6 池田先生と九州

「人間として」会うんだ



◆この人は無私(むし)の人
 「早く、早く」
 妻を急がせながら、諫早文化会館の玄関に島原市長・鐘ケ江管一(かねがえかんいち)が入ったのは、1982年(昭和57年)5月25日の午後4時過ぎだった。
 会議が長引き、きわどい時間になった。飛び込んだ玄関ロビー。長崎の首長クラスの面々がいる。
 間に合った!
 高田勇(たかだいさむ=長崎県知事)、本島等(もとしまひとし=長崎市長)、野田次三(のだじさぶ=諫早市長)。病院長・賀来宗光(かくみねみつ)の顔も見える。
 「よく、おいでくださいました」
 声がして、鐘ケ江は気を引き締めた。一人一人を歓迎する池田名誉会長。初対面である。丁重なあいさつを受け、会見場へ案内された。
 鐘ケ江の実家は、島原の老舗(しにせ)旅館・国光屋。ここを中心に各界の名士と親交を深めてきた。一国の宰相、大横綱、球界のスター。人を見る目は肥えている。
 会見場で名誉会長と相対した瞬間、背筋にズシンと感じた。
 目が違う。これまでに会ってきた人と明らかに異なっている。ただならぬ人物に向き合っていると意識した。
 だれの質問にも、胸襟(きょうきん)を開いて答えてくれた。その人間性に魅せられていく。
 こんな場面があった。懇談の途中、横にいた賀来が手を挙げた。心の病に取り組んできた名医。敬虔(けいけん)なクリスチャンである。
 「池田先生、ソビエト美しい国なのに、どうして残虐非道(ざんぎゃくひどう)なことをするのでしょうか?」
 まだ冷戦時代である。ソ連アフガニスタン侵攻や核実験など、一部の報道しか流れてこない。
 訪ソ経験の豊富な名誉会長。
 「ソビエトの人々ほど、人のいい、素晴らしい国民はいません。人がいいから、時の指導者によって、左右されると思います」
 名誉会長の視点は、常に民衆の側にある。発言の底に大衆への信頼感がある。
 長崎にはキリスト教の信者が多い。迫害に耐えてきた歴史が長い。
 大衆の側に立つか。権力に媚(こ)びるか。人物を判断する基準になる。
 鐘ケ江は、これまで抱いていたイメージを改めた。
 「私はマスコミに騙されかけていた。スキャンダラスな記事はすべてウソだ。この人は無私の人だ」

 遠い記憶が蘇(よみがえ)る。
 懇談の場に伴ってきた妻・保子(やすこ)の祖母(宮崎喜代子〔きよし〕)は、雲仙にあった宮崎旅館を切り盛りする女将(おかみ)だった。
 1939年(昭和14年)春、牧口常三郎初代会長が、福岡・八女の学会員と宮崎旅館に折伏に訪れ、女将の喜代子は入会している。
 当時・孫の保子は4歳。牧口会長の記憶はない。それでも祖母が常々、孫に語った言葉は、かねて鐘ケ江も知っている。
 「とても立派な先生だったよ。あんな山道を越えてきてくれて……」
 宮崎旅館は曲がりくねった道の上、標高700メートルにあった。バスに揺られ、ふもとから約1時間かかる。
 日本が軍国主義に突入する時代、牧口会長は九州で一人の人の幸福のために身を擲(なげう)っていた。

◆人間に壁を作るな
 会談の準備に当たった梅林二也(うめばやしつぎや=当時・長崎県長)。関西指導中の名誉会長に「ぜひ、長崎へ」と何度も願い出た。
 半年前の81年(昭和56年)12月に、名誉会長は大分、熊本を訪れ、宗門事件で撹乱(かくらん)された組織の再建に着手している。
 梅林の願いも、その延長線上にあった。学会精神のみなぎる組織へ内部を立て直したい。それしか念頭にない。
 九州の幹部の熱意に応え、長崎入りした名誉会長。次々に手が打たれていった。
 1カ月前に完成した諫早文化会館にも、地域の有力者を一堂に招き、お披露目することとなった。
 梅林は緊張した。過去に前例がない。宗教、信条を異にする人もいる。
 立派な応接室もない。和室に卓上机を並べて、上から白布をかけた。急ごしらえの会見場である。
               ◇
 大成功で懇談は終わった。
 一行を見送った名誉会長から、梅林は諄々(じゅんじゅん)と諭(さと)された。
 「法の上の厳しさと、人間的なつながりを、混同してはいけない。信仰で会うのではない。人間として会うのだ」
 宗教の違いや、信仰の有無で、人間の間に壁を作ってはいけない。
 「一つの出会いを大切にすることだ。一回でも出会った人とは、生涯、関わり続けていくんだよ」
 宗門事件が勃発(ぼっぱつ)してから、心が萎縮(いしゅく)していた。外へ打って出る攻めの心を師が奮い立たせてくれた。

