎尚見は、よくマスコミの記者に語った。

「日本は完全に、アメリカに頭を越された。“アジアの孤児”になってしまうので、慌てて中国との国交回復に乗り出した。六八年に提言が発表された意味は大きい」

 歴史に「もし」は禁物である。しかし、米中接近より以前に、池田提言がなかったら……。日本は「国交回復までアメリカ追従」の謗りを免れなかっただろう。

「日本は、池田提言に救われたんだよ」

 山崎の持論に記者も頷いた。米中の接近を加速させた池田提言。


日中国交正常化創価学会

1959年10月
松村謙三氏、初訪中。周恩来総理と会見

1960年10月
高碕達之助氏、初訪中。周総理と会見

1961年1月
作家の有吉佐和子氏が中国の作家・巴金氏らと懇談。同席した劉徳有記者に創価学会との交流を勧める

1962年9・10月
松村氏、高碕氏、相次ぎ訪中。周総理に学会の発展を伝える

  同11月
池田会長、学生部員に高崎氏への取材を指示

1963年前後
孫平化氏が周総理に学会の発展を報告。周総理は日本の高速道路と創価学会について調べるよう指示

1963年9月
学会本部が落成。池田会長、高碕氏と会談。氏は会長の訪中を促す

1964年11月
公明党が結成。池田会長は創立者として「中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい」と提案中国人民外交学会によるリポート『創価学会』が世界知識出版社から刊行

1966年5月
池田会長、有吉佐和子氏と会談。周総理の「訪中歓迎」の伝言が伝えられる

 同7月
有吉氏の仲介で学会青年部代表と中国の孫平化氏、劉徳有記者らが会談

1968年9月
池田会長、第11回学生部総会で日中国交正常化を提言。劉徳有記者が中国語に翻訳した提言を北京に打電

1970年3月
池田会長が松村謙三氏と会談。松村氏は訪中し、周総理から「池田氏の訪中を歓迎する」との伝言を託される

1974年5月
池田会長、第1次訪中。李先念副首相、廖承志中日友好協会会長と会見

同6月
周総理が北京305病院に入院

同9月
池田会長、第1次訪ソ。コスイギン首相と会見

同12月
池田会長、第2次訪中。北京で周恩来総理、訒小平副総理と会見


▼中国大使の「周恩来像」

 外務省の中国課長だった橋本恕の手のひらには、周恩来と握手した時の感触が、ありありと残っている。

「手が柔らかく、心の温かさが、そのまま伝わってくるようだった。しかし顔は微笑んでいても、目は決して笑っていない」

 人間としての温かさ、政治家としての凄みが同居していた。

 日中国交正常化にあたって、実務全般を取り仕切った橋本は、最も多く周と会った日本人の一人である。後に駐中国大使も務めた。

 毛沢東は生粋の革命児だった。ゆえに文化大革命をはじめ数々の摩擦や失政も引き起こした。そのつど問題処理に走り、毛沢東を支えた周。橋本の評価は高い。

「あらゆる組織にいえるが、ナンバー1とナンバー2の関係は難しい」

「だが周総理は理想的なナンバー2だった。自分の欲望や野心をゼロに抑えていた。第一に国家と人民のため、第二にナンバー1の毛沢東のために献身した。極めてまれな政治家です」

 清潔な人物だった。

「ここまでしなくても」と思うほど、公私を厳しく峻別していた。

               *

 周恩来は「実事求是」の人である。事実を以て真理を求める。

 噂。予断。風評。人気。偏見。そうした類は、判断の基準にしない。

 創価学会ほど事実無根の批判を浴びた団体もない。暴力宗教。ファッショ。政教一致

 しかし、周は事実を見た。

 誰が国交正常化を唱えたのか。誰が中国問題解決を党是とする政党を創設したのか。誰が大衆社会に崩れぬ勢力を築いたのか。創価学会の池田会長である。周総理の病状は悪化の一途をたどっていた。

