第5回 中南米への旅

孤高の指導者、フィデル・カストロにもたらした劇的な変化。

無名の庶民という?表敬先″から開かれていった池田会長の民間外交。

背広を着てカストロ議長が現れた。


カストロの軍服を脱がせた男

 ニュースを見たハバナっ子が、口笛を吹いた。

「おいおい、どうしたんだ、フィデル!」

 ブラウン管に映っているのは、国家評議会議長フィデル・カストロにまざれもない。

 一八八センチ。分厚い胸板。濃いあごひげ。

 しかし、見慣れたモスグリーンの軍服姿ではなく、青い背広を着ているではないか……。

 同時刻。テレビ局のディレクターが、頭の中の映像データを引っくり返していた。

?ない。ない。これは公式行事では初めてじゃないか″

 後にカストロローマ法王を背広で迎える(一九九八年一月)。それより一年半も前のことだ。トレードマークの軍服を脱ぐとは、よほど特別な心情を込めたに違いない。

?フィデルの軍服を脱がせるとは、いったい何者だ……″

 視聴者は、カストロ議長と会っている東洋の男性を不思議そうに見つめた。

 映像の場面は、一九九六年六月二十五日午後七時半。(現地時間)

 キューバの首都ハバナ。夕日に照らされた革命宮殿。

 カメラマンやテレビ局クルーが囲んでいるのは、池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長であった。


▼ベールに包まれた会見


 会見の冒頭。池田会長が口火を切った。

「お伝えしたいことがあります」

 報道陣はシャットアウトされた。

 残ったのは五人。議長カストロ。文化大臣ハルト。副大臣マルティ。会長。通訳のクリスティーナ・モリナガ。会見場の音までもが、完全に遮断された。

 どのような会見がなされたのか?

 確かなことは、会見後のカストロが、いつにも増して上機嫌だったことだ。

 不思議な変化である。当時のカストロには、不機嫌にならざるを得ない課題が山積みだった。

 同年の二月、キューバは領空を侵犯したアメリカ民間機を撃墜している。

 アメリカは、経済制裁強化法で報復した。いわゆるヘルムズ・バートン法である。経済制裁は、ボディ・ブローのように効いてきた。両国の緊張関係は ?第二のキューバ危機″と囁かれるまでに高まっていた。

 その渦中、強面で、負けず嫌いな彼が会心の笑みを見せたのである。

 会見後、宮殿のロビーで行われた創価大学の学位授与式。カストロのスピーチは、立ったまま四〇分間。絶好調である。さらにパーティー会場でも、長時間、池田会長と語り合った。

 何があったのか?

 会長が黙して語らない以上、真相は今後とも容易にわかるまい。

 ただ当時、キューバを取り巻いていた外交的、経済的環境から考えれば、アメリカとの関係改善に直結する語らいだったと見るのが妥当だろう。

 いずれにしても、国家レベルの隠密裏の対話である。

 断るまでもないが、会長は民間人である。


▼もう一つの?中ソ対立″


 キューバは特異な国である。

 ソ連という後ろ盾をなくしても、アメリカに膝を屈しない独自の社会主義国家。カリブ海に浮かぶ小さな島国ながら、目と鼻の先の超大国の意に従わない。

 当然、国際社会からは疎まれる。カストロを「世界の異端児」と呼ぶ者もいる。

 だが、キューバに限らず、米国と中南米諸国との関係には、微妙なジレンマがある。

 アルゼンチンの政治評論家、ロセンド・フラガは指摘する。

中南米には歴史的に米国の?裏庭″として経済的に従属してきたことへの強い不満がある。一方で、米国との経済関係は極めて重要で断ち切れない」(「読売新聞」二〇〇六年一月十一日付)

