第11回 宗門事件の深層



宗門事件とは何か。

ある老僧が語った。「学会と宗門の争いではない。人間性の根本が問われた問題だった」。

その深層に迫る。

▼寺の奥深くに、底知れぬ闇。

◇「大奥」の深き闇

 富士山麓の南西で寺が焼け落ち、現場から一体の焼死体が発見されたのは、一九四五年(昭和二十年)六月十八日の朝である。

 焼死したのは、七十五歳の老僧。火元は寺の「大奥」--いわゆる“奥の院”と見られ、炎は対面所、大書院、客殿まで包んだ。

 出火原因に諸説ある。

 内部の過失説。

「あれは、大奥詰めの小僧がローソクで足袋を乾かそうとして、火が回った」

「いやいや、それは作り話。小僧が押し入れで隠れて吸ったタバコの不始末だよ」

 外部の犯行説。

「犯人は朝鮮半島から強制連行された作業兵。日本人の将校を恨んでいて、火をつけた」

 戦争末期で、寺には数百人の部隊が起居していた。

 犠牲者の美談まである。

「沈む船と運命をともにするように、火の中に飛び込んでいった」

 諸説紛々。

 それどころか、真相を隠すために、わざと複数の説が流されたという話もある。

 まるで藪の中である。

 戦争中、事実上の“兵営”が焼け落ちた大事件である。賠償問題もからむ。厳しく真相が糾明されて然るべきであろう。

 しかし、失火の張本人が突きとめられ、公表された形跡はない。誰だったのか。どう処罰され、どこへ行ったのか、杳として知れない。

 なんとも解せない話である。「不始末をした小僧は消されてしまった」とも言う。

 すべては、奥の院の闇に葬り去られた。

 寺の名前は大石寺静岡県富士宮市にある、日蓮正宗総本山である。

 冒頭に、この事件を取り上げたのは、犠牲者が同宗トップの管長・鈴木日恭だったからではない。

 日恭の焼死体が上半身は黒こげ、下半身は竈に嵌って生焼けという、奇怪な姿だったからでもない。

 一九四三年六月、宗門は創価学会牧口常三郎初代会長、戸田城聖理事長を呼び出し、政府の意に従って「神札を受けるように」指示した。出火事件で延焼した対面所こそ、まさにその場所だったという符節、符合を強調するためでもない。

 寺院の奥深くには、底知れぬ暗黒の世界が広がっていることを述べるためである。


◇坊主という生き方

 名刹。古刹。大本山。一般信者や観光客の見学コースは限られている。

 その奥に何があるのか。

 内紛、係争が絶えず、総務部の大型ロッカーが裁判書類で埋まっている教団もある。

 管長選挙となれば“実弾”が飛びかい、永田町以上に生臭い宗派もある。

 大伽藍の輪奐を仰ぎ、ものさびた石庭を愛でているだけではうかがい知れぬ、裏街道の顔がある。

 もっとも、今さら出家、僧侶は清浄高潔と信じる人もいまい。

 肉食妻帯は当たり前。平日からゴルフ三昧。車庫にはベンツ。夜遊びでも豪の者が多い。ためしに「仏教各派の本山の三割が集中する」という京都の夜を訪ねてみればよい。祇園先斗町界隈は手首に念珠をのぞかせた「やんごとなき人々」だらけ。「僧は俗より出でて俗よりも俗」の実態である。

 集金術にかけても、幼稚園や駐車場など、地域に密着した多角経営など、かわいいもの。厄年の女性を狙ったダイレクトメールで遠方からの客寄せに大成功した寺もある。

 しかも、大部分が世襲。今や僧侶は身すぎ世すぎの「稼業」であり、寺院は家代々の「家業」である。

 ただし、表立って信者を侮辱したり、いじめたりする宗派や寺は、ない。大事な客だからである。「お客さま」を足げにして追い払うバカは、いない。まして悪口雑言の限りを浴びせ、揚げ句の果ては勝手に追い出す宗派など、あり得ない。

 煩悩まみれの坊主稼業にも、最低限のルールがある。

 しかし、その一線を踏み外した、例外的な集団がある。

 創価学会日蓮正宗をめぐる、いわゆる「宗門事件」の深層を探る。


◇無表情な能面の列

 真夏の大石寺

 太陽が容赦なく照りつける。午後一時すぎ。池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長は炎暑の屋外で、じっとパイプ椅子に腰掛けていた。団扇であおいでも、あおいでも、汗が噴き出る。

「間もなくです」

 会長は、きちんと上着を着直して、所定の位置に向かった。

 法衣の列を迎える。先頭は管長。役僧から順に所化小僧までゾロゾロと続く。

 一人一人に深く腰を折って、頭を下げる池田会長。当時の学会は日蓮正宗の信徒団体として、同宗を外護する立場にあった。信仰の対象である本尊を、いわばカタに取られていたのだから仕方ない。

