第3回



炭労事件―――売られたケンカは買おうじゃないか!


戦後の復興を支えた「炭都」北海道・夕張の地で繰り広げられた人権闘争。

池田室長の気迫に打たれ、無告の民は立ち上がった。

◆夕張の庶民が精一杯にあげた正義の叫び。


▼「炭都」を行き交った幾多の人生


♪みんな仲間だ 炭掘る仲間

 たたかい進めた おれ達の

 闇をつらぬく うたごえが

 オイ聞こえるぞ 地底から


 その昔、男たちの 「労働歌」がとどろいたことが信じられないほど、夕張は静かだった。

 夕張市役所で昭和三十年代の地図を見ながら説明を受けたが、まるでピンとこない。

 かつて炭鉱の事業地があった山の斜面は、スキー場のゲレンデに変わった。

 石炭運搬の機関車がフル稼働したターミナルは今、一時間に一本の電車しか来ない。

 北海道・夕張。そこは、かつて

「炭都」と呼ばれた。

 東京は首都。大阪は商都。京都は古都。石炭の都・夕張には「炭都」の名に恥じない繁栄があった。

 明治、大正、昭和と一〇〇年にわたって良質な石炭を供給し続けた。戦後も、九州の三井三池炭鉱と並んで、復興の坂を駈け上がる日本に大きく寄与した。

 最盛期の人口は一二万人。街は、炭と酒で赤黒く染まった炭坑夫でむせ返り、歓声が絶えなかった。市内を流れるシホロカベツ川は、石炭を洗うため、真っ黒な水が流れていた。

 その夕張に往時の面影はない。

 国のエネルギー政策が石油へ移ると、街は石炭の衣を脱ぎ捨て、いち早く観光都市へと変貌を遂げた。

 炭鉱の遺産は夕張市内の観光施設〈夕張石炭の歴史村〉にとどめられ、夕張メロンの甘い香りと白銀のゲレンデが観光客を誘っている。

 市の観光課に話を聞いた。

「たしかに企業や大規模な商業モールの誘致はありません。でも夕張にはメロンや石炭など、本当に良いものを求めた歴史があります。?本物を追求する街″として、持続的に発展を続けていきたい」

 夕張市の人口は一万三五〇〇人(平成十七年十一月現在)。最盛期の一割にまで落ち込んだ。六十五歳以上の高齢者は四割を占める。若い観光課職員の目は、真剣だった。

 夕張の 「目抜き通り」 である本町十字街に、じっと立ってみた。

 かつて日本最強と謳われた夕張炭労が赤旗をひるがえし、デモに練り歩いた道である。その炭労を向こうに回し、一歩も引かない民衆運動を繰り広げた創価学会

 幾多の人生が、この十字街の交差点を行き交い、熱いドラマの一幕一幕を演じた。

 立ちつくすほどに聞こえてくる。

 五〇年前、無名の夕張の庶民が精一杯にあげた正義の叫びが。その中心にいたのは、池田大作青年室長であった。


▼夕張でも?まさか″が実現


 炭鉱住宅のハーモニカ長屋。

 開票所の夕張第一小学校から、青年が息を切らして走ってきた。

「辻候補は当選! 夕張の票は順調で二五〇〇票を超える勢い!」

「案外、出ないもんだねー」

「組合の選挙妨害がひどすぎた。大健闘だよ」

「全国では、炭労の阿部よりも辻候補が優勢だよ」

「よし、勝った、勝った!」

 一方、夕張炭鉱労働組合の事務所。いつにもましてタバコの白い煙が立ちこめていた。

「辻が、に、二五〇〇票……」

 真っ黒な炭坑夫とは対照的な、白いワイシャツ姿の組合幹部たち。こぼれ落ちるタバコの灰にも気づかず、地元紙の夕張地域・得票一覧を凝視している。

 昭和三十一年七月八日施行の第四回参議院選挙の直後である。

 全国区(定数五二)に立候補した学会推薦の辻武寿は、二三位で当選。炭労(日本炭鉱労働組合)推薦の阿部竹松候補(社会党)は二九位。辻が大きく引き離して勝利した。

 夕張の炭労は、ハナから学会をなめていた。「どうせ夕張では七〇〇票そこそこだろう」。

 ところがフタを開けると、辻の得票は夕張で第二位。七〇〇どころか、二五六七票を獲得した。

 当の学会員らは真面目な顔で「まだまだ出ると思ったのになあ」と悔しがっている。

 炭労にとって?まさか″の票である。数本目のタバコをねじ消すと、幹部の一人が、うめいた。

「クソッ、法華のやつらめ!」


▼文京支部の「北の砦」


 炭鉱長屋の入り口。下駄や長靴が道にあふれている。六畳二間は学会員でぎゅうぎゅう詰めである。

「文京支部には、池田大作という人がいる。若いけれど、学会の中枢にいる人だ」

 裸電球の下で、穏和な顔を真っ赤にして力説している。夕張の一粒種・荒関政雄である。

「何でも見抜くレントゲンみたいな方だ」

 日ごと増え続ける会員に、池田室長の存在を訴えた。

 夕張班は東京・文京支部の所属である。昭和二十八年に同支部支部長代理になった池田室長。早くから夕張に力を注いでいたことは、あまり知られていない。東京から現地に向かう派遣メンバーへの指示も、具体的かつ詳細をきわめていたという。

