民主音楽協会を設立

音楽は一部の特権階級のものでも、政争の具でもない。1963年、民音を設立。
池田会長が、民衆という大地に“音楽の種”をまいてから今年で四十五年を数える。
民音を作った池田先生に、お会いしたい」

西郷輝彦の願い=

「一度でいい。一目でいい。お会いしたいなあ……」
 西郷輝彦(歌手・俳優)。まるで告白するような口調で続けた。「民音を作った池田先生にね」
 二〇〇七年(平成十九年)十月十六日。都内のインタビュー場所に現れた西郷は、還暦を過ぎたとは思えない若々しさだった。
 豊かな髪は黒く、ツヤがあり、長い足に細身のジーンズが、よく似合う。たくわえた髭も血色のいい顔に栄えている。
 舟木一夫橋幸夫と一世を風靡した元祖「御三家」 のひとり。
「この歳になると、子や孫たちの将来が、どうなっていくか、心配になります。この一〇年くらいの間に、日本は急激に変わった。モラルもそう。未来は、どうなるのか。みんな答えを求めています」
 デビュー四四年。浮沈の激しい世界を生き抜いてきた男らしい視座である。
 なぜ池田大作SGI (創価学会イン.タナショナル)会長に会ってみたいのか。


砂防会館田中角栄

 一九八三年(昭和五十八年)、西郷に大役が回ってきた。映画「小説吉田学校」で若き田中角栄に扮する。
 森繁久禰(吉田茂役)、芦田伸介鳩山一郎役)ら大先輩との共演だが、モデルとなる政治家の多くは没していた。現役の政治家として、田中は超大物だった。
「私の役をやるんだったら、一週間、通いなさい」 田中から直々に呼ばれ、役作りのため、田中邸(文京区目白台)と砂防会館千代田区平河町)に交互に通った。
 砂防会館には田中の個人事務所や、自民党最大派閥だった木曜クラブ田中派)の事務所がある。ひっきりなしに政財界の要人が出入りしている。
 保守政界の領袖である。来訪者への気配り、土産の品、伝言。どれも緻密で細かい。会食の場でも、食事に箸を付けない。
 記憶力も抜群で、西郷の芸能活動を、つぶさに把握していた。魅了される反面?こんなカリスマを演じなければいけないのか″。正直、ひるみかけたほどである。
 精力的に動く田中本人には、さすがに直接は話しかけにくい。顔なじみになった秘書から、人となりを教えてもらった。
 ある日、意外な一面を知る。
創価学会の池田先生は、すごいね。うちのオヤジ(田中角栄)も、よく言っているんだよ」
 田中の胸の内を明かしてくれた。「オヤジが言っていた。自民党といっても、あらゆる階層の人がいる。これを調整するのは本当に難しい。まして創価学会は、あれだけ幅広い人たちで成り立っている。その学会をまとめているんだから、池田先生はすごい、と」
 角栄さんが尊敬している人物 −西郷の脳裏に、池田会長の名前が強く刻まれた。
 映画「小説吉田学校」 が完成後、西郷は「次は誰の役をやりたい?」と映画関係者に聞かれた。
 頭に浮かんだ人物は一人だった。

                       *

 小説「人間革命」が映画化されたとき、若き池田会長をモデルとする山本伸一の役は、残念ながら、西郷に回って来なかった。
 白羽の矢は、あおい輝彦に。西郷とはNHKドラマ「若い季節」で共演。「テル・テル」と話題になった間柄で、今も仲がいい。
「絶対、僕がやったほうが良かったという自信があります」
 少し悔しげな表情。
「でも、あおい君、なかなか雰囲気はありましたね」


