第13回 昭和三十四年・東京の戦い
――世間をあっと言わせた首都決戦
戸田会長の心残りだった東京の敗北。
恩師亡きあと、東京を強くした池田総務によって雪辱は果たされ、過渡期にあった学会は危機を越えた。
▼東京創価学会の礎を築いた池田会長。
◇根っからの「江戸っ子」
池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長は、一九二八年(昭和三年)一月二日、東京・大田区の下町生まれである。
ジャーナリスト・大森実のインタビューに答えている。
「根っからの江戸っ子で、虚栄が大嫌いな人間であったことだけは間違いない」
江戸っ子は「ヒ」と「シ」の区別が苦手である。ある直筆原稿で「昼間」という文字に思わず「しるま」とルビを振りかけたほど。
飾らない。威張らない。気前がいい。湿っぽいことが嫌い。明快、率直。
時の総理に「言うべきことは言わせてもらいます。江戸っ子ですから」と伝言を託したこともある。
奥歯に物をはさまない。世界的な指導者だろうと、平凡な家庭の主婦だろうと、接する態度が変わらない。
*
時に東京の幹部に厳しい。関西を称えた返す刀で「それに比べて……」と首をひねることもある。
だが大阪や名古屋から帰京する新幹線の車中では、こんな場面がある。
多摩川の鉄橋を渡ると、そこは生まれ育った大田。ふと表情が変わる。同郷の香峯子夫人と窓の外に目を向ける。
新幹線は徐々にスピードをゆるめていく。開発が著しい品川駅周辺。短い感嘆の声がもれる。
田町、浜松町、新橋、有楽町――。沿線は、かつて通勤コースだった。青春の一時期、池田会長は新橋の会社で働き、夫人は銀座にあった住友銀行の支店に勤めていた。
終点・東京駅。若き日に夜行列車で関西から帰京する会長を、早朝から夫人が出迎えた駅である。
*
故郷・東京。実は最も安心し、心寛(くつろ)ぐ地である。
そして関西と同じく、東京創価学会の礎を築いたのも、ほかならぬ池田会長であった。
昭和三十一年(一九五六年)の「大阪の戦い」を知らぬ者はない。
だが、その三年後の「東京の戦い」を語る者は少ない――。
◇雪辱果たしたトップ当選
トランジスタ・ラジオにかじりついていた男が突然、弾かれたように立ち上がった。
「出た! 当確だ!」
品川区・上大崎の選挙事務所に、野太い歓声がどよめいた。
ラジオを鷲づかみにした事務長の和泉覚が、巨体を揺らしている。
壁に開票速報を貼り出していた青年たちも、手にしていた集計用紙を宙に投げ出している。
一九五九年(昭和三十四年)六月三日、正午過ぎ。
参議院選挙(前日の二日投票)の東京地方区で、創価学会が支援した柏原ヤスが当選を決めた瞬間である。
定数四に対し、二三人の候補がひしめく大激戦区だった。接戦が予想されたが、ふたを開けてみれば、柏原は四七万票を獲得した。二位の市川房枝に一七万票もの差をつけ、堂々のトップ当選である。
報道記事の行間から、記者の驚きが聞こえてくる。
「創価学会の都内の固定票が約十六万票止りとされていたにもかかわらず、その約三倍の得票をみた」(毎日新聞、六月四日付)
「『いくら創価学会の組織でも次点がせいいっぱい』との町の選挙評を完全にくつがえした」(読売新聞、六月三日付夕刊)
「まさかが実現」の再来である。
この年は参院選に先立ち、四月に統一地方選挙があった。三年ごとの参院選。四年ごとの統一地方選。一二年に一度、二つが重なる年だった。学会が初めて経験した“ダブル選挙”である。
しかも統一地方選では、都議会選挙(後年から七月に実施)も行われた。東京にとって“トリプル選挙”だった。参議院の東京地方区で柏原はトップで勝ち上がった。都議会では四人が当選。区議会は七六人の候補全員が当選した。三年前の惨敗と比べ、実に対照的な勝利であった。
◇石田で負けた三年前
学会が初めて国政選挙に候補を立てた一九五六年の参院選。
当選が最も有力視された東京地方区は“まさかの敗北”を喫した。
ある女性が悲痛な声で、幹部に食ってかかった。