「夕張は、職場や生活の環境が、東京とまったく違う。どこまでも懇切丁寧に、二倍、三倍の気を遣っていかなければならない」

 言葉を強めた。

「そのうえで二倍、三倍、厳しく折伏していけ。強く悪を斬れ。そうじゃないと、夕張のような厳しい環境では、功徳が出ない」

 現地の状況を子細に調べ上げていた。

「特殊な事情があるから、教学でいくんだ。どんな迫害が襲いかかっても微動だにしない、信心の骨格を築いていけ」「それと、御書が手に入りにくいから、たくさん持っていきなさい」

「夕張の同志に」と引いた御文もまた、仏法の敵を斬る、烈々たる内容ばかりだった。派遣幹部たちは御書を大量に買いこみ、文京支部の「北の砦」に向かった。

 参院選の三年前から、すでに池田室長は事実上、夕張の指揮を執っていたといってよい。


▼夕張の?特別な事情″


 池田室長が強調した、夕張の特別な事情――。

 第一に、なんといっても、仕事の環境が特殊である。

 細長い地形。狭い山あいに大小二〇以上もの鉱山があり、炭鉱労働者だけで二万人を数えた。

 切羽と呼ばれる石炭を掘る現場は、地底七〇〇?。発破(ダイナマイト)を背負って、地の底へ降りていく。

 真の暗闇。高温多湿の世界。いつガスの噴出や、落盤があるか分からない。死ぬも生きるも、ヤマの仲間は運命共同体。昼夜三交代の炭坑夫の絆は、血よりも濃く、岩よりも固かった。

 第二に、戦後の社会事情である。

 夕張には樺太(サハリン)・千島からの引き揚げ者も多かった。終戦直後には、アジア諸国から強制連行された労働者がひしめいていた。

 昭和二十五年、北海道開発庁が設置。復興の原動力として、石炭は増産に次ぐ増産の体制がしかれた。

 夕張の採炭力は群を抜いていた。(昭和三十二年、国内の生産量は約五二〇〇万トン。北海道は約一六〇〇万トン。夕張だけで約二八〇万トン)「この国は俺たちが支えている」という強烈なプライドがあった。

 第三に、思想の混乱である。

 夕張炭労は、その結束力、行動力で全国に名を馳せていた。共産党も勢いを伸ばしていた。

 その一方で坑夫たちは、神棚を拝んでから入坑した。死と隣り合わせの現場である。迷信やまじない、さかんに族生していた新興宗教の類が幅をきかせていた。

 だから池田室長は日蓮教学の必要性を強調し、幹部を夕張に送るにあたっても、くどいほど、この一点を叩きこんだ。後に参議院議員になった黒柳明もその一人である。

「東京とは全然、環境が違っていた。会員は増える一方だが、指導の手は、まったく足りない。教学根本という池田先生の指導方針が徹底されていなければ、激増する会員も、たちまち烏合の衆と化したでしょう。とにかく何かにつけて、御書、御書、御書でした」