=初めてのステージ=

 西郷が初めて民音公演のステージに立ったのは、一九六九年(昭和四十四年)である。
民音? あの創価学会の?」
 眉をひそめた。芸名を郷里の偉人・西郷隆盛から取ったように、鹿児島県生まれ。少年時代、学会の評判は悪かった。なにより家族が大の学会嫌いである。
 近所の学会員に折伏されて怒った親が、バケツの水をぶっ掛けたことが忘れられない。
 労働組合が母体の「労音勤労者音楽協議会)」なら、よく知っている。同じように勢力拡大の手段だろうか。
 強い抵抗があったが、仕事は仕事と割り切った。
 民音公演の準備が始まった。スタッフが素人っぽく、変に業界ずれしたところがない。
「なんだって。あえて自分の持ち歌を歌わなくてもいいって?」
 思いもよらない提案がボンボン飛び出す。業界の常識、セオリーなど、おかまいなし。
「これは面白い。普段、できないことが、やれるかもしれないぞ」
 本番のステージに立った。ところが客席は静まりかえっている。いつもなら、ここで黄色い歓声が飛んでくるのに。
 プログラムを間違えたのだろうか。かすかに足が震える。恐る恐る歌い始めた。
 だんだん目が慣れ、ステージから客席の顔が見えてきた。みな、妙に表情が強ばっている。
 そうか。お客さんも緊張しているのか。初めてコンサートを鑑賞した人も多いに違いない。娯楽にかける経済的余裕などなかったのかもしれない。
 歌い終わった瞬間、万雷の拍手。観客席の表情も弾けている。
 ひょっとすると、ここから新しい音楽ファンの開拓が期待できるんじゃないか。西郷は不思議な高揚感にとらわれた。


=「知者楽仁者寿」=
  
 内蒙古の女性歌手・徳徳瑪(ドードーマー)が、すーつと奈落に落ちるような眩暈に襲われたのは、市立宇都宮文化会館のステージでライトを浴びている時だった。
 最後まで、最後まで、歌わなければ....。                  
 先刻から息苦しかった。会場に酸素が少ないのかと思ったほどである。もう立っていられない。マイクに声を振り絞ったが、歌のエンディングとともに、記憶は遠のいた。

             *

 舞台袖に控えていた渡邊サト子は、いち早く異変を察した。地域の民音の中心者。ステージ上で徳徳瑪が、糸の切れたマリオネットのように崩れていく。
 中国中央民族歌舞団の民音公演は、舞台裏で騒然となった。血相を変えた渡邊が駆け寄る。呼びかけても反応がない。「救急車! 急いで!」
 脳溢血で倒れた徳徳瑪を搬送する救急車が、済生会宇都宮病院へ吸いこまれていったのは、一九九八年(平成十年)四月二日の夜だった。

             *

 徳徳瑪が深い眠りから覚めると、病室の天井が見えた。
 助かった……。
 毎日、渡邊が見舞いに来てくれ、徐々に意思の疎通がとれるようになった。
 表情は冴えない。身体にマヒ。元のように舞台に立てるだろうか。もし歌えなければ、死の宣告に等しい。
 病室に民音創立者の池田会長夫妻から見舞いが届いた。色紙に力感のある筆致で揮毫してあった。
 知者楽
 仁者寿
 論語の一節である。
「知者は楽しみ、仁者は寿し」 −知者は、いかなる変化にも身を処し、すべてを楽しんでいける。仁者はいつも変わらず、長寿をまっとうする。
 脇書には、
「御健康をひたすら祈りつつ   大作 香峯子」
 と認められている。
 香峯子夫人から、多数の満開のバラの花も添えてあった。
 幾度も読み返した。
 いくつもの音楽団体と関わってきたが、こんな人はいない。公演に穴をあけ、迷惑をかけているのは、こちらだというのに。