 袈裟衣の人々の顔に反応はない。列が切れると、会長は後ろに続いて歩き始めた。

 御開扉と呼ばれた、大石寺での行事前の光景である。柳楽和善(創価学会副会長)は初めて見た時、目を疑った。


「信徒に下げる頭などない、と言わんばかりだった」

 冬の行事。

 宗祖入滅の日を偲んで行われる御大会。前夜に「御逮夜」という法要が戸外で行われる。

 立冬を過ぎている。富士山麓の夜気は冷たい。境内の池が凍ることもある。

 池田会長は背広の上に管長から贈られた居士衣と呼ばれる羽織をつけている。開いた胸元を寒気が突き刺す。直立して、管長一行を迎える。その前を、能面のように無表

 情な行列が通り過ぎていく。

 春の虫払い法要。

 寺宝を長持ちから取り出し、虫を払う。延々と何時間も続く。袈裟を着ていれば、足を崩しても分からない。会長は正座したまま、姿勢を正している。

 長く大石寺にいた古参の僧侶。

「僧侶というのは暇なんです。お経をあげる以外、ほとんど仕事がない。だから儀式には、もったいぶって時間をかける。もったいぶるほど、自分の権威づけにもなるし、信徒向けのパフォーマンスにもなる」


◇自ら供養品を検分

 池田会長の大石寺での行動は、煩雑で気をつかう仕事から始まった。

 大石寺から車で数分の距離にある創価学会扶桑センター。玄関前で下車。正面ロビーを入ると、すでに、いくつもの山に分かれて品物が積まれている。

 矢継ぎ早に指示が飛ぶ。

「この品を加えて」「そこは入れ替えて」「中身に間違いはないだろうね」

 管長をはじめ、大石寺の塔中坊など、供養を届ける先が合計六六カ所あった。

 その詳細な検分が最初の仕事である。

 すでに書面で内容は確認済みだが、任せっぱなしにしない。品目、数量、体裁。届ける前に、自分の目で確認する。のし紙の文言まで細かく見た。

 学会では大石寺に参詣することを「登山」と言った。登山のたびに見られる光景だった。検分に居合わせた平野惠万(参議)の証言。

「そこまでする必要があるのか、と思うほど真剣でした。学会員の代表として、会員を守るため、とことん礼を尽くされていました」

 学会幹部が大石寺内の届け先を回った。もらい慣れた態度で儀礼的に頭を下げる。供養を玄関先に置きっぱなしにする坊まであった。


◇陰湿な嫌がらせ

 住職夫人は見ていた。

 一九八四年(昭和五十九年)当時、初夏の昼下がり。管長との面談に向かっていた池田会長が内事部(大石寺の事務を扱う部署)で居合わせた、十数人の寺僧と出くわした。

 会長は、さっと立ち止まった。

「皆さま、いつもありがとうございます」。深々とあいさつしたが、無言。礼を返すでもない。

 会長が向き直って歩きはじめた瞬間、坊主頭が一つ、おどけ出た。ひそひそと声色をまねながら「皆さま、いつもありがとうございます」。頭を下げてみせた。

 他の者たちは唇の端をゆがめて、ほくそ笑んでいる。

「まだ、その場に池田先生がいるのに。何とも言えない、不謹慎な雰囲気でした」

 吉川幸道(京都・宇治市、大城寺住職)の夫人は、背筋に冷たい汗を感じた。寺僧たちも、他に学会員がいれば、ここまで露骨に本音は見せまい。だが、ここは一般信徒立ち入り禁止の区域。何をやろうと坊主の天下である。

 会長の同行カメラマンである斎藤亨(聖教新聞写真局次長)にも、嫌な記憶がある。

 一九八一年十月。大石寺に新築された宗務院庁舎を、池田会長が訪れた。

 廊下がツルツルに磨かれている。

 油でも塗ったように光っている。そこにフェルト地のスリッパが用意されていた。

“これは危ない”

