第18回 出会いのヨーロッパ


 欧州の王室が東洋の一民間人である池田会長との交流を望んだ。

 友情の連鎖が素晴らしき出会いを演出した。

◆池田会長との邂逅を心待ちにする人がいた。

ライン河の古城

「いや、これは……」

「なんと美しい」「まったく、まったく」

 眼下にライン河が流れている。日本からの視察団が、ドイツきっての美観に見ほれていた。

 文化財保護の在り方を学ぶ視察団である。ドイツ古城協会の本部へ向かった。

「ほほう、本部も、本物のお城ですか」

 丘に建つマルクスブルク城。見上げるばかりの巨大な尖塔と見張り台が聳えている。ライン河畔で往時のまま現存する唯一の古城。今にも中世の騎士団の鬨の声が聞こえてきそうではないか。

 すらりとした長身の紳士が現れた。

 同協会の会長。侯爵アレクサンダー・フュルスト・ツゥ・ザイン・ヴイトゲンシュタイン・ザイン。

 舌をかみそうな発音だなあ。そう思っていると、侯爵の口から思いがけない人物の名前が出た。

「日本の池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長のおかげです」

 おや? 池田大作さん、とは……。「ライン河のほとり、ゲーテユゴーの愛した地に古い館がありました。それらを創建当時のままに復元・改修し、市民に開放してくれたのです」

 侯爵ヴィトゲンシュタインは、柔和な笑みを浮かべた。

「池田会長の尽力に心から感謝したい」

 これは驚いた。ドイツまで文化財保護を勉強に来て「その模範が創価学会だ」と聞かされるとは。

 侯爵が紹介した館は、ドイツSGIの拠点でもあるヴィラ・ザクセン総合文化センター。

 のみならず、SGIを信頼する理由がある。

 イギリスでは、かつての貴族の迎賓館をタブロー・コート総合文化センターとしてよみがえらせている。

 パリ郊外・シャルトレットのフランス総合文化センターには、国王アンリ四世が滞在した城がある。

 オーストリア文化センターも、ハプスブルク家の王妃エリザベートゆかりの館である。

「歴史に生命を宿してくれた」(ヴィトゲンシュタイン侯爵)という評価も、うなずける。

 日本だけじゃない。学会は、ここまで活動を広げているのか。視察団には衝撃だった。


▼在仏外交官の驚き

 パリ。大手保険会社の会長室で折衝が始まった。

 ミシェル・バロワンは、いすに深く腰掛け、たばこをくゆらせている。

 テーブルをはさみ、前かがみに身を乗り出したのは、東京富士美術館の渉外担当者である。

 一九八七年(昭和六十二年)十月に同美術館で「フランス革命と.ロマン主義展」が開幕する。開催の意義、目的、趣旨を説きはじめた。フランス本国公認行事のお墨付きが取れるかどうか。展示会の“格付け”が決まる。

 バロワンは、フランスの国家的プロジェクトである「革命二〇〇周年委員会」の会長。

 フランスの政財界に強大な影響力をもつ男である。後に日本の人気劇画「ゴルゴ 13」にも、劇中の主要人物として登場したほどである。 実力者バロワンには日々、同様の案件が大量に寄せられる。甘く裁可したら、フランス共和国の格が下がる。