「なぜ負けたんですか! あんなに一生懸命やって……」やせた肩が震えている。背中に赤子をおぶい、下駄の鼻緒が切れて素足になっても、走り回った。汚れた足に、赤黒い血豆ができた。
会員たちは、自分たちの力不足で負けた、と己をさいなんだ。
戸田会長は最高幹部に激怒した。
候補者・柏原ヤス。顔も見たくない。
「いいか! 二度と会長室の敷居をまたいではならぬぞ!」
当時の東京幹部。
「震え上がりました。戦いは絶対に負けてはいけないと骨身に染みました」
負け戦の張本人は、石田次男である。学会の理事。東京の支援責任者だった。
投票日の前夜。忙しい在京の幹部を集め「明日は一〇〇万票出すぞ!」と、ぶちあげた。
現実は二〇万票にも届かなかった。読みは甘く、号令ばかりかけていた。
上野だ! 新宿だ! 連日、街頭遊説の会場に学会員を集めた。
「どの街頭も、同じ顔ぶれ。こんなことで勝てるわけない。素人でも分かりました」(婦人部員)
大阪の池田室長のもとへ応援に通った森本静(元・品川区議会議員)は、東西の温度差を肌身で感じた。
「リーダーの真剣さが全然違う。大阪では、池田先生のもと、楽しいなかにも、ピンとした緊張感がみなぎっていた。東京は活動内容も、報告の把握も、全部いい加減。要するにリーダーが本気じゃなかった」
森本の目撃談。東京の敗戦が決まった時、石田は大阪の池田室長に電話をかけている。
目を疑う光景だった。へらへら笑いながら、口調もだらしなく崩れていた。
「ああ、大ちゃん? いやあ参ったよ。こっちは負けちゃったなあ」
◇世間をあっと言わせる
戸田会長の生涯に心残りがあったとすれば、その一つは東京の敗北ではなかったか。
「よく見ておきなさい。次は、私が本部で指揮をとる」雪辱に燃えていたが「次」を迎えることなく、一九五八年四月二日に逝去している。
棺(ひつぎ)を見送りながら「東京の落選が、先生の寿命を縮めてしまった」と崩れ落ちた者もいた。
*
明けて五九年。「本年こそ、若き将として、指揮をとらねばならない」
年頭に池田会長(当時・総務)は日記に綴っている。
期するものがあった。
一度だけ、選挙で苦杯を喫した経験がある。五七年四月の参議院大阪補選。
なぜ、この選挙の指揮をとったのか。諸説ある。
五六年の参院選。青年部の池田室長のもとで大阪は勝った。
敗れた東京勢は面白くない。妬む心が動く。だったら大阪で補選もやってみればいい。そんなに力があるのなら、もう一回やったらどうだ。東京の幹部から、やっかみ半分の声が上がったというのだ。
補選の支援期間。応援に来た東京の幹部たちには、必死の姿勢が欠けていた。
「まじめに戦ってくれた人も多かったが、遊ぶ人間も多かった。とくに議員が悪かった」(学会首脳)
揚げ句の果て、東京からの派遣幹部が選挙違反で決定的なダメージを与え、大阪は一敗地にまみれた。
池田室長は、戸田会長に一切の役職の解任を申し出た。負けて薄ら笑いを浮かべた、東京の敗将・石田。
自ら望んだわけでもない敗戦必至の戦いに、それも半ば味方の失策で敗れながら、愚痴も文句も言い訳もしなかった池田室長。
その場で戸田会長に誓っている。
「いつの日か、世間をあっと言わせる戦いをしてみせます」
その約束を果たす時が来た。
*
過渡期の学会に、世間は注目していた。
戸田会長が逝去して一年、会長職は空席のままである。
強力なリーダーシップを失った創価学会。その発展は戸田時代だけなのか、それともポスト戸田時代も続くのか。
その一つの目安が、五九年の選挙だった。
支援は、学会の運動の一断面である。しかし社会は“選挙の土俵”で学会の力を見極める。
他陣営と正面で胸をあわせる四つ相撲。乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負である。
選挙前、下馬評は厳しかった。
▼「東京に池田先生がいてくだされば……」
◇蒲田が立ち、文京が立った
「池田先生が中心者になると知って、そりゃあ嬉しかった。どうしても勝ちたい。蒲田の力で勝つと決めたんだ」
蒲田支部の山田恵三。
蒲田は池田総務の地元。一九五二年(昭和二十七年)に支部幹事として、圧倒的な弘教を成し遂げた。これらの歴史は、また語る機会があろう。