▼?文京イズム″が徹底された


 夕張の谷間に、笛や太鼓の音色がこだました。

♪ハアー 北海名物

 ハア ドウシタドウシタ……

 にぎやかな「北海盆唄」である。

 炭鉱の営繕部がつくる頑丈なやぐらの周りに、二重三重の踊りの輪ができていた。

 昭和三十年八月十三日。朝まで踊り明かす夕張名物・盆踊りだというのに、学会員たちの目には、ただならぬ光があった。

 夜道でバッタリ出会っても「二十一日だね」「そうだよ。折伏やって戸田先生を迎えなきゃ」。

 盆踊りなど、そっちのけで動きに動き、二十一日、戸田城聖会長を夕張に迎えたのである。

 若き日に夕張・真谷地尋常小学校で教鞭を執った戸田会長。三五年ぶりに夕張の土を踏んだ。

 当時の教え子が、夕張・若菜小学校の校長となり、講演会場に体育館を提供した。

 この夏、夕張班は一二三世帯の折伏を達成した。さあ、次は地区結成――だれもが勇み立った。

 十月三十日。炭鉱の長屋では、軒先に大根がスダレのように並び、冬支度に忙しい。夕張地区発足の日である。

 初代地区部長になった荒関政雄は、不思議な運の持ち主である。戦争中、南方戦線などで船舶工兵だった荒関は、三八回の敵前上陸に生き残った。

 戦後、東京の文京支部で信仰と出会い、故郷の夕張へ移住した(昭和二十七年)。たった一人の?敵前上陸″ であった。

「御書を開け」「題目をあげよ」「池田室長と心を合わせよ」の?文京イズム″を夕張に叩きこんだ。

 青年を大事にし、座談会も青年部が企画・運営するのが文京流だった。

 夕張の青年たちは短時日のうちに成長し、昭和三十一年の参院選でも奮闘した。

 まだ見ぬ池田室長――。待望の声は、日に日に高まった。いつしか皆?レントゲン先生″と呼ぶようになった。手紙を送る者もいた。

 室長は、そうした真心の一つ一つに、丁寧な返事を認めた。

 小さな一粒の種は、いつしか二〇〇〇世帯の大樹へと伸び育った。夕張地区が原動力になり、文京支部は、折伏一位の座に躍り出た。

 池田室長は、訪夕を決めた。

「来年一月に、夕張でお会いできることを楽しみにしています」


▼?レントゲン先生″の来夕


 降りしきる雪。一面に視界をさえぎる白い幕。ぼうっと雪にかすんでいた黒い車体が、徐々に迫ってきた。

 けたたましい汽笛とともに、汽車がホームに入ってくる。

 夕鉄・鹿ノ谷駅。

「すごい人の数! どこまで続いているのかしら」。婦人部員が大げさに驚いている。

 昭和三十二年一月十三日午後四時。池田室長は、鹿ノ谷駅に降り立った。石炭の煙で、顔とコートは黒くすすけている。

 よごれを気遣うと「心配いらないよ。みんながどんな思いで東京まで来ているか、その苦労も知らなくちゃ」。

 現在と同じく、足取りはスタスタと軽い。

「若いのに、しっかりしている。礼儀正しい人だね」

「髪も黒々として、夕張の父ちゃんたちより、ずっと男前だよ」 さっそく婦人たちが、嬉しそうに小声で品評をはじめた。

 滞在中の拠点は、ダンスホールのアマポーラ。夕張の中心者である三戸部菊太郎が営んでいた。いかつい男が多い夕張には珍しく、芸人あがりの酒脱な人物である。

 アマポーラは、長く急峻な石段の途中にあった。一〇〇段以上もある雪の石段に、さまざまな人間模様が浮かんだ……。


▼慈愛の目と闘将の目


 大門勝代は、つるつるに凍った石段を滑らないように、手すりをしっかりつかまえた。

?やっと会える日が来た!″。前年、池田室長から訪夕を伝えるハガキをもらっている。

 彼女の夫は炭坑の運搬夫。採炭夫に比べて稼ぎが少ないのに、大酒飲み。薄給が一升瓶に化ける暮らしを変えたかった。

 室長を中心に勤行をすることになった。背中を見れば、背広に皺一つない。姿勢がいい証拠だ。皆ぞろぞろと、数珠を手にかける。パッと室長が振り返った。

「ここにいる方々は、自分の願いを、私と一緒に祈っていきなさい」

 呆気にとられる一同。

「漠然とバラバラに悩み事を祈ってきた私たちでしたが、あの瞬間、皆の願いが先生のもとで、ひとつになった感じでした」(大門勝代)

 勤行の後、大門は、室長の目に引き付けられた。

「あんな鋭い目、見たことがない。右の目は、やさしい慈愛の目! 左の目は、おっかない闘将の目!」

       *

 郵便局に勤める保科由子は、長い階段に疲れ果て、手をついて這うようにアマポーラにたどり着いた。

 懇談の場で「何か欲しいものはないかい」と室長が尋ねた。おずおずと保科は手を挙げ「お腹がすきました……」。

 周囲から失笑がもれる。

 池田室長は笑みを浮かべ、用意したミカンをみんなに手渡した。

 その直後に「私は生命力の弱い人は嫌いだよ」とぴしり。

 彼女は、かねがね線の細さを皆から心配されていた。まさに″レントゲン先生″の名にたがわない。彼女が強く生きる原点になった。

 少しうつむき気味に、小さな男の子の手を引いて、石段を登る父と子がいた。男の子は、おそらく水頭症のためだろう、身体の割に頭部が大きい。

 父親が室長に悩みを打ち明けた。一家に信心を教えてきた西島文子も付き添っていたが?この子は治るのかしら″と心配顔である。

 端的な指導だった。

「信心していくと、他人にバカにされない境涯になります」

 ああ、そうか。そうだったのか。たとえ治らなくても、人から見下されない人間に育てればいいのか――思いもよらぬ答えだった。

 はじめて我が家に室長を迎えた三戸部。こんな嬉しいことはない。

 ひとつ疑問があった。

「池田室長は若いのに、中尉、大尉以上に感じる。どこで、そのような力を持ったのですか」

 誰もが聞いてみたい点だった。

「十九歳の時、戸田先生にお会いしました。先生に全部、訓練を受けました」

 戸田会長との「師弟」の一点になると、室長の語気は厳しい。

「師匠に指導を受けるとき、隠し事をしてはいけない。師匠を信じていないことになる。戸田先生は?私に隠し事をする者は敵だ?とまで、おっしゃった」

 三戸部は回想する。「池田先生は、お若かった。だが年齢が上とか下とか、感じさせなかった。はじめから大将軍でした」。

 帰京する一月十五日。

 汽車が発車する直前まで指導が続く。次の駅でも同じ光景。お世話になった人に袱紗をプレゼントした。肩をポンと叩きながら 「夕張の山を私が買ってあげますよ。元気でね」。