 渉外担当者にとって、事情は百も承知である。手強い相手だ。

 しかし美術館の創立者の名前を告げた瞬間である。

 はっとバロワンの表情が動いた。

「ウィ(分かった)」

 たばこを灰皿でねじ消し、別室に消えた。小さな金属音が聞こえる。旧式のタイプライターで書類を作成しているようだ。

「これでいいでしょう」

 バロワンの手から、署名入りの二枚のレターヘッドを受け取った。

 急転直下。担当者は半信半疑である。


 公認証書であることは間違いない。バロワンの直筆サインが入っている。しかし、どれほどの価値を有するものなのか。慌てて知人の在仏外交官に“鑑定”してもらった。

 外交官は、まずヘッダーの「レピュブリキ・フランセーズ(フランス共和国)」の文字を見た。おもむろに天井のライトに紙を透かす。

 けげんそうに目を向けてきた。

「あなたは、どうやってこれを手に入れたんですか?」

 気色ばんだ表情にも見える。

「ご覧なさい、これを」

 ライトにかざすと、女性の肖像が透かして見える。まぎれもない。フランス共和国の正式な国家用箋。

「わかりますか。私たち外交官が、これを得るために、どれほど苦労しているか」

 東京富士美術館での展覧会に「フランス革命・人権宣言二〇〇年記念公式行事第1号」とタイトルがついた。


▼花の都・パリで

 一九八八年四月。花の都・パリ。フォーシーズンズホテル・ジョルジュサンクは熱気に包まれていた。

 美術関係者が集うレセプション。イブニングドレスで着飾ったパリジェンヌも詰めかけ、立錐の余地もない。

 華やかな美術界も、根本は信用が物を言う。ルーブル、ベルサイユ、ポールゲッティ……。世界に名だたる美術館は、それにふさわしい重厚な社会的信用を勝ち得ている。

 東京富士美術館は、まだまだ無名の存在である。

 ところが、このレセプション会場で、フランス美術界の大立者が、目をむいた。

 美術館の創立者は宗教団体のリーダーだという。その人物は、大学から幼稚園までの教育機関をはじめ、音楽団体、はたまた政党まで創立している。極東の島国の人間にしては異例のスケールではないか。

 さらに美術館の関係者から話を聞いて顔色を変えた。

「えっ! あのバロワン会長と親しい人物なのですか。そんな日本人がいたとは……」


             *

 ミシェル・バロワンが、小説『人間革命』を手にしたのは、一九七〇年代の後半だった。

 人間の内面の変革が社会を変え、一国を変え、やがて人類の運命をも転換してゆく。壮大なテーマに魅かれて興味深く読んだ。著者に一目会いたい。折からフランス訪問中の池田会長をパリ会館まで訪ねもしたが、すれ違いに終わった。