             *

 帰国後、リハビリが始まった。
 歩行や階段の昇降。手足が思うように動かない。くじけそうになるたびに家族で話し合った。「池田先生に命を救っていただいたのだ。立ち止まってなどいられない」。過酷なリハビリに耐え、徳徳瑪は、歌手として再起した。
 二〇〇七年九月、徳徳瑪は、中日国交正常化三五周年を記念する公演の舞台に立っていた。会場は北京展覧館。完全復活のソロコンサートを歌いきった。
 沸き返るアンコール。徳徳瑪は、あらためてマイクを取った。
「今、この舞台に立てるのも、池田先生と奥様のおかげです」
 あのバラの香りを思い出していた。

             *

 日本で倒れ、人生観が変貌した。芸術を通じて人に尽くす。それが真の知者であり、仁者ではないか。
 二〇〇二年、故郷の内蒙古に、貧しい牧畜民が学べるように芸術学院を創立した。若い才能を開花させて、社会で活躍させたい。
 二〇〇七年、民音関係者が、学院を訪ねた。
 案内された学院長室。ドアを開けると写真が飾られていた。
 あっ。
 池田会長夫妻の大きな写真だった。


運動が大衆に資するか否か。 

=タンゴ界の巨匠=

 アルゼンチンタンゴの新星、マリアーノ・モーレスが、古賀政男(音楽家)と出会ったのは、一九三九年(昭和十四年)である。来日公演を約束したものの、太平洋戦争のため機会を逸してしまう。
 夢が叶ったのは、八四年(昭和五十九年)。タンゴ界の巨匠として民音公演に招聘された。
 運命は残酷だった。
 同じステージで歌うはずの子息ニト・モーレスが、ガンに冒され、床についたまま動けない。
 来日公演中も病状は悪化をたどる。危篤の報が届き、最期の別れを告げるため、急遽、帰国した。
 享年三十八だった。それでも「日本のファンが待っている」。葬儀を終え、再来日。事情を知る関係者は、芸術家魂に圧倒された。

             *

 一九八八年(昭和六十三年)、日本で池田会長と会見する機会を得た。息子の死から四年。傷は癒えていない。会長は、東洋の生命観を通し、話してくれた。
  ――死は、新たな生への活力を得るための充電期間です。ご子息は、あなたの胸の中で生きている。残された人が、どれだけ強く、前向きに生きられるか。それによって、愛する人と再び一緒に前へ進むことができる。
 生と死の問題を、現実生活のなかで直視した哲学に、胸を打たれた。
 九二年、仏法が説く「永遠の生命」に着想を得た 「アオーラ」を池田会長に献呈した。
 息子は私と共にいる。高らかに歌い上げた曲である。
 池田会長と同年代。
「音楽を愛する人に、多大な愛情を与えてくれる。父のような存在です」

             *

 過去の歴史をひもとくと、芸術家が才能を開花させた背景に、幾多のパトロネージュ(保護や後援)があった。
 ルネサンス期にレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロを育てたメディチ家のような例もある。
 池田会長は創立者だが、実務に携わることはない。アーティストとも一定の距離を置く。ただ、彼らが不幸に見舞われたり、人生に行きづまったとき、目立たぬかたちで手をさしのべてきた。
 文化、教育、平和、政治。池田会長の事業は多岐にわたるが、共通した理念がある。「運動が大衆に資するか否か」。この点である。


=指揮者・近衛秀麿

 池田会長が、民音の設立構想を明かしたのは、一九六一年(昭和三十六年)二月、インド初訪問から、ミャンマー、タイ、カンボジアに向かう旅の途上だった。
 青年部が音楽団体のパンフレット、チケット、綱領などを収集。単価、購買力、集客力などを割り出す。六三年八月、民音の設立構想が公になり、同年秋の創立記念演奏会に向け、歯車が動き出した。

             *

「名前は、ミンオンがいいね」
 会長の提案をきっかけに、民音設立の準備を進めていたメンバーは、検討を行った。
 一九六三年九月一日。「仮称・民衆音楽協議会」と発表している。
 だが会長の意見は異なった。
民主音楽協会にしよう」
 民衆に迎合する団体ではない。もちろん、民衆相手に商売するのでもない。
 民衆と力を合わせ、ともに成長し、文化を高めていこう。会長の思いが込められていた。