「偉そうにしていない。優しいんです。かといって気軽に冗談を言えるわけでもない。真剣そのものでした」(三戸部)

 汽車が、小さくなっていく。

「聞いていたより、何十倍もすごい人だったもう会えないかねえ」

 その半年後の夏、再び池田室長を迎えることを、彼らはまだ知るよしもない――。


▼合言葉は「下駄三足!」


「夕張炭労事件」。戦後、学会として初めて、政治権力の弾圧を受けた事件である。昭和三十一年に行われた第四回参議院選挙に端を発している。

 それまで炭労の候補者に投票していた夕張の会員は、初めて独自の支援活動に挑んだ。

 活動の基本方針は実にシンプルである。

「外に出ろ」

「顔を見たら頼め」


▼師弟の一点になると池田室長は厳しかった。


 戸別訪問は公職選挙法で禁止だが、戸外で頼めば問題はない。

 婦人部の合言葉は「下駄を三足すり減らし」。それだけ歩けということだ。会員とすれ違うたびに、指を三本立て「下駄三足よ!」。

 起伏の多い炭鉱町を上っては下り、下駄の歯は、みるみる減った。

 ある日、「学会の家族は集まれ」。婦人部の面々が、労働組合の事務所に呼び出された。

 幹部らしい男が四、五人。『折伏教典』を手にしながら、暴言を吐いた。「学会を辞めなかったら、お宅の旦那はクビだ」

 一歩も引かない妻たち。

「選挙は自由!」「選挙は自由!」と連呼した。

「難しいことは分からないので、何か言われたら『選挙は自由!』と言い返しました」(竹原利子)

 夕張の会員が果敢に立ち向かった炭労は当時、全盛期にあった。

「昔陸軍、今総評」と言われた時代である。その「総評」(日本労働組合総評議会)を支えた最強部隊が炭労だった。

 三十一年の参院選。国会の赤絨緞を踏んだ社会党の当選者は四九人を数えた。その勢いは「戦後最大の伸長」(「読売新聞」七月十一日付)と驚嘆された。

 当選者のうち、労組出身者は二八人。実に六割を占めた。

 労組出身の政治家は、議員バッジをつけた胸を傲然と反らし、肩で風を切って永田町を歩いた。

 なかでも、なぜ炭労が群を抜いて強大だったのか。石炭が最大のエネルギー源だったからである。石炭産業の現場を支える炭労が、ひとたびストを打てば、国の基幹産業は、ことごとくストップしてしまう。

「今なら、石油がなくなれば、世界中がパニックになるようなもの」と説明する人もいる。

 炭労と聞けば「泣く子も黙る」。それほど畏怖された。国の政治と経済の両方ににらみを利かし、世はまさに炭労の天下だった。

 その炭労に対して、夕張の学会員は「下駄三足よ!」で応戦したのである。


▼学会員への露骨な圧迫


 二五〇〇票も地盤を食われ、面目丸つぶれの夕炭労は黙っていない。

「学会系組合員に対する圧迫はあまりにも露骨だった―――」

 炭労側の打った手を、ルポライター竹中労は記している。

「『労働金庫』の貸出し拒否、炭住長屋の補修サボタージュ、ついにはユニオン・ショップ制の労働協約をタテにとっての恫喝(組合を除名されれば失職する)。

?村八分″は子供の世界に及び『炭婦協』主催の指人形劇の会等で、学会員の子には菓子を配らない」(『聞書 庶民烈伝』)

労働金庫」とは組合員の金融機関である。組合が融資額の多い者をチェックすると、学会員が目立った。

 組合側は「?本山″への参詣や、布教の活動資金に使っているようだ。あくまでも生活資金としての融資だから」とストップした。

 一方、学会員にすれば「信心即生活」である。生活費を使って活動して、何が悪いのか。両者の言い分は、限りない平行線になる。

 ただ、子どもへの?いじめ″はショックだった。

「炭鉱だけは差別がないと信じていた。だって、生きるも死ぬも一緒じゃないか。それが子供まで差別するとは」(蟻川和志)