 愛憎相半ばする南北大陸関係を、かつて同じ社会主義を掲げながら激しく対立しあった、中国とソ連になぞらえる識者もいる。

 複雑で微妙な仲を取り持つ者は、当然、どちらの信頼も厚い人間に限られる。

 池田会長は米国の元国務長官ヘンリー・キッシンジャー等と対話を重ねる一方、中南米諸国の元首級と親交がある。

 ブラジル。キューバ。チリ。メキシコ。ペルー。コスタリカパラグアイエクアドルパナマエルサルバドル。コロンビア。ウルグアイベネズエラ。アルゼンチン……。

 池田会長との会談が、あの孤高の指導者、フィデル・カストロに劇的な変化をもたらした――その報を聞いた日本の外交関係者たちが、つぶやいた。

「これができないんだ、ほかの人間には……」


▼「みな貧しいから行く」


 創価学会が「貧乏人と病人の集まり」と言われた当時、事情は世界中どこでも同じだった。

 池田会長が、最初の海外訪問にあたって、北米から南米ブラジルに回った理由も、そこにある。

 ブラジル移民一世の児玉良一と対談した折である。(一九八八年五月)「会長はなぜ、あの時代のブラジルに来たんですか」

 児玉の問いに、会長は身を乗り出した。

「どうしても行きたかった。みんな貧しい。生活も大変。向こうから日本に来るわけにいかない。だったら、こっちから行くしかなかったんです」

 初訪問の一九六〇年、同行していた幹部は、何度もブラジル行きを諌めたという。

 北米大陸での強行スケジュールで、会長は目に見えてやつれていた。 食事も喉を通らない。ほんの一口だけで残している。光の加減では、頬がそげたようにも見える。気力ひとつで支えていることが感じられた。

「ニューヨークで静養してください」。同行幹部の具申に、顔色を変えた。

「行く。絶対に行く。約束したんだ。たとえ、そこで倒れたっていいから行く」


▼「移民」は「棄民」


 一九六〇年十月十八日。深夜のサンパウロコンゴニアス空港。滑走路の金網越しに到着口を見つめている、鈴なりの学会員たち。

?本当に池田会長が来てくれるのだろうか……″。半信半疑のまま立ちすくんでいた。

「移民」は「棄民」とまで言われた時代である。ていよく日本から捨てられたような移住者たち。

 景気のいい文句に誘われ、一旗揚げようと入植したが、掘っ建て小屋がポツリと建っているだけ。床もない。地べたに寝ると、屋根の隙間から月明かりが見えた。

 幼い子どもが言った。

「お母さん、早く日本へ帰ろうよ」

 大農園。移住者は、かつての?奴隷″に代わる労働力だった。ただ働き同然の扱い。

 開拓移民は、固い大地にクワもはね返された。収穫も期待できない。「ポンジーニョ」という、コッペパンの三分の一ほどの小さなパンをかじり、飢えをしのいだ。

 とりわけ戦前からの移住者は悲惨第二次世界大戦で祖国の生家は焼き払われ、縁者の消息は杳として知れない。?口ベらし″ができたといって喜んでいるのか、田舎からの音信も途絶えて久しい。

 どん底の境遇のなかで、学会を知った。

 新潟出身の重田ツキ。ブラジルに渡って四二年を数えていた。

 重労働のコーヒー農園から夜逃げして、十六歳で結婚。日本へ引き揚げることにしたが、船が出る直前に夫が事故死。糖尿病まで悪化し、医者に見放された。

 移住。仕事。結婚。健康。帰国。何一つ、うまくいかない人生。泣けば泣くほど、ふるさと越後の山河が思い返され、胸がつぶれた。

 やがて彼女は、サンパウロ市内で安い下宿屋を始めた。貧乏人だらけで、ならず者も居ついた。そんな鉄火場で下宿人と渡り合ううち、いつしか「女侠客」の二ツ名を取った。

 重田は下宿人から折伏を受け、一九六〇年三月に入会。毎日、一万遍の唱題を続けると、あれほど苦しんだ糖尿病から、すっかり回復した。

 祖国からも社会からも見捨てられ、人生の絶望の淵でギリギリ踏みとどまった――そんな会員ばかりだった。

 真夜中の空港に、ついに会長一行が姿を見せた。

 出迎えた会員たちは、言いようのない感情にとらわれた。「本当に来てくれたよォ」。目の前の一行が、遠い祖国の空気まで運んできたようで胸が騒いだ。

「ただ少しお疲れのご様子だったのが気になって」。空港で初めて会長に会った小田福子(ブラジルSGI副総合婦人部長)。会長の容体など知るよしもない。「それが翌朝、すっきりと、素晴らしい青年に変わっておられた。寝る時間もほとんどなかったのに。満々たる勢い。すごい人だなって驚きました」