             *

 初代鼓笛隊長の丹羽美枝。一流の音楽家を集めるため、奔走した。
 交渉が難航すると、池田会長の激励を思い起こした。
 五六年(昭和三十一年) から五七年にかけ、毎週のように鼓笛の練習会場に足を運んでくれた。自宅に隊員を招き、音楽談義に花を咲かせたこともある。
「僕だって苦境の折、一人アパートでベートーベンを聴いて心を奮い立たせた」
 五八年、鼓笛隊の全国大会。一五〇人の参加者に力説してくれた。
「モスクワ芸術座の舞台を見に行ってきたよ。言葉はすべて分からなくとも、手に汗を握った。これが芸術の力だ」
 モスクワ。芸術。あの時は、遠い夢のようだったが、いつの間にか、大衆が文化運動を担う時代が迫っていた。
 演奏会の約一カ月前。
 目玉の指揮者が決まらない。
 一張羅のワンピースに身を包み、大きく深呼吸してからベルを鳴らした。目黒の近衛秀麿邸。当代随一の指揮者が住んでいる。
「おっ、また君か」
 ドアが開くと、らくだ色のカーディガンを着た近衛が表情を崩した。
 ピアノが置かれた洋間に通された。日本音楽界の草分けである。自分はヤマハ音楽教室の非常勤講師にすぎない。音楽家の格としては、天地ほどの差がある。それでも池田会長の理念を伝えたい。
 心臓が早鐘のように脈打つ。「近衛先生! 民音は、押しつけは致しません。聞く側、そして演奏する側、それぞれの考えを大切にし、架け橋となります!」
 言い終わって、顔を上げると、近衛の目が、なごんでいる。「お嬢さんは、どこの学校」 「お仕事は」 「信仰活動のほかは何かしているの」
 一つ一つ答えると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
「うん、うん、分かったよ」。とうとう出演を約束してくれた。

             *

 十月十八日。東京・文京公会堂に、唯是震一(琴)、清水勝男(チェロ)、諏訪根自子(バイオリン)ら、名だたる演奏家が集まった。
 池田会長の姿はない。新しい事業は、新しい人たちの手で。一貫した心情である。
 フィナーレが近付いてくる。指揮を執るはずの近衛秀麿が、まだ到着していない。
 落ち着かない丹羽。そわそわ舞台袖から楽屋裏を行き来している。
 タイムリミット。代理の音楽家が「僕がやろう」 と腹をくくったその時、通路がざわめいた。
 燕尾服の近衛があらわれた。周囲に軽く会釈をしながら颯爽と壇上へ。
 静寂の中でタクトが一閃し、新しい音楽団体の第一小節が、ようやく音を立て始めた。


=バタヤンの出演交渉=
 
 民音事務局の大久保直彦は、音楽家の一家に生まれた。業界の事情に通じている。
民音には出るなよ」。「その筋」から、やんわりと圧力をかけられた歌手がいるようだ。
「池田会長は、既成の社会の土手っ腹に風穴を開けようとされている。よしっ、オレだって」
 芸能事務所に直談判。民音の目指す道を社長に懇切丁寧に語った。
「これからは第三文明の時代になります」
 こぶ茶をすすった社長が、腕組みしてうなずく。「そうでんなあ。やっぱり演歌の時代でんなあ」。はぐらかされて話が噛み合わない。

             *

 引き下がれない。歌手と直接交渉するしかない。
 一九六三年(昭和三十八年)、紅白大きな仕事は、歌合戦に初出場を果たした田端義夫。通称・バタヤン。普段から大久保の家に出入りしている。頼み込むと困り顔になった。
「日ごろからお世話になっているし、断れないなあ……」
 やっと突破口が開けた。
「いっておくけど、信心しなくてもいいんだろうね」
 冗談めいた口調だが、バタヤンの目は笑っていない。
 勢いに乗って島倉千代子にも当たった。「田端さんがオーケーしても、私は関係ないわよ」。数日後、バタヤンが口ぞえしてくれたのか、島倉も受けてくれた。
 二人の舞台は大盛況だった。
「どうやら民音に出ても、折伏されないようだね。それなら……」
 遠巻きに様子を窺っていた歌手たちが、交渉に応じ始めた。