▼地の底での?いじめ″


 むき出しのコンクリートに、長椅子が並んでいる。入坑前の炭坑夫が装備を整える「繰り込み場」。キャップランプ、バッデリー、発破、重たい靴などを身につける。

 学会員の炭坑夫が自分のカバンを手に取り、マユをひそめた。殴り書きがしてある。

?仏罰当たれ″

 休憩時間。学会員が分厚い弁当箱を開いた。採炭現場では炭塵がかからないように、フタを少しだけ開け、ハシをさしいれる。

「ガツン!」

 石炭のカケラである。弁当箱のフタが飛んだ。あっという間に炭塵で白米が真っ黒になる。

 くっ、くっ、くっ……。小馬鹿にしたような含み笑い。

 もう食べられた代物ではない。重労働の坑内で一食抜くことは、死活問題である。露骨に学会員の弁当箱を捨てる者さえいた。

 石炭を運ぶ炭車が坑道を行き交っている。その車体にも、学会の悪口が書かれていた。

 地の底七〇〇?。坑道を支える鉄の支柱がアメのように曲がるほど圧力がかかっている。腹に響く山鳴りも聞こえる。いつ落盤やガス漏れがあるか分からない。

 大自然の前で、ちっぽけな人間は、守り合うしかない。そこで除け者にされた学会員の心中は、想像を絶する。


▼非難されても「御書の通りだ」


 炭鉱長屋の井戸端会議。共同の炊事場を学会員が通り過ぎる。「あれが神札を焼く大悪党だよ」。

 家で題目をあげると壁を蹴っ飛ばされた。隣人がマサカリで壁を壊す物騒な事件もあった。

 保科藤幸の家は拠点で長屋の角にあった。壁が広い分、格好の標的にされた。

「ここは創価学会の家」

「暴力宗教は撲滅!」

 壁やガラス窓に、デマビラを何十枚も貼られた。

 共同便所でも罵倒された。裏口からコッソリ駆け込み、そそくさと用を足した。

 ラジオをつけると 「神棚を焼く宗教が布教している。気をつけてください!」。有線のニュースだった。

 学会員には、なんらやましい点はない。神棚を勝手に焼いたり、暴力をふるった事実もない。

 長屋暮らしの住人は一心同体である。「ニシンが来たぞー」。春先に声がかかれば、どの家も一斉に数箱ずつ買いに行く。壁は薄く、夕方、隣から米をとぐ音がする。声や匂いで献立の中身も筒抜けである。



▼非難が強まるほど、確信を深めた。


 そこから除け者にされることほど、辛く、苦しいことはない。

 ここで池田室長の教学根本の指導が生きた。すでに仏法者が受難する道理、法理を会員は学んでいた。 非難が強まるほど「うん、うん、御書の通りだ。まちがいない」と確信を深め、折伏の成果はさらに上がった。

 室長は後年、語っている。「私には、炭鉱で働く会員の心が分かるんだ」。

 東京・大田区の実家は海苔製造業。真冬の海で仕事を手伝い、羽田沖の漁師に囲まれて育った。板子一枚下は地獄である。

 海と地底の違いはあれ、身を危険にさらし、身体を張って働く男たちは、室長の仲間であった。


▼「労働貴族」を生んだ矛盾


 かつて「地熱」という名の新聞があった。夕炭労の機関紙である。その題字に、地の底から石炭産業を支えた男の熱気がにじむ。

 明治の囚人苦役から始まった炭鉱労働では、劣悪だった環境が組合の交渉で次々に改善された。

 戸田会長は語っている。

「宗教団体と労働組合が争う道理は全くない」「労働運動をやって、諸君の生活が向上するものなら、私も一緒に旗かつぎにこよう」

 その一方で、組合組織が一部幹部の腐敗を生んだ点も否めない。

「黒くならずに金がもらえる」

「背広を着た炭坑夫」

「白い手の労働者」

 マスコミが、組合の幹部を皮肉った言葉である。

 ある組合長の話――東京で炭労の大会があれば、銀座のクラブで豪遊。本社の経営陣は懐柔策で「カメラ買ってやろうか」「キャバレー行くか」。たっぷり甘い汁が吸えた。

 幹部には政界への道も開けていた。

 学会と炭労が衝突したとき、こんな論調を掲げた新聞もある。

「根本的な原因は炭労幹部の日ごろの指導に欠陥があり、幹部が労働者の素朴な信頼と期待に応えていなかったことにある」(「読売新聞」昭和三十二年七月七日)

 戸田会長も激怒した。

労働貴族というあの幹部連が、労働者を手下のように、組合員をあごの先で使うというような考えの抜けきらないうちは、本当の労働運動というものはできない」

「平等」の御旗がひるがえる陰で、矛盾もあった。下請け、孫請けの組夫、また在日韓国・朝鮮人の労働者に対する差別は根強かった。

「夕張炭労事件」を取材したルポライター竹中労は、これを?労働組合運動の悪しき二重構造″と糾弾している。

「夕張における、『炭労』VS創価学会の対決は?信仰の自由″をめぐる争いであったことは言わずもがな、同時に戦後階級闘争の矛盾を露呈したエポック・メイキングだった」(『聞書 庶民烈伝』)

 炭鉱は「地下三千尺の世界で地獄のフタを開ける仕事」といわれた。

 不慮の爆破事故。吹き飛ばされた仲間の五体を掻き集めることもある。

 死と隣り合わせの毎日。

 夕張には、稼ぎを使い果たす「道楽」がはやっていた。桐の箪笥や特製のテーブルを買い漁る「家具道楽」。美食や酒におぼれる「食い道楽」。背広や着物をあつらえる「着道楽」。

 明日死ぬかも知れないから、今日が楽しければいい。しかし、己の宿命という根本の命題は解けない。かえって重くのしかかるばかりである。

 組合は「生活」は保障したが「人生」の面倒までは見ない。学会は違った。

創価学会の会員は、病人がでれば親身の見舞いをし、不幸があれば助け合う、その精神を組合幹部が忘れ果て、盲点に食い込まれたともいえよう」(北海道新聞・森川勇作社会部次長〈当時〉)