 斎藤は危惧した。これでは、転倒させるために用意してあるようなものだ。

 やはり池田会長が足をとられた。斎藤は咄嵯に手を伸ばし、脇を支えた。

 職業柄、勘がいい斎藤。ふと人の気配を感じた。振り仰ぐと、上の階から、いくつもの坊主頭が首を伸ばし、のぞき込んでいた。

 目に探るような光があった。にらみつけると、さっと頭を引っ込めた。

 創価学会の登山部長として、本山で会長の身辺にいた平野惠万。

「宗門が何不自由なく暮らしていけるのは、すべて池田先生の外護あってのことです。

 しかし、坊主たちは、そのこと自体が、おもしろくない。

 まさか、大恩人、大功労者の先生に面と向かっては何も言えない。そのぶん何かにつけて陰口を叩いていた」


◇「大奥」対面所

 江戸城で将軍の居住区域を「大奥」と呼んだ。時代がかった呼称が、宗門では今も使われている。

 大石寺の奥に、いわば内閣官房の機能をもつ大坊がある。そこから廊下が伸びている。長い。

 廊下の先に大奥の入口。ここからは大奥の主である管長、宗門首脳、また「奥番」と

 称する管長付きの若手など、一部の者以外はシャットアウトである。

 入口から廊下を隔てた二階に「対面所」がある。八○畳。管長専用の巨大な座机が置かれている。ほかに何もない。


 ここで面会者は、江戸城さながらに、額を畳にこすりつけて待つ。面会自体も「目通り」と言った。

 時に対面所が、ぎっしりと埋まる。たとえば「寺族同心会」。住職らの家族、つまり寺で徒食している一族である。


「奉御供養」と書かれた分厚い袋が机に積まれていく。奥番が漆塗りの三宝に乗せ、すばやく運び出す。バクチのコマでも集めるように手際がいい。次の一群が現れ、同様に平伏し、供養を差し出す。

 なかには、目的があって個人的に「目通り」を希望する者もいる。この場合、供養の相場は最低一〇〇万円。一億円の詰まった段ボール箱を、底が抜けないように運び入れる者もいた。


◇山奥の“バチカン

 宗門は、本山と管長をトップにしたピラミッド型社会である。寺であれ人であれ、すべてに上下関係があり、差別がある。

 寺院の等級は、一等から三十一等まで分かれている。

 僧侶の等級は、所化小僧にはじまり、権訓導、訓導、少講師、講師、大講師、権僧都僧都権大僧都大僧都権僧正、僧正、権大僧正、大僧正。頂点は気の遠くなるほど彼方にある。

 管長は、ありとあらゆる権威、権限、権能を一身に集める。その権力集中ぶりは、小なりとはいえ、バチカンローマ法王さながらである。

 宗務院の総監から、中央の部長ポスト、各方面・教区のトップ、末寺の住職、信徒のリーダー。生殺与奪は胸ひとつである。

 ピラミッドの底辺から金を吸い上げるシステムも隙がない。宗門の収入は、賦課金、義納金、手数料、補給金、寄付金に分類されている。

 賦課金にしても、さらに寺院賦課金、教師賦課金に分かれ、前者は末寺が年に二回、春と秋に納入する。金額は寺の等級に応じている。

 一等の寺なら一〇〇〇万円。元をただせば、すべて信徒の供養であることは言うまでもない。


正本堂で飲み代稼ぎ

「ロクマルナナ、内事部A」。大石寺内に無線が流れた。

 ロクマルナナは、大石寺六十七世を称した阿部日顕(すでに退座)の符丁。Aは出発。阿部が内事部を出たという連絡である。御開扉の時間が迫っていた。

 御開扉が行われる、正本堂の番小屋。ホワイトボードに「六〇七」と書かれている。

 今日の導師が阿部である記号。

 学会の登山会が盛んだったころ、この御開扉料は年間で約三〇億円にのぼった。

 大石寺では、この供養を、出席した者たちで山分けする。正本堂の控え室には出勤簿があり、スタンプを押す。月末二十五日に、回数に応じた金額を受け取る。

 これを「開満割り」という。

 御開扉の「開」、満山供養の「満」、割り金の「割り」からなる言葉である。

 自分の寺を持たない、大石寺内事部や宗務院の事務方にとっては、貴重な収入源である。せっせと参加した。「飲み代稼ぎに、もう一丁、行くか」。連日の“お勤め”に励む。

 学会員にとって、敬虔な祈りの儀式が、小遣い稼ぎになっていた。

 いったい、いつから、このような実態が生まれたのか--。


▼供養を吸い上げる本山のシステム。


◇小石を持って登山せよ

 神奈川県平塚市に老僧を訪ねた。

 大経寺の住職・渡辺慈済。戦後の日蓮正宗の“生き字引”である。宗門の堕落を嘆き、宗風の刷新を訴えてきた。


「出家したのは昭和二十四年(一九四九年)。大石寺は寂れきった貧乏寺でした。

 食べるもの、着るものも満足にない。僧侶が泥まみれになって土地を開墾した。近所の檀徒に笑われていたくらいです」

 今日と隔世の感がある。

「建物はボロボロ。屋根の銅板は軍部に拠出したのか、トタン葺きに代わっていた。

 当時の管長もバラック住まい。

 だから、利にさとい者たちは、本山で偉くなるより、実入りのいい東京の寺の住職になりたがった」

 京都あたりでは、お布施の上がる金持ち寺を「肉山」、貧乏寺を「骨山」と呼ぶ。

 大石寺は、典型的な「骨山」だった。完全に食い詰めて、観光地化に乗り出した。富士山は近い。滝もある。古ぼけているが五重塔だってある。観光客の落とす金で食っていこうじゃないか。

