公明党を創立(下)

池田会長は恩師が構想していた「公明会」を創立した。
政治勢力と対峙しながら、
大衆運動をリードし、衆望の水かさは次第に高まる。
ついに政党結成の機は熟した。


▼結党にいたるまで、幾多の決断があった。

◇期待と反感

「政界と国会に良き新風を吹き込むにちがいない」(富士銀行頭取・岩佐凱実)
「宗教団体が衆議院に立候補することは問題ではない。自民党民社党などは自分の実力で納得させればよい」(評論家・福田恒存
「今の政党や議員族は、温床の上にアグラをかいている。その意味で、公政連(公明政治連盟)が衆議院に進出することも反対ではない」(毎日新聞論説顧問・新井達夫)
「大衆文化の時代にあって、大衆に根を下ろした組織としての公政連が、衆議院に進出することは当然」(衆議院議員中曽根康弘
 一九六四年(昭和三十九年)、公明政治連盟が解消され、公明党の発足が発表。衆議院進出の声明を受けた各界の反応である。(いずれも肩書きは当時)
 一部の政党などから「宗教団体が政界に出るのはおかしい」という声があった。
 創立者池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長自ら回答している。
ケネディカトリックの強信者。ジョンソン大統領もクリスチャン。フルシチョフ毛沢東も共産宗。社会党民社党の委員長もクリスチャン。池田勇人総理は浄土真宗の信者。誰もが宗教を持っている。要は一生懸命やっているか、いないかだ」

 今号では、当時の政治・社会情勢を背景に、公明党結党までの経緯に迫る。

岸信介からの電話

 岸信介は怒号を浴びていた。国会の周辺はデモ隊に囲まれている。
 安保反対! 安保反対!
 小学生まで口まねしている。
 一九六〇年(昭和三十五年)。日米安全保障条約の改定をめぐり、国論は真っ二つに分かれた。
 岸内閣の退陣を迫る声も強い。もはや力で押し切るしかないのか。
 自民党衆院議席は二九八。党も内閣も、強力な布陣をしいていた。
 大野伴睦(副総裁)、川島正次郎(幹事長)、河野一郎(総務会長)、福田赳夫政調会長)、藤山愛一郎(外相)、佐藤栄作(蔵相)、池田勇人(国務相)、三木武夫経済企画庁長官)。
「ともかくすごい高姿勢の内閣」(昭和史家・半藤一利)。岸の鼻息の荒さがうかがえた。
 デモ隊が封鎖する羽田空港を突破して、岸は全権団とワシントンに飛び立ち、ホワイトハウスで調印にこぎつけている(六〇年一月)。あとは議会で採決に持ちこむのみ。
「あのデモ隊の連中さえいなければ……」
 ぎょろりとした大きな眼が空を泳ぐ。誰が、あのデモ隊を抑えられるのか。
 脳裏に一人の人物が浮かんだ。

 学会本部の電話が鳴った。
 永田町からである。岸は池田大作会長に要請した。
「学会青年部は最も統制が取れている。ぜひデモの封鎖に出動してもらえないだろうか」
 戸田城聖第二代会長時代からの縁を頼んでのことだった。会長自身が被告である「大阪事件」の公判中でもある。岸と自民党の権勢を考えれば、むげに断れる話ではあるまい。
 しかし個人の信義と政治問題は違う。恩師の遺訓があった。
「政治は妥協である。だが政治家とは妥協するな」
 池田会長は返答した。
「お断りする。大切な学会員を犠牲にするわけにはいかない。権力の命令で、わが学会が動く必要はない」

 第三代会長に就任(一九六〇年)してから、公明党創立(六四年)にいたるまで。池田会長には幾多の決断があった。
 政治権力との緊張関係は常にあった。幾人もの大物政治家が会長との面談を求め、あるいは懐柔を図り、あるいは恫喝を試みた。
 一連のエピソードは、別に一章を立てて描くつもりである。
 要するに、前号でも指摘しごとく、宗教団体にとって政治との関わりは両刃の剣であった。