大田区内で食料品店を営む白石康嗣。学会本部で池田総務とすれ違い、急いであいさつした。その顔を、総務は、ひたと見つめた。
「知ってますよ。たしか大田で、お店を開いていましたね」。右手を差し出し、力強く握りしめた。「身体を人事にして戦ってください」。
仰天した。その四年も前のこと、偶然、自分の店の前で立ち止まっている総務に呼び掛けた。
「これは私の店なんです」。胸を張ったものの、ショーウインドーは壊れかかり、ひさしは今にも落ちそうだった。
「ほんの、わずかな出会いだったのに……。柔らかな手でした。私はやせて、ガリガリだったので、心配してくださったのだと思います」
人は己を知る人のために、死力を尽くす。白石だけではない。
「忘れもしません。三年前の負けは悔しくて、悔しくて。東京に池田先生がいてくだされば、と何度も思いました。だから三十四年の時は、もう夢中。歩きに歩きました。乗り物なんてなくたって、全然平気」(蒲田支部、町田セイ)
*
文京支部も奮い立った。
豊島区・池袋にある炭屋の二階が拠点。思い出が染みついている。
「池田先生は、何度も通ってくださった。結核で血を叶き、奥様が止めても、それを振り切って……」(荻野文弘)
一九五三年から支部長代理に。
「命懸けです。私たちにも伝わりますよ。立正安国論の講義をされました。厳しかった。拝読する人が少しでも、つつかえると、最初から読み直し。何度でも繰り返された。信心に中途半端も、妥協もないことを知りました」
太田久雄も、この拠点に思い出がある。
「いつも駆け足で動いておられた。だから拠点に入られると、足音ですぐに先生だと分かるんです」
「電報でーす」
大きな戦いの節目になると、郵便局員が拠点に飛んできた。
池田支部長代理からである。
「サイゴノダイセントウニトツニウシ ダイシヨウリナルコトヲキタイス イケダ」
「ヒツショウ ゴケントウヲイノル」
◇池田門下が名乗り出た
青年部男子第一部隊。
「何でも第一の第一部隊」。かつて池田部隊長のもと、黄金の歴史を綴った自負がある。
ある青年は初めて受けた指導が消えない。
「信心すれば、必ず悪口をいわれる。言われ切った時には、尊敬されるようになる。それまでやり通しなさい」
曽根原敏夫も第一部隊。地元は葛飾区で、三年前の悔しさは忘れられない。
なんで負けたのか。大阪の白木義一郎に聞いたことがある。
「東京と関西の違いは何ですか?」
白木は、にやりと笑った。
「関西は“上り”と“下り”がある。東京は“下り”しかない」
要するに幹部が活動方針を流すだけで後は放ったまま。現場へ入っていかない。耳の痛い話だった。
池田総務は初代の葛飾総ブロック長でもあった。曽根原は、下町の庶民群に分け入る姿を目の当たりにする。会合の前と後に、必ず個人指導。どの拠点でも、会員の悩みに耳を傾けた。
金属商を営む金沢秋次郎。夫婦喧嘩に明け暮れた。青白くやせた妻の顔が、幽鬼に思えた。
仕事で首が回らないのも、腹一杯食えないのも、すべて女房のせいだと信じて疑わない。
「この貧乏神と、一日も早く別れさせてください」と祈っていた。
ある時、会合で池田総務に打ち明けた。妻は横でうつむいて、畳の目を数えている。
総務は、静かに言った。
「私の前で奥さんの手を握って、一生涯、私はあなたを愛してまいりますと誓いなさい」
度肝を抜かれた。思わず妻も顔を上げた。“私を愛せ……?”。そんなことを言ってくれる人などいなかった。
皆、げらげら笑っている。総務の目だけが真剣である。
金沢は恐る恐る貧乏神の細い手を握った。半分やけくそである。喉の奥から「あなたを愛します」と声を振り絞った。
二人は、どっと拍手に包まれた。はにかんだ妻が、小さくうなずいた。
この日を境に、妻が変わった。いや、金沢が変わったのかもしれない。
夫婦喧嘩はいつしか止まり、仕事も忙しくなった。
*
関西も黙っていない。
池田総務の手作りの砦である。
夜行列車に揺られて、早朝から続々と東京へ乗り込んでくる。「わてらが応援せな、しゃあないやろ」「せやせや、東京は、関西が勝たせたるんや」
