第10回 三代会長と九州(下)
「池田会長は思想で世界をひきつけた」(本島等・前長崎市長)。
九州各界のリーダーが見た池田SGI会長の実像とは。
◆「会長の言葉は、ぶれない。威力がある」
▼「何でも聞いてください」
西日本新聞社の玉川孝道は、張りつめた表情で取材相手を待っていた。数え切れない修羅場を踏んだ、新聞社の編集局長にしては珍しい。
ドアが開き、目的の人物が現れた。
「さあ、何でも聞いてください」
池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長の第一声だった。
二〇〇一年十二月一日、東京都内。玉川は、会長に単独インタビューした。
記事は二日間にわたって掲載された(同年十二月三、四日付)。米ニューヨークで「同時多発テロ」が起きてから三カ月後のことである。宗教とテロ。戦争と平和。政治、教育、憲法……。日本最大の宗教団体トップに、聞きたいことは山ほどあった。
会長は一つ一つ、丁寧に答えた。
「あの回答内容は今、思い起こしても新鮮です。どこでも通用する」
学会と公明党の関係も尋ねてみた。会長の答えは、どれも明快だった。
「支援する場合、意見を言うのは当たり前です。それは指示とは違う」
「これまで日本には、こうした宗教と政治の関係がなかった。反発や批判があったのは当然かもしれません」
率直である。
「池田会長の言葉は、ぶれない。威力がある。だから持続性もある」
東京支社、ワシントン支局特派員、社会部デスク等を歴任し、現在、取締役副社長を務める玉川。長い記者生活の中で、最も印象深い取材となった。
▼「らせん階段」の成長
「私の記者人生は、公明党の躍進期に始まった」
玉川の入社は一九六三年。公明党結党の前年である。
最初の赴任地は筑豊。戦後の復興を牽引した日本最大の炭鉱地も、エネルギー政策の転換から衰退の時を迎えていた。
爆発事故が多く、閉山は加速した。町は失業者であふれ返り、取材先は、どこも極貧の世帯である。
「悪いのは国だ!資本主義だ。奴らが加害者だ!」
「皆さんは、その被害者。私たちは失業者の味方である!」
社会党、共産党など左派勢力は、悪玉、善玉の対立構図を強調して、票を取り込もうとした。
「公明党は、どっちにつくのか」
九州大学時代を三池闘争や安保闘争など荒波のなかで送った玉川は、注意深く見守り続けた。
どちらでもなかった。
来る日も来る日も、新米議員、党員が生活保護者の家に足を運んでいる。窮状に耳を傾け、懸命に励ましている。
右でも左でもない。生活の現場そのものだった。
政治のド素人だったかもしれないが、政治の原点とは何かを雄弁に物語っていた。
百の理論より、現場第一。それが、駆け出し記者の目に映った創価学会の姿だった。
「やっていたことは、魂の救済です。これこそ人間社会へのアプローチだと気づかされました」
*
筑豊時代から二〇年後。玉川はワシントンにいた。支局からの帰り道、他紙でアルバイトをしているアメリカ人女性に声をかけられた。
「私は創価学会員です。日本に行ってみたい。池田会長、学会を生んだ日本に、強い関心を持っています」
日米の自動車貿易摩擦がピークだった八〇年代前半である。米国人労働者が日本車をハンマーで殴りつけ、「ジャパン・バッシング」をあおっていた。学会が別次元でアメリカに広がっていることに感服した。
四〇年以上にわたって学会に注目してきた結論。
「学会の運動は同じことを続けているようなのに、次第に高みに上がっている。らせん階段を登るような地道な成長です。だから強い」
政権与党となった公明党についても「キャスティング・ボート」云々の見方とは一線を画す。筑豊の炭住長屋を汗みずくで回っていた、素人議員の姿が忘れられない。
「筑豊で見た血みどろの姿こそ、公明党の原点。本当の地力でしょう。みんな純粋やったぁ」
*
今号では、九州各界の人物に試みたインタビューを軸に、彼らの目に映った池田会長と九州創価学会の実像に迫る。まずは玉川が「血みどろ」とまで表現した、筑豊での学会勃興期をたどってみたい。
▼血みどろの戦い
タクシーに乗って、目的地を告げると、年輩のドライバーが話しかけてきた。
「このへんにね、創価学会の会長さんが来てくれたのよ。池田先生ね。あれは炭坑の爆発の後やったね」
タクシーは福岡県飯塚市の長閑な幹線を走っていく。
かつて筑豊炭田の中心として栄えたが、今はボタ山の跡地が、ポツンポツンと点在する。