◆人生の絶望の淵にいたブラジルの会員。


▼神様でも生き仏でもない


 十月二十日午後、池田会長が出席した座談会。会場はシャー・フローラという、サンパウロのレストランの二階で、日系移住者がよく使うサロンだった。

 邦字紙の「創価学会会長、来伯のお知らせ」という小さな広告を見て、やってきた人もいる。

 移住者の多くは、サンパウロから数十?離れた入植地にいた。バス賃がかかる。そのバス賃さえ、ままならないほど貧しかった。

「あなたが行って」。妻は、行きたい気持ちをこらえて、笑顔で夫を送り出した。

 会場には、いかつい男たちが多かった。日焼けした顔。太い腕。背広姿でかしこまっているが、いかにも着つけない様子だ。大地の匂いがする彼らは、コーヒー園や農場で働き、必死に活路を見いだそうとしていた。

「きょうは形式抜きで語り合いましょう」

 場の空気から、サッと質問会に切りかえた。次々と手があがった。節くれだった指の先は土で黒ずんでいる。

 一人の壮年が立った。

「自分は桜本といいます。仕事は農業です。野菜作りに失敗して、借金がかさんでしまいました……」

 会長はすぐに答えず、逆に桜本に尋ねていった。

 不作の原因。品種。肥料。土壌。栽培方法。そのうえで野菜作りを成功させる道理を説いていった。

 すべては挑戦であること。その挑戦の源泉が、信仰にあることを教えた。「題目をあげれば豊作になる」といった、いわゆる「ありがたい話」とは対極だった。

 日本から教団のトップが来ると聞いて集まった男たちは、拍子抜けするほど驚いた。

 神様でも生き仏でもない。笑いがあって涙があった。鋭く、厳しい現実感覚。そして、それらすべてに裏打ちされた人間味。

 当時、参加した茶郷英一(ブラジルSGI副理事長)は回想している。

「厳しく叱られたり、やさしく抱きかかえられたり、もう話に釘付け。会合に来た時は、疲れ切っていたのに、帰りは?もういっちょう、おれも頑張ってみるか″という気持ちになった」


▼ブラジルの宗教事情


 歴史的経緯から、ラテンアメリカ諸国は、聖職者の権威が高い。ブラジルの日系人社会の宗教事情にも、それは如実に表れていた。

 浄土真宗本願寺派真宗大谷派曹洞宗。浄土宗。真言宗日蓮宗第二次世界大戦後、日本の各宗派が「坊主の値が高い」ブラジルに押し寄せた。何のことはない。本国で頭打ちだった既成仏教の「出稼ぎ」である。生長の家を筆頭に、新興宗教も教線を伸ばした。

 移住者の生活は厳しい。何かにすがらざるを得ない。「ありがたい話」が歓迎された。供養を包んで救われるというなら、喜んで差し出した。ブラジルは「坊主丸儲け」の楽園だった。

 宗教といえば「お坊さま」「権威への従順」が当たり前だったブラジルで、池田会長の行動、振る舞いは、想像の埒外にあった。

 ブラジルの宗教的土壌に、地殻変動を与えるインパクトがあった。

 日系団体の幹部の弁。

「最高指導者が、信者と同じ目線で話す。自由に語り合う。供養は取らない。こんな宗教はない」

 慌てたのは、ブラジルの各宗派である。むろん、強力な?商売仇″の出現に狼狽したのである。

 日本での公明党結成(一九六四年)を格好の口実にして、ブラジルの政治家に危機感をあおった。

 踊らされたのは、カトリック系の国会議員、生長の家につながる政治家たちである。日系社会に「創価学会は危険」「秩序を乱す、日系社会の不穏分子」と吹き込んだ。

 サンパウロの一流紙が、これに乗った。「破壊活動の宗教、ブラジルの秩序を転覆しようとする宗教、政治的進出を果たす」と論評する記事まで載った。

 宗教屋をバックにした政治家とマスコミによるバッシング。どこかの国で聞いたような話である。


▼会員の九割が非日系人


 それでもブラジルで創価学会は伸びた。日系人ばかりか、今やブラジルSGIの構成員は「非日系人が九割」を占める。

「なぜ創価学会は非日系人信徒を獲得することができたのだろうか」

 明治学院大学教授の渡辺雅子は、著書『ブラジル日系新宗教の展開』で論じている。

創価学会の主要な受容層が都市下層と推測される」。その層は「貧病争の問題をかかえている人々」である。そうした悩みに対し、一対一の関係で励ましている点を指摘している。