◇“空中分解”の兆候
池田総務の前には、幾つもの壁が立ちはだかっていた。
第一に、幹部の足並みの乱れである。
表に理事長の小泉隆を立て、総務が陰で支えていた創価学会。
ある海外の識者の分析。
「戸田会長が亡くなっても、すぐ分解はしなかったけれども、数年たったら勢力争いがあるだろう」
水面下で工作する者もいた。
「石田次男です。妻の石田栄子から、はっきり言われました。うちの主人が次の会長になる。あなたは伸びる人だから私に付いてきなさい、と」(秋山栄子、婦人部総主事)
石田を担ぐ勢力もあった。
戦時中、国策会社で働き、参謀気取りだった。この男が石田を御輿(みこし)に乗せた。そのほか、古参幹部の中にも同様の動きがあった。
マスコミは「学会は空中分解する」と書き立てていた。
予想は早くも的中しつつあったといってよい。
「池田先生が東京の総責任者でしたが、当時の空気は簡単なものではなかった」(吉田顕之助、関東参事)
◇戸田精神の継承
第二に、戸田会長の精神の衰退である。
たとえば次期会長が誰かをめぐって内外ともに、かまびすしかった時期。池田総務が自らを語ることはなかった。ゴシップ好きの週刊誌等の下馬評にも一切名前が見あたらない。
戸田会長が早くから総務を後継者に定めていたことは、学会首脳にとって周知の事実であったが、総務自身が口にすることは絶えてなかった。
自分が表に出ることより、戸田会長の精神の継承を訴えた。
毎日、恩師の指導テープを聴き、思索を重ねている。
一九五九年当時の日記。
「恩師の信任の人が、伸びのびと闘えるようにしてあげねばならぬ。増上慢の人が、気ままに振る舞うようでは、学会は衰退してしまう」(二月二十四日)
「御書をはきちがえた、自己中心主義の、幹部のいるのに頭痛あり」(三月十七日)
「恩師の指導・訓練が、もう消えたのか、と怒りたい」(同)
我がことよりも師の遺志の継承を第一義においた。
五九年三月十六日。
総務は、青年部の代表と戸田会長の墓前に詣でた。
ちょうど一年前、恩師が青年に後事を託す儀式が行われた日である。
「毎年、この日を青年部の伝統ある節としていこう」
こんにちの学会で「広宣流布記念の日」と銘記される三月十六日の意義も、池田総務がとどめた。
◇首都・東京の事情
第三に、東京の複雑な土地柄である。
当時は「東京創価学会」という概念はない。タテ線と呼ばれた縁故関係による組織の系統が、東京に太く混在していた。
一九五六年の参院選。東京が敗れた背景にも、学会草創の一二支部の存在があった。
会長のすぐ下に、支部長がいる。権限は大きい。連帯意識が強い分、競争意識も激しかった。蒲田系。杉並系。小岩系……。それぞれ、縄張り意識が強い。東京を広く見渡す全体観に立ってない。
要するに、一二支部を束ねるだけの強力なリーダーシップが東京にはなかった。
「三十一年に敗北した時の戦いは『船頭多くして船山に上る』。中心者がはっきりしなかった。だから力が出なかった」
*
日本は戦後の復興期が終わり、いよいよ経済成長期に突入しつつあった。
社会の一大転換期の首都決戦である。
東京は華やいでいた。四月、皇太子のご成婚。五月、東京オリンピックの開催が決定。
人口は九〇〇万人を超え、ニューヨークを抜き、世界一の大都市になった。完成したばかりの東京タワー。まだ家並みは低く、ノッポな姿を遠くから望めた。日々、変わっていく新しい街だった。
上京組が多く、新住民が急増していた。戦後のベビーブームに生まれた子どもが、路地裏にあふれていた。
政党。労組。宗教。経済界。あらゆる勢力が、首都で虎視眈々(こしたんたん)と陣地の拡大を狙っていた。焦点は新しい人間の獲得である。
これが難しい。
名著『東京百年史』には、生粋の江戸っ子と、地方から東京に集まってくる者たちのギャップが強調されている。
いわば水と油。
東京ほど、まとまりにくい単位もない。
歌謡曲に東京ソングは数あるが、歌い手は、たいてい地方の出身者。「有楽町で逢いましょう」のフランク永井も東北出身である。