この地に学会員が誕生したのは一九五三年。予科練出身の平井健治。福岡市でフラフラしていたところを折伏され、入会した。
向こう三軒両隣はもとより、両親も驚いた。「暴れん坊の平井が狂った。創価学会とかいう宗教を始めた。南無妙法蓮華経を唱えはじめた」。
青年室長時代の池田会長が福岡・久留米を訪れた。筑豊から駆けつけた平井に目をとめた。
「君、僕とケンカしてみようか」
ハッとした。平井は雪駄を履いていた。予科練上がりで粋がっていた。そこを一瞬で見抜かれた。
「すごい人だぁ」
帰り道、雪駄は脱ぎ捨てた。
筑豊には、九州各地をはじめ、四国や中国地方から出稼ぎがあった。炭鉱を渡り歩く風来坊もいる。
入会するといっても、他の地域のように地縁・血縁のしがらみがない。本人の腹次第だから、同じ境遇の人間が目の前で変わっていく姿を見て、続々と仏法を求めてきた。
時代が時代だった。“武闘派”が多い。刺青を背負った者もいる。
極道に足を突っ込んだ男が、炭鉱町に流れ着く。学会を知り「ここが俺の死に場所じゃ!」と惚れ込んだ。
ドスを懐に呑んだ新来者が座談会に現れる。しかし、学会の幹部は落ちついたものである。
「腹を刺したら内臓が出る。会場に迷惑じゃから、刺すんなら、太股を頼むわ」
そして諄々と仏法を説くのである。身体を張った気迫が、ドス持参の友人をも圧倒した。
「学会さんに、お世話になります」。きちんと正座し、指をついて、入会を決意した。
選挙になると学会員は独自の支援をして、炭鉱の労働組合推薦の陣営と対立した。
しかし、北海道・夕張炭鉱のような表立った弾圧の痕跡はない。さすがの炭労も、筑豊の学会員に気後れしたというのが偽らざる真相のようだ。
*
ヤマの学会員は、互いに命がけで支え合った。
爆発事故があれば、畳一枚を抱え
「どいた、どいた」と病室へすっ飛んだ。
危篤状態の会員の脇に畳を敷いて
「題目ば、あげさせてもらうけん」。医師が見放しても、あきらめない。
牧瀬利夫が飯塚市の市議会議員に当選したのは、公明党結党の六四年。
六五年に起きた山野炭鉱ガス爆発事故が忘れられない。犠牲者二三七人。後に「なだれ閉山」を呼び、筑豊炭田の歴史に終止符を打つ大惨事となった。
続々と遺体が運び出され、公民館に棺桶がぎっしりと並んだ。身元確認に駆けつけた親族の悲鳴が響いた。
「もう誰が誰だか分からない。身元確認に時間がかかり、棺桶と棺桶の間で、私自身が気を失った」
胸を痛めた池田会長は三度、筑豊の地を訪れている。
六六年十月、飯塚へ。代表との記念撮影は一二回に及んだ。
爆発事故で亡くなった家族の遺影を胸にのぞむ会員もいた。今も、タクシー運転手の語り草になるほど歓声が上がったのは、この時である。
七三年三月、七四年一月には、田川。閉山による失業者を励ますため駆けつけた。炭鉱の歴史は終わるが、人生が終わるわけではない。
炭坑夫の会員が、職を求めて各地に散っていく。主要な駅では毎日、別れがあった。先輩が「達者でな。信心だけは忘れるな。手紙くれ」。ホームで手を振って見送ると、別の駅へ。そこでも新しい旅立ちがあった。
新天地に関西を選んだ会員が多かった。
「だから関西の中堅クラスの幹部は、九州人、とりわけ筑豊人が多い。それで強いんだ」と胸を張る者もいる。
筑豊魂は健在である。
◆関西と九州二つの文化祭
▼雨に濡れながら青年の演技を見守っていた。
KBC(九州朝日放送)の前会長・松本盛二は、その日の天気を今も覚えている。朝からの雨脚は衰える気配がなかった。
「こりゃ中止だろう」。すっかり決め込んで、布団をかぶり直したのも束の間だった。
けたたましく電話が鳴った。
受話器を取ると、創価学会の渉外担当者。「文化祭は予定通り行います」。
一九六六年九月十八日。「関西文化祭」が甲子園球場(兵庫県西宮市)で開催された。
雨天決行。松本は兵庫・芦屋の自宅から甲子園へ車を飛ばした。まだ来賓は誰も来ていない。
「大阪朝日新聞編集局長 松本盛二」と書かれた席を見つけるのに、時間はかからなかった。
雨は一段と激しくなった。水はけが自慢の土のグラウンドに、浮き上がった水が鈍く光っている。
若い女性が純白の衣装を泥に染めながら舞った。青年たちは、ぬかるみに足を取られながら「五段円塔」を築き上げた。
「この驚異的なエネルギーは、一体どこから来るのか」
終了後、一人の男性が来賓席を訪れた。背広の肩から背中にかけ、ぐっしょりと濡れている。
“あっ!”