◇恩師の遺訓「公明会」

 大手新聞社。政治部の記者が編集フロアに飛び込んできた。
「おい、学会は全員いきそうだぞ!」
 一九六二年(昭和三十七年)七月一日。第六回参議院選挙。
 公明政治連盟(公政連)は全国区で四一二万票を獲得。地方区を含む九候補全員が当選した。
 非改選を合わせて一五議席民社党を押しのけ、第三勢力に躍り出た。
 もはや雑感記事ではすまされない。
 正面を切った取材が必要だ。デスクが指示を飛ばす。
 公政連の本部は、どこだ! 学会と繋がっている記者はいないのか!
 翌七月二日。品川区上大崎の公政連本部。早朝から報道陣でごった返した。
「大躍進の秘訣は?」「保守か、革新か」「衆院に出るのか」
 三日未明には全員当選が確定。最激戦の東京地方区を制した和泉覚と、全国最年少当選の鈴木一弘にマイクが集中した。
「素人なので、今日から勉強です」

 各紙の記事。
「なんといっても驚異的な進出をしたのは創価学会」。朝日「天声人語」、の書き出しである(七月三日)。「“宗教政党”的なものが発生する事実は、保守・革新政党ともにここらで考え直さねばなるまい」
 特集「第三党になった創価学会」を組んだのは読売(同日)。
「一宗教団体を背景に、これだけの議席を占めたことは憲政史上初めて」
 評論家・大宅壮一のコメントを引いている。
“今度の参院選の特徴は、自民党社会党の挑戦を退けてタイトル防衛に成功したこと。民社党創価学会にとって代わられたこと”
 最後は、一言居士らしい切り口で締めくくる。「これからは創価学会のやり方でなければ当選しないことが実証された」
 毎日の「社説」では、公政連が党利党略の国会運営を非難してきた事実を指摘している。「それだけでも創価学会の進出に意味がある」(七月四日)。
 一方で「民社党の最大の欠陥は、大衆にとって何の魅力もない存在になってしまったこと」と手厳しい。
 記事の大半は、政界の堕落に乗じて学会が社会の底辺層を取り込んだと論じている。
 七月三日。参院の院内交渉団体「公明会」の結成が発表された。
 一五議席を得たことで、代表質問権などを持つ、院内交渉団体の資格を得たのである。

 ここで「公明」の名称の由来である。もともと戸田会長が折々に口にしていた言葉である。語義を諸橋轍次大漢和辞典』に探ると「私心がなく、かくしだてしないこと。よこしまのないこと」とある。
 戦後、民主主義を掲げて再出発した日本だったが、大半の国民は選挙の意義にも事情にも疎い。たちまち買収、供応など腐敗選挙が横行。
 一九五一年(昭和二十六年)の統一地方選挙では、実に六万人を超える検挙者が出た。
 五二年六月、各界の声を結集し、クリーンな選挙運動を推進する「公明選挙連盟」が結成された。これに全国の選挙管理委員会も呼応。
 官民あげての「公明選挙運動」が展開される。
 戸田会長の脳裏にも「公明選挙」を求める世論の動向が刻まれていたものと思われる。「『将来、国会に会派をつくる時は〈公明会〉でいこう』。そう戸田先生は、私に語ってくださっていた」(池田会長)
 池田会長は恩師の遺言を実現した。

新宗教民社党

 一九六二年(昭和三十七年)の参院選は「宗教戦争」といわれた。
 学会の進出に刺激されてか、宗教系の候補は三〇人以上も出馬した。
 一人で全日仏(全日本仏教会)、神社本庁新宗連新日本宗教団体連合会)から支持を取り付け、神と仏の両方の加護にすがった候補者までいた。
 公政連の「四一二万票」は他教団の得票数をも圧倒した。
 天理教生長の家霊友会は全滅。かろうじて立正佼成会が一人を滑り込ませた。
 宗教学者の分析。
「学会と他宗教とは区別して考えなければならない」「他宗教も刺激されて多くの候補をたてたが、とても組織の統制も動員力も及ばない」(高木宏夫「朝日新聞」七月三日)
 池田第三代会長誕生後。日本には二つの教団が勢力を伸ばしていた。
 東の立正佼成会、西の天理教。選挙結果を見ても、すでに勢いは学会にある。
 政界では、民社党のショックが大きい。公明会に抜かれ、第三党の座からすべり落ちた。結党二年で、早くも解党の危機すらささやかれた。
 苦杯をなめた「民社党」と「新宗教」が“学会憎し”の一点で結託するのは、後の話である。

▼日本を背負う気概で戦え!