 これに「待った」をかけたのは、創価学会戸田城聖第二代会長である。まだ学会の財政基盤も確立されていなかったが、宗門の再建を優先した。そのために「月例登山会」をスタートさせた。

 第一回は一九五二年(昭和二十七年)十月。約三八○人が参加した。

 奇妙な通達があった。

「お米三合と三〇〇円、それに小石を一袋、持参するように」

 米は自分が食べる割前の分。登山会を知った地元の農民が米を高値で売ろうとした。

 そこで、やむなく各自が持参することにしたのである。

 現金は供養である。では小石は何か。境内に撒くためだった。

 雨が降ると参道はぬかるみ、まともに歩けない。砂利道や石畳にする予算はない。小石を持ち寄る「人海戦術」に打って出たのである。


大本営の移動に匹敵


「ひと月で二〇万人!」

 その数を聞いて、国鉄(当時)の幹部は「絶対に無理」と強く首を振った。

「そんな大規模な輸送は、日清戦争大本営を広島に移したとき以外に、やった例がない。それも軍人だったから貨物列車でも何でも使えた。だけど一般人でしょ。無茶ですよ」

 頭から否定された(株)日本旅行の学会担当・豊田英実は、すっかり意気消沈してしまった。

 一九五八年(昭和三十三年)初頭。大石寺に大講堂の完成が間近となった。学会の寄進である。記念の大規模な登山会が予定されていた。

 一カ月間に列車で一二万余人、バスで九万人を輸送する。列車の確保と運行体制。国鉄側にとっては想像の埒外にあった。

 しかし学会は、やってのけた。

「池田先生が登山運営の総責任者だったからこそです」。豊田は今も感謝する。


                         *

 登山列車の手配では国鉄に交渉して、戸田会長と数人分の席を二等車に確保した。残りは三等車に、ぎゅうぎゅう詰め。

 富士駅に着くと、三等車から池田室長が戸田会長の車両に飛んできた。長旅を気遣うように、手を取ってホームを歩いた。

 月例登山会をめぐる豊田の回想。

「ゴザと板を持ち込む人が大勢いた。座席が足りなくなると、通路にゴザを敷く。池

 田先生もゴザで休まれたのでは。ボックス席では、向かい合わせのシートに板を渡す。足を伸ばせるようにするんです」

「途中駅に停車すると、酔っぱらいや不審者が紛れ込んでくる。輸送係の青年が、夜通し、デッキで目を光らせてくれました」

 車両の確保も難事だった。夏の行楽シーズンの折に、どうしても列車が一本足りなくなった。

 国鉄と交渉の末、なんとか山手線の車両を回してもらった。国鉄はじまって以来の珍事だった。ただしトイレがなく、登山者は、じっと我慢したという。


                        *

 大講堂が完成した時、豊田は戸田会長に呼ばれた。五階の窓辺で、戸田会長は遠くを指さした。

「あの先に杉の木が並んでいるだろう。昔は、あそこまで大石寺の寺領だったんだ。

 それが、今はこんなに小さくなってしまった……」

 逝去する直前である。

 戦後の農地解放で土地を失い、没落した大石寺の復興を、戸田会長は最後まで願っていた。


▼「阿部には将来、気をつけろ!」


◇「阿部はダメだ」

「戸田先生からいただいた『すき焼き』の味が、今でも忘れられない」

 渡辺慈済は半世紀前を懐かしむ。

 戸田会長は登山すると、大石寺の所化を招待し、食事を振る舞った。

「この中から将来の日目上人(大石寺三世)が現れるかもしれない」

 宗門には、そういう伝承があった。戸田会長は年端もゆかぬ小僧たちに、長身を折り、最敬礼で遇した。

 小板橋明英(京都市、能栄寺住職)も、当時を知る一人。

「戸田先生を囲んで質問会があった。私たち所化も参加した。話が明快で、深い。毎月、楽しみだった」

 会員から敬愛される戸田会長を、一部のマスコミは“教祖”“生き仏”と揶揄した。

 宗門の一部にも、これを問題視する者がいた。

「なになに、堀日亨上人(大石寺五十九世。近代の宗門の大学匠として知られた)は、笑い飛ばしていましたよ」


 小板橋は、碩学の言葉を思い出す。

「それくらい呼ばれるぐらいじゃないと、広宣流布は出来っこない。ガタガタ言うんだったら、自分でやれ! とね」

 宗門の復興に心を砕いた戸田会長は、宗門の腐敗にも極めて厳しかった。

「戸田会長が登山すると、みな、おっかながって隠れてしまった。逃げてしまった」という。