 ただし、まだ会長本人には会っていない。発言や行動の「事実」は見極めた。「人物」そのものを、この目で見さだめなければならない。


▼がん手術の日

 一九七四年六月一日。北京の人民解放軍三〇五病院。

 北京第二医学院の院長・呉階平が指揮する医療チームによって、周恩来の膀胱がん切除手術が行われた。

 この一年半、増殖した腫瘍は組織を破壊し、多い日で膀胱内からの出血は二〇〇?リットルに及んだ。

 血尿というより、鮮血そのものが排泄された。

 血の塊が尿道をふさぎ、異常な痛みが襲う。冠状動脈性心臓病だった周の呼吸と脈拍は切迫し、狭心症心筋梗塞の危険もあった。

 化学治療を施しても、再発を繰り返したことから、医師団は切開手術に踏み切ったのである。

 この日、第一次訪中の途上にあった池田会長は北京にいた。会見を強く望んだ周は、手術台の上から動けない。麻酔からさめ、逐一、会長一行の行動の報告を受けている。

 手術の前後にも、会長が安眠できるよう宿舎のカーテンを厚くしたり、献立を工夫するなど、細かい指示を出している。

 側近の蓼承志に伝えた。

「池田会長に会うのは、もう少し、良くなってからにしよう」

 だが病状は、悪化の一途をたどった。


▼十二月五日の北京三〇五病院

 冷たい病院の廊下を歩きながら、周恩来の主治医・張佐良は、白衣の襟元をかきあわせた。

“あと二年、いや一年か……”

 手術から半年が過ぎた冬になっても、周に好転の兆しはない。

 北京三〇五病院は国家指導者のための戦備病院である。所在地も極秘で上層部しか知らない。人民解放軍の兵士が警備し、耐火レンガで壁も厚い。

 建物は四階建て。周の病室は一階にあった。張たち医療チームは、静かに休んでもらうため、真上の二階を空け、三階以上に住んだ。

 周は、病院を執務室にし、外国要人との会見にも使った。

 やはり主治医として、止めるべきだったのか。張は、十一月二十五日に米国務長官キッシンジャーとの会談を許可したことを悔やんだ。

 長時間の会見は、もう不可能だろう。すでに、がんは結腸に転移している。膀胱の腫瘍を電気焼灼しているが、血尿は止まらない。不整脈もある。

               *

 ベッドの上で秘書に書類を読みあげさせていた周の目が、一点を凝視したまは動かない。書類には、第二次訪中をした池田会長が、北京滞在中であることが記されていた。

 十二月五日。翌六日、池田会長は帰国する。

 答礼宴の後で池田会長をお連れしなさい、という周の意志が蓼承志に伝えられた。

 ドクターは反対した。国家元首でもない。民間人だ。なぜ会わなければならないのか。

 周はベッドから身を起こし、身支度を整え始めた。白い鬢に櫛目を入れ、糊の効いたシャツに袖を通す。中山服をまとい、五つのボタンをきちっと留めた。

 身だしなみに気を使うことで知られている。外政家として世界を駆けめぐってきた。

 北京三〇五病院は、あわただしくなった。館内に暖房が入れられ、記念撮影台の準備が整えられた。人民日報編集部にも、会見を翌日付けで報道する予定が伝えられた。


▼「総理の意志です」

 頃合いを見計らって、蓼承志は池田会長に歩を進めた。

「周総理がお待ちです」

 会長は即座に辞退した。副総理の訒小平から重い病状を知らされていた。

 夜九時半を回り、北京飯店で開かれていた答礼宴も終わりに近い。

「総理の意志です」

 あの長征以来の同志である。蓼とて、周の病状は百も承知である。

 既定事項であるならば、重患の周を待たせてはならない。

「早く。早く」

 香峯子夫人はコートを着用する時間もなかった。

 北京飯店を出た車は、通常であれば、天安門広場を経由してから故宮博物院の方角に曲がり、北京市街を北西に向かったはずである。

 ただ周の居所は機密事項で、車は意図的に迂回ルートを走ったとも言われる。

 およそ一五分後。質素な建物が闇の向こうに浮かび上がった。車は正面近くに滑り込んだ。池田会長は病院であることを知らない。

 玄関に入ると、フランネルの中山服を着た、背筋の正しい人物が立っている。

 周恩来が池田会長に、すっと右手をさしのべてきた。(文中敬称略)