 その後も密かに出会いの機会を求めていた。

 それだけに、東京富士美術館の担当者が訪ねてきた時は、さすがに驚いた。あの池田会長が創立者というではないか。


             *

 直接の面識も、交流もない。それでいて会長との邂逅の時を人知れず待っている人。そしてまた 「ぜひ池田会長を、この人と会わせたい。会わせてみたい」と念願している人。

 池田会長の欧州での足跡を辿ると、そんな人物の多いことに気づかされる。


▼夕暮れのバッキンガム

 イギリス・ロンドンのバッキンガム宮殿。

 巨大な門柱の上から獅子とユニコーンの彫刻がにらみをきかせている。それぞれイングランドスコットランドの象徴である。

 同じデザインが配された正面ゲートが、衛兵の手で開かれた。

 濃紺のロールスロイスが、ゆっくりと宮殿へ消えていく。だれが乗っているのか。柵の外から観光客が見つめている。

 一九八九年五月二十五日。宮殿内の一室は夕刻が近づき、外光が弱まった。

 シャンデリアがまぶしさを増す。部屋の四隅の白熱ランプも点灯し、執務に十分な光量をたたえている。

 プリンセス・ロイヤル―――現女王エリザベス二世の第一王女であるアンが、執務机で書類の束に目を通していた。

 十八歳から公務を果たしてきた。幾十もの団体の「会長」「総裁」の肩書きがある。名前だけの“お飾り”は性に合わず、多忙な日々を選んできた。

 もうすぐ来客の時間である。

 英国社交界きってのベストドレッサー。ブルーに白い水玉の浮いたワンピースを着ている。シンプルな服装から私的な会見と分かる。

「お見えになりました」

 執事が伝えると、王女は机上を整理して静かに立ち上がった。


▼アン王女との会見

 池田会長が扉の前に立った。表敬の謝意を述べた。

「人類のために、献身的なご活躍をされていることを、よく存じ上げております。私は仏法者として『行動の人』を尊敬します」

 室内に導かれた。中央にマホガニー製のテーブルセット。長円形で、一〇人は掛けられる。実務に適した造作である。

 大理石のマントルピースを背に腰かけた。金色の装飾が施された鏡が室内を映し出している。壁に絵画。ヴァン・ダイクか、それともレンブラントか。

 アンは児童救援団体「セーブ・ザ・チルドレン」の総裁である。SGIも長年にわたり難民の救援を支援してきた。

「難民問題は人道上の課題であり、人類に人間としての生き方を突きつけています」

「その通りです」

 アンも賛意を示す。飢餓のエチオピア、戦場となったベトナムカンボジア。自ら足を運び、復興を支援してきた。それだけに教育への関心は高い。

創価大学は、どのような大学でしょうか」

 建学理念、モットー、世界に人材を雄飛させていく信念を語った。

 次第に質問が具体性を滞びる。

「留学生との交流は」

奨学金の制度は」

“お飾り”ではなく、実務にたずさわってきた人物らしい。話は尽きないが、予定の時間を過ぎている。会長は腰を上げた。


             *

 会見の詳細は、信義の上から公表されていない。またイギリス王室は、王族の私的な会見の報道を好まない。後日、聖教新聞での報道が実現したこと自体が、極めて異例だった。

「ぜひ」

 会見後、王女は希望した。

「もう一度、お目にかかりたいものです」


▼皇太子の私邸で

 一九九四年六月八日、アンの兄君である皇太子チャールズは、イングランド南西部ハイグローブの私邸で来客を待っていた。

 プライベートな場所である。親しい友人しか招かない。

 イギリスの皇太子は、自ら事業を行うことで、生活費や活動経費のかなりの部分を自弁している。この地でも有機栽培の食品を販売し、売り上げをチャリティ活動等に投じてきた。

 当時、チャールズは孤独だった。

 九二年に皇太子妃ダイアナと別居(九六年に離婚)して以来、マスコミのバッシングの的にもなっていた。

 池田会長を乗せた車が、コッツウオルズ地方のなだらかな丘陵地帯を抜けていく。

 草をはむ一頭の羊が頭を上げた。青空を白い雲がゆっくり流れていく。見渡すかぎりのマスタードの花の黄が眩しい。イギリス人の郷愁を誘う風景である。

「はちみつ色」の建物がぽつん、ぽつんと点在している。地元で採れるライムストーン(石灰岩)で造られたものだろう。

 車は私邸へと続くゲートをくぐった。庭を徐行する。丹念にガーデニングされていた。

 ツゲを刈り込んだ幾何学模様の生け垣。アヤメ。ワスレナグサ。チューリップ。

 館の前で車は止まった。三階建て。バッキンガム宮殿をコンパクトにしたような建造物である。

 約束の午前十時過ぎ。主が一階の玄関で出迎えていた。ダブルのグレーのスーツがよく映えている。

 大英帝国皇太子。正式名をチャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ・マウントバッテン=ウインザーという。