池田会長ではないか。松本を見つけるなり駆け寄ってきた。
差し出された手を握り返し、はっとした。異様に冷たい。指の先まで凍え切っていた。
瞬時に“この人は我が身を濡らしながら、青年の演技を見守っていたのか”と悟った。
「今日は雨の中、本当にありがとうございました。どうか、いいお仕事をなさってください」
朝日の大阪本社に帰ると、松本は後輩記者たちに熱っぽく語った。
「青年と一緒になって、ずぶ濡れになる指導者を見たのは初めてだ」
松本盛二は一九一九年、京都に生まれた。戦前の中学生時代に、創価教育学会(当時)の講演会をのぞいたことがある。
鹿児島生まれの妻は学会員。本人は形だけ入会していたが、活動はまったくしない。ジャーナリストとして意識して距離を置き、学会を観察した。
大阪朝日新聞で編集局長まで務めてから、朝日ビルディングの社長を経て、八四年、KBCの社長に就任した。
九州に赴任してから三年後である。第八回世界青年平和文化祭の開催を知った。懐かしい場面が脳裏をよぎる。雨の甲子園。泥だらけのグラウンド。ずぶ濡れの池田会長。
松本は全国ネットの放送を決断した。「偏向」と批判されるのは覚悟の上である。
理由があった。雨の甲子園の後で、朝日紙上で企画した創価学会特集に圧力がかかり、ボツにされた。
「ウソでも何でもない。事実を伝えようとしただけだ。判断するのはあくまでも読者であり視聴者。その問いかけが、何でいけないのか」
学会の文化祭には、高いニュース価値があると信じていた。
八七年十月十八日正午。九州中の家庭のブラウン管に、学会青年部の姿が躍った。視聴者から、驚くほどの手応えがあった。
「どのメディアも学会に対して、本当のことを言い切らない。平気で嘘をつくか、臆病で腰が引けているか、どちらか。ジャーナリズムよ、もう一度立ち上がれ、と言いたいね」
▼隠れキリシタンの前市長
「その辺の本やら資料やらはね、適当に、どかして座っとくれ」
長崎市を一望する住宅街。前市長・本島等は、おびただしい書物にうずもれて暮らしていた。
八十四歳。「論文を書いとるんです」。今も執筆、講演活動に余念がない。
九州各界の識者の中でも、本島と池田会長の親交は際立っている。
市長就任後、公明党への議会対策もあって「聖教新聞」を購読するようになった。やがて会長の精力的な行動に引き込まれた。
「こりゃ、すごい。この人には、日曜も祭日も関係ないな」
一九八〇年四月。第五次訪中を終えた池田会長は、帰国の地を長崎に選んだ。本島は滞在先に飛んでいった。
「『聖教新聞』で毎日、行動を追っていたからね。やっと敬愛する“池田閣下”に会えた」
八二年五月には、長崎県知事、諌早市長、島原市長らも交え、一時間にわたり懇談した。「信仰者」としての会長に、ますます魅かれた。
祖父も母親もキリシタンの末裔。生後まもなく洗礼を受けた。洗礼名「イグナチオ・ロヨラ」。
極貧。小学校で「耶蘇、耶蘇」とバカにされた。戦時中、母はスパイ容疑まで掛けられた。
「親がキリシタンだったから、よく分かる。学会も大変な弾圧を受けてきたでしょう」
「創価学会は、ローマ帝国から迫害を受けながら勢力を拡大したキリスト教と重なる」
信仰と迫害。青年時代から人生の根本命題と向き合ってきた。京都大学時代、マルクス主義にも傾倒したが、共産党員にはならなかった。
「自分にとって正義とは、本質的に信仰から来るものだった」
だからこそ学会の成長と行く末が気になった。
「僕もツキがあったら、学会に入っていたなぁ……」
市長を四期一六年。市政から身を引いた今も、故郷の新上五島町の発展に尽力する。
「耶蘇とバカにされたけど、自分が育った小学校のためだからね。正義というのは、どんなに敵があっても、正しいと思うことを、やり抜くことだ」
はにかみながら、言葉を添えた。
「それも、池田先生の爪の垢みたいなものです」
▼モスクワ「核の脅威」展
一九八七年五月二十四日。
本島は、成田発モスクワ行きの日航四四三便に搭乗した。ソ連で初の開催となる「核兵器――現代世界の脅威」展(主催・創価学会)の開会式に出席するためである。池田会長とともに同乗した。
約一〇時間のフライト。シートに身体を沈めた本島の眼が、とろんとしてきた。人の気配がする。顔を上げると、池田会長が立っていた。