◇「二本の杉」の絵

 選挙後の七月十一日。池田会長は、参議院の公明会控室に足を運んでいる。
 一幅の日本画を贈った。杉の巨木がまっすぐに伸び、上部で幹が二つに分かれている。著名な日本画家の作品である。
「この絵の意味が分かるかな」
 一五人の国会議員は首をひねった。なぜ二本に分かれているのか?
 会長が絵に視線を戻した。
「これは、ただの杉じゃない。二本の杉、すなわち『日本の柱たれ』ということだ」
 公明会は、院内会派として独自の代表質問もできる。
 だが狭い国会で数合わせに汲々とする小さな議員になってもらいたくない。
 日本を背負う気概で戦ってもらいたい。
「一切を任せます。まっしぐらに、大胆に、大衆のため、日本のために戦いぬいてほしい」

ケネディカストロ

 ワシントンのホワイトハウス
 日本政界の動向は逐一、打電されてくる。選挙結果の詳細なリポートを受け、学会に注目している人物がいた。
 J・F・ケネディ。四十三歳でアメリカ大統領に当選した。
 アメリカはソ連を後ろ盾にしたキューバカストロ政権と、激しい非難合戦を繰り返していた。ケネディは核戦争勃発まで危ぶまれたキューバ危機(一九六二年十月)を回避した直後、池田会長に会見を要請した。
 日本では、首相の池田勇人がワシントンで表敬(六一年六月)した程度で、親しく接した民間人も聞かない。
 なぜ池田会長が? 自民党は面白くない。やっかみ半分か、保守系の大物政治家が横やりを入れた。
 仲介の骨を折るから、都知事選で応援してもらいたい。
 要するに“口利き料”として学会票を回せという取引である。
 会長は申し入れを一蹴した。
「そういうことなら、またの機会にしよう」
 学会員は「票」ではない。
 あのケネディとの会見を蹴るのか!
 大物政治家は信じられなかった。よだれが出そうな話なのに。
 こうして「池田・ケネディ会談」は先送りになった。違命の星は誰にも見えない。
 六三年十一月、ケネディテキサス州のダラスで凶弾に倒れた。
 棺は国立アーリントン墓地に埋葬された。東洋の宗教指導者に彼が何を語りたかったのか、知る由もない。
 当の池田会長は、どんな考えだったのか。全国紙の記者に語っている。
「本当に会って話したい人だった。きっとケネディは、将来、学会が反共になるか、容共になるか。じかに聞きたかったのでしょう」
 ほどなくキューバの首相フィデル・カストロも会見を打診しできた。
 これは時期尚早とみて丁重に断っている。出会いが実現するのは三〇年後である。
 果たして「公明会」は、反共なのか、容共なのか。
 日本に台頭した大衆勢力は、右と左のどちらに振れるのか。
 日本国内だけではない。アメリカとキューバの両首脳も、熱い視線を送っていたことが察せられる。

◇庶民が政治を監視せよ

 結成された「公明会」が、最初に迎えるハードルは、一九六三年(昭和三十八年)春の統一地方選挙である。(「公明会」は院内会派なので、地方議員は「公明政治連盟」として活動する)
 池田会長は大衆運動の先頭に立った。
 東京、大阪、名古屋、横浜、北九州、川口、札幌、仙台--。全国の「公明会」大会を駆け回った。
 学会を政治団体に変えたわけではない。
 昔から、政治がらみの集会といえば、候補者を「おらがセンセイ」と持ち上げ、宴会で盛り上がるのが、相場である。
 やがて「実弾」が乱れ飛ぶ。腐敗する政治家も悪いが、腐敗させる大衆にも責任がある。
 その政治風土を変えようとした。
 横浜大会。場内の最前列に陣取り、一聴衆として、壇上の議員に鋭い視線を向けた。
 挨拶に立った時も、細かい点から具体的に注文をつけている。
「ここへ来る途中、電柱が政党のビラだらけだった。本来、電柱にビラを張ってはいけないはずだ。
 最も責任を持って美化運動を為すべき政治家が一生懸命、違反しているわけです」
「これも、今まで庶民が政治に無気力で、監視するだけの力を持っていなかったからだ」
 ある大会では三点にわたって釘を刺した。
 1.派閥や反目が毛筋ほどでもあったら公政連は解散してもらいたい。
 2.大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に入りきって、大衆の中に死んでいく政治家たれ。
 3.勉強しない政治家に、青年は、ついていかない。
 権力は魔性である。政治は魔物である。ゆえに議員には徹底して厳しく。恩師の厳命である。