 時に雷が落ちた。

「坊主ども! 戸田が供養を持って来るから、ペコペコしているのだろう。とくに阿部なんか、しょうがない!」「阿部はダメだ!」「阿部には将来、気をつけろ!」

 その場にいた人間の多くは「阿部って、誰だ?」と首をかしげた。

 後年、第二次宗門事件を引き起こす阿部日顕(当時は信雄)のことであった。


◇池袋のラーメン

 細井琢道(東京・足立区、実修寺住職)には、思い出がある。

「昭和二十九年(一九五四年)ごろだったと思います。まだ小学生でした。

 私がいた池袋の常在寺(東京・豊島区)に、戸田先生が御書講義のため、たびたび来られました。当時、青年部の室長だった池田会長も一緒でした」

 ある日、講義の後で、池田室長から声をかけられた。

「ご馳走しましょう。ラーメンでも、どうですか」

 くりくり頭の細井少年は喜んだ。「今、何時かな」「もう九時か……」

 室長は、夜遅く少年を連れ出しては申し訳ないと考えたようだ。

「いつか必ず」と約束し、その日は、そのまま別れた。

 それから、およそ十年が経った。細井は京都の寺に赴任することになり、学会本部にあいさつに行った。

 池田会長は「お祝いさせてください」。一流の中華料理店に招待した。

「あの日は申し訳ありませんでした。ラーメン、ご馳走できないままでしたね」“あっ! 池袋のラーメン”

 遠い記憶が蘇った。次の瞬間、熱く込み上げるものがあった。「小僧だった私との小さな約束を、ずっと覚えてくれていた。それを思い出すと……。

 大事なのは信義だ。会長との絆のほうが強い。だから私は、学会を切った宗門から離脱したんです」


◇「だれも来るな!」

 深夜、大阪の会員が泊まった大石寺の宿坊で、黒い人影が動いている。

 足を忍ばせながら、布団をはねとばしている人に、かけ直している。

“だれ……”。気配で目を見ました会員が、寝呆け眼を暗闇にこらすと、池田室長その人であった。

 寝息を立てている会員は、何も知らない。表で「不寝番」にあたる役員に小さく声をかげながら、宿坊を去っていく。こうした態度は、後に会長になってからも変わらなかった。

「学会員が無事に大石寺に到着するか。無事故で帰ったか--池田先生は、登山会中は心配で夜も寝られない様子でした。近くで見ていて、よく分かりました」(平野惠万)

 気候の影響などで、登山列車や船が乱れると、会長は最優先で詳細な報告を求め、激励の品や伝言を送った。

 カメラマンの斎藤。忘れられない写真がある。

 一九七〇年(昭和四十五年)八月二十二日。大石寺では朝から女子部の夏季講習会がスタートしていた。だが、四国勢の姿がない。

 前日、台風十号が四国を直撃し、交通機関がマヒしていた。予定の経路を変え、何度も乗り継ぎながら大石寺をめざしていた。

 その報告が遅れた。池田会長の耳に入ったのは夕刻だった。

「みんな集まれ!」

 雪山坊の一階に幹部が、おっとり刀で集まる。

「どういう状況なのか」

「差し入れはしたのか」

 寂として声無し。何の手も打たれていなかった。

 叱責が飛んだ。

「こんなに人間がいて、どうして何もしないんだ。なぜ何もできないんだ」

「今すぐ炊き出しをして、食べ物を届けろ」

「水と毛布も用意して激励に行け」

 怒髪天を衝く勢いである。指示を伝えた後も、怒りは収まらない。「会員を蔑ろにする」「戦いが後手に回る」。これほど会長の怒りを誘発することはない。

 四国の女子部員が、かわいそうだ。放っておいた幹部も許せない。目の前で何もできない。してあげられない。もどかしい。

「だれも来るな!」

 それほど憤慨やるかたなかった。浴衣姿のまま、宿坊にしていた雪山坊を出て、正面を流れる潤井川の堤に跳び上がった。腕をまくり、ドカッと胡座をかく。

 川も荒れていた。じっと流れに目を落としたまま動かない。

 来るなと言われたが、斎藤は追いかけた。「会員のため」。口では何とでもいえる。

 だが……会長の背中からは、怒りの炎が見えるようだった。歴史に留めたい一心で、シャッターボタンを押した。


◇六五〇〇人が危ない

「台風十九号は、日本海を北上しながら……引き続き十分な警戒が必要です……」

 一九七一年(昭和四十六年)八月五日。富士宮市庁舎。流れるニュースは、台風の進路を刻々と伝えていた。

“まずい……”