「あっ、先生。何ごとですか」
「本島市長に、ご挨拶に来たんです」
会長は、関係者一人一人に丁寧な挨拶を交わしていた。
*
余談ながら。
九州は、戸田城聖第二代会長が「反核」の立場を初めて公にした地である。
一九五六年六月二十五日。戸田会長を迎え、北九州市・八幡と福岡市内で昼夜二回の集会があった。
参議院選挙の投票日まで二週間を切っていた。学会が推薦した候補者の北条しゅん八(全国区)を当選圏に押し上げる“突撃大会”である。
いずれの集会でも、懇談的に話していた戸田会長が核問題になると、一段と語気を強めた。
「原爆を使う人間は最大の悪人だ!」
「二度と同じ愚を繰り返すな!」
同年五月、太平洋のビキニ環礁でアメリカが水爆実験。二年前の実験で静岡の漁船・第五福竜丸が被ばくしたばかりである。「反核」は“旬”の政治課題だった。
戦争末期、北九州・小倉は、原爆投下の目標都市でもあった。
夜の集会で、戸田会長は北洋漁業で相次ぐ漁船の拿捕事件に触れている。日ソ関係を念頭に、愚かな政治家に任せては戦争の時代に逆行すると訴えた。
当時、戸田会長の脳裏に、米ソという核大国を牽制する意識があったことが想像できる。
五七年、神奈川の三ッ沢グラウンドで「原水爆禁止宣言」を表明するが、その原型は九州で発表されていた。
*
モスクワ。「核の脅威」展のオープニング式典。
被爆地・長崎の代表として挨拶した本島の直後に、池田会長がスピーチした。
「他の人と声が違う。よく私はラジオを聴くが、池田先生は声が、ものすごくきれいだった。歌手になってもいいのに、と思いながら聴いていた」
本島は感無量だった。
初めて海を渡った被爆遺品の数々が、核大国の市民に衝撃を与えた。
モスクワ、ニューヨークに原爆が落とされた場合の被害想定図の前には、人だかりができていた。
「我々は、被爆都市として起きたことは訴えられる。だが、こうした具体的な展示はできない。長崎、広島の惨状を池田先生が世界に広めてくれた」
▼死線を越えて見えるもの
本島は一度、死にかけている。
一九九〇年一月。長崎市役所の玄関付近で、右翼団体の一員から至近距離で胸を撃ち抜かれた。
一命を取り留め、真っ先に考えた。
「自分は、弱い人たちのために生きてきただろうか」
政治家や有名人の権勢など、夢まぼろしに過ぎない。右翼に撃たれたことで、本島から離れる人間も出た。
「我々は、やれ県会議員になった、やれ市会議員になったと喜んでいる。偉くなったと勘違いしている。
平和運動をやっている団体や個人も同じ。ずいぶんワガママなのがいる」
死線をさまよった上での人物観。
「池田先生は、政治面では公明党を創設。教育面では創価大学を設立された。自分が偉くなろうというのではない。自分のためでなく、すべてが人のため。物差しが違う」
今も憲法擁護団体などから、しばしば講演を頼まれる。
居ならぶ市民派を前に「皆さん、創価学会の池田会長はね……」と切り出す。具体的な数字を挙げ、会長の世界的な行動と実績を賞讃する。
「当然じゃないですか。池田先生は、大統領級だけにとどまらず、世界第一級の知的レベルの人とも語り合える。
民間外交という次元を超え、日本全体の平和外交の第一人者です。これだけの人物が他にいますか。偏見を捨てて、この事実を理解すべきです」
*
▼武力でなく、思想で世界をひきつけた。
本島は、語るごとに身を乗り出した。テーブルから、書物がバサバサと落ちるが、話が止まらない。
「よく妻に『池田さんって、そんなに偉いの?』と聞かれます。『徳川家康より偉いぞ』と答えるんです。
家康は武力で天下を制圧した。だが池田先生は、思想で世界をひきつけた」
最も語気を強めた言葉。
「とにかく僕は、池田先生の健康だけを、一番心配しています。
先生には、できるかぎり、健康で長生きしていただきたい。それだけです」
▼コリアン社会の衝撃
「禹さん、さっきの話は本当か?そんな日本人、見たことないぞ」
韓国の南道大学学長・李永権は、いぶかしそうに問いかけた。
二〇〇一年八月。福岡。
李永権は、民団(在日本大韓民国民団)福岡県地方本部副団長(当時)の禹判根たちに招聘され、文化交流のイベントに参加していた。
在日二世の禹(日本名・丹山)は、福岡県大牟田で学会の副支部長。九州文化会館にも一行を招いた。