「池田会長のことは、よくうかがっています。お会いするのを楽しみにしていました」

「こちらこそ、お招きにあずかり光栄です」

 握手すると、ひごろの農作業のためか手が節くれ立っていた。スマートな貴公子然とした外見と違い、じつに男性的な感触である。

 随行した池田博正(副理事長)に「以前、お会いしましたね」と声を掛ける。

 この数年前、米アルバカーキ郊外のユナイテッド・ワールド・カレッジの卒業式を訪れた際、池田会長の名代として出席した博正とあいさつを交わしていた。

「庭をご案内しましょうか?」

 会見時間は限られている。丁重に辞した。

 リビングに入った。窓からの採光は抜群である。ソファに会長、通訳、池田博正。

「コーヒーはいかがですか、それとも紅茶に」

 愛犬が部屋を駆けずり回っている。


▼人間として友人として

 共通の話題に事欠かなかった。両人ともイタリアのボローニャ大学から名誉博士号を受章している。

 教育事業にも携わってきた。一九九二年に建築学院を創立した皇太子。

「なぜ建築に興味を抱かれたのですか?」。池田会長がたずねる。建築と文明について考察してきた視点から答えた。

 やがて遠くからバリバリとうなる音が近づいてきた。愛犬がピクンと鼻先を窓外に向けた。


◆血の通った言葉で友情を結んだ。

 外の芝生に王室専用の赤いヘリコプターが降り立った。足下に振動が伝わる。

 会見後、チャールズはオックスフォードへ発つ予定だった。米国大統領クリントンが待っている。

 さかんに会長は時間を気にしている。皇太子の予定を慮ってのことだった。

 そこでチャールズが「思い切って」という形容がふさわしい口調で切り出した。言葉に力がこもっていた。

「私は不合理と戦っています。悪と、不正と戦っています」

 会長は即座に反応した。

「皇太子が勇気をもって信念を叫んでおられることを知っております。社会の改革へ行動しておられる。行動すれば、反発もあるでしょう。嫉妬もあるでしょう。名誉を傷つけんとする謀略もあるでしょう」

 いささかの淀みもない。

「何があろうと見おろして、毅然と前へ進むべきです。リーダーが毅然として前進しなければ、民衆は不幸です」「嵐に向かい、嵐を超えてこそ、不朽の事業はでき上がると信じます」