▼「共産党の平等」も幻想だった


共産党はいいぞ。共産党にしか、本当の平等はない」

 ある組合員は、終戦後、ソ連の収容所で洗脳された義兄の言葉を信じて入党した。

 幻滅は早かった。アジトで幹部の口をついて出るのは、組合や会社の悪口、噂話ばかり。

「鉱業所のお偉いさんが、待合で、したたかに泥酔していた」

「組合の幹部がカフェーの女給といい仲らしい」

 党の印刷物の紙面を埋めているのは、これまた炭鉱のゴシップ。たった一枚のガリ版刷りが五〇銭。先払いで月に一〇〇部も買わされた。

 低俗な噂ずくめの新聞など、誰も見向きもしない。自腹を切り、ビラのように配って歩いた。結局、金を巻き上げられただけだった。

 共産党の青年が主催した演劇会。芝居が終わるころ、幹部が現れ、木戸銭を箱の底までさらっていった。汗みずくのスタッフに、ねぎらいの言葉すらない。ダンスパーティーでも、売上金の上前をゴッソリはねられた。

「どこが平等だ!」

 三行半をたたきつけ、共産党から足を洗った。

 その後、学会の男子部となった彼の前に、警官が現れたのは、昭和三十一年の参院選の時だった。

「お前、選挙違反をしたな」

「まったく身に覚えがない」

「ウソをつけ。共産党がお前の悪事を、たれ込んできた」

 ?やったな″

 学会に入ったことへの陰湿な意趣返しである。冤罪をなすりつけられた彼は「庶民を食い物にする」偽善を生涯、許さなかった。


▼夕張の学会員がデモ行進


「炭労は五月の十七回大会で、創価学会は労働者の団結を破壊し、会社側の政策を有利にするだけであるとして、これを排除する方針をうちだした」(夕炭労発行の創立二十周年『労働組合史』)

 昭和三十二年五月十九日。東京・港区の中労委会館で行われた炭労の全国大会で「新興宗教対策について」の行動方針が決議された。

 この項目は当初の案になく、夕炭労が働きかけ、炭労の中央を動かしたと言われている。

 事態は風雲急を告げていた。

 すでに夕張の拠点・アマポーラの石段下では、組合の人間が交互に立ち、学会員を監視するまでになっていた。

     *

「四列縦隊!」

「腕組め!」

「日本男子の歌!」

 炭労のお株を奪う、夕張男子部のデモ行進が始まった。

 六月六日正午。夕張本町十字街。一五〇人の猛者は怒りで顔が真っ赤だった。およそ丸一年続いた中傷の嵐。ついに堪忍袋の緒が切れたのである。

 先頭には日章旗。急遽の決定に部隊旗も用意できなかった。

 翌日、炭坑夫たちは、この話題で持ちきりだった。

「昨日、法華の連中が炭労にデモをかけた」「組合から睨まれるぞ」

 その一方で、喝采を送る者もいた。炭坑夫を見下した特権意識。労働者にあるまじき贅沢三味。炭労の一部幹部の横暴に泣かされてきた組合員も多かったのである。

「誰も真似できないことを学会がやってくれた」。?金一封″を贈る者さえ現れた。

 だが――このデモ行進は夕張地区の一存で決行したものである。東京の学会幹部は動揺した。しかも、デモの後に北海道炭労が「学会撲滅三カ月スケジュール」なるものを発表したから、なおさらである。