東京とは何か。東京の心とは何だ。東京人は己を表現するのに、立ち往生してしまう。
▼首都決戦に、味方は少なし、敵多し。
◇めぐらされた包囲網
第四に、社会の偏見である。
警察。学会員の不慣れな支援活動をねらい打ちにする構えを見せていた。
マスコミ。学会の組織形態について軍隊的、全体主義、ファッショだと難し立てた。
評論家の大宅壮一。「創価学会が伸びた理由の一つは、旧軍隊組織を信仰という形で復活したことである」。当代きっての論客にして、はじめは、この程度の認識だった。
共産党。機関紙「アカハタ」で学会批判を繰り返している。
春の統一地方選で躍進した学会に、危機感を強めた。
学会から三人、共産党から三人が当選した中野区議選。その激戦を総括した「選挙と創価学会」と題する記事(一九五九年五月十九日付)がある。
「大衆の貧困につけこむ」との大見出し。生活互助会(共産系)が支援する共産党候補が落選した。その責任は、互助会に所属する学会員にあると決めつけている。
「こんどの選挙で積極的に創価学会のために働いた信者には互助会をやめてもらうし、こんごは生活相談に応ずるのもやめる」
*
味方は少なし、敵多し。
広大な砂漠にも似た東京のどこに、勝利の突破口があるのか
――。
◇東京の隅々へ
池田総務は、どのように東京を牽引していったのか。
当時の学会幹部や関係者に広く取材したが、明確な記憶がない。ただ、関西全体が横一線で押し上がっていった「大阪の戦い」とは様相を異にしていたようだ。
大阪は極端に言えば、新会員しかいなかった。先輩も後輩もない。ゼロからの出発。その分、乾いたスポンジが水を吸い込むように信心を血肉化し、ぐんぐん勢いが増した。
東京は違う。古参幹部が多い。ややこしい上下関係もある。
取材は難航した。散らかった断片的な証言をジグソー・パズルのように組み合わせると、おぼろげな輪郭が見えてきた。
総務は、徹底的に深く潜っていたようだ。最前線へ。最末端へ。他の幹部が知るよしもない東京の最深部で、会員一人一人を励ましていた。
神出鬼没である。
東京の東、葛飾区。
ほこりっぽい下町の路地に、車が止まった。「ニッサン・ジュニア」。小型トラックの助手席から飛びおりた人がいる。小回りのきく軽トラックは、貴重な活動の足だった。
南の外れ、大田区。
油と鉄の臭いが漂う工場街。つぶれかけたガラス工場で、青年が汚れた手をぼんやり見つめていると、入り口に人影があった。
自分のニックネームまで覚えていてくれた。
戸田会長の事業を支えた苦闘時代を話してくれた。
信濃町の学会本部。
連日、悩みにうちひしがれた会員が指導を求めてきた。
気弱な学生が、身を縮めている。
「そんなことでは大成できないなあ。青年は、どんなことがあっても悠々と戦っていきなさい。銀座の真ん中で、大きな声で歌を歌えるようでないといけない」
学会本部での御書の勉強会。
「仕事が忙しくて、遅刻しそうだった人?」
一人の青年が勢いよく挙手したものの、後悔した。他に誰も手をあげていない。
「それが本当だ。真面目に信心すれば、仕事が忙しくなるのは当然だ。自分は仕事もやり抜いて、悠々と会合に出てきた、という顔をしているのはインチキだ」
大田区小林町の自宅。
青年たちが夜討ち朝駆けで現れる。香峯子夫人の手料理をつつきながら、彼らといつまでも語り合った。
▼「池田会長は『自他共にある人』だ」
◇脚本家・橋本忍の回想
脚本家・橋本忍に、池田会長の印象をインタビューした。
橋本は、日本映画界を代表する名脚本家。『七人の侍』『生きる』『砂の器』など幾多の名作を手がけた。
池田会長原作の映画『人間革命』『続・人間革命』のシナリオも執筆している。
映画製作の挨拶に訪れた日。会長と一緒に長い廊下を歩いていると、五十がらみの男性が向こうから来た。
会長が軽く手を挙げ、名前を呼ぶ。久しぶりの再会らしい。
親しげに話しかける。気さくで、てらいがない。男性は大変に恐縮している。
彼の経歴や住まい、家族構成、人間関係、悩み事まで、すべて知り尽くしているようだ。
橋本は感嘆した。
“とてもとても、ここまで相手のことを覚えられるものじゃない……”