◆アジアへ友情の道
 名誉会長は九州の発展を願い、ありとあらゆる手を打ってきた。
 会員のため ── 。
 鹿児島の大島運輸(現マルエーフェリー)は学会員の海上輸送を担っていた。大型客船「サンシャインふじ」が就航すると、要望に応えて「安穏」の揮毫(きごう)を贈っている。
 地域のため ── 。
 福岡・柳川(やながわ)は12万石の城下町。北原白秋の出身地でもある。85年、旧柳河藩の16代当主・立花和雄と郷土の伝統の継承について語り合った。九州文学界の長老・原田種夫(はらだたねお)と文学をめぐる対談もしている。
 平和のため ── 。
 87年、モスクワで「核兵器 ── 現代世界の脅威」展が開かれると、長崎市長本島等とオープニング式典に出席した。
 同年、北九州市で行われた第8回世界青年平和文化祭。全国ネットで放送した九州朝日放送・社長(当時)の松本盛二(まつもとせいじ)ともメディアの意義をめぐり意見を交換している。
 アジアのため ── 。
 90年に初の韓国訪問。94年、福岡ドームでアジア青年平和音楽祭。アジア各国の関係者と、五万人の「第九」の合唱に喝采を送った。99年には、福岡から韓国・済州(チェジュ)島へ向かっている。
 青年が後に続くことを信じ、アジアへの友情の道を開いた。
 地勢上、九州は、日本のアジア侵略の拠点となった。何百もの特攻機も飛び立った。
多くの青年が戦火の犠牲になった。名誉会長の考えは、その対極にある。

周恩来会見の陰で
 日向灘(ひゅうがなだ)の春光まぶしい91年2月、宮崎県知事の松形祐尭(まつかたすけたか)は、当時の宮崎研修センターで名誉会長と再会した。
 初対面は74年12月、北京。
 中国政府からの要請で、林野庁の指導部長として中国の植林等の技術協力にあたっていた松形。
 ホテルの食堂で食事していると、不意に声をかけられた。
 「人民日報で拝見しました。お役目、大変にご苦労さまです」
 顔を上げて驚いた。
 あ、創価学会の……!
 “私の仕事まで、ご存じとは……。
 食事のたびに親しく会話を重ねた。後の報道で総理・周恩来と会見したことを知り、驚嘆(きょうたん)した。
 総理の重病説、底知れない権力闘争も噂されていた。日本人、しかも民間人が容易に会える情勢ではない。
               ◇
 雲仙普賢岳(うんぜん・ふげんだけ)から流れ出た火砕流が人家を飲み込み、43人の人命を奪ったのは91年6月だった。
 島原市長の鐘ケ江。市民の生命を守る戦いは、長く果てしないものになった。身体を張った命がけの仕事さえ、週刊誌は面白おかしく書き立てた。事実無根の批判を浴びた。
 ある思いが、その攻撃に耐える力となった。
 “名誉会長への、いわれなき中傷に比べれば、田舎の市長への攻撃など、たいしたことはない”
               ◇
 2001年12月2日、福岡市の西日本新聞社の一室。社長の多田昭重(あきしげ)は決断した。前日、編集局長の玉川孝道(たかみち)が、池田名誉会長に単独インタビューしている。
 記事をどう扱うか。
 玉川には、手応えがあった。
 米国の同時多発テロから3カ月後。公明党も連立政権入りしていた。
 いかに宗教が社会に関わるか。読者が求めるテーマに、名誉会長は堂々と答えてくれた。
 制作現場の声が多田を動かす。最初の読者でもある印刷局の社員が刷りを見て「よくできている」。声を揃えた。
 “世界に広がる創価学会のリーダーに、その胸中を聞くのはメディアの使命だ”
 やがて輪転機(りんてんき)が勢いよく回りはじめた。インタビュー記事を大きく載せた紙面が、配送トラックに積み込まれていった。

◆前市長も愛読者
 九州ほど、名誉会長が各界の首脳と率直に語り合った地域はない。
 師が先駆した。弟子が続き、九州、アジアに友情の連帯を築いた。
 こうした経緯が総合月刊誌『潮』の10月号に掲載された。「池田先生は思想で世界をひきつけた」 ── 長崎の前市長・本島の声も載っている。
 長崎新世紀圏の田中梢(たなかこずえ=支部副婦人部長)は、うれしくてたまらない。
支部内に本島宅がある。聖教新聞の長年の愛読者でもある。
 じっとしていられず、本紙配達員と一緒に家を訪ねた。丁重にお礼を述べると、本島は田中たちに、こう言ってくれた。
 「世界平和は、池田先生しかできないよ」

                   (敬称略、本紙特別取材班)