 一党一派に偏する必要は、学会にはない。
「慈悲の理念を体得した人間が、自民党に一〇〇人、社会党に一〇〇人出ていけば、それでいい」(戸田会長)
「一人一人が偉大な政治家になってくれればいい。それだけです」(池田会長)
 しかし現状では、信を繋ぐに足る政党が見当たらない。
 自民党。「あそこは派閥争いばかり。あれでは『自滅党』だ」
 社会党。「大衆の味方といっているが、党員が信心すると途端に弾圧する。そんな大衆の味方はいない」
 共産党。「アメリカの原爆はいけないが、ソ連の原爆は、きれいな原爆と言う。こんな恐ろしい矛盾はない」返す刀で公明。
「こういう既成政党に成り下がったら、一切、応援しない。期待に外れたら、叩き出そうじゃないか」

 一六三年(昭和三十八年)四月。統一地方選挙で公明政治連盟から一〇〇○人を超える地方議員が生まれた。

◇老婆のズダ袋

 玄関ベルが鳴って、中山しん子は奥の居間から立ち上がった。
 ドアノブを押すと、朝の冷たい空気が流れ込む。年老いた女性が立っている。
 刻まれたシワは深い。
 素足にサンダル履きである。
「まあ、お入りなさい」
 老婆は、その場に、ぺしゃんと座り込んだ。
「頼む。養老院へ入れてくれ」。公明区議として初当選した中山(東京・港区)に頭を下げてくる。“養老院は姥捨て山”と陰口をたたかれた時代である。
「お願いじゃ。これで食い扶持が一人、助かるんじゃ」
 筋張った手で、ズダ袋から何かをつかみだした。両手で頭の上に捧げながら、拝み倒す。
「銭はない。これで願いを叶えてくれ」
 砂糖が詰まった袋だった。中山は首を振った。
「おばあちゃん、お金なんか一文も要らないのよ」
「……砂糖ではダメなのかい」
「お金も、お砂糖もいらないの。一緒に役所に行きましょう」老婆は、おいおいと泣き崩れた。

「議員に頼む」イコール「金が掛かる」。政界の常識だった。
 相談料。口利き料。謝礼。それぞれに相場があった。
 公政連は、金品の授受を断った。
 他党議員が顔をしかめた。「水も、あんまりきれいだと魚は住まんぞ」。適度に濁っている方が、居心地が良いじゃないか。
 議会で公政連の議員が質問に立つ。与党席から野次。「ここで一生懸命やったって、区民は見ちゃいないよ!」。野党も手でメガホン。「時間切れ! 時間切れ!」。相変わらず「反対!反対!」と叫んでいるのは共産党
 閉会後。聞こえよがしの声が廊下に響く。「公政連は、ややこしい。なんだかんだと区民に公約する。うるさくて仕方ない」