 つまり「貧乏人と病人を一対一で励ましてきた」から発展した。

 池田会長の指導方針の正しさは、確実に立証された。ブラジル日系の宗教界が口にした「秩序を乱す」「不穏分子」との攻撃が、いかに的はずれだったかも。

 むしろ都市の下層であえぐ庶民群に「良き市民としてブラジル社会に貢献を」と目を開かせてきたのである。当然、宗教的な紛争、反目には異を唱えている。

 否応なしに、他の教団も認め、注目せざるを得ない。こんなエピソードもある。プライドが高いことで知られるブラジルのカトリック神父が、ブラジルSGI幹部に丁重に尋ねてきたというのだ。

「青年が多くていいですね。若い人がついて来る秘訣は何ですか」


▼たとえ相手が国家元首でも


 くだくだしい説明の必要もないと思うが、池田会長の海外での人間交流のほとんどは、前述のような無名の庶民とのそれが占めている。国家要人等との交流は、全体のごく一角にすぎない。

 むしろ、たとえ相手が国家元首であろうと、筋は通す。道理に合わない話は断る。

 ある国で大統領と会う約束になっていた。それが政府側の事情で会見場所が遠隔地になった。

 先方は「軍用ヘリコプターを飛ばすから来てほしい」と望んだ。会長は「もういいじゃないか。大統領も大変だし。無理することはない」。

 さらにまた、某国の大学を訪ねた折。大統領が会見を求めてきた。しかし会長は「今回は教育のために来ました。お忙しい大統領に申し訳ないので」と丁重に辞した。

 こんなケースもある。

 某国の元首との会見の打診があった。話が煮つまるかにみえた矢先、先方が 「いくら出すんだ」と要求してきた。

 会長は話を一蹴した。

 金を求める相手を拒絶しているのに「金を出して会っている」と正反対のデマを書かれている現実がある。

 会長に直接取材した評論家たちが記している。

「池田会長は信頼感のもてない人間と逢うことを極度に厭う」

「会長自身も相手がどんなに高い社会的地位をもっていようとも、逢う必要を認めない限り十分間でも時間をさくことはしないといっている」

    (高瀬広居、一九六三年)

「池田と話していると、権力に対する反感がきわめて強いのを感ずる。それも被虐者が積もるウラミを陰湿に反映させるタイプではなく、江戸っ子がカッとなっていう、『てやんでえ、ベランメエ』。カラッとした調子である」

    (草柳大蔵、一九六六年)

 一貫した「原則」がある。見栄っぱり、権力者、庶民を見下す人間が大嫌いなのである。

 当然、SGI幹部に対しても厳しい。

 ベネズエラSGI副理事長の菊池勇には、忘れられない一言がある。南米での宗教遍歴のすえ、ペルーのリマの図書館で読んだ「立正安国論」に感動し、進んで入会したという?変わりダネ″である。

 その菊池が現地のSGI幹部になって来日した折、会長と懇談の機会があった。

 会長は顔を見るなり、ぴしりと言った。

「わがままは、いけないよ」

 菊池は合点がいかない。「はい」と返事をしたものの呆然としていた。

?いったい自分のどこが、わがままなのだろうか……″。むくむくと疑念がわくばかり。

 しかし後に、現地メンバーと摩擦が生じたときにハッと気がついた。「知らず知らずのうちに、日本的な考え方を一方的に押しつけていた」というのである。

 庶民。国家指導者。SGI幹部。相手が誰であろうと筋は通す。まして、貧しい庶民が圧倒的に多い中南米である。それでなくては、信頼も信望も集まるまい。

 一九七四年三月、ペルー・リマ市。池田会長の顔は赤くほてっていた。炎天下、二〇〇〇名の会員と記念撮影した後に襲った高熱のためである。飲み慣れないインカ・コーラを勧められ、口にすると皆は大喜び。江戸っ子の気っぷの良さで、ついつい飲み干してしまったことも災いした。

 病状が明らかになれば、日程の変更で迷惑をかける。コーラを出した人も気に病むだろう。会長は薬や医者も求めず、黙っていた。香峯子夫人だけが付き添った。

 その時に夫人を手伝った二人の女子部員には、今も心にかけ、声をかけている。

 制止を振りきり、リマでサンマルコス大学のゲバラ総長と会ったが、髭も剃れないほど体調は悪化した。後に病状に気づいた総長夫人が、香峯子夫人の肩を抱きしめて感きわまった。