学会側の幹部が挨拶した。
「池田名誉会長は、アジアの文化を日本にもたらしてくれた韓国を、兄の国、師匠の国、大恩の国と尊敬しています」
信じられない。李は禹に詰め寄った。
「韓国で国会議員を一二年やってきた。日本にも何回も来た。だけど、そんなことを話す日本人は一人もいなかったぞ」
禹の友人である姜泰守(民団・福岡県地方本部の前団長)は証言する。
「李学長の驚きは、よく分かります。確かに歴史的にみれば、韓半島の文化が日本に渡来しています。
それを名誉会長のように、はっきり言い切る人は、まずいません。韓国人にとって、衝撃的な発言です」
こんなエピソードもある。
禹は、南北平和統一に向けて準備する「民主平和統一諮問委員」のひとり。
二〇〇五年、ソウルで研修会があり、池田会長の過去の平和提言を、簡単にリポートにした。南北の最高指導者による会談(一九八五年)。鉄道や道路の開設(九五年)……。
翌日、スタッフが血相を変えて現れた。「禹さん、あれはすごい。本当かね」。
リポートでは信じられない様子なので、提言をまとめた「聖教新聞」のコピーを示した。「一九八五年?二〇年も前から……」。絶句した。
この驚きも、やはり姜泰守には理解できる。
「確かに、今や民団と総連が歩み寄り、南北のトップが会談し、鉄道開設も実現しようかという時代です。
しかし二〇年前では想像もつかない。当事者では考えられない発想。はっきり言って、池田先生は我々よりも数段、上を行っている」
▼文士・原田種夫
「文学をやってきて良かった。書き物をしてきて良かった……」
老作家は、あふれ出る思いを抑えきれなかった。
一九八五年二月二十六日。原田種夫は、福岡市内で池田会長との対談を終えたばかりだった。
「お会いする前は、お堅い方かと思ってビクビクしていたが、まったく違った。あれほど親しみやすく、懐の深い人だとは……。まさに詩人ですよ。私も詩を作るけれど、吸い込まれるようだった」
当時、八十四歳。福岡出身。九州文学界の長老。
直木賞、芥川賞の候補作家になるが、文壇中央での名声は追わない。郷土で九州文学の興隆のために生涯を捧げた。孤高の文士である。
地方での文筆活動は、商業ベースと縁遠い。質素な借家で暮らし、妻は質屋通いが絶えなかった。
池田会長とは八五、八七年の二回、対談している。創作の源を会長に聞いたことがある。
「格闘です。人の評価を気にしては書けません。将来のために残しておきたい。一千万人のなかで、一人でも分かってくれればいい。信仰の真髄が分かればいい。使命感以外の何ものでもありません」
圧倒された。
「見栄や美辞麗句で作品を作る人が多いが、原田先生は違う。コツコツと地方で文学一筋。話が本質を突いている。使命を感じれば、本質が見えるし、人の心を動かせるものです」
九州男児の心意気に響くものがあった。
原田は対談の後で記している。
折からソ連(当時)を訪問した会長が、国家指導者と対話を続けていたが、日本では報道各社が動向を報じていない。「なぜマスコミは、こういう大きい巨人の動きを書かないのであろうか」。
*
八九年に他界するまで、原田は善悪を峻烈に書き分けた。
学会の会館を訪ねた印象。
「汚れをよせつけない、不正や、虚偽を激しく拒否して、人間の真実を求める世界があったのだ」(月刊誌『財界九州』)
公明党の支持者を裏切った国会議員・大橋敏雄には容赦なかった。
「結論をいえば、大橋代議士は、忘恩の徒であり、頭が少し狂っているのかもわからない」(同)
過激な表現である。当時、『財界九州』の社長だった山口真志郎は、言い回しを弱めてはどうか、具申した。
「いや山口君、この言葉がないと、この文を書いた意味がないんだ」
ぴしりと言い切った。
『財界九州』で原田種夫の担当だった江田泰子は回想する。
「限りない人間愛の作家。人の誠を裏切る行為は、人間として絶対に許さない人でした」
▼ポーリングが結んだ縁
「おや?」
九州工業大学の学長・細川邦典は、思わず足を止めた。
「ポーリング博士! ノーベル賞のレプリカが、どうしてここに……」
一九九八年九月。北九州文化会館で「特別記念展」が開かれていた。
さんざん迷ったが、招待状を持ってきてくれた学会幹部の人柄に引かれ、昼休みに学長室を抜け出した。