大きな仕事は、一挙に作り上げることだ。

=財団法人化を急げ=

 任意団体として発足した民音だが、池田会長は財団法人化を急がせた。
「早く独り立ちさせなければいけない」
 スピード第一。まず実績を積んだ後で、のんびり法人化をと考えていた関係者は、ピッチの速さに面食らった。
 一九六四年(昭和三十九年)初頭、銀行マンだった義村貴一は、経歴を買われ、民音経理担当者に推薦された。
 新しい職場は東京・信濃町の学会本部向かいにあった文化局の二階。民音は、学会の収益部門の一部に位置づけられていた。事務局の机は三つ。これだけの陣容である。
 全国で公演がスタートすると、各地に事務局が発足していく。関西、九州、中部、東北、北海道…。現場は動いている。
 許認可権は、当時の文部省にあった。同年六月、事務局が準備した書類が同省に届けられた。
 目を通した担当官。
「これじゃあ財団法人化は難しい。計画書には公益事業も少ないしね。まあ、極めて厳しいでしょう」
 見下すような態度である。
 怒りが込み上げてきた。なめられてたまるか。連日の泊まり込みが始まった。設立趣意書、実績、三年間の事業計画・予算書。入念に作り直す。
 噴き出る汗が書類に落ちる。クーラーはない。書類が飛んでしまうから扇風機も回せない。
「大きな仕事は、できるときに、一挙に作り上げてしまうものだ」
 会長の言葉が、時に萎えそうになる心を打った。
 この一九六四年、公明政治連盟公明党に発展していく。学会の大衆運動が、社会化へ加速していく年である。
 八月二十二日に正式申請。やれることは、すべてやった。翌年一月九日、吉報が届く。スピード認可だった。


=下町の民音推進委員=

「大江さん、すまんが、民音係をやってくれんか?」
 東京・江戸川の板金工・大江敏夫に、ひょんな話が舞い込んだのは、一九六四年である。
 好きな演歌が聞けるなら。二つ返事で民音推進委員を引き受けた。公演予定を告知し、チケット購入を啓蒙する。しかし、たちまち後悔させられた。
「音楽? 映画? 大江ちゃん、まず折伏だよ」「娯楽より仕事。商売繁盛を祈っているとこだよ」
 ガリ版刷りのパンフレットを携え、裕福な友人を訪ねると「労音さんのチケットを買ったから」。
 酒代を節約し、売れ残ったクラシックのチケットを買った。快適な会場。心地よい空調。仕事の疲れが出て、ぐっすり眠ってしまった。
 チケットが売れたら売れたで頭をかかえた。夜間金庫もない。こんな大金をもって夜を越すのか。江戸っ子が弱音を吐いた。
 一九六六年(昭和四十一年)九月。「ノボシビルスク・バレエ団」 がソ連から来日した。大江は元軍人。戦争末期、不可侵条約を一方的に破って攻め込んできたソ連が気に入らない。大江からすれば?敵国文化″だ。
 だが高価な券が残った。仕方ない。開襟シャツに背広のいでたちで上野の会場へ。「すました感じが気に食わねえな」。満席のホールの照明が落とされた。
 劇だと聞いたが、ストーリーは分からない。メロディーも演歌ファンの大江には、なじまない。
 だが――こりゃ何という迫力だ。人間の中に、これほど圧倒的な感情がひそんでいるのか。気がつくと身体は前のめりになっていた。
 よっぽど苦労したんだろう。命がけで技を磨いたんだろう。大したものだ。気がつくと、拍手喝采を送っていた。
 まてよ……。ひょっとすると、池田先生が俺たちに教えたかったのは、この感動じゃないのか。
 一九七〇年代、池田会長の訪ソが続く。
 コスイギン首相との会見。モスクワ大学からの名誉博士号。青年や教育者の交流もはじまった。食い入るように報道紙面を読んだ大江は、ちょっと自慢したい気持ちになった。
 へへ、俺は本場のロシアバレエを観ているんだ。