▼「大衆のため」の政治がなくてはならない。

◇一本の鉛筆

 花見をするから来てくれないか。
 港区の中山しん子が、海運会社の組合員に誘われたのは、桜の季節も終わりかけたころだった。
 東京湾に面した芝浦に向かった。殺伐としたコンクリートの岸壁が続いている。
 どこに桜が咲いているのか。キツネにつままれたような気持ちのまま、事務所の二階へ上がる。沖仲仕の塩辛声が聞こえる。
 日に焼けた男たちの視線が、いっせいに集まった。
 各党の議員を呼んだと聞いたが、一人も見当たらない。
 床に敷かれたベニア板に一升瓶が並んでいる。申し訳程度に桜の小枝が空き瓶に差してあった。
「さあ、花見だ。乾杯!」
 話が違う。しかし引き下がるわけにいかない。
 ふちの欠けた茶碗に焼酎が注がれた。根っからの下戸である。えーい、ままよ。目をつぶって一気にあおった。「おっ、呑んだ、呑んだ!」
 とたんに歓声があがった。どんぶりにモツ煮込みが山盛りになっている。
 隣のねじり鉢巻きが、たっぷり七味を振ってくれた。
「さあ、食ってくれ」
 箸をのばすと、なかなかおいしい。
 小一時間もたつと、桜の枝をかざしながら、東京音頭の輪をつくっていた。
 男たちの口も、ほどけている。
「今まで議員なんて誰も来やしなかった。どうせ俺たちを馬鹿にしてやがるんだろ」
 社会党共産党も見離した最末端の未組織の労働者たちである。
 飲みつけぬ酒に足元をふらっかせながら、中山は、大切なことに気づき始めた。
 大衆とともに――。その大衆とは、目の前にいる人たちではないのか。
 御用聞きの精神でいこうと思った。働く人のグチや悩みを聞いて、毎日、メモに書き取った。

 公政連が発足したころ、手元にあった一本の鉛筆をかざしながら、池田会長が語ったことがある。
 とがった芯を指さす。
「先っぽを富裕層としよう。この層には、自民党が食い込んできた」
 くるりと鉛筆をひつくり返す。
「後ろは労働者階級だ。社会党共産党が訴えてきた。両方とも、鉛筆全体から見れば一部分である」
 与党も野党も、ひと握りの支持層の利益代表ではないか。
「真ん中の大部分を含めた全体。ここれが『大衆』だ。この人たちのための政治がなくてはならない。それが主権在民だ。それが立正安国だ。王仏冥合ということなんだ」

 一九六〇年代以降、未組織労働者を「巨大組織や社会集団から弾き出された層」と定義した政治学者がいた。
 高畠通敏。フィールドワークを重んじ、低い目線で政治行動を分析した。
「(未組織労働者層が)労働組合や革新組織の下側に固まってくる。これへの応答が創価学会の急速な拡大だった」

 保守側からの視点。
「(学会は)労働の現場から組織がはじまるのでなく、家庭や地域から拡がっていく。それまで保守の側がこういう場所を権威主義的に支配してきたのが、それで崩れはじめた」
 保守でもない。革新でもない。
「人の『生きがい』を組織化した。それが、創価学会の核だった」

◇伏魔殿「東京都議会」

 一九六〇年代、東京都議会は「伏魔殿」と呼ばれた。悪の牙城。
 区議会もまた地域ボスの黒い楽園であった。
 最たるものが「食糧費」。ある区では、当時の金額で年間八二〇万円の予算が組まれていた。内訳は弁当代と宴会費である。
 これだけでも法外だが、さらに別枠で交際費が三九〇万円もついている。
 有権者の知らぬところで年に一二〇〇万円以上の税金が飲み食いに使われていた。
 公政連の一年生議員が立ち上がった。
 議会で「食糧費全廃」と「宴会政治の追放」を提案すると、与野党席からヤジが殺到した。
「拝み屋は黙っていろ!」
「議会の慣習も知らないのか」
「おい一年議員。貧乏人の寝言は止めてくれ」
 与野党で示し合わせ、懲罰委員会に回し、議場で陳謝させようとした。
 ここで謝れば食糧費問題は、闇に葬られる。頑強に拒絶し、全国の公政連に連帯を呼びかけた。
血税が、宴会費や中央官庁の接待費に消えている!」
 全国的な政治テーマになった。遂に悪名高い食糧費は撤廃された。

 隅田川での「し尿処理問題」。宴会政治。議長選をめぐる贈収賄事件……。
 公政連は実地調査を重ねた。
 財界や労組、地域のボスに気を使う必要がない。
 そもそも学会員は自分の町に金を落としてもらうために投票したのではない。
 電気は点いたか。道は直ったか。街路灯は立ったか。下水は改修されたか。
 血税の行方を追いかけ、不正や浪費があれば克明に記録した。
 他党は震え上がった。