科学畑ひと筋。学会の悪い噂は聞くが、それも証拠がない限り、信じはしない。何ごとも科学的な根拠を重んじる。
そんな細川が、展示会場の一隅に、敬愛する大科学者の写真を見つけて驚いたのである。
史上ただ一人、ノーベル化学賞と平和賞を受賞した米国の物理化学者である。憧れの人だった。ポーリングの文献を授業の教材にも使っている。
まさか宗教団体の展示で目の当たりにするとは。パネルの説明文に、ぐいぐい引き込まれた。
平和を追い求めたポーリングの世界があった。
大科学者の名声よりも、核廃絶を求めた生涯。降り注いだ非難・中傷。池田会長との出会い。
素直に感動すると同時に、疑念もわいてきた。
科学精神の塊のような人物が、なぜ宗教者と? ポーリングを魅了した池田会長とは、いったい何者なのか。
さっそく検証した。まずは「文献」に当たることだ。トインビー、ゴルバチョフなど世界の識者と池田会長の対談集を読み始めた。さらに知らない世界が眼前に広がった。
「ポーリングは、最後は人のために戦った。だから池田先生と響き合ったのでしょう」
同大学の学長を退いた後も、沖縄初の工業高等専門学校の開設に尽力している。教育に関わり続けた。「池田先生は『社会のための教育』でなく『教育のための社会』と喝破されている。本当に、その通りです」
公害問題にも一家言もつ。
いま九州の多くの企業がアジアへ事業拡大している。先進諸国の開発攻勢に「環境問題」の側面から規制が掛けられている。
「公害に泣いた九州です。人間の安全を第一にできない開発などやるべきではない。池田先生はトインビー博士との対談で、四〇年以上も前から『持続可能な開発』を訴えておられる。まさに先見です」
▼学会と同時代を生きた教育者
九十八歳で、初めて池田会長と出会った人物がいる。
福岡市内の養護学校「しいのみ学園」。その脇に磤地三郎の自宅はあった。
一九〇六年生まれ。現在、百歳。戸田第二代会長や中国の周恩来と同世代である。
障害児教育の第一人者。五四年に、日本で最初の養護学校を設立した。国が養護学級を設立する二年前だった。五二年たった今も「現役園長」として教育の最前線に立つ。
「やあ、どうも、どうも!」
かくしゃくとした声である。車椅子ではない。杖も持っていない。背筋はピンと伸びている。
「百歳です」
医学界で“研究対象”になっているというのも頷ける。頭脳も明晰だった。
「創価学会ができた昭和五年。私は二十五歳。師範学校を出た人間だから分かりますが、牧口先生(初代会長)は本当に優秀な方だったのです。師範学校をトップで卒業した者以外、付属小学校には就職できませんから」
学会が「教育者の集い」から出発した事実に注目していた。しかし、本当に偉大だと気づいたのは、九十五歳を超えてからという。
池田会長との出会いは二〇〇四年十月。中国の長春大学から会長に贈られた名誉教授称号の授与式だった。同大学は中国で初めて障害者の高等教育を行っている。
「池田先生は、私を抱きかかえるように接してくれました。二人きりだったら泣いていたでしょう。九十八歳にして百年の知己を得たような思いでした」
「人間の無限の可能性を説く創価の哲学。人生の最後の最後で、ようやく答えを見つけた気がします」
▼「あけぼの丸」で奄美へ
鹿児島市のマルエーフェリー(元・大島運輸)本部・会長室に入ると、デスクの背に飾られた揮毫が目に飛び込んできた。
「安穏」
文字は太く、どっしりと座っている。それでいながら筆の勢いは力感に満ち、動的にも見える。
「池田先生に書いていただきました。うちの宝です」
会長の有村勉。一九六三年六月二十一日、池田会長が初めて奄美大島に船で渡った時に同行した。
「エジプトから取り寄せた特別な紙と伺いました。パピルスの復元でしょうか。学会本部で贈呈式がありましてね。千年は持ちますよ、と言われました」
同社が、大型客船で学会員の研修輸送を担っていた時に、安全・無事故を祈って書かれた揮毫である。
「池田先生には、とにかく安全運転でお願いします、と常に言われました。私たちも必死でした。
先生は、全会員の一生、人生を預かっていらっしゃる。トップの辛労、重圧、責任はとても推し量れません」
先代の会長・有村治峯と一緒に池田会長と懇談したことがある。