 血の通った言葉だった。

 大英帝国の皇太子。その地位や肩書きを意識した美辞麗句ではない。

 庭でヘリのプロペラがうなりをあげている。操縦士の焦りが伝わってくるようだ。

「池田会長、私がやろうとしていることには多くの困難があります。『勇気』と『決意』をもたないとできません。他の人の支えも必要です。お言葉に感謝します」

 一行が私邸を辞して程なく、頭上から激しい回転音が聞こえた。

 見上げると、赤いヘリコプターが青空を猛スピードで突っ切った。


▼突然のスピーチ

 よほど印象に残ったのだろう。チャールズは、友人の侯爵レディングに語っている。

「大変に感銘を受けた。自分のことを、これほどまで理解してくれる人がいることも知らなかったし、出会ったこともなかった」

「池田会長ほど英邁な人格の人は、世界でも希有だろう」


 もう一度、会ってみたい。翌九五年、自ら創立した建築学院で展覧会が開かれる。池田会長に招待状を送った。

 展覧会の当日――。


 来賓とあいさつを交わしながら、ひとりの人物の顔にチャールズの目が止まった。代理として来場したSGI関係者である。

 前方に招き寄せ、なんの前触れもなく、大きな声で呼び掛けた。

「皆さん、聞いてください」

 参加者はざわめき、耳をそばだてる。

「私は過日、池田会長という日本の指導者にお会いしました」

 ハプニング。順序だった式典進行に慣れている人物にして、きわめて珍しい行動である。

「実に率直な方で、初対面とは思えないほど、私のことを深く理解してくださり、大きな感動をいただきました。誠に尊敬すべき人物です」

 万感こもるスピーチだった。

 なおもチャールズは語った。

「池田会長はお元気ですか。語り合ったことは今もって大切にしています。よろしくお伝え下さい」


▼王宮「シビラの間」

 スウェーデン王宮は、水に浮かぶ宮殿である。メーラレン湖とバルト海を結ぶ水路に位置している。

 ストックホルムに滞在していた会長がアーチ型の入り口をくぐったのは、一九八九年六月五日の午前十時前だった。

 ガラスの格子戸を抜けると、広い中庭を囲み「ロ」の字型に回廊がめぐっている。

 壁面は灰色と茶褐色がコントラストをなす。十七世紀に焼失した王宮跡に建設されたものである。建築様式もバロックロココが混在する。

 部屋数六〇八。多くが公開され

「世界で最も開かれた王室」の名にふさわしい。

 一行は、王宮の奥へ招き入れられた。「シビラの間」。随行者は、はっとした。

「シビラ」は現国王の母君の名前ではないか。親しい来客を遇するときだけ使用される。

 香峯子夫人の通訳がサッと室内に目を走らせた。職務柄、配席は一大関心事である。

 マントルピースの前に黒い円形テーブルと白いチェアセットが対になっている。一対だけではない。同じような組み合わせが部屋にいくつもある。

 通常の会見では、先方と池田会長を中心に、同席者が取り囲む。

 この配置では、そうならない。国王と会長。王妃と香峯子夫人。それぞれ別個の会見になる。


▼グスタフ国王夫妻

 ダブルのスーツにブルーのネクタイを締め、スウェーデン王カール一六世グスタフが姿を現した。

 長身。秀でた額。眼鏡の奥でブルーの瞳が知的な光をたたえている。毎年、ストックホルムで行われるノーベル賞授賞式のプレゼンターである。

 生後、九カ月で父君を飛行機事故で亡くす。二十七歳で即位。

「国王になる運命でなければ軍人か農民として暮らしたかった。私は平凡な男である。『国王』 ではなく、『カール・グスタフ』と呼んでほしい」と言ってのけた。

 黄色いスーツ姿で寄り添っている王妃シルビアを射止めたときも「世紀の恋」と騒がれた。

 ミュンヘン五輪で西ドイツ(当時)のコンパニオンだった。外国貴族との婚姻を伝統にした王室に風穴を開け、民間から王妃を迎え入れた。

 池田会長は両手を広げ、夫妻に近づく。

「国民と共に歩む伝統を堅持されている姿勢に敬意を表します」

 通訳の予想にたがわず、国王と王妃が、それぞれ会長と夫人を別々のテーブルセットへ案内した。


◆“ファーストレディ”同士の対話。

▼香峯子夫人の外交

“ファーストレディ”同士の対話になった。

 通訳は王妃にあいさつした。美しい黒髪を後ろで結んでいる。

スウェーデンには福祉の長い伝統があります」

 洗練された発音で、嫁いだころの記憶をたどりはじめた。

 町を歩くと、故国ドイツと比べて、よく身障者を見かけた。バリアフリーが進み、共に生活できる社会基盤が整っていた。

「人間はだれでも、何らかの課題を持っています。身体の障害も、そうした課題のひとつにすぎません。決して欠点でも負い目でもありません」

 通訳は、王妃の意見を香峯子夫人に伝えた。むろん、身障者や社会福祉の問題について、専門的に準備してきたわけではなかった。だが……。

「その通りだと思います」

 白いスーツ姿の夫人は、自然に応じた。

「私どもの創価学会にも身障者のグループがあります。そうした方々と語り合っています。『たとえ身体は不由でも心は自由です。胸中に必ず自由自在の境涯を開いていけます。宿命に負けず、力強い人生を生きましょう』と」

 じっと聞き入る王妃。強い感銘を受けた様子が伝わってきた。


▼ナポレオン妃との交流

「どうして日本でナポレオン展を開催するのですか?」

 東京富士美術館の渉外担当者は、強い口調にたじろいだ。

 プランセス・ナポレオン。フランス皇帝ナポレオン一世の実弟にして、ウェストファリア王だったジェロームの直系子孫の夫人である。身長一七〇?を優に超える貴婦人。あたりを払う威厳がある。ピクリとも眉を動かさず詰め寄ってくる。

 何が目的なのか。ナポレオン家を利用するつもりなのか。

 担当者は額に汗を浮かべ、正面突破を試みた。

「もちろん日本でも、ナポレオンに対して賛否両論はあります。しかし、ナポレオンの波瀾万丈の生涯には日本人が学ぶべきロマンがある。それが美術館創立者・池田会長の信念です」