 市長の山川斌は、困惑した。

 このままでは、富士山麓朝霧高原にいる六五〇〇人の生命が危ない。ボーイスカウトの大野営大会(世界ジャンボリー)が台風の暴風圏に巻き込まれる。

 午後六時前。山川は受話器を握った。ダイヤル先は、創価学会の夏季講習会が行われている大石寺の輸送センターである。

 市長からの「避難要請」を受けたのは平野惠万。ただちに宗務院に一報を入れた。

 ベルを鳴らしても出ない。「早くしてくれ」と気がせく。ようやく渉外部長の吉田義誠(日勇)が応答した。

「それは困りますね……。彼らが来ると、汚されるでしょ」

 汚される? 耳を疑った。

「まあ、学会に任せるので、責任をもってやってください」

 完全に丸投げされ、電話は切られた。


                             *

 雪山坊にいる池田会長に緊急事態を伝えた。

「受け入れよう。人間として当然だ」

 即断即決。

「出かけるよ。車を頼む」


◇真っ先に売店

 車は雨を切り裂いて走った。

「この店の前で止めてくれ」

 総坊前の売店である。ちらりと腕時計を見る。午後六時十分。

 目当ての品物を注文した。

「タオルがありましたね。八○○本。全部ください」

 目を丸くする従業員。なぜタオルの在庫を知っているのか。車にタオルを積み込み、大石寺の休憩施設へ。ちょうどボーイスカウトの第一陣が到着したタイミングだった。

「ようこそ。歓迎します」「風邪をひかないように」。一人一人にタオルを手渡した。

 随行していた青年がうなった。

「だから、あの店に行ったのか!」

 大石寺には当時、約一六〇の売店があった。会長は、その一軒一軒を知悉していた。

 日ごろから売店組合の代表と懇談し、自ら売店に足を運んだ。

「儲かってますか」「扱っている商品は」「在庫は」。経営に耳を傾けながら、店の商品構成まで頭に入れていた。


「次は大講堂だ」。ロビーに机を運び、仮設の指揮本部が置かれている。

 すでに矢継ぎ早の指示で全山が動いている。

「学会の行事は変更。大講堂や大化城も使えるように」

「あと何分で到着か」

「暗いし、寒い。かがり火を焚こう」

「誘導に役員をつけて」

「毛布の用意を」

「温かいシャワーを使えるように」

「倉庫にあるものも全部、出して」

 またたく間に、救援物資を集めた。パン一万四〇〇〇個、おにぎり二〇〇〇個、スイカ二○○個、ジュース三〇〇〇本、毛布三〇〇〇枚、タオル二二○○本……。

 大石寺とその周辺は、たなごころの中にある。脳裏に詳細な“境内地図”を広げ、大講堂の前線基地で陣頭指揮を執った。

 大石寺の役僧たちは、ちらちらと様子を覗きに来ただけだった。宗務院と交信した平野に“もし境内が汚れたら、きれいにして返してくれ”と暗に、ほのめかしている。

 ボーイスカウト全員が床につくまで見届けた会長が雪山坊に戻ったのは、午後十一時半だった。

 後日。

 ジャンボリーの運営本部は、あらかじめ宗門側に「万が一の時は、緊急避難をさせてもらいたい」と要請済みだったことが分かった。

 宗門は、それを学会に伝えてもいなかった。


◇世界的な参詣地に

 ひとにぎりの小石をまいて始まった登山会は、昭和四十年代、世界中から年間三〇〇万人が集うまでになった。

 カトリックで言えばバチカンイスラムならばメッカの巡礼者数に匹敵する。短時日で、世界的な聖地と比肩する規模になった。

 かつて、管長のなり手にも欠いた「骨山」の面影はない。

 終戦後、大石寺の境内地は、およそ五万坪であった。一九七〇年には、一一三万五〇〇〇坪に拡大している。

 学会が建立・寄進した寺院は全国で三五六力寺を数える。

 土地、建物、現金など、学会からの供養、その他、個々の学会員が大石寺や末寺に包んだ供養は、天文学的数字になる。

 もう一点。寺院の数に対する、信徒の数に注目したい。

 一九八九年(平成元年)版の文化庁宗教年鑑」を参照して、各宗派の一カ寺あたりの公称檀信徒数を計算した。


 高野川真言宗は一五一六人。

 浄土宗は八四九人。

 日蓮宗は、五〇七人。

 曹洞宗は四七〇人。

 日蓮正宗は、なんと二万五七〇五人。ケタ違いの数字である。

 日本の仏教界では、こんな定説がある。「三〇〇世帯の檀徒があれば、寺は食っていける」。

 その条件に合致する寺院は、全体の約二割。残り八割は、副業でしのぐ“兼業寺院”である。


◇キャラメルの山

 わずか二〇年ほどで「骨山」から「肉山」へ変貌した大石寺。禄を食む者たちの暮らしは急速にレベルアップした。


 その一例。

 山のように積まれたキャラメルを前に、本山の所化たちは「宝の山」を見るような表情になった。

 一九五三年(昭和二十八年)当時。

 参詣する学会員が、連日、小僧に甘いお菓子を持ってきてくれた。

 貴重なキャラメルが、みるみるたまっていく。初めは驚喜していた所化たちも、さすがに食べきれない。

 悪知恵の働く小僧がいた。

“ひとつ、売ってみるか”