「パラパラ手帳をめくって、何かの数字をチェックしながら、先代に『オヤジさん、学会の経営は楽なことなどない。書いて、書いて、書きまくって、財源の足しにしているんですよ』。
ここまでトップが気をつかっているんだなあ。しみじみ感じました」
南西諸島の与論島の出身。
「与論にも学会の会館ができたんですよ。全ての会員の安穏のために心配りされていますね」
古い写真をぽんとテーブルに置いた。
「こんな小さな船です」
あけぼの丸。池田会長が乗船した船である。四六七トン。定員九九人。客室は少なく、甲板が広い。貨物船か漁船に見える。
▼トップ自らが、奄美に飛び込んでいった。
鹿児島の鴨池空港から徳之島までプロペラ機で飛び、同島から奄美大島まで約五時間の船旅だった。天気は良かったが、東シナ海の波は強くうねっていた。
「そのころの奄美ですか……。貧しかったですよ。政治的、経済的な恩恵が薄い島でした。戦後はアメリカに支配され、先代の会長が琉球の経済使節団として、軍用機で上京し、奄美の困窮をマッカーサーに直訴に行ったほどです」
一九五三年、ようやく本土に復帰したが、五五年、名瀬市が二度の大火で焼亡。インフラの整備もままならない。
米軍基地があった沖縄とは別次元で、数奇な運命にもてあそばれた。米国からも、日本からも見捨てられた島だった。
「為政者も、宗教家も、トップが東京から奄美に向かったことなんか……。記憶にはありません。奄美の人たちの中に飛び込んでいったのは、池田先生だけです」
▼強者が生き残る島
奄美の戦後史は、辛酸に満ちていた。本土に復帰したが、高度経済成長は、まるで遠い異国の物語である。政治的・社会的な「空白地帯」となってしまった。
この結果、政治も宗教も地場に根を張る者だけが生き残った。
たとえば宗教。
戦後、いち早くカトリックが布教の手を広げるが、ほどなく行き詰まった。天理教、生長の家など新興宗教も同じだった。
結局、人々の心を根強くとらえたのは、古くから島に染みついた原始宗教であった。ノロ(集落の祭祀を司る世襲の女性司祭者)、ユタ(占いや病魔・悪霊の祓いを行う祈祷師)を敬う信仰である。
子どもがケガをすれば、親は抱きかかえて「ノロ神」のもとへ走った。巫女が傷口に呪文を唱えると「治った」と信じる。
たとえば政治。
奄美において、選挙は「わが集落」の強さを見せつける晴れ舞台だった。選挙中、各集落にはあかあかと篝火が焚かれる。夜歩きする者はとがめられ、監視の対象となった。
現在も、奄美の町村議選レベルの投票率は常に九〇パーセント以上になる。政治に熱い島である。
政治・宗教ともに、極めて特殊な環境に飛び込んだ学会は、島に地殻変動を起こした。
▼有力者が味方に
大阪で結核を治療中に入会。一九五六年一月四日、島に帰る直前に関西本部を訪ねると、ただならぬ気配が館内を圧していた。
来阪していた池田室長によって
「大阪の戦い」が火蓋を切った日である。
「こりゃ、えらいこっちゃ。関西で大折伏が始まった。奄美もやらなければ!」
決意を固めた茂野は単身、故郷の加計呂麻島へ乗り込んだ。
茂野が父を折伏したことで、一気に周囲の目が変わった。
父は、網元だった。集落の信頼は厚い。
しかも所属の鰹船が、来る日も来る日も、大漁旗をなびかせて帰港するではないか。漁師たちは進んで入会した。
教員や青年団の中心者も仲間になった。地縁、血縁がものを言う島社会で、その地縁、血縁ごと味方にした。これが大きかった。
奄美大島、喜界島、沖永良部島、加計呂麻島、与論島、徳之島、諸島、与路島――奄美支部は六〇〇〇世帯を超える陣容に拡大した。一粒種が渡ってから、わずか七年。すさまじいスピードだった。
池田会長は、伸びる組織を見逃さない。
「勝ったところ、伸びたところに手を打たない将は、将の資格がない」。ほどなく奄美入りが決まった。
「あけぼの丸」に乗って、奄美の港に到着すると、岸壁をびっしり埋めた学会員が声を限りに叫んでいた。
▼奄美は「政治」で勝て
参加者は六〇〇〇人を超え、海岸が会場となった。これだけの人数を収容できる施設などない。
島民も遠巻きにして見ている。
“随分、若いな。どんな人だろう”
池田会長。
「皆さん、立派な会長が来るかと心待ちにしていたでしょう。こんな、ちっぽけな若い会長でガッカリしたんじゃないですか。勘弁してくださいよ」
どっと沸いた。