 帰途、ようやく機内で休める。経由地のメキシコ。深夜零時だというのに、空港の屋上に人影ができていた。身を起こして、一〇〇人あまりの会員のもとに急いだ。

 会長の信望は、こうして築かれたものである。


◆身の危険よりも信義を重んじた。

▼非常事態の宣言


「緊急! 緊急! 爆発事故が発生。死傷者は多数。現場はサンタフェ・デ・ボゴタ……」

 無線が伝える現場に、DAS(大統領府治安局)の部隊が急行した。

 一九九三年の二月初頭。買い物客でにぎわう首都の繁華街。車に仕掛けられた爆弾が、市民を吹き飛ばした。

 おびただしい血の海。バラバラになった五体が飛散した。

 死者、負傷者多数。治安当局は、麻薬密売組織メデジン・カルテルによる犯行と断定した。

 コロンビアでは三日と置かず、テロが続発していた。

 直後の二月五日。前年秋から出されていた非常事態宣言が九〇日間、延長された。

 コロンビアの日本大使館でも緊張が高まっていた。翌六日は、池田会長が入国する予定日だった。

 外務省の危険情報を待つまでもない。誰だってコロンビア渡航を見合わせる。

 だが、会長の訪問を熱望する外務大臣の意志は固かった。「コロンビア政府は全力をあげて、貴殿の安全を保障します」

 このメッセージを池田会長に伝えてほしいというのだ。

 大使館では臨時代理大使が、さんざん悩んだあげく、国際電話でアメリカのマイアミを呼び出した。

 池田会長の滞在先である。

       *

 マイアミ。騒然としていた。

「なにも危険の渦中に飛び込まなくたっていい」

「じゃあ、ガビリア大統領との会見、名宝展は、どうするんだ」

 要人という要人が、コロンビアを去っていくなか、大統領は、池田会長との会見を心待ちにしていた。

「日本美術の名宝展」のオープニングも予定されている。

 外務大臣からの伝言が届いたのは、そんな時であった。

 池田会長の決断は早かった。

 マイアミからの電話にかじりつきメモを取る、日本大使館関係者の顔に喜色があふれた。

 会長が「勇敢なるコロンビア国民の一人として行動してまいります」と伝えたことは、現地でもよく知られている。

 その三年前、東京富士美術館(八王子市)での「コロンビア大黄金展」の開催に、深い恩義を感じていた。

 会長は、身の危険よりも信義を重んじた。


▼厳戒体制下のコロンビアで


「信義を重んじた」。口で言うほど簡単なものではない。

 二月六日の午後五時半。池田会長はコロンビアのエル・ドラド国際空港に到着した。

 歓迎が終わり、貴賓室を出たところで、随行の一行は、ただならぬ気配を感じた。

 空港ロビー。サングラスをかけ、ダークスーツに身をかためた屈強な男たちが誘導コースを確保していた。

 厚い胸板のあたりが不自然にふくらんでいる。ホルスターに吊したピストルのためだろう。右手を背広の内ポケットに差し込んでいる男もいる。安全装置も外されているのか。

 空港正面。警察の白バイ、パトカーはもとより、機関銃を抱えた兵士を乗せたトラック、果ては救急車まで車列に加わっている。まるでアクション映画のワンシーンだった。

「一体どんな事態を想定しているのか。血の気が引いた」と随行の取材記者。

 小山のような、くろぐろとした防弾車に、池田会長が乗り込んだ。同乗した通訳のクリスティーナ・モリナガは、思わず身震いしたという。

「鉄のかたまりでした。サスペンションが利かず、揺れが衝撃となって直に伝わってきました」

「コロンビアでも、国軍は確かに完全武装で守ってくれた。大統領府が責任をもつ精兵だから心配はなかったけど、軍の一部には、ゲリラと通じ、金次第でコロリと寝返るという噂まであったから……」(取材記者) 会長は悠然としている。車の窓から、近代的な高層ビルや、スペイン風の建築物に目を走らせている。

「美事な景観だ。写真を撮りたいな! でも駄目なんだろ?」

 窓を開けるわけにはいかない。せっかくの防弾ガラスが意味をなさないからだ。

 海外訪問はコロンビアで四七ヵ国目。

 別の取材記者の回想。「コロンビアだけじゃない。国情が不安定な国の方が多かった」。


◆必ず「陰の支え」の人に声をかける。

▼裏方たちのヒーロー


 池田会長には、独特の着眼点がある。青年時代から、名所旧跡の類に執着しない。むしろ市民が暮らす町中や通りを、すばやく動いてみる。ある地方都市で、そのようにしてみて「だいたい様子が分かった」と日記に書いている。