 学校の同級生を相手に商売を始めた。面白いように売れていく。たっぷりと小遣い銭を稼いだ。

 これは学校側でも問題となり、小学校の教諭が大石寺まで押しかけ、注意をうながした。

 要するに、小僧ですらおかしくなってしまう。感覚がマヒする。まして収入のケタが違いはじめた大人たちは、なおさらである。はじめは「有り難い」と頭を下げても、やがて「当たり前」になる。

 かつては「大石寺と聞くと塩も貸さない」といわれた。供養する信徒がいれば、全山あげて、三門まで打ち揃って歓迎した。

「僧侶が、供養を有り余るくらいもらったら、人間的にゼロになってしまう。その有り難さ、感謝が人間にあれば、宗門の事件は起きなかった」

「学会と宗門の争いではなく、人間性の争い。人間の根本が腐っているか、腐っていないか。宗教の問題ではなく、人間の問題だ」渡辺慈済は憤る。


人間性の根本が問われた宗門事件。


◇秋田の学会員の苦渋

 ここで目を秋田県に転じたい。「人間の根本が腐っているか、いないか」を見定める格好のケースがある。

 一九七七年(昭和五十二年)ごろから起きた第一次宗門事件。秋田は大分とならんで、もっとも大きく揺れた地である。

 真面目。実直。我慢強い。秋田の県民性には、すぐれた美質がある。

 要するに人がよい。この類いまれな人間性に付け込んだ者がいた。


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 秋田市から南東に五〇キロ。大曲市(現・大仙市)の寿泉寺。葬儀の依頼が入ると、住職の倉光哲正は、すぐそれと分かるほど喜んだ。

 段取りは決まっている。遺族を寺に呼ぶ。「学会員の葬儀は、やらない。学会を辞めたら、やってやる」。この脅しは効果抜群だった。

 秋田は坊主の値が高い。地元の名士である。地縁、血縁を重んじ、家族思いの土地柄。僧侶抜きの葬儀は恥さらしだ。故人の顔も立たない。

 倉光は葬儀のやり方も変え、従来、葬儀と併せて行っていた初七日法要も別にした。

 もう一度、学会員に頭を下げに来させて、脱会を畳みかけた。


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 大曲の西仙北支部では、二百数十世帯のうち、四分の一が脱会した。支部長だった西山秀隆は身を切り裂かれる思いだった。

 冬は雪が深い。二メートルは積もる。農閑期で雪に閉ざされ、誰もが家にいる。折伏の好機到来である。

「吹雪くから休むなんて、頭にねえ。一寸先も見えねえよ。前、進んでんだかも、わがらねえですよ」

 吹雪けば、頭からすっぽり、手ぬぐいで頬かむり。秋田杉の皮で作った松明を赤々と掲げた。

「杉の皮、風で消えねえもん。風があると、かえって燃えるんだ」

 夏場の折伏。夜中に大曲から西仙北まで歩いて戻った。約三〇キロ。夜が白々と明けてくる。朝の早い農家の学会員が起きていた。

「腹サ減ってきて。モチあぶってもらって帰るんだあ」

 すべてをなげうって築いた、我が身同然の組織が切り崩されたのである。全身から血が噴き出るような痛みだった。


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 能代市の多宝寺に南出受道という住職がいた。

 一九七九年。底冷えする二月の夜。南出は庫裏で炬燵にあたっている。部屋には寺側の檀徒が数人。

 学会の武石鉄郎たちは火の気のない片隅で正座させられていた。腰から下が、じんじん冷える。

 南出が犬でも叱りつける口調で命令した。

「早く口を割れ。いつまで黙っているんだ!」

 学会員が檀徒の悪口を言いふらしているという。まるで身に覚えがない。

 檀徒が嵩にかかる。

「まだ認めないのか! いっから地獄行きの隊長になったんだ、ええ? 学会が間違ってた、と謝れ!」

 かれこれ四時間がたっている。めまいがして床がぐらりと傾くようだった。

 南出が癖れを切らした。

「まだ改心しないのか。だったら、御本尊を取り上げるしかないな」

 取り上げる権限は実は末寺住職にない。だが南出たちは、それを知らない。

 最後は始末書を書かされた。「二度と檀徒の批判はしない」「もし、そのような事実があったら、御本尊を取り上げられても異議はない」。順番に署名し、拇印を押した。


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 四年もの間、秋田の会員は苦汁をなめつくした。

 池田会長が、いちめん銀世界の秋田を訪れたのは、一九八二年(昭和五十七年)一月十日のことである。


◇白いオーバーコート

「やっぱ、行くべ」

「んだ、んだ」

 実直な秋田人だが、こうと決めたらテコでも動かない。

 長靴で足元を固め、空港から秋田市内に通じる道に歩を進めた。

 依然、宗門が監視の目を光らせている。迎えは禁物と通達されたが、血が騒いで仕方ない。何も邪魔はしない。一目、車を見るだけでいい。会員の数は次第に増えた。

 最初の異変は、空港から車で一〇分ほどの街角で起きた。

 きょろきょろしていると、車が近づいてきた。小さなブレーキ音。ドアが開き、降り立つ人がいる。

 みな、目の前で何が起きているか理解できない。ぽかんとした顔に、驚きの色。

「先生!」

 黙って道ばたに立っているつもりだった。まさか出てきてくれるとは!