「天に二つの日はない。一国に二人の国王はいない。同じように、宗教が何千、何万とあることは間違いです。創価学会こそ宗教界の王者である」一つの指針を示した。
「奄美は政治で勝て」
本土復帰から一〇年を経ていながら、苦渋の生活が続いていた。
ハブの大量発生。毎年の台風被害。ライフラインの未整備。
「どれも政治の問題だ。政治を動かそう」
奄美の会員は、不毛の政治に泣くのでなく、政治を動かす力をつけることだと知った。
*
翌六四年、公明党が結成された。奄美の地にも、公明党の議員が続々と生まれた。
これに焦ったのは、地元の有力者である。奄美で議員といえば、集落の代表にほかならない。だが公明党は集落の枠を超えて票が出る。聞いたこともない話だ。
言いしれぬ恐怖と怒りの矢は、集落内の学会員に向けられ、弾圧事件が勃発した。
▼龍郷事件と「十万人の第九」
一九六七年四月の鹿児島県議選に端を発し、龍郷村(現在の龍郷町)で学会員を村八分にする事件が起きた。「龍郷事件」である。
当時、龍郷村に住んでいた重田香代は、まだ中学生だった。道を歩けば「ナンミョーの子」と石を投げられた。
「一番、悔しい思いをしたのは、中学三年の登校中の出来事です」
集落内の商店の前に、黒い人だかりができていた。目を剥いた五十代の男が棒きれを振り回している。
目を疑った。棒の先端に御本尊がぶら下がっているではないか。男は唾を飛ばして喚いた。
「これを焼いたら罰をかぶる? 本当かどうか、俺が今から焼いてやる!」
大勢の前で火をつけた。あっという間に灰となった。
異様な場面に、重田は立ちすくんだ。「か、かあちゃん!」。震えながら母のもとへ走った。
精神的に学会員をなぶり殺しにするも同然の仕打ちが続いた。
*
二〇〇五年十一月十三日。重田の兄・富山美樹が運転する一台の車が、龍郷町のトンネルを抜け、名瀬市街へスピードを上げた。
後部座席には二人の男が乗っていた。一人は龍郷町長・田畑茂光である。龍郷事件当時に父が村長を務めていた。
もう一人は町会議員の久保正昭。やはり父親が事件の中心にいた。
龍郷事件は、親の世代の話であり、二人とも、当事者意識はない。地域の多くの学会員と親交を結ぶ二人である。選挙でも応援を受けている。
それに四〇年も前の事件だ。もう学会も忘れただろう――いつしか車は、奄美文化会館の門を入った。
奄美の青年の歌声が響いていた。
「アジア青年平和友情総会」。全九州と沖縄の一一七会場を同時中継で結んだ「十万人の第九」である。
田畑と久保は目を見張った。
「こんなこともやっているとは。それにしても、みんな顔が生き生きしているなあ」
驚いたのは、それだけではない。合唱の前に、奄美青年部が作成したビデオが上映された。
“あっ!”
二人は息を呑んだ。ビデオには、四〇年前の龍郷事件が克明に描かれているではないか。
帰りの車中。田畑と久保は、どちらともなく呟いた。
「学会は、ぜんぜん忘れておらんぞ!」
「宗教団体というのは、ああいう事件を後世に記録しとくものなんだなぁ」
*
龍郷事件では一〇〇世帯もの脱会者が出た。大半が強制によるものだった。
重田香代の母・富山登記子は生前、口癖のように娘に言った。
「事件前の人数に戻さないと、戸田先生のもとに行けない」
だが、一〇〇世帯の挽回どころか、龍郷は飛躍的な発展を遂げた。
その表れの一つが、国政選挙での公明党の得票率である。龍郷町では、有権者の約三割が公明党に支持を寄せる。
こんな声もある。町長の田畑は、町長選挙の時、町内の全二六〇〇所帯を三度まわった。
「学会の方の家は、すぐ分かるんです。まず対応がいい。笑顔がいい。生き生きしている。
要するに、ひと目見て、しっかりしている方ばかりなんです。公明党のバランスの良さも、こういうところから来てるんでしょうね」
どこよりも政治に熱い島で、学会の勢力は、奄美の太い柱となった。
*
しかし時に、こんな場面がある。
白装束に身を包み、鉢巻きを巻いたノロ神のもとを、ある学会員が訪れた。
「さあ、占ってもらおうか」
「神様」は困惑した。
ふだん尋ねてくる島民と明らかに違う。元気がいい。快活である。
神の看板を掲げる手前、逃げるわけにいかない。
しぶしぶ占ってみた。「うーん、見えん……。生命力が強すぎて、見えん。やっぱり学会は占えん……」 (文中敬称略)