自民党「八個師団」

 中央政界では、自民党が数を頼みに栄耀栄華を誇っていた。
 池田派、佐藤派、岸派、大野派、河野派、三木派……。「八個師団」と呼ばれる派閥が覇を競った。
 池田会長は、面談を求めて引きもきらない自民党の領袖たちと渡り合った。学会を票取り引きの材料と見る者には容赦なかったが、対話の回路は閉ざさなかった。

 一方の革新陣営は頼りない。
 右派と左派の分裂。政治資金、選挙地盤、組織の問題。特有の「歴史」「伝統」「人間関係」が絡まり合っている。保守政党
 以上の派閥抗争を生み出していた。
 会長は辛辣だった。
「人情の機微、人生の機微が分からぬようでは革命などできるはずがない」

 怒号と罵声に包まれる中、首相・池田勇人は深々と一礼した。
 一九六三年(昭和三十八年)十月二十三日、衆議院を解散した。
 争点なき選挙と言われたが、勝算はある。「所得倍増計画」の効果は徐々に現れてきている。

◇衆望の水かさ

 各党の視線は、公政連の出方に注がれた。
 すでに一九六二年(昭和三十七年)の参院選、六三年の統一地方選で、その強さは折り紙つきである。各地の実績も中央政界に聞こえていた。
 しかし池田会長は「目下のところ、衆議院進出は考えていない」と明言した。これまで通り特定政党の非推薦を決めた。
 色めきだったのは各党派である。
  五〇〇万世帯の「票」が手つかずのまま、学会に眠っている。
 喉から手が出るほど欲しい。
 与党も野党も群がってきた。
 やれ公政連と自民は長い付き合いだ。やれ革新同士、社会党と手を組もうじゃないか。やれ「中道」は民社も掲げている……。

 公明新聞の編集スタッフが、投書の山に唖然とした。
「すごい。全国から来ている……」
 投票が近づくにつれ、公政連の衆院進出を求める声が殺到した。
「右も左も腐っている。いったい誰に入れればいいんだ」「今回こそ出ると信じていたのに……」
 投票直前のテレビ番組。
 アナウンサーが最新の政党支持率を読み上げていく。よどみなく政党名と数字を伝えてきたが一瞬、戸惑いの色が浮かんだ。
 これは……。
「えー、今回は立候補しておりませんが……。創価学会……」誰も出馬していないのに、支持率が記録されていた。


◇一九六四年の熱気

 時代の歯車が、音を立てて回る。
 一九六四年(昭和三十九年)。昭和史家の半藤一利は指摘している。
「まさに戦後ニッポンが世界的に名乗りを上げ、実力を世界に示したのがこの年で、ひとつのエポック・メイキング」(『昭和史〈戦後篇〉』)
 日本はOECD経済協力開発機構)に加盟する。海外旅行も自由化された。
 夢の超特急「ひかり号」が東海道を結ぶ。東京でオリンピックが開かれ、国立競技場に聖火が燃え上がった。
 敗戦国の暗い影が払拭された。
 巨大な鉄鋼所や石油工場が建設され、太平洋ベルト地帯の景観も変貌した。
 相次ぐ企業の合併。大が小を食うだけでなく、小が大を飲み込むこともあった。
 経済成長率も右肩上がり。大企業のトップから、零細企業の経営者まで「昭和の坂」を力強い足取りで駆け上がっていく時代だった。不思議な熱気と高揚感があった。

 東京五輪直後の国立競技場。
 祭典は大成功だったが、関係者には新たな悩みもあった。
「こんな巨大な競技場、これから誰が使うんだ……」
 学会が手を挙げた。文化祭を開き、七万の会員がスタンドを埋めた。
 来賓席で場内を見渡す男がいた。
 自民党副総裁の川島正次郎。岸、池田、佐藤の三代の政権で大番頭を務めた「陰の実力者」である。
「この会場をいっぱいにできるのは、今や創価学会くらいなもんだ」