             *

 六七年(昭和四十二年)初夏。銀座の街角で、ある音楽評論家は、ひいきの靴磨きの女性に歩み寄った。創価学会の婦人部員のようだ。客待ちの間に聖教新聞を広げている。
 軽い気持ちで、得意の舞台の話題を振ってみた。
「いやあ、この前のモーリス・ベジヤール。素晴らしかったよ」。民音で観てきたばかりである。
 女性は下を向いたまま、クリームを布に付け、しゅっしゅっと磨いていく。
「ああモーリス・ベジャールね!ベルギー国立二十世紀バレエ団でしょ」
 さらっと話題についてくる。
 おおっ! 意表を突かれた。二十世紀最大の振付師だぞ。こんな街角のおばさんが、哲学や思想までも表現する、あの独創的なバレエに通じているのか。
「庶民が下駄履きで行ける音楽会であってほしい」
 池田会長が願ったように、民音は庶民の支持を得て、独り立ちしようとしていた。


労音共産党

 民音よりも先行して生まれた音楽団体がいくつかある。
 労音勤労者音楽協議会)。
 一九四九年(昭和二十四年)十一月、大阪で創設された。関西労音の初代会長は宝塚歌劇団の労組出身、須藤五郎である。
 労音は当たった。地方から出てきた若者たち。青春の夢や希望とは裏腹に、職場は味気ない。彼らの心の隙を突き、次々と音楽サークルを結成していった。
 関西労音の須藤は、参議院選挙で共産党から出馬し、当選する。
 五五年九月には全国労音が結成され、最盛期の会員は六四万人に達した。巨大化とともに 「政治色」が強まっていく。

      *

 財界は危機感を募らせた。音楽鑑賞を通じて社員が共産陣営に取り込まれている。
 一九五五年、労音の牙城・大阪に「大阪音協(=音楽文化協会)」が作られた。入会金や会費を安く設定し、赤字分は企業が負担した。労音切り崩しの ?必要経費″である。
 六四年(昭和三十九年)には全国文化団体連盟(全文連) が発足。労音の勢いにストップをかけるため、各地の音協が結束した。
 なにものにも束縛されず、最も自由であるべき音楽が、いつのまにか、政争の具と化していった。

      *

 ある労音のコンサート会場。巨大なたれ幕が下がっている。「不当課税に反対」「新安保条約の採決撤回」。開演前、アジ演説で観客を挑発する。
 休憩時間。ロビーに出るや「署名とカンパをお願いします!」。
 音楽を聴きに来たのに……。次第に空席が増えていく。労音の興隆は短かった。
 衰退要因の第一。音楽団体に政治を持ち込んだことである。
 指揮者の芥川也寸志は、読売新聞に内幕を暴露している。
「(労音の)実態は共産党の文化活動路線の先兵」 (一九六六年三月十六日付)
労音幹部ははっきりスジ金入りの代々木路線を打ち出している。音楽よりまず政治意識だ」 (同十八日付)
 第二に青年層の離反。反安保、反ベトナムなど反戦運動の退潮とともに、政党に利用されることを嫌いはじめた。
 第三に、大衆基盤の脆弱さ。純粋な音楽愛好家の支持を得ることができなかった。時代の追い風を受けて急伸した分、風がやむと衰退に歯止めが利かない。
 現在、全国の会員数は、最盛期の一割以下と見られている。
 ある労音幹部の弁明。
民音さんは、鑑賞以外にも音楽を育てるという意味で、我々には出来なかった様々な貢献をなさっています。ですから評価こそすれ、会員を取られたという意識はありません」(『AERA』九五年六月二十六日号)