 上京した夕張の三戸部は、こっぴどく叱られた。

「軽挙妄動だ!」

 東京は、波風を立てず、問題を収めたかったのである。地の底で歯を食いしばって耐えた会員の心情から遠く隔たっていた。

 三戸部は、シュンとなって下を向いていた。

 すると、それまで黙って聞いていた池田室長が静かに口を開いた。

「いや、ここまで来たら、突っ込むべきです」

 ハッと三戸部は、顔を上げた。?室長は分かってくれた……″

 事ここにいたって、戸田会長の結論もまた明快であった。

創価学会は?ケンカ学会″だ。売られたケンカは買おうじゃないか!」

 矢面に立つ総大将は、池田室長である。


▼懐かしい、張りのある声


 六月二十八日、池田室長は北海道に入った。

 札幌と夕張の間をめまぐるしく動き、炭労への抗議大会を札幌(七月一日)と夕張(同二日)で開いた。

 その事実経過は、すでに小説『人間革命』等に詳しい。本稿では重複を避ける。

 むしろ注目したいのは、夕張の人々の心に刻まれた、池田室長の人物像である。

 第一に「勇気と希望を贈る人」であった。

 室長が夕張入りした二十九日、現場の会員たちは完全に浮き足立っていた。

 炭労を攻めるべきか、引くべきか。仕事はクビなのか、働けるのか。錯綜と混乱の極みに、室長は現れた。

 懐かしい、張りのある第一声だった。

「私が来たからには、もう心配しなくていい。これからは、私が一切を仕切る。大丈夫だ」

 まず安心感を与えた。

「正義のため、民衆のための戦いな、んだから。必ず勝つに決まっている。戸田先生に指導を受けてきたから大丈夫だ」

 端的な言葉で、事態の本質を理解させた。

「この戦いは、権力をカサにきた敵との戦いだ。これに勝てば、今後も、ずっと勝っていける」

 拠点に集まっていた会員の輪にザッと分け入った。一人また一人、じっと目を見つめ、強く握手を交わした。

「絶対に退転してはいけない」

「『大悪をこれば大善きたる』。いよいよ広宣流布の時じゃないか」

「みなに動揺を与えないように、よく面倒を見てあげてほしい」

 室長の裂帛の気迫に打たれ、ただ茫然とする者もいた。

「ものすごい激励だった。あの一瞬で皆の目の色が変わった。もう何も恐れない。夕張大会へ、怒涛の大攻勢が始まった」(黒柳明)

 夕張大会の会場には、映画館の若菜劇場を借りた。

 採炭現場から顔の黒ずんだ炭坑夫が走ってきた。ごく平凡な炭坑夫と技術員が登壇して、堂々と炭労の非を主張した。

 無告の民は立ち上がった。


◆「民衆のための戦いだから必ず勝つ」

▼勝負に中途半端はない


 第二に、勝負となれば中途半端を許さない。

 炭労事件は、白黒はっきりしない決着に終わる可能性もあった。

 夕炭労の動きは迷走気味だった。いったんは学会との公場対決を決定しながら、わずか二日後に炭労側から無期延期を申し入れてきた。

 誰もが「どういうことか」と訝るなかに、室長だけは「戦機は熟した」と見てとったという。

「問題は解決していない。ここで曖昧な決着を許せば、炭労側は、今後もさまざまな手段で、学会員を虐めにかかってくるだろう。

 この際、夕張の学会員が二度と虐められないように、徹底して戦い、一気に事を決しておく必要がある」

 来夕してから「私が直接、会って話してくる」と夕炭労の佐藤信男教育宣伝部長に再三、面会を求めた。先方は発熱などを理由に拒否した。

 札幌と夕張の二大会も、まったく同じ内容で行われた。炭労の糾弾一本である。

「敵に対しては、繰り返し叩いていくことが大事である。皆、それを忘れてしまう」

 夕張での抗議大会には、夕炭労の相沢秀雄書記長が現れた。

 対決中止を申し出たバツの悪さか、下駄をカランコロン鳴らしていた。

 ところが一時間も経たずに相沢は途中退場。出口のあたりで役員と押し問答があった。

「帰るんですか。最後まで聴いていってください。池田室長もお話ししたいと言っています」

「いや、帰る」

 表には野次馬のように集まってきた組合員もいた。書記長、しっかりしろと言いたげな表情である。

 そこに池田室長が駆けつけた。

「せっかく、お出でになったんだから、話しましょう」

「なんだ、帰さないつもりか」

「そうではありませんが、せっかく来たのですから。いつお会いできるか分かりませんし」

「いや、帰る!」

 間髪入れず、室長が手を差し出した。勢いに呑まれ、おずおずと握り返す相沢。

 組合員から「対決は、どうした!」と、ヤジが飛んだ。

 後日談。炭労の機関紙「地熱」の紙上で相沢が発言している。学会の問題を語りながら、所々に本音がのぞいている。

「とにかく既成宗教を乗り越えて(学会が)幅広い層にわたる会員を掴んだということは大したもんだね。これは組合などでも所謂、?人間的な話し合い場″というものをおろそかにしたという点に一半の原因があるということで、大いに反省する必要がある」(昭和三十二年八月八日付)


▼常に最も激戦の地へ


 第三に、常に攻防戦の最前線に身を置いた。

 回を改めて詳しく述べる「大阪事件」で、警察は室長の身柄を拘束しようとした。大阪府警の刑事が上京したとき、すでに室長は北海道へ向かった後だった。

 札幌の旅館に道警本部の刑事が来たとき、もう室長は夕張である。

 室長は逃げも隠れもしない。戦いの前線へ前線へと走る室長を、警察も捕らえきれなかったのである。

 六月三十日の時点で、学会側と警察が話し合い、室長の七月三日の出頭は避けられない状況だった。

 七月一日と二日。残された自由な時間は限られていた。こうした一種の極限状態に、人間の本質は表れるものだ。

 夕張の会員は、室長が逮捕直前であることすら気づかなかった。室長は気配を微塵も感じさせなかったからである。

 ただし、後になって 「そういえば、あの時」と記憶をたどる人もいた。

 学会本部から夕張の室長に、至急の連絡を求めてきた。そこで室長は、公衆電話が置かれていた雑貨店・太田商店の店頭から、東京にダイヤルを回した。証言と前後の状況から、六月三十日のことと推察できる。