 海外を訪問するようになっても変わらない。ガイドブックに沿った「観光」はしない。

 人間の表情。しぐさ。声の響き。それらから、大きく国情や国民性を観じとる。いわば「観光」でなく「観人」「観国」である。

 共産主義体制が崩壊する前の東欧を訪問した。出国する航空機の中。党の要人が搭乗するまで離陸できない。みるみる乗客の表情が無力に打ち沈んでいく。やがて乗り込んできた要人の、勝ち誇ったような、尊大な顔。そんな場面から政治家と民衆の関係性を掬いとっていく。

 ある駐日大使と懇談の席。本国へ訪問しても元首と会える確約はできないことを大使は伝えた。

「ええ。かまいません」。会長は、自ら撮影した一枚の写真を用意してもらった。

「私は、こういう人と会うために行くんです」

 ネパールの農村。写真の中で、藁の束を背負った母と子が、はにかんでいた。

 かの北海道・夕張の地で「あの人は凄い。何でも?通し″だね」。?通し″。何でも見通すことから、独特の言い回しで感嘆された会長である。

 イーゼルを立てた町の画家。釣り糸をたらす太公望。小船をあやつる物売りの娘。こんな?表敬先″から、海外への道は開かれてきた。

       *

 必ず「陰の支え」 の人に声をかける。

 コロンビア到着時に、車のハンドルを握るのは、大統領府の運転手だった。細面の、すっきりした顔立ちだが、バックミラーに映る運転手の表情は、責務の重さからか、こわばった目つきである。

 会長は車を降りるとき、「イギリスのチャールズ皇太子に似てますね」と一言。通訳が伝えると、実に上品に微笑んだ。

 同じくコロンビア。南米解放の英雄シモン・ボリバルの記念館の見学を終えたとき。

 記念館の門に警護の兵士が厳めしく立っていた。帽子を目深にかぶった青年である。

 会長は立ち止まった。

「ありがとうございます。国家の安全を守る大切な使命を担っておられます。よろしく頼みます」

 青年兵は帽子の中で小さくうなずき、頬を紅潮させた。

 ドライバー。ホテルの客室係。ボディーガード。海外に行くと、裏方のスタッフから会長のファンが生まれる。

 ――一九八一年、オーストリア・ウィーンで池田会長はアンバサダー・ホテルに立ち寄った。

 ロビーにいた紳士が「ようこそ、ミスター・イケダ。またお会いできて光栄です」。支配人のオスターダールが出迎えた。

 二〇年前。このホテルに会長が宿泊したとき、オスターダールは、まだ見習いのボーイだった。荷物を運ぶ自分に温かい言葉をかけてくれた東洋人。たった一度の出会いだった。

 その後、たくさんの東洋人を迎えたが、なぜか深く心に残った。それが池田会長だった。


▼トインビー対談が開いた扉


「対談集を読みました。一人の『学ぶ者』として、会長を尊敬しています」(国連、ガリ事務総長。一九九三年十二月)

「じっくり時間をかけて読みました。多くのことを学びました」(インド、ナラヤナン副大統領。一九九五年十二月)

「対談集を読んで以来、お会いできる日を私は夢見てきました」(インドネシア、ワヒド前大統領。二〇〇二年四月)

「何回も読み返し、思索してきました。暗記している言葉もあります」(モンゴル、エンフバヤル首相。二〇〇三年十一月)

 海外では、池田会長とイギリスの歴史家トインビー博士の対談集(原題『二十一世紀への対話』聖教新聞社刊)を愛読する識者、指導者が少なくない。結果として、会長への関心を集め、評価を高める契機になっている。

 コロンビア。大使館関係者が振り返る。

「日本に、これほどの人物がいるのか。ダイサク・イケダに会ってみたい――そんな声を何回も聞きました」

 特に印象深いのは、ボゴタ高等検察庁の元長官だったという。

 元長官は「トインビーより、イケダの方が上だ」と興奮気味に語り、すっかり心服していた。

 会長がコロンビアを離れる日。元長官は居ても立ってもいられない。

?このままでは二度と会えない。ひと目だけでいい?。アポなしで厳戒体制の空港へ向かったものの、セキュリティーが厳しい。案の定、警備に止められた。それでも?会いたい″と交渉。熱意が届き、ひとときの会見を果たした表情には、感激があふれていた。