池田会長と民音に、国の至宝を預けた。

ミラノ・スカラ座

「何としても、日本に本格的なオペラを呼びたい」
 一九八一年(昭和五十六年)。日本の著名な実業家が、ミラノ・スカラ座に熱烈なラブコールを送った。
 本場のオペラを日本に呼んでも、数人の歌手しか派遣されない。足りない分は日本の歌手でおぎなう。それが普通だった。
 経済大国だが極東の島国。日本人のオペラへの関心や理解度は。大規模公演の受け入れ体制は。採算は取れるのか。
 総裁のバディーニは腕組みをし た。念のため、過去の資料を調べた。
 「おや……?」
 一六年も前にスカラ座に乗り込ん できた日本人がいるじゃないか。
 ダイサク・イケダ……
 一九六五年(昭和四十年)十月二十四日、会長のスカラ座招聘の意向 がギリンゲッリ総裁に示されている。その後、日本公演の仮契約まで進んだが、費用の点で折り合いがつ かなかった。
 彼が創立した民音。日本の実業家よりも、優先すべき窓口ではないだろうか。どんな団体なのか。実績は。集客力は。今でも意欲はあるのか。
 国の至宝であるスカラ座
 重視すべきは ?信用″ である。宝 を預けるのに、ふさわしいか否か。バディーニは、池田会長と民音を選択した。
 一九八一年九月、世界最高峰のオペラが日本にやってきた。


ウクライナ国立舞踊団=

「ワーリヤ、見て。この色ならシャツとスカートに合うかな〜」
 ウクライナ国立民族舞踊団の稽古蠍。スカーフを首に巻きながら、団員がヴァレンチーナを愛称で呼び止める。
 彼女はベテランの衣装係。若い団員から ?お母さん″と慕われる。
 二〇〇〇年(平成十二年)、民音招聘で日本の初公演が決まった。あまりなじみのない極東の国。進んで手を挙げる希望者は少なかった。

             *

 しかし――公演初日。第一幕が終わった瞬間、舞台裏のヴァレンチーナの背筋はぞくりとした。ステージから帰ってきた団員も顔を紅潮させている。
「聞いた? ものすごい拍手だよ、すごい!」
 全国二〇都市以上で公演。どこでも同じ歓呼で迎えられる。
 興奮は、それだけではない。「ワーリヤ、ここのステージも広いね。照明も工夫されているよ」。海外公演では、意思の疎通が難しいこともあって、狭くて古い劇場をあてがわれることも日常茶飯事だ。
 宿泊先にも差し入れが届く。しかも、どの菓子が減っているかまで調べ、人気の品から補充されている。
「果物以外、食べちゃ駄目よ。太ったら衣装を縫い直さないといけないんだから」。ヴァレンチーナが、きっとにらむほどである。
 それにしても――。
 いつも伝言をくださる創立者って、どんな人だろう。
「異文化を尊重するのが仏法である。異文化と協調し、平和を目指していくのが文化である。文化を大切にして、決して相手を粗末にしてはいけない」
 創立者の信念である。
 三年後、二度日の目本公演が決まった。団員たちは、こぞって日本に行きたがった。

       *

 フランスのピアニスト、マドレーヌ・マルロー。二〇〇七年十一月、音楽愛好家らの招きで来日。ピアノリサイタルを記念して届けられた胡蝶蘭に目が止まった。
「日本滞在中に、御礼の手紙を書かなければ」。それは、かつて夫とパリ近郊の館で対談を行った池田会長からの贈り物だった。
 夫は、小説家アンドレ・マルロー。ド・ゴール政権下で、情報相、文化相を歴任した。ナチスの魔の手から芸術の至宝を守った夫との語らいは、対談集となった。
 理念を述べる人は多い。だが、現実に実行する人物は少ない。
 民音は、約一〇〇カ国・地域との文化交流を広げている。何とダイナミックな活動だろう。
「音楽は、普遍的な言語であり、人々をつなげる文化です。民音は、池田先生の歩み、そのものですね」
 本年、民音は創立四五周年を迎えた。