 表情がやわらいだ。分厚い壁に、穴が開いたようだった。

「協力しましょう」。賛意を得た。

 一九九三年十月、東京富士美術館「大ナポレオン展」の開幕式。彼女は、フランス皇帝直系の代表として出席してくれた。

 開幕式の後、池田会長と大いに語り合ったことは言うまでもない。

 来日中、こんな場面があった。東京に到着してから「知り合いのところへ行きたい」。車を走らせた先は皇居であった。

 皇居? 担当者は“そんな簡単に入れるはずがない”と首をひねった。

 しかし、皇居の門をくぐると車を降りた。つかつかと大股で玉砂利の上を横切っていく。警備に制止される様子もない。さる皇族が出迎え、建物の中に消えた。

 欧州の王族、名族の人脈に驚きながら、後ろ姿を呆然と見送った。


▼王室外交の背景

 なぜ欧州の王室が、東洋の一民間人と交流を深めてきたのか。それぞれのケースの背景を探る。


【ケース? 英国アン王女】

 元ロンドン市議のドナルド・チェズワースは一冊の書籍を手にして驚嘆と疑問を抱いた。

『Choose Life』(邦題『二十一世紀への対話』)。英国の歴史学者トインビーと池田会長の対談集である。

 チェズワースは、ロンドン大学の学寮長。同大学が誇る名教授トインビーの学識も、人物眼も熟知している。

 何しろ対談の内容に敬服した。敬服したぶん疑問がわいた。なぜトインビーが宗教団体のトップと会ったのか。

 一九八八年、来日。会長と会談し、疑問は氷解したという。

 英国に帰国後「これはアン王女にお伝えしなければ」と思い立つ。

 王女はロンドン大学の総長。チェズワースにとって社会運動に献身する盟友でもあった。


【ケース? チャールズ皇太子

「皇太子殿下、展示会は池田会長の尽力で、大成功に終わりました」

 侯爵レディングの報告を聞き、チャールズは労をねぎらった。

 一九八九年十月、東京富士美術館で行われた「英国王室のローブ展」。

 同展はチャールズ皇太子財団の活動の一環として開催されている。

 レディングは、ローブ展の名誉総裁。皇太子に会長との会見を強く望んだ。


             *

 チャールズには、ダイアナとの間に生まれた二人の王子がいる。

 ウィリアムとヘンリー。

 この二人に“後見人”がいる。アメリカの実業家アーマンド・ハマー。

 ハマーは晩年、池田会長と親交を深めた。九〇年、多忙な中で時間をこじ開け、創価大学に来学。会見後は、自家用ジェット機が待機する成田まで、創大グラウンドからヘリコプターで飛び立った。今も語り草になっている。

 教育家でもある。チャールズと池田博正が初めてあいさつを交わしたユナイテッド・ワールド・カレッジアメリカ校は、彼の創立である。

 レディング。ハマー。皇太子が信を置く二人が、それぞれ共鳴する人物こそ、池田会長だった。


【ケース? グスタフ国王】

 豊かな北洋漁場に恵まれたスウェーデン。水産加工会社を営む実業家がいた。スモークサーモンの輸出で屈指の業績。国王と懇意である。

 息子がSGIメンバーになった。父は猛反対。熱心なチベット教信者で、ダライ・ラマを信奉していた。

 息子は食い下がった。

「池田会長という人物を見てもらいたい」

 元来、父は東洋の宗教者に興味がある。著書や発言録を読めば、真価がわかる。読んでみた。人類に普遍的な示唆がある。来日し、会長に会った。感銘した。

 宗教の枠を超え、人間としての敬意から、国王と会長の会見を熱望するに至った。


▼スペイン国王の侍従長

 スペイン国王フアン・カルロスの場合。

 池田会長の友人に、ローマクラブ現名誉会長・ホフライトネルがいる。スペイン人。国王フアン・カルロスの側近であった。

 二人の出会いを願い、SGIの渉外担当者に王室の窓口を紹介した。

 王室には王室の方針があり、判断基準がある。事実「民間人との会見は難しい」との意向だという。

 だがホフライトネルはあきらめず、国王側近の侍従長にあたれ、という。

「駄目もと」だ。SGIの担当者は思い切って切り出した。

 侍従長。意外な言葉を返してきた。

「国王陛下が、池田会長とお会いになるのは当然です」

 えっ?