 戸田会長は逝去直前の一九五八年(昭和三十三年)三月一日付の学会機関誌「大白蓮華」巻頭言に、次の一文を記している。
「わが創価学会が、かくも見事にできあがった姿をたとえるならば、海から上がった、生き生きとした大きな鯛である。
 目の黒さ、桜色のはだ、ピチピチとした勢い、あらゆる人の垂涎の的である。われわれ同志は、この姿に有頂天となって、ただ喜びにひたっていてはいけないような事情が、身近にさしせまっていることを知らねばならぬ。
 瀬戸内海で生まれ、玄界灘で仕上げ、ふたたび瀬戸内海にはいったこの大鯛の姿に、食い入るような目をさし入れた二つの怪物がある。
 その一つは政治屋である。この鯛からあがる、こころよき匂いに、むくろまで食いしゃぶろうとして、かかってきている。恐るべきことではないか」
 現有五〇〇万の票は、戸田会長の危惧するところの鯛である。
 現に、他党の垂挺の的となっている。いつまでも特定政党の非推薦を貫けるわけもない。
 現に、立候補すらしていないのに、何万もの人々が「創価学会」と支持を表明しているではないか。

▼誰よりも政治を知悉した恩師の遺言。

衆議院への進出

 同年、池田会長は決断した。
 五月三日。第二十七回本部総会(東京・両国の日大講堂)。
 会長が将来の展望を語った。六〇〇万世帯の完遂。
 創価文化会館の建設……。
「公明政治連盟を、皆さん方の賛成があるならば……」
 壇上の幹部が身構えた。
「時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでしょうか」

 賛同の拍手を浴びながら、公政連の幹部らも感無量だった。
 衆院進出を懇望し続けてきた立場である。会長は頑として首を縦に振らなかった。
「まだ時が来ない。もう少し待とう」
「機が熟したら、皆さんと相談して返事をする」
 ついに機が熟したか--幹部の一人は頭を深く垂れた。
“拝み屋”と馬鹿にされた議員たち。厳しく、温かく見守ってくれたのは誰か。
 権力という魔性の虜になるなと叱喧しながら、大物政治家と直談判で渡り合い、学会員を守ってきたのは誰か。

 どよめきが静まってから、池田会長は、もう一つの決断を明かした。
「本日をもって、創価学会の政治部は発展的解消としたい」
 公政連(文化局政治部)を独立させ、学会は支持団体に徹する。
 かつて戸田会長は、一つの憂慮を池田会長に伝えている。
衆議院に進出すれば、お前が誤解を受ける」
 一方で、こうも言い残している。
「時きたらば、衆議院へも出よ」
 どちらも本心であろう。誰よりも政治進出を畏れ、政治を知悉した恩師の遺言だった。
 苦渋の決断だったに違いない。
 学会は政治団体ではない。政党政治の中枢である衆院に進出すれば、非難・中傷は、いやまして必至である。
 ならば公政連を独立させ、政党結成に踏み込むしかない。
 だが、その場合、議員が信念と根本の目的を忘れ、堕落し、腐り果てる危険を大きくはらむ。

◇佐藤内閣の誤算

 歴史に「イフ」はないことを承知のうえで、一つの想像がある。
 もし、一九六四年の時点で、池田会長が公明党発足を決断していなかったら--創価学会は、どうなっていたか。

 一九六四年(昭和三十九年)十一月、総理の座を射止めた佐藤栄作は、四年前の出来事に思いを馳せた。
 六〇年安保闘争。指揮を執った実兄の岸信介は、激しいデモに苦しんだ。安保改定後、即座に政権を手放した。
 政権基盤の脆さを嫌というほど思い知らされた。
 兄を超えたい。では、いかに政権を安定させるか。長期ならしめるか。

 佐藤内閣が発足して一週間後。十一月十七日に公明党が結成された。
 創立者は兄の知己・戸田会長の懐刀だった池田大作
 会長就任後、まさか四年で政党を結成するとは……。
 政権を脅かす存在になると踏んだ。佐藤は知恵袋を呼んだ。
 日本大学会頭の古田重二良。
 政界、財界、私学界にわたる組織を構築し、佐藤政権を“文化工作”で下支えした辣腕である。
 六五年一月、古田は社団法人「日本宗教センター」を設立した。
 立正佼成会やPL教など新宗連新日本宗教団体連合会)と、日宗連(日本宗教連盟)で主力を固めた。宗教界を一手に掌握し、政権基盤の安定化を図ったのである。