=民文連への評価=

 一九六三年(昭和三十八年)、原田直之は、仙台の民謡歌手・我妻桃也の門を叩いた。
 荒削りの十九歳。節は回らないが、声に伸びがある。我妻に才能を見いだされた。
 内弟子修業は二年。身の回りの世話をすべてやった。雑用ばかり。歌は教えてもらえない。「大切なのは人間だ。芸は後から付いてくる」。厳しく叩き込まれた。
 二十五歳で独立、上京。
 民謡界は興隆期にあった。NHKに出演すると一気に脚光を浴びた。

       *

 原田が民族芸能文化連盟(民文連、一九六九年創立)から出演のオファーを受けたのは、このころである。
 民音と同じく、大衆への文化啓発を目的とする。主に郷土芸能の分野で事業を展開してきた団体である。
 大胆な提案を原田に示してきた。
「唄、舞踊、演奏を一体にして、舞台にかける?
 民謡界一つとっても、流派が多い。幅広く出演者を束ねた企画など聞いたことがない。面白い団体だ。
 それだけではない。神社・仏閣等のもとにある民謡保存会を回り、文献や証言から調べ上げ、譜面を起こしてきたという。
 完成させた譜面は約三〇〇になる。「大森甚句」 (東京)、「牛深ハイヤ節」(熊本)、「隠岐相撲取節」 (島根)など、埋もれていた民謡を掘り起こした。
 付け焼き刃ではない。
「伝統の基礎の上に、現代的な舞台を追求している。民文連の舞台に立つことは、プロとして光栄だ」
 民文連は、民謡界のスターが集結する舞台となった。

              *

 原田が主宰する民謡教室。
「読んでくださいね」。生徒が持ってくる聖教新聞を開く。民文連理事長の新倉武らが、池田会長を慕っていることも知った。
 文化、芸術界のみならず、世界のトップが会いたがる。偉い人だけではない。うちの生徒をはじめ、多くの人が慕っている。
 二〇〇七年(平成十九年) 八月。民文連の舞踊団「若竹」が、都内でパレードに参加した。直前に伝言が届いた。「私が見に行くと、ご迷惑になるから、通りが見える、ある場所から、拝見させていただきます」。池田会長からである。
 原田は、しみじみ思う。この人の中には、そもそも学会員かどうかという壁がない。


西郷輝彦「母」 の曲=
 
 原田は二〇〇五年(平成十七年)、日本歌手協会の理事長に就任した。池田会長が作詞した「母」を歌うたびに感じる。
表現者である自分が表現しきれないほどの詩心がある」
 この「母」 に深い思いを寄せる一人が、前述の西郷輝彦である。
「いやあ僕は弱いですね、この歌に。もう、たまらないんです。正直、歌う自信がありません。僕の母が亡くなってからというもの、グッときちゃって……。母は大きかった。本当に偉大でした」
 歌手をめざして鹿児島を飛び出した。「やめなさい。馬鹿なことを言うんじゃない」。大反対しながらも見守ってくれた。
 家族を守ることに必死だった面影が、ピアノで「母」を弾き語るたびによみがえる。
 池田会長と直接の面識はない。
 だが、私信を送り、邂逅の日を待ち望んで久しいと語る。
 言葉は熟を帯びた。
民音の貢献は、もう地球規模ですよね。そこまで成功した背景には、世界の文化を大事にする心が、民音を支える方々のなかにある。それはまた、池田先生の心だと思います」

          (文中敬称略)

   「池田大作の軌跡」編纂委員会