「確かに民間の方です。しかし、会長は民間人の代表でいらっしゃいます」

 侍従長もまたトインビー対談を読んでいたのである。

 会見の段取りはトントン拍子で進む。一九九五年、マドリードのサルスニラ宮殿を表敬する日程も決まった。

 しかし事態は急転。会長の欧州訪問自体が延期となった。


▼フィリピンでの会見

 これを悔しがった人物が、かつてスペイン領であったフィリピンにいた。

 ホセ・リサール協会の会長キアンバオ。旧宗主国の君主との会見を実現したい。一案を巡らせた。

 一九九八年、リサール協会はフアン・カルロスに「リサール大十字勲章」の授章を決定した。そのプレゼンターを、池田会長に要請したのである。

 池田会長も同勲章の受章者である。おりしも同協会第一号の「リサール国際平和賞」の受賞のためフィリピンに滞在していた。

 二月十一日。会場のマニラホテル。

 キアンバオは、池田会長の装いを見て、にこにこした。

 フィリピン男性の正装「バロン・タガログ」ではないか。よく似合っている。並んで国王を迎えた。

 会長の第一声。

創価学会の池田です」

“池田会長は、いつもと全く変わらない”とキアンバオ。

 国王との念願の橋渡しができた。こんなにうれしいことはない。


              *

◆「相手が誰だろうと、私は創価学会だ」

 相手が誰であれ変わらない。

 こんな場面があった。

 一九七五年一月、ワシントン。米国務長官キッシンジャーとの会見前夜。創価学会会長としてのスタンスが話題になった。

「今回は、文化・教育次元での交流だから、あえて宗教は表に出さないほうがいい」との声もあった。

 ひと通り、スタッフの意見を聞いた上で、会長の結論は明快だった。

「相手が誰だろうと、どういう場面だろうと、私は創価学会だ。私が創価学会だ。それでいいじゃないか。隠す必要なんかない。『アイ・アム・ザ・ソウカガッカイ』。堂々と胸を張っていこうじゃないか」


▼空港で偶然の再会

 フィリピンのニノイ・アキノ空港。同国外相のシアゾンが、貴賓室に駆け込んできた。授与式から二日後、池田会長一行が搭乗便を待っている。

 シアゾンは駐日大使の経験があり、日本語も堪能である。

「スペイン国王の飛行機が遅れており、国王一行も貴賓室に入られます」

 外相が国王を先導してきた。

「おお、あの時の!」

 フアン・カルロスのほうから気づき、相好を崩した。ワイシャツ姿の、くつろいだ姿だった。

「今、こんな格好なので、すぐ背広を着てきます」

「いいえ、どうぞ、そのままで。気さくで英邁なスペイン国王のご訪問を、フィリピンの各界の人々は、本当に喜んでおられました」

 国王は日本語で答えた。

「ドゥモ、アリガトウ」

 一同、哄笑の一幕となった。

 キアンバオの姿が見えない。空港に向かう途中で交通渋滞に巻き込まれていた。

「何とかならないのか!」

 ドライバーも困惑顔である。時間は刻々と過ぎていく。とうとうフライト時刻を過ぎてしまった。

「なんてことだ」。歯ぎしりをした。

 皮肉にも渋滞原因は、スペイン国王警備のための、交通規制によるものだった。

 だが、空港で国王と会長が鉢合わせとなり、再会できたことを知る。

「そうか! それは良かった」、

 後悔などすっかり忘れ、会長が飛び立った空を仰いだ。


▼タイのプーミポン国王

 タイのラーマ九世(プーミポン・アドゥンヤデート国王)は二〇〇六年、在位六〇周年を迎えた。

 表敬は三度。「とくに三回目の会見は忘れられません」(池田博正)。

 一九九四年二月八日、バンコクのチトラダ宮殿。会談が一段落し、会長が過去二回の場合と同様、国王の予定を気にして辞去しようとした。すると寡黙で知られる国王が、教育論を滔々と語り始めた。