 戦後、宗教団体出身の議員の多くが無所属で政界に入ったが、一九六〇年代から保守政党に取り込まれていく。
 動きを加速させたのは、五一年(昭和二十六年)に発足した新宗連である。「信教の自由の庇護」を名目に、既成権力と密接な関係を築いた。
 五九年(昭和三十四年)の参院選挙。「総評三〇〇万票、新宗連四五○万票」と称し、自民党に猛烈なアピールをかけた。
 新宗連の機関紙編集長が明かしている。
「この時、自民党から新宗連に、どれだけ金が流れたか見当もつかない」
 だが六四年の「靖国神社国家護持問題」を機に、新宗連は内部分裂した。
 世界救世教仏所護念会生長の家等、右派教団が続々と脱退。
 デリケートな政治問題が「寄せ集め」の実態を露呈させた。
 今では教団の連帯意識も薄い。以前ほど連合体の機能を果たしていないともいわれる。
 政治権力に翻弄され、票の「草刈り場」となった一つの結果といえよう。
 公明党が発足していなければ、創価学会も、六〇年代の激しい政治的攻勢、換言すれば「体制への取り込み」の対象となっていただろうことは、想像にかたくない。

◇大衆とともに

 昭和三十年代初頭の大阪市内。
 ある夫婦がいた。夫は年季の入ったカブ(小型オートバイ)にまたがり、街を駆け回った。ちょこんと座った長男坊が新聞の束を抱きしめている。
 妻は新聞をいっぱいに乗せた乳母車を押しながら、市内の下町を幾度も歩き通した。三男坊の寝顔が挫ける自分を叱喧してくれた。
「しんぶーん、しんぶーん」
 夫婦は一週間かけて、民家の庭先に新聞を届けていく。
 大阪で唯一、聖教新聞の販売店を営む夫婦だった。

 夫には原点があった。
 数年前。学会本部での教学試験。面接者は戸田会長だった。
「いくつだね」
「二十七歳です」
「何をしてるんだい?」
「バッジを作る工場にいます」
 実直な顔を、じっと見つめる。
「ふむ。若い時に楽をして、年を取ってから苦労するか。
 若い時に苦労して、年を取ってから幸せになるか。君は、どっちがいい」
「後者です」
 軽く笑みを浮かべ、短く締めた。
「四十まで苦労しなさい」

 一九六七年(昭和四十二年)一月二十九日。第三十一回衆議院総選挙。
 初挑戦の公明党は二五人の代議士を誕生させた。
 一人の議員が肩を震わせていた。
 あの販売店主である。面接で戸田会長に指摘された、節目の四十歳を迎えていた。
 定数三の最激戦区だった。
 大阪は庶民の街である。
 見栄っ張りは嫌われる。気取れば返り討ちにあう。
 支持者の集い。顔も身体もガチガチに固まっている。応援に立った池田会長が当意即妙のひとこと。
「村田英雄に、よく似てるねえ!」
 聴衆の印象に残った。
 演歌歌手も顔負に、演説の声を枯らした。頑張って、頑張って、ここまで来ました! 商店主たちが眩いた。「感心やなあ。こんなところは他の候補は素通りや」「庶民的なところが、ええわ」
 大番狂わせの「二位」で当選した。

 六期一七年、代議士を務めた。引退を決意。池田会長のもとへ挨拶に訪れた。
「よく決断したなあ。議員になると権力の旨味を知って辞められなくなる」
 赤絨毯を踏んで有頂天になり、大恩ある支持者を裏切った者もいた。
 温かい言葉をかけてもらった。
「最後まで、権力の誘惑に負けなかったな」

 恩師とともに臨んだ、学会初の地方選出陣の日。公明会発足発表の日。公明党結成を決断した日。
 五十有余年。政治家に向ける視点は、一貫して変わらない。
 大衆とともに生きていけるか。
 大衆とともに死んでいけるか。

(文中敬称略)
池田大作の軌跡」編纂委員会