別の機会に、こんな会話があった。
「橋本先生は、お話しされる言葉自体には内容がある。だけど、人前で話すのは、それほど得意ではなさそうですね」
「昔から、あまり、しゃべったことがないので」
「大勢の前で話すときには、心得ておくといいことがあるんですよ」
「ほう、それは……」
「たとえ三千人の集まりでも、まず左端の人に話しかける。
次に右端の人。その次は左端の一番奥。最後に右端の一番奥。
そうやって四隅に話しかけていく。そうすると自然に話ができます」
「ははあ」
「大事なことは、一人で演説するのではなく、そこに来ている一人一人と話すことです」
焦点は、あくまでも一人。人間対話の本質を突いている。
橋本は考えた。
「この人は『自他共にある人』なんだと思い、それを一番、感じた。世間では池田会長を独裁者という人もいるが、そうではない。独裁者は『自分』しかいなくて『他者』がない。世間は間違っている」
「学会員は、何百万人といるのでしょうが、池田会長は、その一人一人をよく知っていて結びついている。そういう人だと思う。
池田会長ほど『自他共にある人』は見たことがない」
*
一九五九年。池田総務は東京で人と会った。演説でも、宣伝でも、号令でもない。一対一の対話に徹した。
東京の東の端へ。南の端へ。上から命令するのではなく、東京の四隅を回るなかで、一人一人との結びつきを強めた。
◇戦う機運が満ちはじめた
「へい、いらっしゃい!」
暖簾をくぐって、若い客が次々と現れる。夜の信濃町。駅前に屋台のラーメン屋があった。“最近、やけに景気がいいや”
ラーメン屋のオヤジは、えびす顔である。夜更けの客が、このところ急に増えた。
どうやら創価学会の青年が、腹ごしらえに来るようだ。
活気づいていた信濃町。
学会本部には、細長い和室があった。通称“うなぎの間”。そこが男子部の根城となった。ふとんを持ち込み、泊まり込む。小腹がすくと、屋台でラーメンをすすった。
学会本部で勤行し、御書を読みあって、弘教と個人指導に散っていく。
「大阪の戦い」と同じように、拠点闘争が始まった。
戦う機運が満ちはじめた。
「男子部が三人でも集まれば、三輪トラックに乗り込んで回ったものです」(青木亨、最高指導会議副議長)
ぴんと張り詰めた緊張感があった。
「池田先生は、ここぞというとき、例外なく厳しかった。 青年部には、先生に叱られてこそ本物という自覚があった。戸田先生の時代、一番叱られていたのは池田先生でしたから。油断、慢心を断ち切っていただいた」(吉田顕之助)
◇火ぶたを切った選挙戦
五月七日、参院選が公示された。
投票日は六月二日。二七日間にわたる選挙戦が火ぶたを切った。
学会の候補者は、全国区が五人、地方区は東京だけに絞られた。
精力的な遊説計画が組まれた。
秋山栄子も遊説隊の一員としてマイクを握った。
「池田先生は裏方を大事にされた。事務所で缶詰になっている役員のため毎日、差し入れを届けてくれる。焼き鳥。バナナ。その一方で、候補者には厳しかった」
東京は、全国区の候補として学会理事の原島宏治を支援した。
ある時、遊説カーが多摩方面を回った。山に緑が濃い。民家がぼつんぽつんと点在し、菅笠をかぶった農夫が腰をかがめている。
のどかな風景に、ふと気がゆるむ。原島がドライバーに声をかけた。
「まあ、いいよ。そんな奥まで行かなくても。ここらで、おにぎりでも食べよう」
予定コースの途中で引き返した。
現場からの報告を聞いた総務は、事務所へ向かい、強い口調で原島を糾した。
「遊説は予定通り、回っていただきたい。疲れもあると思いますが、戦いですから!」
ドライバーの男子部員に向き直った。
「先輩だからといって遠慮することはない。君からも意見を言っていいんだよ」
誰であろうと、間違っていることは間違っている。筋を通すことが健全な体質をつくる。遊説隊や事務員にも、持論を伝えた。
「候補が死に物狂いで戦うのは当然だ。候補や家族が必死だからこそ、支持者も全力で支援する。幹部だからといって、わがままや傲慢を許してはならない」
◇女性票の行方