 キューバ

 ある日の閣僚会議でのこと。一人の大臣が対談集の内容をたたえた。すると、その夜、カストロから連絡が入った。

「大臣。私にも、その本を読ませていただけないだろうか」

 手元には一冊しかない。しかし議長命令である。

 大臣は、しぶしぶ対談集を差し出した。?議長に渡せば、もう戻ってこないかもしれない″。未練たっぷりに悔しがった。


▼「怖いのは別の政党」


 こうした海外訪問に、日本では一部マスコミが騒ぎ立てる。

「大使館が特別通関を用意している」「便宜供与」

 中南米訪問の際にも、同様の報道があった。

「何を言っているんだか」

 その点を外務省の高官に質すと、一笑に付した。

「まず訪問先での特別通関は、相手国側の判断ですよ。まったく筋違いな話です。現地の日本大使館とは関係ありません」

 便宜供与とは、簡単に言えば、日本の大使が迎えに行くか、公使が迎えに行くか、という話である。

 そもそも池田会長は各国で「まぎれもなく国賓」として遇されている。

 在外公館は、どう対応しているのか。

「ケース・バイ・ケースです。もちろん、日本からの要人をきちんと迎えるのは、在外公館の職務ですから。それに当然のことですが、待遇は外務省が省として決定することです。外務官僚の個人的動機も裁量も許されません」(外務事務官)

 要は、言葉ばかりが独り歩きしている。

 別の外務省高官が匿名を条件に語ってくれた。

「私が知っているだけでも、外務省には、創価学会員の職員がいっぱいいますよ。しかし、そのために彼らの行動が偏向するということはない。彼らは大人です。国益に沿って行動しているから信用できる」

 キッパリ言い切った。

「怖いのは、別の政党ですよ」


▼ネズミのように逃げた


 悪意の誹誇、中傷。読者の関心も高い話題なので、以下、いささか余談にわたる。

 戸田会長は指導者の心構えとして、こう語っていたという。

「読まなければいいんだ。読むから気になる。引きずられる。見栄っ張りや臆病者は、気になって読んでしまう。簡単な道理だ。悪書は読むな、というではないか」

 池田会長は、戸田会長の直弟子である。かくして凡百の中傷記事の類を会長が目を通すことはない。

 書き手には気の毒だが、結果は「万犬虚に吠える」だけということになる。

「忘れられない場面があります」

 池田会長の同行カメラマンである牛田恭敬(聖教新聞社・写真局長)が語った。

 一九八六年十月。愛知県名古屋市の県立体育館。学会の文化祭に出席する池田会長が、会場前で車を降りると、写真週刊誌のカメラマンがヌッと現れた。不意を突いた表情を狙うためか、陰からコソコソ近付いてくる。

 会長は彼らに気付いたが、驚いたそぶりもない。にこにこ笑い、両手を大きく広げて「さあ、どうぞ」。

 そのままの姿勢で歩いていく。

 満面の笑みである。

 カメラマンは焦った。レンズを向けられたとたん、顔を固くそむけ、立ち往生する。それが被写体というものだ。ところが両手を広げ、ずんずん迫ってくる。

 すっかり気圧された。じりじりと引き下がり、シャッターが押せない。

 気がつけば、ファインダーの画角からあふれるほど接近している。決定的瞬間は逃げてしまった。

 会長は振り返りもせず、会場へ歩いていく。その背中を呆然と見送っていたが、ハッと周囲の視線に気がついた。

「慌てて逃げていきましたよ。ネズミみたいに」(牛田恭敬)

         *

 中南米の人々が信頼を寄せるのは、かのシモン・ボリバルの昔から決まっている。「庶民の味方」「庶民の心が分かる人間」である。

 池田会長は、中南米諸国から多くの顕彰を受けている。

〈一八の国家勲章。三九の名誉学位称号。名誉市民・州民証等は三〇〇を上回る=二〇〇六年二月現在〉

 それでもなお、中南米の人々が会長に寄せる信頼の証左の一端にすぎない。

 ラテンアメリカの事情を知る日本の元外交官は言う。

「日本人には、いない。世界でも稀でしょう」


       (文中敬称略)