 その電話で戸田会長の逮捕などをほのめかす大阪府警の威喝を知らされたと思われる。

「私が必ず出頭しますから、それだけは警察に待つように伝えてください」

 偶然、室長の言葉を耳にした者がいた。何の事情か知るよしもなかったが、毅然とした口調であった。

 この日、室長は東京の学生部結成大会に祝電を打っているが、それは、このような緊迫した状況下の行動だった。

 ごく一部の幹部だけが逮捕間近の状況を知っていた。それらの幹部の様子は奇妙だった。夕張大会では、ふだん陽気な黒柳の顔さえ、こわばっていた。

 それに比べ、室長は自らの登壇原稿をチェックしながら、会場の内外を何度も行き来していた。「行儀の悪い幹部でしょ」。軽い冗談を交え、かたい雰囲気をほぐした。

 また、夕張には、室長の香峯子夫人の姉が暮らしていた。来夕すると礼を尽くす室長だったが、この時は訪れていない。激しい攻防の最中であり、公私は厳しく峻別していた。

 夕張大会は大成功で終わり、アマポーラで勝利大会が開かれた。誰もが長い石段を弾むように登った。

 池田室長の声が凛々と響く。

「ご苦労さま! 勝った、勝った。大勝利だ!」

「今日は人生で一番、うれしい時だ。楽しい時だ。今日は、お祭りだ」

 ダンスホールだけに、バンド演奏ができる楽器がそろっていた。

 室長はドラムのスティックを手に取ると、軽快な調子で演奏を始めた。

 リズムに合わせ、いっせいに手拍子が起きた。

 室長を中心に、方便・自我偈の勤行。終わると深呼吸して振り返った。

「大勝利だ。だが浮かれてはいけない。これから嫌がらせが起きてくる。油断したら、しっぺ返しを食らうよ」

 一連の炭労問題について、自由に発言するよう促した。何人かの報告に耳を傾けると、安心したように「今日は、これで終わり」。

 そして静かに夕張を発った。夕張の人々は知らなかったが、戦場は大阪に移ったのである。

 夕張出発の直前、室長は誰に言うともなく、つぶやいている。

「これで、次の戦いも勝てる」


▼北海道炭労委員長の回想


 やがて全国の炭鉱は斜陽化していく。背景には、一〇〇年にわたった乱採炭、多発した爆破事故があった。国家の至上命令だった富国強兵、戦争、経済復興に、石炭産業が従ってきた厳しいツケでもある。

 そして訪れた石油エネルギーへの転換。炭鉱は、国策を担ったゆえに繁栄し、そして葬り去られた。

 全国の炭鉱労働者も、国家に翻弄された一種の犠牲者である。

 北炭夕張は、昭和三十五年、同四十年と大規模な爆破事故を起こし、閉山を加速させた。同五十六年の大事故(犠牲者九三人)では、社長が自殺未遂するまで社運は傾いた。

 平成二年。唯一、夕張に残っていた三菱南大夕張炭鉱が閉山した。

 石炭で黒く汚れていたシホロカベツ川に、清流が戻った。

 夕張炭労事件当時、北海道炭労の委員長だった岡田利春にインタビューした。

 岡田は太平洋炭鉱労組委員長、道炭労委員長を経て、国会の赤絨緞を踏んだ。社会党代議士として二六年。党副委員長も務めた。

 八十歳になった今、太平洋炭鉱があった釧路に暮らしている。

「いやあー、学会の折伏は熱心だったね。互いにカッカしてたから、ぶつかりあったように見えました」「?戸田先生も牢に入ったんだ。これぐらいの苦難は何するものぞ″と学会の人は胸を張っていたね」

 やがて国会議員となった岡田は、日ソ友好に政治生命を燃やす。

 時を同じくして、昭和四十九年、池田会長は、中ソ両国の指導者と会見。ソ連のコスイギン首相に中国を攻める意思のないことを確認し、それを中国首脳に伝えている。

 炭労問題から二〇年近い歳月が流れ、ソ連という舞台に現れた池田会長を、岡田は注視していた。

 中ソ対立の時代である。社会党にもソ連派、中国派の議員がいた。ひとりで両方には行けない。

 あえて中ソ両国を訪問し、心ない批判を受けた池田会長の心が理解できるという。

「SGI(創価学会インタナショナル)の会長になられてからは、世界を舞台に平和、文化に力点を置かれていることを伺っています。もう世界で行ってない国は、ないんじゃないですか」

 夕張で初めて知った創価学会

「ここまで学会が世界に広がるとは、驚きました」

 学会員たちの半世紀後に、感慨深げな口調だった。

 平成十六年十一月十九日。日本炭鉱労働組合は、結成から五四年の歴史に幕を下ろした。

 札幌市内のホテルで行われた解散大会に、かつてのヤマの男たちが集まってきた。

「労働歌」の合唱や解散宣言などに続いて「返魂式」が開かれた。

 夕闇迫るころ、参加者は外に出て、炎の中に組合旗や腕章、鉢巻きを投じた。

 赤い組合旗に染め抜かれた「炭労」の文字が灰となって散った。(文中敬称略) 

時代考証や写真提供で(夕張石炭の歴史村)青木隆夫氏の協力を得た。