東京選挙区は三年前、三人の女性候補が、そろって涙をのんでいる。
政界は男生優位で、まだ「マドンナ旋風」が起きる時代ではない。
この時も自民党四人、社会党三人、共産党、緑風会の有力候補の前に、苦戦が予想されていた。
それでも一番の注目株は、市川房枝。女性の政治参加のシンボル。市川に票を食われると、柏原ヤスは苦しい。
当落は、学会婦人部の奮闘いかんにかかっていた。
*
選挙といえば、公然と金が動く時代だった。
「五当三落」――当時の金で五〇〇〇万円かければ当選するが、三〇〇〇万円では落ちる。まことしやかに、ささやかれていた。
警察当局は、学会にも黒い金が流れているはずだとにらみ、次々と会員を取り調べた。
文京の宮崎初恵。出頭に応じたが、高圧的な態度に、たんかを切った。
「世間のように金をもらっている卑しい選挙と違います! 雨が降ったらポスターが濡れないように、自分がずぶ濡れになって町中かけずり回る。そんな支持者が、どこにいるんですか。いくら金をもらったって、そこまでやるものですか!」
警察官は黙ってしまった。
*
チンチン。
出発進行の合図を鳴らした都電が、民家の間を縫って、軒先の洗濯物をかすめながら動いていく。運賃が一三円の時代だった。
子どもに卵を食べさせるため、その一三円を惜しんで歩いた人もいる。
荒川土手で柏原の演説会。水たまりでアマガエルが飛びはねる。丈の短い元禄袖(げんろくそで)の着物を着た婦人部から声援が飛ぶ。
昼間のポスター貼りは婦人の仕事。両面テープなどない。
荒川区の田辺さく子もブリキのバケツに、うどん粉を溶いて糊をつくり、刷毛でペタペタ塗つた。
町屋には鉛筆工場があった。たいていの主婦は内職をしていて、一日の手間賃は数十円。一本の鉛筆にも思い入れがある。
田辺の家でも、短くチビて握れなくなるまで使った。
そんな生活者の側に立った政治家が求められていた。
南千住には、簡易宿泊所があった。
いわゆる「山谷のドヤ街」。男でも避けて通る。そこにも勇気を出し、足を踏み入れた。
*
選挙も終盤戦。
アナウンスが聞こえると、遊説コースに、みるみる学会員が現れ、遊説カーを追いかける。前回の参院選では見たことのない光景だった。
草履履きの婦人が着物の裾を取られ、転びそうになりながら懸命に走る。
そのたびに遊説カーは速度を落とし、追いつくのを待った。
政治と支持者の距離が、限りなく近かった。
*
開票の結果。
一位、柏原ヤス。四七万一四七二票。
二位、市川房枝。二九万二九二七票。
マスコミにとって、格好のネタである。
「気をはく新旧二女性 一、二位を占める」(日経)
「女性がお強い!東京地区」(毎日)
各紙の分析。
「山手向きの女性候補市川房枝さんに対して(柏原には)下町の婦人票が集まった」(朝日)
「柏原候補が予想を上回る得票ができたのもこの浮動票、とくに婦人票が流れたためであろう」(毎日)
東京婦人部の奮闘を物語っている。
◇「世間は大騒ぎになるよ」
「三年後を見給え、世間の人たちがヘソの裏をひつくり返して大騒ぎするよ」
一九五六年、参院選投票日の夜に、戸田会長は言い残した。東京は敗色濃厚と見越した上で、早くも頭を切り換えている。
その言葉は現実となった。
五九年、学会が立てた六人は、全員が上位で当選を果たした。全国区の総得票数は二四八万に達した。
マスコミの論評。
「創価学会は全員当選」(朝日)
「落選知らずの組織」(日経)
「なぜ強い創価学会 自社、盲点をつかれる」(毎日)
選挙から三日後。
池田総務は、柏原たちと戸田会長の墓前へ、勝利の報告に向かった。
静かに手を合わせる総務の背中を見ながら、一行の胸に去来する思いがあった。
“池田先生のおかげで、戸田先生の無念を晴らすことができた”
最も功を誇ってよいはずの総務からは一言もなかった。
ある折、語っている。
「私は戸田先生のおっしゃることなら、何でもやっちゃうんだ。誰が何と言おうが、どう思おうが関係ない。私は戸田先生に『大作、よくやったな』と言っていただければ、それでいいんだ。それだけなんだ」(文中敬称略)
「池田大作の軌跡」編纂委員会