「子どもは吸収するエネルギーをもっています。そのエネルギーの方向づけをしてあげるのが、親、そして教育者の責任であると思います」

 王女のシリントーンが計算に興味をなくした時期があった。そこで国王は実用的な問題を出して、関心をもたせようとしたという。

「男の人がお金を借りにきた。何度も借りにきて、積み重なった。足し算していくらになるか」

「借りすぎて返せないほどの金額になり、遊びのために借金するようになった。予算をたてなくてはならない。どうすればよいか」

 生活に即した原理、考え方を身につける契機にしてもらいたかった

 ――そう語るラーマ九世の表情は、すっかり愛娘を思う父親のそれになっていた。

 タイ国王は、国民の尊崇を一身に集める。プライベートな側面に自ら言及することは、きわめて例外に属する。池田会長と同年(国王が一九二七年十二月、会長が一九二八年一月の生まれ)という親しみもあったか……。


 会長は応じた。

「国王は、偉大な教育者です。具体的で分かりやすい。しかも重要なポイントをついておられる。牧口初代会長、戸田第二代会長も教育者でしたが、今のお話は、恩師から学んだことに通じます」

 会見は予定時間をはるかにオーバーして、一時間半に及んだ。


 英国のタブロー・コートは、ラーマ九世の祖父君であるラーマ五世チュラロンコンが滞在したことがある。そうした縁から九一年にはタブロー・コートでラーマ九世の写真展が開催された。

 さらにはラーマ九世作曲の特別演奏会(九三年、創価大学記念講堂)、国王即位五〇周年特別展(九六年、東京富士美術館)が行われるなど、交流が結ばれてきた。

「池田会長とタイ国王の交友を通じて、両国の文化交流が重層的に結ばれ、広がってきた。これは紛れもない事実だ」(アジア外交の評論家)


カンボジアシアヌーク国王

 二〇〇二年五月十六日。SGIの代表団がカンボジアプノンペンの王宮を表敬した。

 国王ノロドム・シアヌークと池田会長の会見写真を持参した。一九七五年四月十八日、北京での撮影。

「これは懐かしい!」

 内戦のカンボジアから中国に亡命。折から訪中していた会長が表敬したのは、祖国も王室も最も苦境の時期であった。。

「北京でしたね。素晴らしい出会いでした」。王妃と二人で写真をながめ、思い出話はつきなかった。

 翌日の朝一番、カンボジア文化会館に緊急連絡があった。

「王宮にいらしてください」

 何ごとか! 身支度をして、車を用意しなければ。

 間を置かず、再び電話が鳴った。

宮内庁長官がお待ちしています。急いでいただきたい」

 会館にあったのは軽トラック。荷台に乗り込んだ。Tシャツ姿の者もいたが、やむを得ない。

 王宮が見えてきた。厳重なチェックがあるはずだが、止められるどころか、衛兵がこちらに敬礼してくる。前日と打って変わり、ほとんどノーチェック。いったい、どうなっているのか。

 黄色い屋根の玄関に着いた。国王夫妻が両手を広げている。

「このようにまた、皆さんとお会いできるのを嬉しく思います。私どもの池田閣下への深き尊敬の念と親愛の情を、重ねてお伝えしたかったのです」

 二日続けての謁見。国王夫妻の出迎え。長年、仕えてきた儀典長が驚いた。

「異例中の異例です。いまだかつてありません」


ボローニャ大学からの声

 池田会長のもとには、世界各国から招聘状が届く。

 現ローマクラブ会長であるヨルダン王子ハッサンのように、会見を望む各国王族の声も後を絶たない。


 一つの見方がある。

 イタリアのボローニャ大学は、一九九四年六月、池田会長に名誉博士号を贈った。世界中の王家、宗教者と、幾百年の交流をもつ欧州最古の学府である。

 副総長リナルディは述べている。

「池田会長のように、世界の全体観に立ち、しかも人間一人ひとりに細やかな心遣いをしている指導者はいない。事実上、民衆の王の役割を果たしています」

 英国皇太子チャールズ、スペイン国王フアン・カルロスにも名誉博士号を授けた大学首脳の言である。

          (文中敬称略)

  「池田大作の軌跡」編纂委員会