 スタッフは、通過や解散指示を考えたが、道沿いに人影があると、そのたびに会長は車を止めた。

 一人一人に声をかけ、記念のカメラに。随行のカメラマンは、合計九回も雪の道へ走り出た。


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「あば(母さん)」

 西山秀隆が呼ぶと、妻がタンスから大事そうに白いオーバーコートを取り出した。

 秋田で池田会長が身につけていた防寒具である。表が白。裏地はブルー。フード付き。

 宗門事件で苦しんだ西仙北支部の西山が、秋田を代表して譲り受けた。

 六日間にわたった「雪の秋田指導」。この白いコートは、いくつもの場面を見てきた。

 横なぐりの雪の中で未来部や女子部の代表と続けた記念撮影。

 山王支部の会員が真心で作成した「かまくら」の温かさ。

 軍艦のように揺れ動いたという秋田文化会館では、ハンガーにかけられていただろう。

 会館前の公園を埋めた会員が、池田会長と拳を突き上げた勝ち鬨の声も聞いたに違いない。

 そのとき「真綿のようで、冷たさを感じなかった」と会員が述懐する雪も、このコートの肩に降りそそいだ。

 今は西山家の宝である。

 今も冬になると、この地域では弘教の息吹が高まる。町議選(当時)の支援も寒い二月だった。

 秋田・冬の陣--活動が大詰めになると、西山は車にコートを乗せ、拠点に走る。

「さ、着て着て」

 会員が袖を通す。誰もが雪の秋田指導を思い返し、胸を高ぶらせる。

 取材の最後。西山にも着てもらった。感想を聞くと、からっと笑った。

「いやあ、身ぶるいするさ!」


◇大分と秋田を貫くもの

 薄暗い病院の廊下に、か細い声が聞こえてくる。

「死にたくない。死にたくない」

 声の主は、ベッドで動けない。寿泉寺の住職だった倉光哲正。脳溢血で倒れた。

「チリン、チリン……」

 よろよろと鐘を振るが、側には妻もいない。

 寺は檀徒に乗っ取られ、家族にも見捨てられ、二〇〇〇年(平成十二年)に他界。


                     *

 八一年十二月、大分。翌八二年一月、秋田。

 池田会長が、ここから「反転攻勢」の狼煙を上げたことは、よく知られている。

 古典『人国記』では「豊後」(大分)の気質について、こう記されている。

「多くは勇勝りて理聞き形儀多し」

 勇敢でバイタリティーにあふれる。反面、猪突猛進、おっちょこちょい。

 一方、「出羽」(秋田・山形)。

「奥州の風儀よりは律儀」「四民ともに礼厚きなり」

 義理がたく、真面目、純朴。

「百姓は地頭を頼む心入れあり」

 権威におもねる悪風もある。

 真面目だが権威に弱い。良くも悪くも、日本人らしい精神の傾向性である。

 九州的な情熱が先走りすぎても、悪人に付け込まれる。東北的な寡黙や温厚も、羊の群れを生む可能性がある。結局、真実が見えなくなる。

 南と北と。一連の大分、秋田指導は、日本人の精神の急所を南北から突いたようにも思える。


富士宮の嘆き

大石寺が学会を大切にしていれば、富士宮は栄えていた。ばかなことをしたものだ」

 井出虎男は、深い吐息をついた。大石寺の地元、富士宮市富士桜の会会長。市の環境美化に尽力している。

「富士山を世界遺産にしょうとしているが、学会がいれば富士宮は、それだけで立派だった」

 残念無念の口調である。

「原因は宗門の池田先生への嫉妬と猜疑心でしょうか。理解できない。先生の人望があまりに高く、会員が慕っている。その嫉妬でしょうか……」

 首をかしげ、どうにも納得できない様子だった。第二次宗門事件のショックは、まだ富士宮で尾を引いている。

 富士周辺の各宗寺院の声を聞いた。

 日蓮宗。「数が減ったのは、大石寺に魅力がない証拠」「学会は嫌いだが、明らかに宗門の間違い」

 浄土宗。「寺は信者さんがあって成り立っている。私は大切にしています」

 禅宗。「宗教界の恥」「さんざん金を巻き上げて、みっともない」

 真言宗。「当たり前のことが、どうして分からないんでしょうね」

 富士の麓に観する声は厳しい。

 最後に、もう一つ日蓮宗

日蓮正宗さんは、変わった宗派だ……」


(文中敬称略)

池田大作の軌跡」編纂委員会